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戦乙女と黒い蜘蛛

《辺境》の夜空にかかる星は、帝都で観るそれよりも澄んだ輝きを放つという。


 いつになく星の光のあざやかなこの夜、ツェルマート村の西の端にあたる道のど真ん中に、辺境警備隊の鎧を身に着けた二人の兵士が立ち尽くしていた。

 むろん、帝都の貴族たちのように、星読みなどという優雅な遊びに興じているわけではない。

 二人とも、兜をかぶった頭をかたむけ、真剣に耳を澄ましている。

 その耳に聞こえているのは、無数の叫び声と、あいうつ剣のひびきだ。

 それは、東の方向から伝わってきていた。


 ツェルマート村は、リオネス帝国の最東部――《辺境》に数ある開拓村のなかでも、かなり大規模なほうだ。

 村の東側でいったい何が起こっているのか、家々の屋根と壁にさえぎられて、兵士たちの位置からでは直接確認することはできない。


 だが、見上げた東の夜空が、薄赤く染まっている。

 松明の明かり程度では、あんなふうに夜空の色が変わることはない。

 建物が、燃えているのだ。


「やってやがるなあ……くそったれどもが」


 並んで立った兵士のうちの一人が、唸るように言った。

 大柄な中年の男だ。

 機嫌をそこねた熊のように身体をゆすって、隣に立つもう一人に話しかける。


「隊長、ほんとに来ますかねえ? これで逃げられでもしたら、俺たちゃ大間抜けだ。

 今からでも、こっちから押しかけてって挟撃したほうが――」


「大丈夫」


 驚いたことに、答えた声は、まぎれもなく女性のものだった。

 その人物は、くすんだ金色の甲冑に身を包み、短い黒いマントをはおっている。

 腰には長剣。

 すらりとした立ち姿は、一見したところでは女性とは見えない。

 だが、その声は確かに女のもの、それも、ようやく少女期を脱したばかりの若い娘のものだった。

 深く下ろされた兜のまびさしが、その顔を隠している。


「指揮をガルとフェザンに任せてある以上、心配はいらないわ。

 敵は必ず、こっちに追い込まれてくる……

 バウル、今は、ここはいいわ。新兵たちについててやって」


 その口調は、威厳があるといってもいいほどの確信に満ちていた。

 大柄な男は、その言葉に頭を下げると、道の脇に建つ家のひとつに姿を消した。

 二人の他にはまったくの無人と見えた周囲だが、実のところ、辺りの家々には十五名ほどの兵士たちが分散して身を潜めていた。

 うち六名が、新兵だ。

 今回の作戦は、彼らの実戦訓練も兼ねているのだった。


「あいつらも、そう頭は悪くなかった。でも、それも今夜までね」


 隊長と呼ばれた娘は、口のなかで小さく呟いた。

『あいつら』――自称、闇の女神を崇める宗教集団、実質は盗賊の群れである《蜘蛛の瞳》団の人数は、確認されている限りでは二十名前後。

《辺境》に出没する盗賊団としては小規模だが、それが工夫なのだ。

 あまり集団を膨れ上がらせては、監視の目も厳しくなり、討伐軍が派遣される危険が大きくなる。

《蜘蛛の瞳》団は、ひとりの首領と、彼に心酔する信者たちから成り、少数精鋭主義で荒稼ぎをしていた。


 ……しかし、そこに彼らの油断があった。

《辺境侯》の異名をとるマクセス・レイド将軍の目は、彼らの動きを何一つ見落としていなかったのだ。

 マクセスは独自の情報網を使って彼らの動向を探り、ツェルマート村が次の標的であるという情報をつかんだ。

 彼は「神速」とうたわれる持ち前の行動力ですぐさま討伐軍を編成し、秘密裏のうちにツェルマート村へと派遣、《蜘蛛の瞳》団を待ち受けさせた。

 その討伐軍の若き司令官こそ、フェリスデール・レイド――

《リューネの戦乙女》と謳われる武人であり、将軍マクセスの一人娘である。


 フェリスは、その場にじっと佇み、頭のなかに広げたツェルマート村の地図の上で目まぐるしく戦力の駒を動かしていた。


(あたしの布陣は、完璧なはず……)


