その男は戻った
歴史的な御前試合の終幕から三日後の朝、帝都の町並みは、しのつく雨に包まれていた。
その一角に、きつく、焦げ臭いにおいが立ち込めている。
前日から降り続いた雨によって、これでも幾分かはましになったのだが、今なお、一区画先からでも分かるほどの異臭が漂っていた。
火事だ。
それも、小火程度ではない。
二階建ての建物が石壁を残して全焼し、両隣と、裏の家の屋根が焼け落ちた。
この程度の被害で済んだのは、人口過密のこの帝都で幾度となく大火災を食い止めてきた、帝都警備隊・防火部の尽力あってこそだ。
特別に配備された、水を操る術に長じた魔術師たちの活躍がなければ、少なくとも数区画が丸ごと消失することになっていただろう。
「なあ、アルシャ……」
焼けて跡形もなくなった一階の玄関扉の前に突っ立っている若者に、同僚たちが、遠慮がちに声をかける。
「おい。もう、行こうぜ」
「ああ。いつまでも、こんなとこにいたって、どうしようもねえ……」
そう声をかけられても、アルシャ・ベリムは、身動きもしなかった。
脂を塗りこんだ薄皮の雨具をかぶり、黙ってその場に突っ立っているだけだ。
やわらかそうな茶色の前髪が、雨に濡れて顔にはりついているのを、除けようともしなかった。
この現場での捜査は、昨日までで、既に切り上げられていた。
最初に現場に入ったのは、防火部の隊員たちだ。
その直後に、マーズヴェルタ城から送り出された皇帝の魔術師たちが、大挙して現場を占拠し、ほとんど一寸刻みの執拗さで《光子》の調査をして、魔術の痕跡を探した。
今はその調査も終わり、張り巡らされていた立ち入り禁止の縄が外され、見張りの姿もない。
現場は、まるで打ち捨てられた廃墟のように、ただ雨に打たれている。
――アルシャたちが所属する捜査部は、この現場の調査に、関わることすらできなかった。
「おい」
何の反応も見せないアルシャに、さすがに苛立った様子で、仲間のひとりが強く肩を掴む。
「もう、奴のことは忘れろ! 俺たちの眼が、節穴だったってことだ。揃いも揃って、犯人の一番近くにいたってのに、気付きもしなかったんだからな……」
「ああ」
悄然と頷いたのは、アルシャではなく、後ろのほうにいた隊員たちだ。
「防火部の連中に、馬鹿にされるのも無理ねえよ……
俺たち、仲間殺し、父親殺しの極悪人と、肩を並べて仕事してたんだぜ」
「躍起になって逮捕しようとしていた、当の犯人が、ラインスの奴だったとはな……」
燃え落ちた建物の一階には、クレッサ家が入居していた。
ラインスと、ティアの家だ。
幸いにして、出火時には一階、二階とも住人が不在だったため、この家から死者は出なかったが、居住者たちの持ち物すべてが猛火に呑まれ、跡形もなく消え去った。
「これだって、はっきり言っちまえば、仕方がねえんだよ……
ラインスの野郎、あんな真似、やらかしちまったんだからよ!」
警備隊員のひとりが吐き捨てるように言った瞬間、それまで微動だにしなかったアルシャが、急に振り返った。
「おっ……」
「仕方がない、ですって?」
仲間の胸倉を掴み上げたまま、アルシャは、奇妙に静かな調子で言った。
目を見開いた、その表情が大きく歪んで、あっという間に声量が跳ね上がる。
「何が、仕方ないんです……!? 何も、ここまで! 家まで焼くことはない!
ここをやった連中は、妹さんまで焼き殺す気だったんだ!
たまたま、よそに泊まりに行っていなかったら、あの子も、一緒に焼かれてしまっていた!
それでも……もしも、そうなっていても、仕方がないと言えるんですか、あなたは!?」
「ああ、仕方がねえよ!」
詰め寄られた隊員もまた、アルシャの手首を掴んで怒鳴り返す。
「天下の帝都警備隊の隊員が、連続殺人犯で、親殺しでよ!
どういうことなんだよ!? どういうことだって、なるだろ、普通!?
どうもこうもねえよ! 責任、取れねえんだよ!
その、取れねぇ責任引っ被って、あの人は、辞めていったんじゃねぇか……!」
はっと、アルシャの身体がこわばった。
その隙に、仲間たちが、彼と同僚とを引き離す。
――あの人。
帝都警備隊・捜査部の部長であったフィネガン・トロウは、御前試合の翌日に、その職を自ら退いた。
マーズヴェルタ城の魔術師たちによる、隊員たちひとりひとりの《光子》の入念な検査――ラインスと同じように「汚染」されている者がいないかどうかを確かめるためだ――が終了した、その直後のことだった。
ラインスの事件の、全責任を負っての辞任だ。
皇帝ルーシャ・ウィル・リオネスからは、
『あれは非常に特殊、かつ巧妙な魔術によるもので、周囲の者が正体を看破することはほとんど不可能であった。
よって、帝都警備隊の責を問うことはしない』
との声明が発表されたが、世論がそれで納得するはずがないことは、フィネガンをはじめとして、帝都警備隊の全員が承知していた。
「そりゃあ、俺たちだって、おめぇと同じように悔しいさ!
