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ラインス・クレッサ

     *     *     *



「まずいな……」


 肩まで伸びた髪を両手でくしゃくしゃとかき回して、青年は呟いた。


「あんな女の子なのに……信じられない。なんて強さだ……」


「おい、アルシャ!」


 隣から両手をわななかせて叫んできたのは、彼――アルシャ・ベリムと所属を同じくする、帝都警備隊・捜査部の仲間たちだった。


「やべぇぞ、あの娘っ子! あの《無冠の貴公子》を手もなくあしらうなんざ……次、あいつが、ラインスと当たるんだろ!?」


「ちくしょう、噂には聞いてたが、辺境の女戦士ってのは、本気で人間離れしてやがる。ラインスの野郎、相当気合い入れて行かなきゃ、ブッ倒されちまうぞ!?」


「くそっ! せっかく、ここまで勝ち上がってきたのに」


「そうですね……」


 動揺を隠し切れない仲間たちと同じく、アルシャもまた、不安に眉を寄せずにはいられなかった。

 だが、すぐにぽんと手を打つと、できるだけ明るい声で言う。


「あ! でも、ほら! ラインスさんのほうが、有利じゃないですか!

 だって、ラインスさんは、これまでに二試合しかしていないでしょう? あの子は、今ので三試合目だ。当然、疲れもたまってきてるはずです。

 そこに乗じて一気に畳み掛ければ、勝機はじゅうぶんですよ!」


 対戦の組み合わせによって、優勝するまでに四度戦わねばならない者と、三度ですむ者とがいるのである。

 これはドナーソン将軍の欠場によって出場者が十一名になった影響というわけではなく、もとの十二名であってもそうだった。

 一度の試合が肉体に及ぼす疲労度を考えれば、あまりにも大きな差と言わざるを得ないが、こればかりはどうしようもない。

 出場者の組み合わせは、くじによって決まるのだから、全員が運を天に任せるしかなかった。


 先ほどまで勝ち残っていたのは、キリエ、フェリスデール、そしてラインスの三名。

 その三名のうち、キリエとフェリスデールが対戦することとなったため、ラインスは、いわば一戦分、不戦勝をあげることができたわけだ。


「そう……そうだよな! さすがアルシャ、いいこと言った!」


「ラインスの野郎、毎日、毎日、誰よりも熱心に訓練してたもんな。もう、鬼気迫るって感じの真剣さでよ。ありゃあ、そこらの人間に真似のできる境地じゃねえ!」


「ティアちゃんのためなんだ。勝たせてやりてえよなぁ……」


 ラインスが、妹ティアを力づけるためにこの御前試合を目指したことを、全員が知っている。

 だからこそ、普段は隊員たちの私生活にまったく干渉しようとしないフィネガン・トロウ部長が「非番の者は、俺の代理として、ラインスの応援に行ってやってくれ」と明言しさえしたのだ。

 その言葉どおりに、今日が非番の者全員が昨夜から徹夜で開門待ちの列に並び、入場の抽選を幸運にも突破して、今、この場に顔を揃えている。


「大丈夫だ! ここまで、貴族どもをこてんぱんにやっつけて勝ち上がってきたんじゃねえか。実力と、気合が違うんだよ、気合が!」


「確かに、あの娘っ子もなかなかのもんだが、ラインスは、背負ってるもんが違う。愛する者のために戦うとき、男はどこまでも強くなれるもんなんだよ……」


「おお! 詩人だなっ!」


 がははは、と肩を叩きあって盛り上がる仲間たちを、アルシャは複雑な表情で見つめていた。

 みな、空元気を出して騒いではいるが、その表情の端々に拭えない不安感が漂っている。

 辺境の砦からやってきた少女の戦いぶりは、彼らにとっては、そのまま、友人の勝利の危機に他ならないのだ。

 その凄まじさは、彼らの予想を遥かに超えていた。


 ――そして。

 アルシャの表情を曇らせている原因は、仲間たちと共通するものの他に、あとひとつあった。


(部長が仰っていたように、ドナーソン将軍の屋敷で見つかった《紫のケモノ》の死骸が偽物で、全てが、仕組まれた陰謀であったとしたら……

 まだ、真犯人の正体さえ、わかっていないんだ。まさか……あの少女が?)


