青の教団
使い込まれたかまどにかけられたやかんが、しゅんしゅんと湯気を噴き出している。
年季の入った光沢を放つ、どっしりとした木のテーブル。
陶器のカップに活けられた、ハーブや野花。
あてがわれた椅子の上で、フェリスは、居心地悪く尻を動かしていた。
服装はそのままだが、仮面は外している。
ここは、いまだ《輝けるマーズヴェルタ》の城内だ。
まるで田舎の一軒家のようにしつらえられたこの場所は《黒檀の間》。
五の庭の一隅に建てられた、皇帝のためのあずまやだった。
牧歌的な雰囲気が漂っているのはこの室内だけで、あずまやの周囲には、護衛の兵士たちが十重二十重に展開している。
皇帝の警護のためとしては、当然の規模だ。
まして、あのような騒ぎの直後である。
「さあ、これでも召し上がっていらして。今、お茶を淹れますからね」
テーブルに焼き菓子の入った器を置いて、ルーシャ・ウィル・リオネスは、にっこりと微笑んだ。
今度は金色に変わった髪――今となっては、それらはすべて鬘であったことが分かる――をスカーフで包み、枯草色の簡素な衣服を身に着けている。
ご丁寧に、農家の女性の日に焼けた肌色を表現するための化粧までほどこしていた。
「あの……」
とりあえず出された菓子をひとつ取って、フェリスは、隣の椅子にかけたキリエに話しかけた。
今さら猫をかぶっても仕方がないので、口調もいつも通りだが、皇帝と同じ部屋にいると思うと、どうしても幾分かは声が固くなる。
「陛下って、いつも、こういう……?」
「ええ」
頷いたキリエもまた、緊張した様子だ。
彼のほうも仮面を外し、男らしく引き締まった素顔をさらしている。
傷を負った腕には、真新しい包帯が巻かれていた。
彼の口調に、予想したようなよそよそしさがなかったことに、フェリスは少しだけほっとした。
「陛下の早変わりには、我ら一同、いつも驚かされていますよ。
以前には、一度、馬番の姿で厩舎におられたこともあったくらいで」
「馬番……」
そのときには、ほっかむり姿の皇帝に対し、慌てふためいた貴族たちが敷き藁の上にひざまずくという滅多に見られない光景が展開したという。
どうやら、このような仮装――というよりも「変装」が、皇帝の趣味であるらしい。
「さあ、どうぞ」
慣れた手つきで茶を出すルーシャに、フェリスは背筋を伸ばし、いくらか引きつった表情で会釈をした。
本人の望みとはいえ、この大帝国リオネスの主に手ずから茶を淹れさせているという状況では、さすがのフェリスも、くつろぐ気持ちにはなれない。
むろん、単に権力の座にあぐらをかいているだけの相手なら、たとえ脅されたとしても、こんなふうに恐れ入るフェリスではなかった。
ましてや、間近で見ると、ルーシャはフェリスよりも小柄で、痩せていた。
フェリスを緊張させるのは、ルーシャが発散する一種独特の雰囲気だ。
特に、その青い目。
目つきは穏やかで優しげなのに、その視線には、どこか人を不安にさせるようなところがあった。
あまりにも鋭く、心の奥底にまで突き刺さり、全てを見通してしまうような視線だ。
ここにグウィンか、せめてティンドロック卿やキャッサさんがいてくれればよかったのにな、とフェリスは思った。
彼らは、別の建物で待機している。
ルーシャが、フェリスとキリエの二人とだけ話したいと希望したからだ。
「さあ、どうぞ、お茶を」
勧められるまま、カップに口をつける。
「……ん!? 美味しい!」
「まあ、ありがとう」
思わず呟いた言葉に、ルーシャが笑顔になった。
「えっ? あっ、申し訳ありません、失礼いたしました、つい!」
ああもうっ、悪い癖だ、とフェリスは内心で頭を抱えた。
考えるよりも先に口のほうが動く。
これだから、身分の高い人と同席するのは苦手なのだ。
「よろしいのよ」
キリエが椅子を引こうと腰を浮かしかけたが、ルーシャはそれを手で制し、自分で椅子を引いて腰を下ろした。
テーブルに肘をつき、組み合わせた両手の甲に顎を乗せる。
「これが、わたくしの趣味なの。自分とは違う誰かさんのふりをするのがね。
わたくし、料理もできるし、お茶だって淹れられるわ。歌も踊りもできる。
決闘の真似事だってできますのよ」
「それは……ずいぶん、多才でいらっしゃるんですね」
ずっと指先でつまんだままだった菓子をようやく口に入れて噛み砕きながら、フェリスは言った。
道楽の変装も、そこまで行けば大したものだ。
だが、フェリスは何となく、皇帝陛下が本当におっしゃりたいのは、こんなことじゃないはずだ、と感じた。
物柔らかな口調に、巧みに包み込まれているけれど、ルーシャの言葉には刃のように鋭く、硬質な芯が含まれている。
「でも……そんなものはみんな、ままごとに過ぎませんわ。
わたくしは、ずっと皇帝の仮面をかぶったまま。他には何もできない。
わたくしの仕事は、この大きな家の中で、この大きな国を守ることだけ」
青い瞳が、フェリスとキリエを見つめた。
「だから、ね」
それは、この上もなく真剣な、苛烈とさえ言える眼差しだった。
「あなた方の力を借りたい。
この世界を《魔性》の再来から守るために」
一瞬、空白の時間が流れた。
「《魔性》の……再来!?」
ややあって、フェリスは、かすれた声で問い返した。
その声に、信じられないという響きがある。
キリエもまた、無言のまま、目を見開いていた。
無理もない。
「いや、でも《魔性》って……大昔の存在ですよね?