けど、今、俺たちがモノ言って、誰が聴いてくれるんだよ!?
このどうしようもねぇ状況を作ったのは、あの馬鹿野郎だ!
ラインスの野郎は、それだけのことをしちまったんだよ!」
「おい、もう、いい。落ち着け」
「そうだぜ。人が集まると厄介だ……」
興奮の収まらない同僚を口々に宥めた隊員たちは、遠慮がちにアルシャを見やり、
「じゃあ……俺たちは、一応、巡視を続けるから」
「お前も、早く来いよ……もう、前とは違うんだからな」
「そうだぜ。余計なこと考えるのは、やめろよ。あんまり余計なことしてると、睨まれちまうぜ……」
口々にそう声をかけると、連れ立って、雨の街に消えてゆく。
その様子はまるで、しのつく雨の帳に身を隠してゆくようで、数日前までの、威勢よく肩で風を切って歩く、誇りに満ちた捜査部の隊員たちの姿はどこにもなかった。
そうだ。
こうなったのも、全て、ラインスのせいだ――
(そう、思えたら)
いっそ、そう思い込めれば楽になれるのにと、ここのところ満足に眠れぬ頭で、アルシャは考えていた。
だが、できなかった。
……なぜ、気付いてやれなかったのだろう?
父親を手にかけてまで、勝利を得ようとしたラインス。
それが、ラインス自身の欲のためにではなく、生まれつきの病を抱えた妹ティアのためにだったと、アルシャには分かっていた。
そこまで、分かっていながら。
ラインスの胸の内に渦巻く、焼け付くような思いを、汲み取ってやることができなかった。
正義を標榜する帝都警備隊の一員でありながら、一人の仲間が誤った道に迷い込んでゆくのを、気付くこともできず、止めてやることもできなかった。
そうだ、仲間だ。
同じ捜査部の、仲間だった。
その仲間を、あんなふうにして、死なせてしまった……
雨の音がざあざあと意識を侵蝕し、内側からこみ上げてくる無力感とともに、己自身の輪郭さえもぼやかしていくような気がする。
ラインスは死に、部長は去った。
(俺も……辞めてしまおうか……)
ふと、そんな考えに心が揺らいだ。
その時だ。
「アルシャ」
「はい」
反射的に、アルシャは答えて振り向いた。
この響き、この調子に、そう反応するように身体が覚えている。
振り返るまでの、ほんの何分の一秒かのあいだに、ラインスの心の中で二つの考えがせめぎ合った。
――この声は。
ああ、この声を、もう一度聞くことができるとは……
――まさか、そんな。
聞き違いだ。あの人が、ここに現れるはずがない……
「部長!」
振り向いたアルシャが発した叫びに、フィネガン・トロウは目深にかぶった雨具のフードをちらりと上げ、視線を向けてきた。
アルシャはその一瞬で全てを了解し、口をつぐむ。
まだ信じられないという顔をしている彼に、フィネガンは軽く頷き、ゆっくりと隣に立った。
「……部長は、よせ。今はもう民間人だ」
「いいえ」
アルシャの声には、自分でも驚くほど、覇気が戻っていた。
「帝都警備隊の男として、全てのことをあなたに教わりました。
俺にとっては、いつまでも、部長は部長です」
フィネガンは軽く肩を竦めただけで、それ以上は何も言わなかった。
「部長は、これまで、どこにいらっしゃったのですか?」
「さすがにこの状況で、素顔を晒して街中を歩き回る気はしなかったからな。馴染みの店に転がり込んでいた」
帝都警備隊の、特に捜査部での勤務が長いと、誰でもそういう塒のような場所をいくつか持つようになる。
だが、このような状況でも受け入れてくれたというのは、並大抵のことではない。
かねてからのフィネガンの人望あってのことだったのだろうと思うと、アルシャは、自分のことのように誇らしい気持ちになった。
「ようやく、ここに来られたが……思った以上にひどい有様だな」
「ええ。防火部の調べで、放火と判明しました」
表情を引き締め、簡潔に報告する。
フィネガンが既に捜査部の部長職を退いていることを考えると、これは違反どころか違法にもなりかねない行為だったが、アルシャは迷わず、彼に情報を伝えることを決断した。
「燃え方から見て、何者かが一階に大量の油を撒き、火を点けたようです。
ですが、犯人に繋がる手がかりは、今のところ、まったく出ていません」
「……お前は、どう見ている?」
「ここが焼かれたのは、マーズヴェルタ城からの正式な発表がなされる前です」
アルシャは、きびきびと答えた。