 控え室へと引き上げていく少女――フェリスデール・レイドの姿を、アルシャはじっと見つめた。

 キリエと相対したときに、彼女が兜を取ったため、石板に映し出されたその表情がはっきりと見える。

 激闘の末に勝利をおさめた剣闘士が見せるような爆発的な興奮を、彼女は、欠片ほどもあらわさなかった。

 金の髪がきっちりと編みこまれ、頭のまわりに巻きつけられている。

 その下に見える表情の静謐さに、アルシャは、神殿の壁に彫刻されている女神の顔つきを漠然と思い出した。


(あんなふうに相手を打ちのめして、顔色ひとつ変えないなんて、いったい、どんな人間なんだ?

 犯罪者にありがちな、後ろめたさの影はないが……何らかの信念に燃える理想犯ということも考えられる。

 ――いや、落ち着け。あの少女が犯人だということを示す証拠は、何もない。思い込みは禁物だ)


 アルシャは、さらに視線をめぐらせた。

 貴賓席の中央の玉座に座る、この国で最も貴い女性と、その周囲を囲む厳重な守りとを確かめて、眉をしかめる。


(そうだ。ここには、皇帝の兵や、お抱え魔術師たちがいる……彼らが目を光らせている状況では、何者であっても、妙な動きはできないとは思うが……

 何か、胸騒ぎがする。この試合が、本当に、何事もなく終わればいいんだが)


 そのときだ。


「おっ……」


 アルシャの肩を、隣にいた仲間が強く掴んだ。

 その指があまりに強く肩に食い込んだので、アルシャは反射的に文句を言おうとしたのだが、声に出す前に、何を言おうとしていたのかさえ、忘れてしまった。


 ――皇帝が、再び立ち上がっている。

 数万の人々の視線が、その姿に集中した。


 次に起きることを、誰もが知っている。

 知って、待ちわびている。

 恭しく差し出された皮袋に、白い手が差し込まれ、最後まで残った二枚のメダルが取り出された。


「神々が、この戦いをよみし給う!」


 皇帝の肉声が朗々と響き、会場の隅々にまで反響して広がった。

 アルシャが息を呑む。

 ガストンとキャッサが、顔を見合わせる。

 グウィンは、拳を固めた。


「緑、フェリスデール! 黄、ラインス!

 皇帝、ルーシャ・ウィル・リオネスの名の下に――この戦いの勝者を《翼持つ女神の剣(エルベリオン)》の次なる担い手と定めん!」



     *     *     *



(いよいよ、来た)


 フェリスは、胸中で呟いた。

 いや、正確に言うならば、意識的に呟いてみた。


 御前試合の決勝戦。

 勝てば、帝国最高の剣士の称号を――《翼持つ女神の剣エルベリオン》の担い手たる栄誉を得ることができる。

 もっと興奮するものだろうと思っていたのに、今は、恐ろしいほどに意識が澄んで、平静だ。


(勝てる)


 最後の試合の相手がラインスであることは、明かり取りの窓から控え室に流れ込んでくる歓声が教えてくれた。


(ラインスさん、あたしと同じ、初出場で……そうか、そんなに強かったんだ……)


 彼と剣を交えたことは、まだ一度もない。


(それでも、あたしが、勝つんだ)


 名が呼ばれ、控え室の扉が大きく開け放たれる。

 剣の柄を強く握り、万雷のごとき人々の声の中に踏み出しながら、フェリスは、一歩ごとに、その確信が強固になっていくのを感じた。


 一度、言葉を交わした相手だ。

 ティアのことも、知っている。

 だが、フェリスに迷いはなかった。

 日々、命を懸けた戦いに臨む者だからこそ知る、試合というものの神聖さ。


(刃のない剣の名誉にかけて――あたしは……!)


