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真実の代償

 アルシャとフィネガンが再会を果たしたのと、ほぼ同時刻。

 フェリスは、窓辺に引き寄せた椅子に座り、レースのカーテン越しに外を眺めていた。

 全てを貫き通すような強い輝きを持つはずの目が、今は、ぼんやりと遠くを見ている。

 視線の先に広がるのは、重なり合う家々の屋根。

 今度こそ本当の平和を取り戻したはずの、帝都の町並みだ。


 フェリスの指先は、先ほどからずっと、繊細なレースのカーテンの裾をいじっていた。

 窓と同じ大きさがあるこのカーテンは、キャッサが一人で、すべて手作業で編み上げたものだという。


 ――そう、彼女は今、ティンドロック卿ガストン・ユーザの屋敷に戻っていた。



     *     *     *



 あの後。  

 御前試合の決勝戦で《紫のケモノ》を打ち倒し、優勝した後――


 フェリスは人々の歓呼の声を浴びながら、グウィンと共に《控えの間》へと戻っていった。

 出場者以外は足を踏み入れることを許されないはずの部屋だったが、もう、試合は終わったのだ。

 律儀に表に控えていた係官が扉を閉め、がしゃりと錠が下ろされ、薄暗い部屋にグウィンと二人きりになった瞬間、それまでフェリスの顔に浮かんでいた、輝くばかりの笑みはかき消えた。


『フェリス……』


 ぶん! と空気が唸りを上げた。

 グウィンの呼びかけに振り向きもせず、フェリスは血に濡れた剣で、目の前の暗闇を薙ぎ払った。

 その切っ先を、火花の散る激しさで床に突き立て、うつむいて激しく肩を震わせる。

 歯を食いしばり、声を上げずにフェリスは泣いた。

 昔からだ。

 訓練が辛かったときも、部下たちが、仲間が死んだときも、フェリスは、声を上げて泣くことだけはしなかった。


 グウィンは何も言わない。

 近付いて肩を叩いたり、背中をさすったりもしなかった。

 彼は、分かっていたのだ。

 フェリスが、それを望まないことを。


 ……どれほどの間、そうしていただろう。

 突然、フェリスは顔を上げた。

 その目に険しい光がある。

 彼女は剣を鞘に収め、服の袖で乱暴に目と頬をこすった。

 それとほぼ同時に、試合場ではなく、その反対側――通路に面した扉が、重い音を立てて開く。

 そこに立っていたのは、皇帝ルーシャ・ウィル・リオネスその人だった。


 幾人もの侍女たちを引き連れたルーシャは、驚いたことに、その侍女たちと丸っきり同じ服装をし、化粧までも、まったく同じものを施していた。

 彼女が、つい先ほどまで豪奢な金襴の衣装を身にまとい、玉座についていた女性だなどとは、本人を――その、すべてを見通すように鋭く深い青の眼差しを知る者にしか、判別することはできまい。

 ルーシャの目を、フェリスは、真っ赤になった目で見返した。


『フェリスさん』


 満面の笑みを浮かべたルーシャは、何事か言おうとして、フェリスの目を見つめたまま、言葉を切った。

 既に、フェリスの涙は止まっている。

 その顔には、今はただ、疲れたような、うつろな表情だけがあった。

 侍女の姿をしたルーシャの顔から、潮が引くように笑みが消えて、この上なく真摯な表情になった。

 次の瞬間、皇帝ルーシャ・ウィル・リオネスがとった行動を、もしも廷臣たちが目撃していたなら、一人残らず、衝撃に目を見開いたことだろう。


『ありがとう、フェリスさん。わたくしの臣民と、この街とを、守ってくださって……』


 ルーシャは腰をかがめて深く膝を折り、貴婦人が相手に至上の敬意をあらわすときに行う最敬礼をしたのだ。

 付き従う侍女たちも、その背後で一糸乱れず同じ姿勢をとる。


 フェリスの唇がかすかに動いたが、声は出なかった。

 彼女の心の中で、何かが、素直にルーシャの言葉を受け入れることを妨げていた。

 戦いが始まる直前に、ルーシャが鋭く叫んだ声を、フェリスは思い出していた。


 ――フェリスデール! 我が名において、そなたに命ずる! 討て! 悪しき魔術の使い手を!


