輝けるマーズヴェルタ
「まあ、不幸中の幸いだったな」
下方から、絶え間なく鈍い震動が伝わってくる。
彼らが乗り込んでいるのは、黒光りする塗りも美しい、箱型の四輪馬車だった。
座席に柔らかいクッションが貼ってあるため、乗客の尻に伝わる震動は最小限に抑えられている。
石やくぼみだらけの荒野を荷馬車で行くのに比べれば、まるで天国のような乗り心地だ。
「その、びらびらした裾のおかげで、隠し持った武器も目立たんし」
天井からは、小型のカンテラまで吊り下げられている。
さしずめ、移動式の小部屋といったところだ。
ここでなら、あまり穏当ではない会話も、他人に聞かれる気遣いはなかった。
「それに、万が一、おまえの顔を知る者が会場内にいたとしても、おそらく気づかれる心配はあるまい。何しろ、その変貌ぶりではな――」
「……だあぁあああーっ!? うるっさあぁぁあい!」
足をばたばたさせ、こんかぎりの大声で喚いたフェリスに、となりに座っていたガストンが肩をすくめて両手で耳をふさいだ。
とはいえ、今のフェリスを見て、一目でそれが彼女であると気がつく者は、付き合いの長い《辺境警備隊》の男たちの中にもほとんどいないに違いない。
ふんだんに真珠をちりばめた、艶やかなばら色のドレスに、同色のリボンを使って高く結い上げた金の髪。
ドレスの袖口や胸元、裾からは、ひとつひとつが花をかたどった繊細なレース飾りがこぼれている。
胸元には、ごく小粒の真珠を連ねたものを何連もより合わせ、しずく型の深い赤の宝石をあしらった見事な首飾り。
高価な白粉を薄くのせ、透明感のある白さを出した肌に、ほのかにさされた頬紅が初々しい。
くちびるにも桃色の紅がひかれ、丁寧に重ねられたオイルが濡れたようなつやを与えている――
「だいたい、グウィン! 何、さっきから窓のほうばっか向いて肩を震わせてんのよっ!? 絶対笑ってるだろ、この野郎! こっち見ろ、コラァァァッ!!」
装いを凝らしたフェリスの外見と内面の落差は、もはや冗談の領域に達していた。
「まあ、いけませんわ、フェリスさんったら」
グウィンの隣、フェリスの斜め向かいに座ったキャッサが、手袋をはめた手のほっそりとした指を立てて、言ってくる。
「貴婦人たるもの、殿方に対して、こっち見ろコラァァァ、などと申し上げるものではありませんわ。こちらをご覧になって、と仰らなくては」
「……こちらをご覧になって、グウィン。ぴくっとでも笑ったらブッ殺す」
「フェリスさん、そういうときは、わずかにでも笑顔をお見せになると命がございませんわよ、と申し上げるのです」
……このキャッサという女性も、どこまで本気なのだかよく分からない。
彼女は、夕暮れから夜に変わる寸前の空のような、深みのある色合いのドレスをまとっていた。
仕立てはあっさりとしたものだが、相当に上質な布地であろうということは容易に想像できる。
夫であるガストンも、見事な盛装に身を包んでいた。
普段のユーザ夫妻の質実剛健な暮らしぶりを知る者なら、このような服装は彼ららしくない、と考えるかもしれない。
だが、格式ある場所には、それにふさわしい服装で赴くのが由緒正しい貴族というものである。
新年祭を迎えるにあたっての仮面舞踏会は、市井のそれのような、いかがわしい催しなどでは断じてなく、建国当時から行われてきた伝統ある儀式のひとつなのだ。
「ああもう、泣きそう……! こぉんなこっ恥ずかしい格好してうろついてるとこなんて、とてもリューネのみんなには見せられないよ。
そんなことになったら、あたし、塔から飛び降りちゃう。
こんなの、どう考えても嫌がらせだよぉぉぉ」
どん、と背もたれに寄りかかり、嘆かわしげに天井を仰いだと思うと、
「閣下! 閣下からも、うちの親父に一度ビシッと言ってやってください!」