 がしゃり、と音を立てて立ち止まる。

 十歩ほどを隔てた場所に、こちらと向かい合って、ラインスが立っていた。

 ラインスは、フェリスと同じように、盾を持たず、ただ一振りの長剣のみを帯びていた。

 その身を包むのは、傷とへこみの目立つ銀色の鎧兜だ。


 本格的な武装一式は、非常に高価なものであり、一介の若い帝都警備隊員があがなえるようなものではない。

 ラインスが入隊試験に通ったとき、彼の夢を知るガストンが用立て、祝いとして贈ったのだと聞いている。

 下ろされた面頬(めんぽお)のために、ラインスの表情をうかがうことはできなかった。


 素人ならば、相手の表情が読めないというだけで、気圧されてしまうだろう。

 だが、フェリスは平然としていた。

 ヒトの姿に非人間的な峻厳さを与え、敵を威圧することこそ、武装の大目的のひとつであると、彼女には、わかりすぎるほどに分かっていたからだ。

 硬い金属の殻の内側にあるのは、自分と同じように疲労し汗を流し、傷つけば血を流す肉体だと――

 その内側にあるのは、自分と同じように迷い、驚き、怯えることもある生身の心だと、物心ついた頃から、知っていた。


 そういうフェリスは、兜の面頬を下ろしていない。

 視界が狭められるのを嫌ってのことだが、もうひとつの理由もあった。

 相対する敵が、自分の視線を恐れることに、フェリスは、これまでの多くの経験から気付いていた。

 戦いのさなかに鏡を見るわけにはいかないから自分では分からないのだが、周囲の者たちの話によると、みどりの目が刺すように冷たくきらめいて、ひどく恐ろしいらしい。

 それを気にするでもなく、ならば隠すより見せたほうが効果的ではないかと考えるのが、フェリスのフェリスたる所以である。

 あるいは、そういった思考の流れは、リューネという街に住む者全体の特性であるのかもしれない。

 そうだ。

 故郷リューネを離れて、とうとう、ここまで来た――


(みんな、待っててね。あたし、《翼持つ女神の剣エルベリオン》を手に入れて、もうすぐ帰るから……)


 再度、朗々と読み上げられる自分たちの名を、フェリスは遠い世界の出来事のように聞いていた。

 もう四度目になる、皇帝への礼。

 その、ほんのわずかの間に、リューネで自分を待っているはずの部隊の仲間たち、街の人々の顔が、次々と脳裏に浮かんでは消えていく。

 にやりと笑って親指を立てる、父の姿。

 この会場のどこかで見守ってくれているはずのティンドロック卿と、キャッサの笑顔。

 そして、グウィンの仏頂面――


「はじめッ!」


 という声が響いた瞬間、ラインスは、既に目の前にいた。


「!?」


 一瞬、思考が停止する。

 あまりにも速い。

 だが、フェリスの肉体は自身の思考すら遥か後方に置き去って、電光石火の反応を見せていた。

 斜め上から振り下ろされた刃を、かざした刀身の平に左手を添え、辛うじて受ける。

 骨に響く衝撃。

 ずざ、と踵が滑った。

 その時になって、ようやく、驚愕が心を襲う。


(強い――!)


 腕の肉と肩の関節が、みしりと軋んだような気がした。

 それだけ打撃が重かったのだ。

 声を漏らしそうになるのを堪えて跳ねのけ、続けざまに打ち込むが、やや精細を欠いたそれらの打撃は、全て、ラインスの剣に打ち払われる。

 フェリスの剣が次にどこに来るか、完璧に予測しているかのような鉄壁の守りだ。


(攻撃が通らない……! 全部、見切られてる! くそ!)


 これまでに対戦してきた男たちが感じたのとまったく同じ動揺を、フェリスは、この試合の場で、初めて感じた。

 ……見切られている?

 いや、違う。

 フェリスの剣術は、誰かに教えられたものではなかった。

 土台となっているのは、マクセスが彼女に伝授したアーケリオン流。

 だが、《呪われし者》との戦いでは、人間相手を想定した剣術のみに頼っていては勝てない。

 ヒトを超える膂力と速度を備えたモノたちとの戦いの中で、フェリスは、独特の太刀筋を編み出してきた。

 それは今日に至るまで、おそらくは誰にも、読まれたことがなかった。

 それなのに――


(そうか! この人、反応が速い、ものすごく速いんだ……! だから、打ち込んでも、全部受けられちゃう――)