 厳しく、激しく、高圧的な響き。

 それは確かに、支配者の声だった。

 まるで、その場のすべてを己が掌握し、動かしているのだと宣言するかのような。

 フェリスの心は、その響きに反発していた。


(違う、あれは)


 ……自分で、選んだことだ。

 すべて、この自分が、選んだ。


 ラインスを――一度は、よき好敵手として認め合ったと思った相手を、この手で斬り殺したのは、皇帝に命令されたからではない。

 このあたしが、そうするしかないと思ったから。


 フェリスは物心ついてからの人生の半分以上を兵士として過ごしてきたが、ただ命じられたからというだけの理由で戦い、殺したことなど一度もない。

 すべて、自分がそうしなければならないと思ったから、そうしてきた。

 自分がしたことを、人のせいにして恨むことなど、したくなかったからだ。

 ルーシャの言葉は、そんなフェリスの誇りに、逆棘のように食い込んで引っかかった。


(あたしは、あなたに命じられたから、ラインスさんを殺したわけじゃない。あたしは……)


 だが、そんな思いが唇から先へ出ることは、とうとうなかった。

 小なりとはいえ、同じ、集団を率いる者として、フェリスはルーシャの咄嗟の判断に気付いていたのだ。


《紫のケモノ》の出現という事態に、観客のほぼ全員が恐慌状態パニックに陥りかけたあの瞬間、人々に正気を保たせ、最悪の事態を回避するためには、強力な心の拠り所が必要だったのである。

 皇帝の言葉という、揺るぎない拠り所が。


 そう……あれは、フェリスに命令を下したというより、その場の人々に聞かせるためにこそ、発された言葉だった。

 あの場、あの状況で、皇帝としては、ああするしかなかったのだ……


 やがて、フェリスがのろのろと軍人の最敬礼で応えると、ルーシャはゆっくりと身を起こし、再びフェリスの目をじっと見つめた。


『とても、疲れたのですね、フェリスさん』


 フェリスは頷いた。

 心の底からそう感じていたから、素直に首が動いた。

 ルーシャもまた、大きく頷く。


『分かりました。あなたに《翼持つ女神の剣エルベリオン》を授与する儀式は、後日、日を改めてということにしましょう。

 わたくしにも、あれこれと事後処理がありますし、何より、あなたはあれほど勇ましく戦い抜いたのですもの。しばらくは、ゆっくりと休養することが――』


『陛下』


 フェリスは、ぼそりと口を開いた。

 皇帝の言葉を遮ったのだ。

 背後から、おい、と低くたしなめるグウィンの声が聞こえたが、フェリスはルーシャの目を真っ向から見つめ、続けた。


『その前に、ひとつだけ、申し上げておかなくちゃならないことが。

 ラインスさん――ラインス・クレッサは、間違いなく《黒の呪い》に感染していました。

 あたしは、ああなった人間をこれまでに何人も見てきたんです。あの変身は、絶対に《黒の呪い》の発症によるものです。

 この帝都を《黒の呪い》から守っているという《アレッサの結界》は、本当に大丈夫なんでしょうか? どこかに、小さな穴とか、ほころびがあるということは……?』


『まあ』


 ルーシャの青い目が、大きく見開かれる。


『なぜ、そんなことを? 《アレッサの結界》は万全の状態です。常に監視させてありますし、定期的に報告も上げさせているのですよ』


『でも、ひょっとしたら、見落としとか、間違いがあることだって!』


 宥めるようなルーシャの声音とは正反対に、フェリスの声量は、一気に跳ね上がった。

《青の教団》の総帥であるルーシャは、今回の件が《魔性》がらみであるという固定観念に、とらわれすぎているのではないだろうか?


『陛下! これは、非常事態なんです! どうか、あらためて《アレッサの結界》の状態を確認なさってください!