あいつらは、確か《大戦》の後に絶滅したはずじゃあ……?」
「それでは、フェリスさん。あなたは、あの者たちについて、どれほどのことをご存知かしら?」
「えっ……どれほど、と言われましても」
急に話を振られて、フェリスは神殿の学校で不意に教師に当てられた子供のように、背中がひやりとするのを感じた。
もっとグウィンから真面目に教わっとけばよかったな、と内心後悔しながら、おせじにも多いとは言えない知識を披露し始める。
「ええと……《魔性》とは、突如、別の世界から襲来し、五百年前に《大戦》が始まるまで、この世界を支配していた種族の呼び名である。
凄まじい魔力を持ち、性質は残虐、冷酷。
思いのままに姿を変え、傷を負っても再生し……人間の手で殺すことは、ほとんど不可能だった……」
「五百年前、彼らに対する人間たちの一大反乱である《大戦》が起こり、十二の神々が降臨して、人々に力を貸してくださった」
フェリスのたどたどしい調子を見かねたか、横手から、キリエが加勢する。
「《大戦》と、それに続く《大掃討時代》を経て、《魔性》はこの世界から滅び去った。
しかし、彼らが残した《黒の呪い》は、いまだ猛威を振るい、人々を苦しめ続けている――」
「そう」
ルーシャは頷き、一口、茶を飲んで、続けた。
「それが、広く世間で信じられている通説ですね」
「通説?」
フェリスとキリエは、同時に繰り返した。
どういうことだ。
この言い伝えには、何か、隠された真実があるとでも?
フェリスは、我知らず身を震わせた。
自分の予想を、人々の常識を、遥かに超えた規模で事態が動き出そうとしている――
そんな予感がして。
「ウォリスタ伯。そして、フェリスさん」
ルーシャの青い目が、二人を交互に見据えた。
「これより先は、世界中でも、ほんのわずかな限られた者しか知らぬこと。
聞けば、もはや、後戻りはできません。
他の者に対して話すことも、決して許されない。
それでも、よろしいかしら?」
「……はい」
「ええ!」
不安はある。
だが、迷いはなかった。
キリエとフェリスは、どちらからともなく、拳を胸に当てる動作をした。
それは帝国式の敬礼であり、同時に、古くから伝わる誓いの仕草でもあった。
「どのようなことであろうと、知る覚悟はできております」
「あたしもです。そして、陛下のお許しがない限り、秘密を他人には漏らしません。我が血と、我が肉親の血にかけて、誓います!」
それは、最も重大な、決して違えぬ契約を交わすときに使われる言葉だった。
ルーシャは、満足したように、大きく頷いた。
「それでは、話しましょう。
わたくしたち――《青の教団》のことをね」
そしてルーシャは、世界の秘密を語り始めた。
* * *
既に、この世から滅び去ったはずの《魔性》。
《大戦》と《大掃討時代》を経て、彼らは完全に死に絶えたと思われている。
だが、それは事実ではなかった。
数を圧倒的に減じはしたものの、まだ、生き残りがいるのだ。
そいつらは、密かに人間たちのあいだに交じり、再興の時を待っている。
《呪われし者》とは異なり、彼らは《結界》によって力を弱められることがない。
そして《呪われし者》よりも遥かに巧みに、まるで人間であるかのように偽装して振る舞う。
個体として人間を圧倒的に凌駕する彼らの力をもってすれば、派手な争乱を巻き起こし、再び世界の覇権を握ろうとしても不思議はないところだ。
だが、それを阻む者たちがいる。
かつて《大戦》のおり、人間たちを守るために戦い、戦争が終わった後は《黒の呪い》との戦いに生涯を捧げたという大魔術師アレッサ。