つい先ほどまで、ぶよぶよにふやけた海綿並みに鈍かった思考が、フィネガンと言葉を交わすうちに研ぎ澄まされ、いくつもの情報の断片が歯車のように噛み合い、回り出すような気がする。
――マーズヴェルタ城からの正式な発表。
それは『ラインス・クレッサの《紫のケモノ》化は、ほとんど知られていない特殊な魔術によるものであり、決して《黒の呪い》によるものではない』ということだった。
アルシャ自身も、あれから知り合いの魔術師たち――国家の公認を受けていない裏の魔術師たちも含む――に、ことごとく当たってみたが、《アレッサの結界》の異変を示すような《光子》の乱れを感知した者は、誰ひとりとしていなかった。
「あの日、城からの発表がなされる前に『ラインス・クレッサは《黒の呪い》に冒されていた』という噂が、このあたり一帯で急激に広まったそうです。
その結果、《呪い》の感染を恐れて、一時、付近の住民が逃げ出す騒ぎが起きた……
その混乱の中で、この家は放火されたのです。
ほどなくマーズヴェルタ城からの発表があり、事態は一応、沈静化しました。
俺個人としては、パニックに陥った住民の一部が《黒の呪い》を恐れ、浄化と称して火をかけた疑いが強いと見ているのですが……
今のところは目撃証言もなく、捜査は完全に手詰まりです。
新しい部長は、そもそも、本気で捜査をする気もないようですし……」
最後の一言は、思わず漏れた本音だった。
いまや、ラインス・クレッサの名は、捜査部にとって忌まわしい汚点だ。
もはや本人を罰することもかなわぬ今、このまま時が過ぎ、人々の記憶からその名が薄れ、消え去るのを待つしかないというのが、新たな上司の考えだった。
フィネガンは、アルシャの言葉にも反応らしい反応を見せず、先ほどからずっと、ばしっ、ばしっとてのひらに拳を叩きつけている。
考え事をするときの、いつもの癖だ。
やがて、不意に彼は言った。
「妹は今、どうしている? 俺は、ゲイルの報告までしか聞いていない」
ゲイル・リアーソンは、捜査部のベテラン隊員のひとりだ。
ラインスは、御前試合のあいだに万が一のことがあってはいけないと、ティアを二区画ほど先に住むベルナ・ウェリアという女性のもとに預けていた。
その隣の空き家に、念のため、ゲイルが警護についていたのだ。
「確か……ティンドロック卿がやってきて、彼女を連れ出そうとしたのだったな。その際、ゲイルと交戦状態になりかけたと聞いた」
ラインスに頼まれてティアを預かったベルナは、ガストンのことをよく知らなかった。
髭面の巨漢が突如、とんでもない剣幕で押し入ってきて、預かった娘を連れ出そうとしたのである。
ベルナは悲鳴を上げて窓から助けを求め、それを聞いたゲイル・リアーソンは何者かの襲撃かと剣を抜き、家に飛び込んでいった。
「ええ、そう、その通りです」
懐から帳面を取り出し、忙しく頁を繰っては指先で押さえながら、アルシャは答えた。
ゲイル・リアーソンがティンドロック卿の顔を見知っていたため、幸いにして、戦いになることはなかった。
ラインスが入隊を果たしたときに、ティンドロック卿が夫人を伴い、わざわざ警備隊本部まで挨拶に来たからだ。
「その後、すぐに皇帝の魔術師たちがやってきて、ティアさんをマーズヴェルタ城に連行しました。
拘留状態は、今も続いています。
おそらくは、兄との関わりについての取り調べが続いているのでしょう」
そこまで一気に言って、アルシャは、不意に言葉を切った。
ややあって、悔しげに呟く。
「あんなこと……ティアさんの耳に入れたくはなかったです。自分の肉親が、あんな……」
決勝戦での出来事を思い出し、アルシャは唇を噛みしめた。
だが、フィネガンは、またしても反応らしい反応を見せずに、突然別のことを口にした。
「アルシャ。そういえば、以前、この家に招かれたことがあったな? お前も一緒だった」
「えっ? ……ああ、そうでしたね。あれは……ティアさんの誕生祝いでしたか」
とっさに相槌を打ちながらも、アルシャは、戸惑いを隠すことができなかった。
部長は突然、何を言い出したのだろうか?
もちろんアルシャとて、焼け焦げて消し炭と煤にまみれ、消火活動のために水浸しになった部屋の無残な有様を見て、かつての、質素ながらも気持ちよく整えられたクレッサ家の光景を思い出さなかったといえば嘘になる。
だが、今は、そんな懐旧の情に浸っている場合ではないのではないか?