 だって……さっき、ラインスさんは「この力を手に入れた」って言ったんですよ!? もしも、彼が――』


 怒鳴るように言いかけて、不意に、言葉を切る。


 もしも、彼が《魔性》だったのだとしたら「この力を手に入れた」という言葉が出てくるはずはない。

《魔性》は種族の名であって、後天的に得られる能力ではなく、生まれながらのものなのだから。


 フェリスは、そう言いたかった。

 だが、背後に、グウィンがいることを思い出した。

 この場で《魔性》の存在について、口に出すことはできない――

 フェリスの言葉を受けて、ルーシャの視線が、別人のように鋭くなった。


『……確かに、そう言ったのですか。あの者が、本当に?』


『はい、この耳で聞きました。ですから陛下、どうか《アレッサの結界》の調査を!

 ラインスさんは生まれながらの化け物じゃなく、何らかの原因で、あんなふうになってしまったんです。

 人間があんなふうになる原因なんて、《黒の呪い》の他には考えられません!』


『フェリスさん。それなれば、あなたの魔術師に訊ねてごらんなさい』


『――えっ?』


 思いがけぬ言葉に、思わず、素っ頓狂な声が漏れる。

 一方、ルーシャの口調は、確信に満ちて、揺るぎない。


『もしも、あれが《黒の呪い》によるものであったとすれば、あなたの魔術師にも、そうと分かったはず。

《黒の呪い》に冒された者は、独特の《光子》の様相を示す……このことは、フェリスさんも知っていますね。

 ――どうです、魔術師? あなたは、あの者から《黒の呪い》特有の反応を感じましたか?』


『いいえ、陛下』


 フェリスが思わす振り向くと、グウィンは、再度、はっきりとかぶりを振ってきた。


『本当だ、フェリス。あれは、《黒の呪い》に冒された者の《光子》の状態ではなかった。

 おまえと同じように、俺も、何度も《呪われし者》をこの目で見てきている。

 この俺が、見違えるはずはない』


『えっ……嘘……でも、それじゃあ……』


『だから、分からないのだ』


 グウィンは、まっすぐにフェリスを見ている。

 だが、フェリスに話していると見せかけて、その実、彼の言葉は皇帝ルーシャに向けられたものだと、フェリスにはすぐに分かった。

 ルーシャの人柄を直接見知ったフェリスにとっては、つい忘れがちなことだが、彼女はこのリオネス帝国の最高権力者なのだ。

 本来、一介の兵士や魔術師が、気軽に口を利けるような相手ではない。


『あの《光子》の状態は、確かに、異常な活性を示してはいたが……

《呪われし者》に特有の反応ではなかった・・・・

 かといって、あの男は魔術師でもない。これも《光子》を視れば分かることだ。