 そう、待ち伏せの作戦は、見事に図に当たった。

《蜘蛛の瞳》団の首領は退路を絶たれ、死に物狂いで戦いながら、必ずここへ――

 あたしたちのところへ、やって来る。


 と、静かに考え込んでいた顔をふと上げたフェリスは、


「ちょっと! いつまで、そんなとこに座ってんのっ?」


 まったくの無人と見えた横手の路地の暗がりに向かって、いきなりぴしゃりと言い放った。

 それでも動きがないので、声を荒くする。


「グウィン!」


「そう、慌てることはない」


 言いながらゆらりと立ち上がったのは、ひときわ濃い影のなかに身を沈めるように腰を下ろしていた、長身の人影だった。

 ゆったりとした仕立ての服も逆立てた短髪も、墨を流したように黒い。

 鋭く切れ上がった金色の目が印象的だ。


「確か、ついさっき、おまえがそんなことを言っていたような気がするが?」


「そういう、つまんない揚げ足取りはやめてよ。

 まったくもう、あんたはいつでも、緊張感が足りないんだから……」


 嘆く口調のフェリスを、グウィンは金色の目でじっと見据えた。

 その手にある、細く長い金属製の杖は《帝国魔術学院》で訓練を受けた公認魔術師に授けられるものだ。

 帝国に属する魔術師たちは、そのほとんどが軍属として、各地の要衝で任務に服している。


「何を苛ついている? ……いや、気が逸っているのか。そうだな?

 無理もない。奴らを叩き潰すのに、今夜を逃せば、間に合わ・・・・なくなる・・・・かもしれん」


 フェリスは、まびさし越しに、じろりと相手をにらみつけた。

 いつでもこんなふうに無遠慮に人の心をのぞき込むのは、この男の悪い癖だ。


 だが、グウィンは、別に魔術を用いているわけではない。

 フェリスと彼とは、辺境侯の娘とその目付け役として、幼い頃からほとんど兄妹同然に育ってきたのだ。

 グウィンが、若い指揮官が鎧の奥に隠した心をたちどころに見抜くのは、長い時間を共に過ごしてきたからこそである。


「よりにもよって、こんな時期にな」


 ぼそりとグウィンが呟いた言葉に、フェリスは、ぐっと眉を寄せた。

 だが、それを口調にはあらわさず、淡々とした調子で言い返す。


「試合が近いから、なんて理由で、実戦がおろそかにできるわけないでしょ。

 たとえ、それがどれほど大きな試合でもね」


「だが、敵の首領は、あれ・・だという話だ。ここで怪我でもしたら――」


「そんなことを気にして力加減をしてちゃ、あれ・・には勝てな……っ!?」


 フェリスは、不意に口をつぐんだ。

 油断なく視線を投げた長い道の先に、ゆらり、と黒い影が映る。

 武装した一人の男が、角を曲がって姿を現したのだ。

 ぶら提げた得物は、月の光をぎらりと跳ね返す、血に染まった手斧。


 その姿を確認した瞬間、間違いない、あいつだっ、とフェリスは胸中で呟いた。

《蜘蛛の瞳》団の首領――

 襲われた村の生存者たちが口にしていた人相と一致している。

 部下たちを見捨てて、逃れてきたのだ。


「きっ……貴様が、首領だなっ!」


 叫びながら、剣を引き抜く。

 グウィンは横手の路地に潜んだままだ。

 正面に立った首領の目には、フェリス一人の姿しか見えていないはず。


 首領は、角を曲がったところで足を止めていた。

 逆光で表情はほとんどわからないが、明らかに、こちらの様子をうかがっている。

 フェリスの存在に驚き、その意図と正体とをはかりかねているようだ。


「よくも……よくも、村のみんなを!

 父さんと、母さんの敵だっ! 覚悟っ!」


 若干低めにつくった声で、適当なことを叫びながら、フェリスはわざと素人じみた構えを見せた。

 その瞬間、相手の迷いが消えたのがわかった。

 こちらが構えると同時に、ものも言わず、早足で向かってくる。


 ――かかった!