 ならば。

 流れるように、フェリスの構えが変わった。

 フェリスの打ち込みが一瞬途切れた、それを契機として、戦いの流れが変わる。

 防戦に回っているかに見えたラインスが、牙を向く獣のように猛攻を仕掛けてきたのだ。


 続けざまにぶつかり合う、二つの刃。

 冬の陽に照らされた刃があざやかな残像を残し、火花を散らして舞う。

 そう、それは凄まじい速度を持った激しい攻防でありながら、見る者に、舞のような美しさを感じさせる戦いだった。

 一切の無駄のない、極限まで研ぎ澄まされた的確な攻撃と防御。


 眼下に繰り広げられる試合に、誰もが、言葉を忘れて見入った。

 まるで、一切の音が遠ざかるようだ。

 いや、どこからか、楽の音が聴こえるような気がする――


「シッ!」


 鋭い息とともに気を吐いて、フェリスは剣を振るった。

 真っ向から叩き付けられたラインスの剣が、右に逸れた、と見えて跳ね上がるように戻ってきた。

 それを、再び弾く。

 並の者なら一瞬で二度は倒されていたであろう続けざまの打ち込みを、フェリスは見事に受け、流してみせた。


 相手の反応速度を超えることが難しいならば、まずは、防御に徹する。

 それが、フェリスが選んだ戦い方だった。

 ラインスの実力は予想外だったが、圧倒的というほどではない、と彼女は感じ取っていた。

 力は五分五分。

 望むところだ。

 まずは打たせてやる。

 万が一、有効打を貰っても、その程度は構わない。

 相手の力を最大限まで引き出しておき、相手が消耗し始めたところで、一気に反撃に転じるのだ――


「なぜ……」


 何度目かに、がっきと鍔元近くが噛み合ったとき、フェリスの耳に、そんな声が飛び込んできた。

 いや、聴こえたような気がしただけかもしれない。


 フェリスは、全身全霊を傾けて勝負に集中していた。

 相手の動きのひとつひとつが、いつもよりもはっきりと見える気さえする。

 こんなことは、人間相手では、本当に久しぶりだ――

 そして、再び、がきりと鍔元が噛み合ったとき。


「負けて、下さい」


 今度は、はっきりと、ラインスがそう言うのが聞こえた。

 フェリスは一瞬、分からなかった。

 何を、言われたのか。


「……え?」


 そう言ったつもりだったが、実際には、声になっていなかった。

 ただ、軽く口と目を開いただけだ。


(負けて下さい、って)


 どういう意味だろう。

 呪っているつもりだろうか?

 言葉で動揺を誘い、こちらの隙を生み出そうというつもりか。


「俺は……」


 兜の面頬の奥から響いてくるラインスの言葉は、奇妙に平板だった。

 まるで、独り言を呟いているように――

 あるいは、何かを、極限まで押し殺しているかのように。


「俺は……絶対に、負けるわけにはいかないんだ。ティアのために」


「そんな」


 今度は、はっきりと、声が出た。

 どちらも、渾身の力で剣を押し込んでいる。

 ふたつの刃が噛み合った鍔元からは、金属が擦れ合うぎりぎりという音が絶え間なく生じているのだ。

 並の人間ならば、いや、一流と呼ばれるような戦士であっても、均衡を保つだけで精一杯の状況。

 それでも、フェリスは、言葉を継がずにはいられなかった。


「ラインスさん? 何、言ってるんです。そんな……わざと、負けてくれ、なんて……

 どうして? あなたなら、正々堂々の勝負でだって、あたしに勝つ自信あるでしょう!」


「あなたに、勝てる気がしない」


 ギッ! と火花を散らして互いに跳び退り、フェリスとラインスは再び剣を構えて向き合う。

 ラインスは、正眼に。

 フェリスは、上段に構えている。


「お願いです。フェリスさん。退いてください。俺は、ティアのために、絶対に、負けるわけにはいかないんだ……」


「……悪いけど」


 いつでも打ち込める姿勢で、じりじりとわずかずつ位置を変えながら、フェリスは、きっぱりと言った。


「あたしには、できない」


 その言葉には、寸毫の迷いもない。

 この場に立つ前に――

 いや、もっとずっと前から、決めていた。


「試合で、わざと負けるなんて……そういうの、一番嫌いです!

 どんな事情があったって、剣を持って向かい合ったら、勝負には関係ない!

 試合っていうのは、正々堂々、全力の真っ向勝負じゃなきゃ、何の意味もないのに!

 ――どうしてです、ラインスさん!?」


 だんだんと声が跳ね上がって、激しく詰る調子になった。


「今まで、ほんとにいい試合だったのに、どうして、急にそんなこと……!?

 いい試合をしようって、あの時、言ってくれたのに!