 では……あの変身は、何だ? 魔術だとしても、あんな術は、北の学院にいたときにも見たことがない。幻術ではなく、本当に肉体が変質するなどというのはな。

 それに、奴は、再生能力さえも備えていた。まるで《大戦》時代の《魔性》の伝承のように……』


 フェリスは、ぎょっとしてグウィンの顔を見た。

 ルーシャは、完璧に感情を制御し、目に見える反応はまったく表さない。


《魔性》の能力として語り伝えられる、いくつもの伝承がある。

 強大な魔力によって、己の肉体を自由自在に変形させる。

 そして、手足を、さらには首や胴体の大半を失うことがあってさえ、滅びることはなく、失った部分はたちまちのうちに再生する――


『とにかく、ラインス本人は、魔術師ではなかった』


 グウィンは、特に意識して《魔性》という単語を出したわけではなかったらしい。

 フェリスの動揺にはまるで気付かぬように、自分の手のひらを指で叩き、続ける。


『だとすれば……まったく別の何者かが、そういう術を編み出し、あの男にかけた、ということになる……』


『別の、何者か――?』


 まるで、先の見えない迷宮の中に迷い込んでいくようだった。

 ラインスを倒し、いよいよ本当に全てが終わったのかと思いきや、謎は、かえって深まってゆくばかりだ。


『フェリスさん』


 停滞した沈黙を断ち切るように、ルーシャが再び口を開く。


『確かに、わたくしたちは、はじめから間違った推理をしていたのかもしれません。

 この先は、わたくしが調べさせます。特殊な魔術に関わるものかもしれないとなれば、調べには、わたくし直属の《央の学院》の者たちが役立ってくれるでしょう』


《央の学院》といえば、東西南北の帝国魔術学院から、最高の資質を持った魔術師たちが選ばれて集うという場所だ。

《アレッサの結界》を管理しているのも、央の学院である。


『調べのために、あなたの剣を貸していただきたいのだけれど、構わないかしら?』


 フェリスは、黙って剣を鞘ごと外し、差し出した。

 刃は、まだ、ラインスの血でべっとりと濡れている。

 その血が、何かの手がかりになるということかもしれない。

 侍女たちのひとりが滑るような足取りで進み出て、血に塗れた剣を恐れ気もなく捧げ持ち、皇帝の側へと戻る。


『ありがとう、フェリスさん。この剣は、大切に扱わせます。

 ……本当に、疲れたでしょう。わたくしは、これから皆の前へ戻らなくてはなりませんし、今回のことで、色々と各方面に手を打たなくてはならないこともあります。

 ですから……先ほども言いましたけれど、あなたに《翼持つ女神の剣エルベリオン》を授与する式典は、日延べして、改めてということにしようと思うのです。

 本当は、今日、これから行う予定だったのですけれどね』


(そうだった……)