がばっと起き上がり、ガストンに詰め寄るフェリスだ。
ガストンは、困ったように首を傾げた。
「しかし、非常に似合っとると思うがなぁ? フェリスちゃんが、その格好のどこに不満なのか、わしにはさっぱり分からんよ」
「どっ……どこって、全部ですよ、全部! だって、変でしょう!? グウィンだって笑ってるし、イーサンたちだって爆笑してたじゃないですか!」
その後は、笑った者全員、抜き身の剣を持ったフェリスに追い掛け回されて大変な目に遭ったのだが。
ガストンは何を思ったか、太い指を立てると、ちっちっち、と振ってきた。
「フェリスちゃん。まだまだ、男心というものが分かっておらんようだな」
「はぁ!? いったい、何の――」
「閣下」
不意に、笑みのかけらもない表情で、グウィンがガストンのほうを向く。
「ところで、確かなのでしょうか? ドナーソン将軍も、この仮面舞踏会のために登城してくるというのは」
「あっ、ちょっと、そこ! 何、話を変えようとしちゃってるわけ!?」
フェリスが噛み付くが、グウィンは何も聞こえていないかのような顔で続けた。
「最も優勝に近いと言われているドナーソン将軍こそが最も怪しい、というのが、もっぱらの噂……
無論、当人も、噂のことは知っているはずです。それでも、このような場に出てくるでしょうか?」
「ああ、間違いない」
ガストンは、重々しく頷いた。
「あいつは昔から、頑固というか、意固地というか、頭が固いというか……
とにかく、自分がこうと思ったら、絶対にそれを曲げたりしない男だ。
由緒ある家柄の貴族ならば、この仮面舞踏会には、必ず顔を出すものだからな。
それに、ここで引っ込んだりしたら、かえって周囲にいらぬ詮索をされるのがオチだろうが?」
「確かに」
風聞を嫌って出席を取りやめた、ということにしたとしても、怪しいことに変わりはない。
それならば、むしろ堂々と姿を現そうと考えるだろうか。
「あの、閣下」
横から、フェリスが口を挟んだ。
すでに、最前までの苛立ちは忘れたような表情だ。
状況を冷静に分析する、戦士の顔になっている。
「何かな?」
「古いご友人のことで、あたしがこんなことを訊いても、お気を悪くなさらないでくださるといいんですけど。
つまり……閣下の目からご覧になって、ドナーソン将軍は、ライバルを殺さなければ優勝が危ないような状態なのでしょうか?」
あまりにも直截的な物言いに、グウィンが眉を吊り上げた。
下手をすれば、相手が激怒しても不思議ではない質問だ。
だが、ガストンは、腹を立てたりはしなかった。
「前回の御前試合から、四年が過ぎておる。
奴はわしと同い年、もう五十路の半ばだ。
いかに《鉄の男》と呼ばれた人物でも、寄る年波には抗えまい」
「……では、閣下は」
「だが、な」
ガストンの目が、フェリスの目を真っ向から見据える。
「わしは、奴を信じている。――信じたいのだ。
奴は、昔から、卑怯な真似が誰よりも嫌いだった。
自分の優勝のために他人を謀殺するような男ではない」
「ええ……分かります」
フェリスは、それだけ言った。
もちろん、胸中では、疑いを捨て去ったわけではなかったが。
「あら、もうすぐですわ」
不意に、窓の外をのぞいていたキャッサが呟く。
フェリスは、身をかがめて窓の外を見た。
揺れる視界に、無数のかがり火と魔法の明かりで煌々と照らされた皇帝の居城、《輝けるマーズヴェルタ》の威容が飛び込んでくる。
彼女は反射的に剣の柄をさぐり――そこに何もないことに軽く舌打ちして、爪先で、足首に仕込んだ短剣の存在を確かめた。
「いよいよだな」
眼の部分だけを切り抜いた黒い布を顔の上半分に巻きつけながら、グウィン。
いつもの黒いローブから従者のお仕着せに着替え、覆面をしただけなのに、いつもの彼とは、まるで別人のように見える。