 忘れたんですか!? 刃のない剣の、名誉にかけて――」


「名誉が、何だというんだっ!!」


 突然、ラインスが叫んだ。

 その剣幕のあまりの凄まじさに、フェリスは反射的に口を噤んだ。

 怯えたわけではない。

 リューネの戦士は、この程度のことで怯えたりはしない。

 驚いたのだ。あまりにも。

 かつて会ったときの穏やかな態度が嘘のように、ラインスは、まるで子どもが喚き散らすように、地団駄を踏まんばかりの絶叫を放った。


「何が名誉だ! 名誉なんてもののために、この勝ちを奪われてたまるか!

 あのままでは、ティアは、死んでしまうんだぞ! 俺の妹が!

 命がかかっているんだ!

 名誉なんて……命もかかっていない、ただのくだらない意地で戦っているあんたに、この勝ちを奪われてたまるか!」


「はあっ!?」


 それまで呆気にとられて見守っていた審判官たちの首が、一斉に反対方向を向いた。

 ラインスの絶叫を受け、立ち尽くしているかに見えたフェリスが、こちらもこんかぎりの大声で怒鳴り返したからだ。


「何!? 何を言ってるの!? 分かんない。全然、分かんないよ!」


 予想を超えたなりゆきに、観客たちは唖然としている。

 フェリスは構わず、速射弩のように相手に言葉を叩きつけた。


「ラインスさん、どうしちゃったんですか!? こんなの、おかしいですよ! あなたが優勝することと、ティアちゃんの病気とは、全然、何の関係もないじゃ――」


 そこまで、怒鳴って。

 フェリスは、はっと、言葉を詰まらせた。


「あ……お金……? ティアちゃんの、治療のため……」


 御前試合の優勝者には、皇帝からの褒賞金が与えられる。  

 勝利による名誉のほうがより重んじられるべきであるという考えから、さほどの額ではない。

 名門の貴族にとっては、だ。

 普通に暮らしている市民にとっては、一生目の当たりにすることのないような金額――


 ラインスは、答えない。

 身動きもしない。


 フェリスの表情は、目まぐるしく移り変わっていった。

 ふと浮かんだ、言うにいわれず哀しげな、さびしげな顔から――

 一転して、決意。

 そして、笑顔へと。


「大丈夫……たとえ、あたしが勝っても、褒賞金は、全部……」


 笑顔が、だんだんと引きつって、必死の表情になった。

 フェリスが、これまで、他人に見せたことがないような表情だ。


「ラインスさん……だから、お願い! 心配しないで、ちゃんと戦って! だって……あたし、こんな――」


 だん! と地面を蹴りつけて、フェリスは、とうとう喚いた。


「あたし、こんな試合のために、ここまで来たんじゃないよ!」


「黙れ!」


 ラインスの怒りは、ますます激しさを増している。

 その声には、もはや憎悪とさえ呼べる響きがあった。

 だが、それが何に対しての感情なのかが、フェリスには理解できない。

 ラインスは、激昂のあまりにか、激しく震える切っ先をフェリスに突きつけた。


「何が、試合だ……! お前には分からない! 絶対に、分からない! 生まれながらに、恵まれたお前には!」


「――恵まれた?」


 ぽつり、と。

 フェリスの唇から漏れたその言葉は、不意に別人が話したかのように、冷え切り、乾いていた。


(何て、言ったの。今、何て? ……恵まれた? この、あたしが?)


 貴族の娘、将軍の娘だ。

 日々の食べ物にも、身につける衣服にも困ったことはない。

 御前試合に出たいと言えば、父親が新品の武装を仕立てさせて贈ってくれる。

 彼女の愛剣は、最高の鋼を、当代一と讃えられる職人が鍛え上げたものだ。


 それは、何のためか。

 十一歳から戦場に出て、人を斬り、《呪われし者》を斬ってきた。

 泥水にまみれて塹壕を這い、炎と煙の中を駆け抜け、仲間たち、部下たちの死を目の当たりにしながら、戦い抜いてきた。

 リューネの戦乙女、皆殺しのフェリスデールと呼ばれて敵に恐れられ、その姿が後に続く部下たちの心を奮い立たせる、暗闇の中で輝く光のような指揮官であり続けてきた。


 何のために?