翼持つ女神の剣エルベリオン》。

 御前試合の優勝者に授けられる、帝国最高の剣士の証――

 あれほど、待ち望んだ栄誉だったのに、今、ルーシャに言われるまで、その存在すら忘れていた。

 思い出した今も、少しも嬉しいとは感じられず、むしろ、煩わしいような気さえした。


 血に塗れた勝利の味は苦く、重い。

 だからこそ、誰の命も失われることがないはずの、御前試合に憧れていたのに――


『式典の日取りは、決まり次第、連絡をやります。それまでは、ゆっくりお休みなさい。よろしければ、また、わたくしの家に――』


『あの、あたし』


 再び皇帝の言葉を遮ったかたちになるが、フェリスは、思わず口を開いていた。


『あたし……それなら、あの……もしも、よろしければ、ティンドロック卿の屋敷に戻らせていただけませんか』


 今はとにかく、誰とも話さず、静かな場所で安らぎたい。

 マーズヴェルタ城は、確かに守りは堅いが、心を安んじられる場所ではなかった。

 故郷リューネでならば、ガイガロス砦の自分の部屋に引きこもるところだ。


 だが、ここは帝都。

 今、帝都で安らぎを感じられる場所といえば、ティンドロック卿ガストン・ユーザの屋敷しか思い浮かばなかった。


『分かりました』


 反対されるだろうか、という予想とは裏腹に、ルーシャは、はっきりと頷いた。


『今は、とにかく、疲れを癒すことです。

 ティンドロック卿を探し、あなたとともに屋敷に戻るよう伝えさせましょう。

 でもその間に、まずは身を清め、服を替えることです。介添えのために、侍女たちを何人か残していきましょう。

 後で、目立たない馬車を仕立てさせておきますから、それに乗って屋敷へ戻りなさい。

 ――では、フェリスさん。わたくしはもう行きます』


『あっ、待って……! お待ちください!』


 さっと身を翻したルーシャを、フェリスは慌てて呼び止める。


『あのっ、あの子……ティアちゃんは!? 守ってあげないと――!』


 夢中でそこまで叫んでから、しまった、失敗したっ、とフェリスは一瞬、唇を噛んだ。

 余計なことを言ってしまったかもしれない。

 ティアは、いまや《紫のケモノ》の妹という立場に置かれてしまったのだ。

 もしも、彼女が、ラインスと共謀していたのではないかと疑われたら――

 だが、ルーシャにとって、ティアの存在はすでに把握済みの事実だったようだ。


『ラインス・クレッサの妹ですね。

 先ほど既に、その身柄を確保するよう命じて、魔術師たちを送り出しました』


『……自宅へ、ですか?』


『ええ』


 不意に口を挟んだグウィンに、ルーシャは鋭い眼差しを向けた。

 フェリスも驚いてグウィンを見る。

 彼は一瞬、フェリスと目を合わせてから、ルーシャのほうに向き直った。


『ティア・クレッサは、今、自宅にはおりません。

 近在の……確か、ベルナという名の女性の家に身を寄せているはずです。

 ラインス・クレッサ本人が、そのように話していましたから』


『そうですか。たいへん有用な情報です』


 皇帝がわずかに頭を傾けただけで、侍女のひとりが滑るように近づき、囁くような命令を聞きとると、深々と礼をして駆け出していった。


『陛下……』


『今、魔術師たちに連絡をやりました。……大丈夫』


 気遣わしげに眉を寄せて言ったフェリスに、再び穏やかな顔つきに戻って、ルーシャは答える。


『魔術師たちを送り出したのは、あの娘を捕らえるためではありません。守る・・ためです。

 先ほど試合場で起きたことは、今、噂となって、風のように帝都じゅうに広がっているはず。

 もしも、興奮した群集が街中でティア・クレッサを発見するようなことがあれば、どんなことになるか……』


 皇帝が言葉を切った、その先が用意に想像できて、フェリスは眉間にぐっとしわを寄せた。

 それは同時に、ルーシャの対応の素早さに舌を巻いたためでもあった。

 これほどの事態が起こったというのに、まったく状況に呑まれることなく、あらゆる出来事を掴み、即座に手を打っている。

 本物の、指揮官の器だ。


 フェリスが頭を下げると、ルーシャは眼差しだけで応え、今度こそ身を翻して通路を遠ざかっていった。

 侍女たちの半分がその背後に付き従い、皇帝が歩きながら次々と脱ぎ捨てていく衣装を受け取っている。

 フェリスは、ぼんやりとその背中を見送った。

 ルーシャが髪の覆いを外し、侍女風に整えた髪形のかつらを脱ぐと、その下から、ばさりと長い髪がほどけて広がるのが見えた。

 今度は、見たこともないような、鮮やかな青い色の髪だ。


 彼女はこれから、新しい姿で、再び民衆の前に姿を現す。

 何があろうと、朝になれば太陽が東から昇るように、どんなことがあっても、皇帝は人々の前に立つのだ。

 あの『早変わり』は、単なる趣味などではなく、ルーシャが自分なりに編み出した、気持ちを切り替えるための手段なのかもしれない。

 古い衣装を脱ぎ捨て、次の装いをまとうことで、迷いを捨て、常に揺るぎない姿を見せる――


(あたしは、まだまだ、鍛え方が足りないのかもしれない……)