「ええ」
戦場に向かう指揮官の口調で呟き、フェリスは、宝石と羽根とで飾られた華麗な仮面を膝の上から持ち上げた。
* * *
《輝けるマーズヴェルタ》は、このアレスティア大陸全土で最も美しい城と讃えられている。
築城されたのは、今から三百年以上も前――
リオネス帝国の前身であったレティカ王国の建国と同時に、王の居城として建てられたのだ。
真っ白な石を剃刀一枚通さぬ精密さで組み上げた外壁は、美しいだけでなく、堅固な守りの役割も果たしていた。
いかに忍びの技に長けた侵入者といえども、このような外壁を登って城内に侵入することは不可能だ。
無論、魔術を用いて侵入するという方法もある。
だが、マーズヴェルタ城内には常に大勢の魔術師たちが詰め、城壁の上、庭園、廊下、各部屋で目を光らせていた。
魔術による暗殺を企むやからを、貴顕たちに近づけないためだ。
魔術師は独特の《光子》の波動をその身にまとうから、見るものが見れば、そうでないふりをしていても、すぐに分かる。
「失礼ですが、少々、お待ちを」
(あ、やっぱり)
馬車を降り、緋色の絨毯の敷かれた道を歩き――
招待状をかざしてマーズヴェルタの壮麗な門をくぐろうとしたところで横手から呼び止められ、フェリスは立ち止まった。
振り向くと、黒地に金の縁取りをほどこした服――マーズヴェルタ城を守備する魔術師団の制服――を身につけた若者が、グウィンの腕に手をかけて引き止めているところだ。
「何事です?」
ドレスの裾をさばき、仮面をきらめかせて、フェリスは堂々と言った。
知人たちが見たら、あっと驚くような貴婦人ぶりだ。
幼い頃から「おまえも、一応仮にも何の間違いか侯爵の娘だからな! 礼儀のなっとらん娘のせいで、いらん恥をかきたくはない」という理由で、マクセスから徹底的に礼儀作法を教え込まれた成果である。
「恐れながら、姫君のお付きは魔術の才をお持ちのようですね」
若い魔術師の口調は慇懃だが、眼差しは鋭い。
反対側に立っているもう一人の魔術師も、その場を動いてはいないが、こちらに油断のない視線を送ってきている。
ふん、なかなかのものじゃない、とフェリスは、声には出さずに呟いた。
彼らは、単なる見掛け倒しの衛兵などではない。
全員が、北の帝国魔術学院《星の剣》で戦闘訓練を受けた猛者だと聞いている。
グウィンを引き止めた男など、見たところグウィンよりも若いようだが、その実力を侮ってかかる者は手痛い目に遭わされることになるだろう。
フェリスたちの傍らを、幾人もの着飾った貴族たちが、笑いさざめきながら通り過ぎていった。
入り口で立ち止まっていても、他の人々の通行の妨げになることはない。
マーズヴェルタ城の玄関口は、馬が十頭、横に並んで通れるほど巨大なのである。
「この男の身柄については、わしが保証人になろう」
横手から、重々しくガストンが言った。
「これは、ティンドロック卿」
さすがに彼の顔と名は知れ渡っているらしく、若者が恭しく頭を下げる。
「こちらの姫君は、わしの友人の娘御だ。
最近、何かと物騒だというんで、父親がそりゃあもう心配してなぁ。
こうして、魔術の使える男を護衛につけておるというわけなのだよ」
フェリスが《辺境侯》マクセス・レイドの娘であるという情報は、故意に伏せている。
今夜、この会場に、犯人が来ている可能性もあるのだ。
万が一にも、フェリスが出場者であるということがばれては、厄介なことになる。
「さようでございますか」
最前と比べればいくぶん応対が丁重になったものの、依然として、若者の視線からは警戒の色が抜けていない。
「それでは、公認魔術師の証のメダルをお見せいただけますか」
そう言われた瞬間、グウィンの表情がこわばった。
(……え?)