 ……守るために。

 共に戦う仲間たち、ガイガロス砦のみんな、リューネの街の人々――

 そして、その背後に広がる広大な帝国の版図と、そこに暮らす人々を《黒の呪い》から守るために。


 この生き様を、後悔したことは一度もない。

 だが、楽な道ではなかった。

 苦しみがあった。

 哀しみがあり、痛みがあった。  

 それを押し殺して、涙を見せず、これまで、胸を張って、顔を上げてきた。

 人殺しと罵られても、誇りを捨てずに、戦い続けてきたのだ。


 そんなあたしを――

 それでも、あたしを、恵まれていると言うのか、この人は。


「もういい」


 そう呟いたとき、フェリスの目は、底光りする怒りにきらめいていた。

 その凄まじい殺気は、命のやりとりの場面と決して無縁ではない帝都警備隊の男の足すら、竦ませずにはおかなかったろう。


「もういいよ。これ以上、ぐだぐだ言ったって意味ない。

 ここは、試合の場……戦って、けりを着けるだけよ!」


「やめろ!」


 ラインスは喚いた。


「退けと言っている! 俺は、どうしても勝たなきゃならないんだ――!」


「ふざけるなっ!」


 とうとう、フェリスの怒りが頂点に達した。


「勝ちたきゃ、自力で勝てばいい! 神聖な試合を、いったい何だと思ってるのよ――!?」  


 怒鳴ると同時、疾風のように襲い掛かる!

 奔騰する怒りを、ただ一太刀に込めた、渾身の一撃だった。

 フェリスが真っ向から振り下ろした剣に、ラインスの防御は間に合わず――

 がぎっ! と鈍い音が上がった。


「……そう、か……」


 ラインスの剣は、彼の右手に握られて、だらりと垂れたままだ。

 フェリスには、目の前の光景が信じられなかった。

 裂帛の気合を込めた、岩すらも断ち割るのではないかと思われた一撃は、ラインスがかざした左手・・に、掴み止められていた。


「俺は」


 その手がぶるぶると震えているのが、刀身を通じて伝わってくる。

 単なる痛みや興奮によるものではない、異様な痙攣――


「俺の優勝を邪魔するなら……あんたも……」


 ぐにゃりと、フェリスの剣が曲がった。

 いくら刃が潰されているからとはいえ、左手で握り締めただけで鋼の剣を飴細工のように曲げてしまうなど、あり得ない。

 人間の、握力では。


 その瞬間、フェリスは、柄を手放して跳び退った。

 ラインスが真横に振り抜いた剣が、フェリスが一瞬前まで立っていた空間を水平に両断する。

 驚きに立ち尽くしたままだったなら、今頃、フェリスの胴は真っ二つに千切れていただろう。

 それほどの威力を持つ一撃だった証拠に、剣は、ラインスの手からすっぽ抜けて、遥か遠く離れた場所まで飛んでいった。


「ラインスさん……」


 フェリスは、落ち着いていた。

 自分の冷静さが哀しくなるほどに、心が静かだ。

 こういう場面には、もう、何度も出会ってきたから。


 剣を捨てたラインスの手が――いや、身体全体が、武装と衣服の下で何かが暴れ回っているかのように蠢き、ぐうっと膨らむ。

 服の布地と、鎧の各部分を繋ぎ止めていた革帯が裂けて弾けとび、その内側から、ヒトのものとは違う肉体が現れる。

 湾曲した鉤爪を備え、鮮やかな紫の毛皮に覆われた、狼にも似た姿――


「あなたが、……いや」


 フェリスの眼差しが凍て付き、声が変わる。

 辺境警備隊の隊長、《皆殺し》のフェリスデールと呼ばれた戦士の声に。


「おまえが《紫のケモノ》か。――グウィン!」


 怒鳴りつけるような声と同時、大きく手を振る。

 刹那、風を切る音と共に、凄まじい速度で飛来した何か・・がフェリスの足元に突き刺さった。

 風の魔術の余波をまとったままの愛剣を、フェリスは迷わず掴み取り、構える。


 ケモノが咆哮した。

 その視線は、はっきりとフェリスにのみ向けられている。


「下がれ、グウィン!」


 背後に生じた、ふわりと空気が押し退けられる感覚。

 そこに降り立った副官の魔術師に、フェリスは、振り向きもせずに言い放った。


「あたしが、やる! 手を出すな!」



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