 ティンドロック卿の屋敷に戻りたいと思った自分が、ひどく弱い心の持ち主のように思えた。


『では、こちらへ』


 顔をしかめたフェリスに、その場に残った侍女たちが、感情をうかがわせない慇懃さで腕を広げる。


『……どこへ行くの?』


『湯浴みの用意が整っております。お召し替えもなさいませ。

 魔術師さまも、どうぞ』


『えっ』


 反射的にそちらを見たとたん、グウィンの冷ややかな目と視線がぶつかった。


『阿呆、一緒に入るわけがあるか。……案内をお願いする』


 言葉の後半は、侍女たちに向けたものだ。


『いや、別にあたしだって、あんたと入るなんて思ったわけじゃないよ!』


 怒鳴るが、グウィンは振り向きもせず、侍女たちに導かれて廊下を進んでいく。

 ひらりと、片手だけを振ってくるのが見えた。


『あ、あんの野郎……!』


『フェリスデール・レイドさま、どうぞこちらへ』


 思わず拳を固めて踏み出しかけた瞬間、侍女たちから、落ち着き払った声がかかる。

 フェリスは、憮然として侍女たちの後に続いた。

 どこに案内されるのかは、分かっている。

 試合の前にも沐浴をした場所――《清めの間》だ。


『どうぞ、ごゆっくり』


『わたくしどもは、こちらに控えさせていただきます。御用の際には、そちらのベルでお呼びくださいませ』


 侍女たちが引き下がって扉を閉め、フェリスはあたたかい湯気の中にひとり取り残された。

 何もかもが白い石で造られた、広い部屋だ。

 壁のくぼみにたくさんの丸い水晶が据えられ、それらがすべて、あたたかみのある色合いの光を放っている。

 ちらりとも揺れることがないのは、それが炎ではなく、魔術による灯りだからだ。


 真っ白な一枚岩の床が、部屋の中央で浅くくりぬかれ、湯船となっている。

 その中央に《水瓶持つ神》の姿を模した大きな彫刻が立ち、その腕に掲げられた水瓶から、まるで小さな滝のようにあたたかい湯が流れ落ちていた。

 あたたかい湯が、だ。

 水でも、熱湯でもない。

 おそらくは、どこかで沸かした大量の湯を、湯浴みにちょうど良い温度まで冷ますか、水を加えるかして、ここから絶え間なく流し出しているのだ。

 この一部屋だけのために、いったいどれほどの清水と薪とが費やされているのか――

 普通では考えられぬ贅沢だった。


 湯船のふちには、紐でくくられた薬草の束がいくつも置いてある。

 フェリスは武装を解き、ブーツを脱ぎ、血と砂に汚れた服を脱いで裸になった。

 傷の治りがよい体質のため、その白い肌にほとんど痕は残っていないが、そこには、かつて、いくつもの戦いの傷が刻まれてきた――

 きつく編み上げていた髪をほどくと、腰のあたりまで届く。

 フェリスは湯船のふちに置かれた薬草の束を取り上げ、あたたかい湯の中にゆっくりと踏み込んでいった。

 目を閉じて、神像の水瓶から流れ落ちる湯の滝に入る。


 頭の上から勢いよく湯をかぶった瞬間、濃厚な血のにおいが立ち昇った。

 ぎょっとして目を開け、身体をずらして見上げると――神像の水瓶から流れ落ちてくる湯は、透明なままだ。

 だが、湯に打たれる自分の足元の湯が、みるみるうちに赤く染まっていく。

 白い肌の上に、幾条もの赤い筋が、網目のように流れ落ちていった。

 ラインスの血だ。

 フェリスの顔にも、髪にも、ラインスの身体から噴き出した血がべっとりとこびり付いていたのだ。

 彼女は凍り付いたように目を見開き、その光景を凝視していた。


 赤い血は、たちまちのうちに大量の湯に混じって薄くなり、湯船の隅に開けられた排水溝の渦に呑まれていった。

 その血は、塵と化して崩れ去ったラインスが、この世に存在していたという、ただひとつの証だった――

 一度は乾いたと思った涙が、また溢れてきて、フェリスはぎゅっと目を瞑った。


 彼は、妹を愛していた。

 そのために、罪を犯した。

 三人の出場者を殺し、父までも殺した。

 だが……彼は、決して、悪人ではなかった。

 直接目を合わせ、話をしたから分かる。


 そんな男が、亡骸ひとつ残すことすら許されず、化け物として死ななくてはならないなんて。

 そして、彼を殺したのは、あたしだ。


(その必要があった。そうしなきゃならなかった。あたしは、しなきゃならないことをしたんだ……)


 フェリスは、薬草の束で何度も身体を擦りながら、繰り返しそう呟いた。

 これまでと同じだ。

 今はこうでも、明日になれば、痛みは薄れる。

 五日も経てば、ほとんど感じられなくなり、十日経てば、いくつもの過去の場面のうちのひとつに過ぎなくなる。

 今まで、ずっと、そうやって乗り越えてきた――


(そう……その、必要があった)