その偉大な魔術師が、《魔性》の生き残りを殲滅するために、同志を募り、秘密結社を創立した。
それが《青の教団》。
皇帝ルーシャその人が、この秘密結社の当代の総帥をつとめている。
帝国の重鎮の中にも、何人ものメンバーがいるという。
教団の者たちの素性や身分は、ばらばらだ。
彼ら、彼女らは世界中に散り、《魔性》に関わりがあると思われる事件に目を光らせ、正体の知れた《魔性》は秘密裏に抹殺してきた。
そして今、帝都で《魔性》によるものと思しき殺人事件が続発している。
《青の教団》は、総力を挙げて、この事件の解決にあたることとなった――
「……そんな……」
「《魔性》が、今このときにも、なお存在し続けているというのですか?」
キリエとフェリスの目は、いまや、真円に近いほど大きく見開かれている。
「じゃあ……さっきの奴は《呪われし者》じゃなくて……
あいつの正体こそが《魔性》だってことですか!?」
だが、フェリスの瞳に浮かんでいるのは、恐怖ではなく、驚きと、真の敵の正体を知った興奮だ。
ルーシャは微笑んだ。
自分の人選が間違っていなかったことを喜ぶように。
「ん? ……でも、皇帝陛下」
言うフェリスの顔つきは、すでに、冷静に作戦を練る隊長のそれになっている。
「なぜ、このことを世界中に公表なさらないんです? 敵の数は、圧倒的に少ないんでしょう? 民間の協力も得て、一気に敵を叩いたほうがいいのでは?」
「いいえ、それはできません。
《魔性》の存在を公表することは、教団の掟によって禁じられているのです」
「はあっ!?」
相手が皇帝であることも忘れて、思わず、フェリスは声を高くした。
秘密結社と呼ばれるような集団が様々な掟を持つことは、フェリスとしても承知だ。
だが、《魔性》の存在は、世界の命運に関わるほどの重大事である。
いくら何でも、そんな時に、掟がどうのこうのと悠長なことを言っている場合ではないだろう。
「フェリスさん、あなたも、歴史を学べば分かるはず」
ルーシャの青い目が、まっすぐにフェリスを見返した。
「《魔性》は、見た目からは、ほとんど人間と見分けがつかないのです。
外見だけではなく、彼らは《光子》の流れをほぼ完璧に偽装することさえもするの。
きわめて優れた魔術師の腕をもってしても、彼らをの正体を見分けることは容易ではない。
かつて《大掃討時代》、どれほど多くの罪もない人間たちが《魔性》狩りの嵐に巻き込まれ、命を落としたことか――
この過ちを二度と繰り返さないために、我々は常に秘密裏に行動し、《魔性》の存在を外へは漏らさないことを決めたのです」
ルーシャの言葉を聞くうち、フェリスは、熱くなった自分を恥じた。
故郷のリューネにも――表立ってではないにせよ――《黒の呪い》に冒された疑いがある者を避ける、あるいは白い目で見る風潮がある。
ましてや、帝都の人々には、恐怖に対する耐性が備わっていない。
もはや時の遺物と思われていた《魔性》が今も存在し、隣人のふりをして潜んでいるかもしれない……などということになったら、たちまち、すさまじいパニックが巻き起こってしまうだろう。
「そういうことでしたか」
キリエが、厳しい表情で呟いた。
「それゆえに、今度の件も、秘密裏に調査を?」
「そうです。わたくしたちは、これまでずっと密かに内偵を進めてきました」
「あの、もう、怪しい人物は絞り込まれているんですか? ……つまり」
フェリスは一瞬、ためらったが、結局言った。
「ドナーソン将軍とか?」
驚いたことに、ルーシャは、即座に首を横に振った。
そして、もっと驚いたことに、こう言ったのだ。
「いいえ。彼は、わたくしたちの同志。《青の教団》の一員なのですよ」