 フェリスは、まびさしの下でにやっと笑った。

 まさに狙いどおり。

 男は、彼女のことを、敵討ちのためにどこかの村から飛び出して軍に入隊した少年と勘違いしたのだ。


 わざわざ芝居をした理由はふたつ。

 ひとつは、こちらをとるに足りない相手と思わせ、相手の油断を誘うため。

 もうひとつは、潜んでいる仲間たちの存在を相手に気取られないよう、注意を引き付けるためだ。


 無言で迫ってくる相手が、ある一点に差し掛かった瞬間。


「――えッ!」


 フェリスの口から、気迫に満ちた号令が飛んだ!


「何……!?」


 その声に男は事態を察したようだったが、時、既に遅し――

 フェリスの号令に応じて、両脇の民家の窓が一斉に開き、間髪をいれずに矢が放たれた。

 それらのほとんどすべてが、狙い違わず、男の身体に突き刺さる!

 人のものとは思えぬ、軋るような悲鳴をあげ、男はその場にどうっと転倒した。


「……やった!?」


「油断するなっ!」


 松明と槍とを掲げてまろび出てくる兵士たちに鋭い叱咤の声を投げつつ、フェリスは走った。

 切迫した場面では、自然と口調が男のようになる。


 もしも奴が、本当に『あれ』ならば――

 本性を現す前に、グウィンの術で一気に畳みかけ、とどめをさすべきところだ。

 だが、それでは新兵たちの訓練にならない。

 フェリスは足取りをゆるめ、油断なく近付いていった。

 

 と、出し抜けに、倒れた男の身体がぶるぶると震えはじめた。


「んっ!」


 鋭く呻いて、出足を止める。

 断末魔の痙攣、ではない。

 異様な動きだ。

 ぐにゅりとうごめき、ぼこぼこと沸き立つような――

 その瞬間!

 男の身体の腰の辺りを、内側から次々と突き破って、十数本もの黒い槍のようなモノが飛び出した!


「おおぉっ!?」


 フェリスが跳び下がると同時に、それらはでたらめな長さで折れ曲がり、地面に取り付くと、男の身体を支え、たちまちのうちに空中高くまで持ち上げた。

 男の腰から下がぶくぶくと膨れ上がり、突き刺さっていた矢がばらばらと地面に落ちる。

 やがて、ぶるんと巨体を震わせた『それ』は、夜空を引き裂くような雄叫びをあげた。


「ひ……あ……」


 槍を携え、もたもたと窓から飛び出そうとした新兵たちが、その姿を目の当たりにして硬直する。

《蜘蛛の瞳》団の首領は、いまや人間ではなく、鱗と毛に覆われた、巨大な黒蜘蛛に変貌していた。

 ただし、上半身はほとんどヒトの形を保ったままで、白目を剥きだらりと舌を垂らした男の顔が狂気そのものの哄笑を放っている。

 まともな神経の主ならば、目にしただけで頓死しかねない、おぞましい姿だ。

 無論、例外もいるが。


「やっぱり……《呪われし者》だったわね」


 喉の奥で唸るように、フェリスは言った。


《黒の呪い》――

 五百年前の《大戦》以来、この世界の生きとし生ける者たちを苦しめ続けている災厄。


《黒の呪い》に冒された者は、精神を破壊され、その肉体は変貌を遂げてゆく。

 辺境地方では、特に《黒の呪い》による被害がすさまじかった。

 身内から《呪われし者》が出たことをひた隠しにし、その結果、一家がそろって《黒の呪い》に冒されてしまう例も多い。

 