 流れ落ちる湯の中で、再び目を開いたとき、もう、フェリスは泣いてはいなかった。

 静かな顔だった。

 それは、重荷に耐えて、ひとりで立つ人間の顔だった。



 用意された清潔な服に着替え、武装を侍女たちに運ばせて再びグウィンと合流した後も、フェリスはほとんど喋らなかった。

 グウィンは金色の目でちらりと彼女を見やり、やはり、何も言わなかった。


 案内された先の小部屋で、彼女たちを待っていたのは、ガストンの妻、キャッサだ。

 彼女は蒼白な顔で椅子に座り、手にしたハンカチをちぎらんばかりに揉み絞っていたが、フェリスとグウィンが姿を現した瞬間に立ち上がって、


『ああ……フェリスさん、本当に……お疲れでしょう? さあ、早く、うちに帰りましょう』


 と言った。


『あの』


 フェリスは、蒼ざめた微笑を浮かべているキャッサが、今にも倒れるのではないかと心配になった。


『ティンドロック卿は……?』


『あの人は、すぐに飛び出していきましたわ。ティアさんのところへ……あの子を、守らなくてはならないからと。

 外は、すごい騒ぎになっていたようだけれど……彼は《不死身》と言われた人ですもの。きっと、無事。きっと大丈夫ですわ』


 そう呟くように言ったキャッサの目が、怯えた子どものように大きく見開かれる。

 口元にはかろうじて笑みの欠片が引っ掛かっていたが、それは薄いガラスのように脆く、今にも粉々に砕け散ってしまいそうだった。


『それに……ついさっき、皇帝陛下からの使者が、ここへいらしたの。

 陛下が、道場の子供たちのところへ、魔術師の方々を派遣なさったと……

 ラインスさんと同じ魔術の影響を受けていないか、調べさせるためだと仰っていたわ。

 こういうことは早いうちにはっきりさせておかなければ、後々まで、根拠もなく白い目で見られることになる。だから、皇帝の名において、皆の潔白を証明しておくのだ、って……』


 笑顔が震えて、引きつり、悲痛な泣き顔になった。


『どうして。ああ、何故なのです、神々よ! わたくしたちの教え子が、どうしてこんなことに。まさか、ラインスさんが、あんな……あんなふうに……!』


 フェリスはうつむき、だらりと両腕を下げたまま、その場にただ突っ立っていた。

 身をよじって泣くキャッサの背中をさすり、慰めの言葉をかけたほうがよいのだろうと思いながら、身体が動かなかった。


 フェリスの背後からグウィンが進み出て、無言のまま、キャッサの肩を支える。

 フェリスは、最後まで、動かなかった。

 自分にそんな資格があるとも、思っていなかった。


 やがて、キャッサの呼吸が落ち着いてきた。

 彼女は手にしたハンカチですっかり化粧の落ちてしまった目許を拭い、洟をかんだ。


『……ありがとう、グウィンさん。もう大丈夫。

 ごめんなさい。本当に、ごめんなさいね、取り乱してしまって。まだ、気持ちの整理がつかないだけですわ。

 フェリスさん。何ひとつ、あなたのせいじゃない。

 あなたは、帝国の軍人として、しなければならないことをした……

 ただ、それだけです』


 はっとして見ると、キャッサの目と視線が合う。

 彼女は一度だけ、大きく、はっきりと頷いた。

 キャッサは軍人の妻だ。

 か弱く見えても、本当に弱いわけではない。

 そして、フェリスが苦しんでいることを、理解していた。


『さあ、フェリスさん、グウィンさん。帰りましょう、わたくしたちの家へ……』


 そして、フェリスとグウィンは、キャッサとともに、用意されていた馬車に乗って、ティンドロック卿バノット・ユーザの屋敷まで帰りついたのだ。


 屋敷の周囲は、しんと静まり返っていた。

《紫のケモノ》であったラインスと、優勝者であるフェリスを、共に送り出した場所だ。

 物見高い野次馬たちで、ごった返しているのではないか?

 フェリスの優勝に興奮した群衆に道を塞がれたら、どうすればいいだろう?

 もしも、キャッサに対して狼藉を働くような奴がいたら――?


 そうフェリスは危ぶんでいたのだが、予想に反し、屋敷の周囲には、人っ子一人いなかった。

 道場で帰りを待ってくれているはずだった、イーサンやオルト、ガリスたちの姿もない。

 そして、近隣の住民たちの姿さえ、ちらりとも見えなかった。


(これは……)  