フェリスでさえも不審に思ったほどの、明らかな動揺ぶりに、当然、魔術師の若者の視線も厳しくなった。
「何か、不都合なことでも?」
「いや……不都合、というわけでは、ないが」
露骨に気の進まない表情ながら、グウィンは、きっちりと詰めた襟元に指を差し入れた。
胸元から引き出されたのは、鎖に下げられた、小さな円いメダルだ。
――帝国魔術学院を修了した者に、帝国が公式に魔術の行使を認める「公認魔術師」の証として与えられるメダル。
持ち主の身分を証明するための、重要な品物だ。
若者が、注意深くメダルを手に取り、裏側に刻まれた文字を読み上げる。
「帝国暦210年、帝国魔術学院《星の剣》修了、グウィン……
グウィン・ホーク!?」
その瞬間、これまでは落ち着き払っていた若い魔術師の顔が、すさまじく引きつった。
「そっ……それでは、貴方が!?」
「さあ、何の話かな――」
グウィンは早々に顔をそむけて話を切り上げようとしたが、若者は、信じられないという表情でそのまま続けてきた。
「貴方が、あの《荒くれグウィン》の二つ名で教官たちにさえ恐れられ、その通り道には草すらも生えなかったという、あの、伝説の先輩でいらっしゃいますかっ!?」
ずごっ!!
場所も立場も状況も忘れ、フェリスは、盛大にその場にずっこけた。
慌てて手を貸してくれたガストンにすがって立ち上がりながら、唖然としてグウィンを見つめる。
(あ、あ、あ……荒くれグウィン――!?)
グウィンは、妙ににこやかな表情でメダルを引ったくり、静かに言った。
「それはきっと同姓同名の別人でしょう。もう、行ってもよろしいですか?」
完全に気圧された様子で、こくこくと頷く若者。
一同は、再び歩きはじめた。
「ちょっと。グウィン……」
そ知らぬ顔で歩みを進める目付け役に、さっそく食い下がるフェリスだ。
「いったい何なのよ、さっきの、聞き捨てならないやりとりは……!? 《荒くれグウィン》? 何それ、海賊!?」
「さあ、何のことやら俺にはさっぱり」
言いながらも、いつになく視線が泳いでいるグウィンだ。
こめかみに、うっすらと汗が浮かんでいる。
「そんな露骨に言い逃れようったってダメー! ちゃんと説明してよね。
でないと、さっきのお兄さんを問い詰めて、洗いざらい喋ってもらっちゃうから!」
「む……」
とうとう観念したように、苦々しい口調で、グウィン。
「まあ、何だ、つまり……若気の至りというか……人生には過ちがつきものということだ」
「はぁ?」
「まあ、つまり……俺も、昔は、あれだった……ということだ」
「アレ……?」
「要するに、少しばかり、人格に丸みが足りなかったというか……」
「早い話が……グウィンって、相当な乱暴者だったんだぁ~?」
言いながら、この上なく嬉しそうに、にやにやと笑っているフェリスだ。
「失礼なことを言うな! ただ、少し、常人よりも感情の沸点が低かったというだけのことだ」
「それってつまりキレやすかったってことでしょ?」
的確極まりないフェリスの要約に、うっとことばに詰まるグウィン。
「へえ~っ……そうだったんだぁ。グウィンがねえ! いつもあたしに、暴走するなとか、喧嘩はするなとかうるさいグウィンが。ふう~ん。ほお~っ」
仮面をつけた顔に、満面の笑みを浮かべるフェリス。
お目付け役の弱みを握って大満足、といった様子だ。
「あの野郎……後で覚えておけ……」
ぼそりと呟き、罪もない後輩魔術師に対する怨念を燃え立たせるグウィンであった。