 そう、この《呪い》は、伝染性を持っているのだ。

 感染を媒介するものは、血液、唾液などの体液――


「悪いけど、これ以上、この辺りに《呪い》をばら撒かれるわけにはいかないわ」


 真っ向から剣を突きつけ、フェリスは言い放った。

 その声に、怯えの色はない。

 あるのは嫌悪と、そして、それを上回る闘志だけだ。


 犯罪に手を染める者の中には、自ら望んで《黒の呪い》をその身に受ける者たちがいる。

《呪われし者》となることで手に入る、ヒトを超えた戦闘能力や生命力を、悪事に利用するためだ。

 だが、利用するといっても、しょせんは限界がある。

 いずれ、ヒトらしい精神がすべて崩壊し、凶暴な本能のままに殺戮を繰り返すだけの化け物となりはてるしかないのだ。


「貴様に、もはや戻る道はない……あたしの剣で、あの世に送ってやる!」


 その叫びの意味が、わかったのかどうか。

 人蜘蛛は、再びぶるりと胴体を揺すり、転瞬、音もなく真横に跳躍した。

 兵士たちが潜んでいた窓のひとつに、長大な脚の一本が叩きこまれる。

 悲鳴があがった。


「おおおおぉっ!」


 フェリスは剣を構えると、気合いとともに稲妻のような速さで突っ込んだ。

 ためらいもなく全身で人蜘蛛にぶち当たり、手にした剣を半ば近くまで、膨らんだ胴体に突き通す!


 蜘蛛は金切り声をあげて脚を振り回したが、鋭いその先端に薙ぎ払われるよりも速く、フェリスは敵の背を蹴りつけて跳びすさった。

 あざやかに体をひねって音もなく地面に降り立つ姿は、まさしく戦乙女の名にふさわしい。

 蜘蛛は、傷口からねばつく体液を滴らせながら彼女のほうに向き直り、その身体を串刺しにしようと続けざまに脚を繰り出した。

 だが、フェリスは一歩も退かず、神速の剣技でそれらすべてを斬り飛ばす!

 その動きは激しいと同時に優雅の極地、熟練の舞い手の美しささえ感じさせた。


 数人の兵士が、状況も忘れて彼女の戦いぶりに見入った。

 彼らがフェリスに従うのは、彼女が辺境侯の娘であるから、ではなかった。

 彼女の剣技を一度でも目にしたことのある者は、その様をこう喩えた。

「まるで一切の音が遠ざかるようだ」

 あるいは、

「楽の音が聞こえるような気がする」と――


 数本の脚を失って、蜘蛛はよろよろと元来た方角へ引き返そうとした。

 だが、すでに、道になだれ出た兵士たちがその退路をふさいでいる。

 槍を構えた兵士たちが、気圧されたようにじりりと踵を下げるのを見て、フェリスは怒鳴った。


「やれる! 怯むなっ! 突き殺せ!」


「うっおおおおぉ!」


 その声にはっと我に返り、槍を構え直した兵士たちは、声を揃えて突っ込んだ。

 ぎゅしゅっ、と嫌な音が響き、数本の穂先が一気に人蜘蛛の肉体を貫く。

 人蜘蛛はへたへたと脚を折り曲げ、小さく地面にわだかまった。

 終わったか、と誰もが、フェリスさえもが一瞬思った、その時――


 いきなり、金切り声をあげて人蜘蛛が跳んだ!

 巨体が、手近の兵士にどっと乗りかかる。

 血しぶきが飛び散り、悲鳴が上がった。


「ガーニィっ!」


 兵士の名を叫びながら、フェリスは剣を振りかざして突進した。

 彼女の手強さを恐れたか、人蜘蛛は、すすっと兵士から離れる。

 蜘蛛のそれに変わった口元が血に塗れ、ぐしゅぐしゅと動いているのを目の当たりにして、さしものフェリスも胸が悪くなった。


 だが、吐いている暇などない。

 ガーニィは《呪われし者》によって傷を負わされたのだ。

 おそらく、傷口から唾液が入っている。

 今すぐに適切な手当てをしなければ、彼もまた――


『非情なる運命よ……』


 出し抜けに、グウィンの呪文が響いた。


『その鉄槌を下せ!』


 彼は、人蜘蛛の周囲に味方がいなくなる瞬間を待っていたのだ。

 グウィンの呪文に、大気がたわんだ。

 同時、人蜘蛛が、巨大な拳に殴りつけられたかのように大きく吹っ飛ぶ!