 これほどの静けさは、不自然すぎる。

 フェリスたちが戻るのに先んじて、皇帝ルーシャ・ウィル・リオネスから何らかの命令が発されたとしか思えなかった。  

 屋敷の玄関の扉に手をかけると、鍵が、開いている。  

 屋敷の中は真っ暗だった。  

 フェリスはぎょっとして、反射的に腰の短剣を引き抜き、扉を跳ね開けて駆け込んだ。


『……すまん、フェリスちゃん……』  


 憔悴しきった顔で居間の椅子に座り、彼女を迎えたのは、屋敷の主、ガストンその人だった。


『閣下、ご無事で……! ティアちゃんは!? 彼女、無事でしたか!?』


『あの子は、マーズヴェルタ城に連れていかれた……わしが駆けつけてすぐに、皇帝陛下の魔術師たちがやってきたんだ』


『イーサンたちは? ここにも、陛下の魔術師たちが来たはずです』


『ああ、わしは直接、会ってはおらんが、魔術師たちから聞いた。

 わしと同じ調べを、彼らも受けたはずだ。怪しい魔術や《黒の呪い》と関わりがないかどうかの検査をな。もちろん、皆、潔白だったそうだ……』


 やつれた顔を両手でこすり、ガストンは呟くように続ける。   


『今、ここに誰もおらんのは、わしから魔術師たちに、そう願い出たからだ。

 検査が終わったら、皆を、この道場には残らせず、それぞれの家に帰らせてくれとな。

 家のほうでも、彼らのことを相当に心配しておるはずだ。  

 まさか、自分の子供が、あんなものと関わり合いになっておったなどとと知ったら――』


『閣下』  


 フェリスは短く、しかし、断固とした抗議の口調で言った。  

 確かに、ラインスは許されざる罪を犯した。  

 だが……《紫のケモノ》であったことが分かったからといって、かつての教え子を「あんなもの」呼ばわりするというのは、フェリスにとって、許せないことだった。

 そんなのは……ティンドロック卿らしくない。  

 だが、彼の嫌悪の感情は、ラインスに向けられたものではないようだった。


『わしは、ラインスが抱えているものに、気付いてやれなかった』  


 ぽつりと呟いた声は、これが《不死身》のガストン・ユーザかと驚くばかりに弱々しい。


『わしが、もっと早く、気付いてやっておれば……

 あいつが、そこまで苦しんでおると、気付いてやっておれば……!  

 くそ! 何が、師匠か! 失格だ! ――完全に、失格だ!』


『ティンドロック卿……』  


 頭を抱え、拳で自分の頭を何度も叩くガストンの姿の痛々しさに、フェリスは、ただそう呟くことしかできなかった。  


 誰も喜んでいない。

 ただ悲しみと、自責の念しかない。

 これが、真実を明らかにしたことの代償だというのか――  


 これほどまでに虚しい勝利というものを、フェリスは、いまだかつて経験したことがなかった。  

 帝都の人々は、新しい英雄の誕生に興奮し、歓喜していたが――

 それすらも、今のフェリスには虚しい名声としか感じられなかった。


『……さて!』  


 出し抜けに、ぱん! と手を叩く音が響いた。

 その場の全員が、弾けるように、音の源に視線を向ける。


『わたくし、……そう、お茶を淹れますわ』  


 キャッサだ。  

 彼女は涙を振り払うと、唖然としている一同に微笑みかけた。


『あなた、せっかくの男前が台無しです。すぐに、お顔を洗っていらして。

 さあ、フェリスさん、お疲れになっているでしょう? ここを出る前から、あなたがすぐに休めるようにと思って、お部屋の用意はすっかり整えておいたのですよ。なんでしたら、今からすぐにベッドへ行ってくださっても大丈夫です。

 ああ、それなら、お茶よりも、温かいミルクを用意しましょうね』


『あ……』  


 フェリスは、目を見開いた。  

 この物言い、振る舞い方。  

 フェリスが、幼い頃から馴染んできたやり方。  

 故郷リューネに、古くから伝わる教えに曰く――


『嘆くな、前へ進め。

 最悪の場合でも、嘆きを道連れに前へ進め』  


 この女性は、折れない芯を――

 リューネの人々と同じ強さを、心の中に持っている。  

 どうしてティンドロック卿が、この人を妻にと望んだのか、今、やっと分かったと思った。


 『ありがとうございます、キャッサさん。  

 でも、飲み物はけっこうです。あたし、すぐに眠りますから』  


 それだけ言い残すと、フェリスは二階の寝室に上がって、きちんと整えられたベッドにもぐり込んだ。  

 いろいろなことが脳裏に渦巻いて眠れなくなるよりも早く、御前試合を戦い抜いた身体を泥のような疲労感が包み込む。

 フェリスは、数呼吸もしないうちに、夢も見ない眠りに落ちていった。


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