「あれは確か、本棚だった。違うか」
フィネガンは、元は居間だった空間の片隅に、両側の板が辛うじて倒れずに残っている家具の残骸を指さした。
「ええ……そう、確か、そうでした。クレッサさんが集めた、詩集や、物語の本……ティアさんが寝台で退屈しないように、集めているんだと……」
「本はどこだ」
フィネガンが口にした、その言葉の意味がアルシャの意識に浸透するまで、数呼吸の時間を要した。
(本だって? 今、本のことなんて、……本?)
無い。
確かに本棚であったはずの場所に、本が、その燃えかすすら、存在していない……
稲妻に撃たれたように硬直したアルシャをおいて、フィネガンは床一面をおおう湿った炭をざくざくと踏み付け、一直線に本棚へと歩み寄った。
「ここには、端から端まで、本がぎっしり詰まっていた。
そうだ、ティアはいつも家で休んでいるから、それだけ買ってもすぐに読み尽くしてしまうと、クレッサが話していたな。
確かに、端から端まで、本が詰まっていた。そうだったな、アルシャ?」
「そう、です……」
「密着して重なり合った本というものは、四方は焦げても、そう簡単に燃え尽きるものではない。なのに、跡形もなく……本はどこへ行った?」
「……マーズヴェルタ城の魔術師たちが、調査のために持ち帰ったのでは」
「馬鹿者、見ろ、この棚板を。
火事の後に本が押収されたなら、本があった部分の燃え方は、露出していた部分とは違うはずだ。
見ろ。どこも、均一に焼けている。
つまり、ここが焼けたときには既に、本は無くなっていた――」
矢継ぎ早に喋りながら、フィネガンは獲物の臭跡を嗅ぎ当てた猟犬のように、他の家具の残骸へと突進した。
「……空だ! どの棚も……中身がない!」
「それは、妙です!」
この瞬間、ようやくアルシャの思考は、フィネガンのそれに追いついた。
「《黒の呪い》の穢れを恐れ、浄化のために燃やしたというなら……室内のものに、手など触れるはずがありません! それなのに、これは――」
アルシャの表情が、見る間に険しくなってゆく。
「それでは……これは……《呪われし者》狩りに見せかけた物盗りが、その証拠を隠すために、火を?」
口調は穏やかなものだったが、声の端々に、卑劣な犯罪に対する憤怒がにじみ出ている。
「違う」
フィネガンは、断定した。
「これは、家捜しだ」
普通の物盗りならば、小さくて隠しやすく、なおかつ金になりそうなものだけを選んで持ち出す。
わざわざ大量の本や、その他のかさばる品を持ち出す理由は何もない。
……そう、そもそも、一人の人間に持ち出せる量ではないはずだ。
複数犯。
組織的な犯行だ。
その者たちには、そこまでしてでも探し出したい『何か』があった――
「そいつらは、ラインスが死んだ後、この辺りで《黒の呪い》の噂を流し……
意図的にパニックを引き起こして、近隣の住民たちが逃げ出すように仕向けた」
「そして……周辺が無人になった隙に、この家で、何かを探し……
その痕跡を隠すために火を放ち、《黒の呪い》を恐れての犯行に偽装した……!」
「誰が、何のために?」
畳み掛けるようなフィネガンの問いに、アルシャは、今度は即座に答える。
「おそらくは、一連の事件の黒幕……!
そっ……そうか! ラインスさん自身は、魔術の使い手ではなかった。彼に、あの術を施した者がいるはずです!
そいつは、ラインスさんと自分とのつながりが発覚することを恐れ、全てを闇に葬ろうとした……!」
「ラインスが、この家に、事の真相を示す何かを残しているのではないかと恐れたのだな」
フィネガンがその可能性を示した瞬間、アルシャは、彼ならばきっとやっている、という確信を抱いた。
たった一人の妹を守るために、法にも、人の道にも背いてしまったラインス。
だが、彼は、この仕事に誇りを持っていた。
彼なら、帝都警備隊の男としての最後の義務感だけは、きっと、捨てることはなかったはずだ――
長い沈黙の後、フィネガンは再び口を開いた。
「そいつらは、目的のものを見つけたと思うか?」
アルシャの口の端が、ほんのわずかにだが曲がって、笑みの形になる。
「家捜しの経験豊富な捜査部の男は、ちょっとやそっとの捜索で発見されるような場所に、やばいものを隠したりはしません」
「おまえが奴なら、どこに隠す?」
「部長なら、どこに隠されますか?」
きっかり一息の後、男たちは顔を見合わせた。
互いに、まったく同じ場所に思い至ったことが、表情から確信できた。
フィネガンは言った。
「アルシャ、お前がやれ。他の誰も信用するな。お前にしかできん。
――帝都警備隊本部を、徹底的に捜索しろ!」