 グウィンの十八番、敵の間近で、超高圧の空気の塊を炸裂させる技だ。

 これを好機と、フェリスは怒鳴った。


「殺せっ!」


 胴を大きく抉られながら、なおも立ち上がろうともがく人蜘蛛を、兵士たちが雄叫びをあげて取り囲み、剣と槍とでめったやたらに突きまくる。

 フェリスは、荒い息をつきながらその様子を見つめた。


《呪われし者》の異様な生命力を初めて目の当たりにした者は、例外なく圧倒される。

 怯えて、立ちすくんでいる間に殺されてしまう者も少なくない。

 だが、奴らは、決して不死ではない。

 自分たちの手でとどめをささせることで、勝てるのだという意識を持たせる――

 これが《呪われし者》に立ち向かう兵士を育てる上で、最も大切な点なのだ。


「バウル、火をかけろ! グウィン、《アレッサ・ウォーター》と精油を!」


 ばたついていた人蜘蛛の脚が、糸が切れたようにその動きを止めるのを確認して、フェリスは地面に倒れたガーニィのもとへ駆けつけた。


 既に、その傍らにグウィンが膝をついている。

《呪われし者》と近く接触した者を《呪い》の発症から救うことができる、確認されている限りただひとつの有効な方法――

 それが、アレッサの花アレッサの精油を含む水ウォーターを摂取するということだった。

 アレッサの花に含まれる成分に、《呪い》を打ち消す薬効があるのである。


 フェリスたちが少し離れた位置から見守る中、グウィンは背負っていた荷物の中から革製の手袋を取り出してはめ、分厚い布で口元を覆った。

 さらに、革の前掛けをかける。

 いずれの品にも、貴重なアレッサの花の精油がしみ込ませてある。


「飲め!」


 グウィンが差し出した小さな水袋から、ガーニィはむさぼるように《アレッサ・ウォーター》を飲み干した。

 その間にグウィンは手早く肩の傷口を調べ、牙のかけらなどが入っていないことを確認すると、


「痛むぞ、堪えろ!」


 アレッサの精油のビンを開け、傷口に直接振り掛けた。

 獣のような絶叫が上がった。

 あまりの苦痛にガーニィは激しく身をよじったが、自身も血塗れになりながら手当てを施すグウィンの腕ががっちりとガーニィの首に巻きつき、それ以上の動きを封じている。


「ガーニィ!」


 暴れる兵士の腕をしっかりと握った、もうひとつの手がある。

 フェリスだ。

 ガーニィは、今にも泣き出しそうな顔で彼女を見た。


「た、隊長! 俺、《呪われし者》になっちまうんでしょうか!? 嫌だ、そんなの……!」


「なあぁーに、言ってんのっ!」


 部下のすぐそばに膝をついたフェリスは、並の娘なら貧血を起こしそうな生々しい傷口を一瞥すると、いきなり、相手の無事なほうの肩をばしーんと叩いた。

 思わず呻いたガーニィに、にっ、と大きな笑顔を見せる。


「大丈夫、大丈夫!

 あたしだって、もう何回もあんたみたいな目にあってるもん。

 アレッサ・ウォーターさえ飲んどきゃ、もう大丈夫よ!

 あんたは絶対《黒の呪い》にかかったりしない! このあたしが、保証するっ!」


「でも……い、痛い……です……!」


「痛いのは、精油が効いてる証拠っ!

 絶対に、助かる! 気をしっかり持ちなさい!」


 問答無用の力強さで断言する。

 むろん、フェリスとて、揺るぎない確信があるというわけではない。

 部下の身を案じる心は、おそらくこの場の誰にもひけをとるものではなかっただろう。

 だが、ここでむやみに心配して部下を不安がらせるのは、指揮官として最低の行為だ。

 気休めでも何でも、とにかく力づけ、気力を保たせなくてはならない。


 フェリスはすっくと立ち上がると、燃えている人蜘蛛の死体を剣で指し、周囲に集まってきていた兵士たちに向かって声を張り上げた。


「みんな、よくやってくれた!

 首領は倒した。あとは、雑魚どもを始末するだけよ。

《蜘蛛の瞳》のくそったれどもに、二度と朝日を拝ませるんじゃないっ!」


 男たちが、彼らの戦乙女の荒々しい言葉に熱狂的な歓声で答える。

 フェリスの鎧と剣は、いまや、人蜘蛛の黒い体液にべっとりと染まり、炎に照らされて恐ろしげに光っていた。


 ツェルマートの長い夜は、まだ始まったばかりだ。



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