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俺のグラノーラ

作者: 朧夢

 彼の優雅な朝は、透き通る女性の声で始まる。

たつき様ー。朝ですよ、起きてください」

「あ、あぁ、今起きる……」

 樹は朝が苦手である。朝はいつも身体が重いし、その日やらねばならぬことを考えねばならない。これほどに面倒でだるい時間帯はない。樹はうそう考えていた。

 二十畳の寝室のドアが少しだけ開き、隙間から彼女が顔を覗かせていた。

「何だよ咲紀ちゃん。起きてるって」

「いえ、いつも生返事だけされてまた寝てしまわれるので……」

 そう言いながら、丁寧な所作をもって部屋に入る咲紀。白いワイシャツにタイトなパンツを穿いており、髪は少し高めにポニーテールにしている。今年で三十歳を迎える彼女は、落ち着いた印象を与えるような柔和な顔立ちをしている。

「わかったよ、もう起きる。で、今日の朝飯は何?」

「フルーツグラノーラです。今日は少しフルーツの種類を増やしてみました」

「お、いいね」

 樹は最近、『グラノーラ』にハマっていた。グラノーラとは麦、玄米、とうもろこしなどを蜂蜜や黒砂糖、植物油と混ぜてオーブンで焼き、ドライフルーツ、ココナッツ、ナッツなどをミックスして作った食品である。

 元から健康志向だった樹は、この食べ物を大変気に入った。

 今では、旭家の家政婦である水野咲紀に頼み、毎朝オリジナルグラノーラを作らせているほどである。



 寝ぼけ眼をこすりながら螺旋状の階段を下ると、彼の目の前には、身長一七〇センチの樹三人分すっぽりと収まる長さのテーブルが、きらびやかな装飾とともに存在感を放ち、その上には朝食とは思えない豪華な料理が綺麗に並べられていた。

「おはよう樹」

 四メートルを越えるテーブルの一番向こう側から、重く落ち着いた挨拶が飛んできた。

「あぁ、おはよう、お父さん」

 テーブルでは、すでに樹の両親、そして長男である正樹、長女の陽子が食事をとっていた。彼らが食すものは、サラダ、ステーキ、パスタ、ピザ。それぞれが自分の好きなものを家政婦に作らせ、黙々と食べている。

 樹の座った場所には、ボウルに入ったグラノーラと瓶に入ったミルク、たったそれだけ。

「なんだ樹、今日もグラノーラか」

 向かいの席の兄、正樹が呆れたように言った。

 朝からピザを頬張るあんたに言われたくないよ、樹はそう心の中で毒づいた。

 正樹はその食生活のせいか、四十歳を目前に控え体重は三桁の領域にいた。

「兄さんこそ、朝からそんなん食ってると早死にするぞ」

「ふん」

 鼻を鳴らしながらピザを頬張り続ける正樹の目には嘲笑の色があった。

「なんだよ文句あんのかよ」

「いや、毎日我慢してそんなフレークみたいなの食べるくらいなら死んだ方がましだなと思ってな」

「ちょっとー、朝からうるさいなぁ」

 長女の陽子だ。陽子は兄妹の中で一番年下の二一歳。最近モデルの仕事を始めたとかで、食生活には気を遣っているようだ。その甲斐あってか、彼女はモデルと呼ぶに相応しいほっそりとした体型をしており、全身からは凛とした雰囲気が発せられている。

 旭家の食卓は、とても静か。普段は誰も何も話すことはなく、それぞれが背後にいるお付きの家政婦に見守られながら食事をとる。食器の音だけが鳴っているその空間は、樹にはとても重く感じられた。

 食事を終えると、樹は小走りで自室に戻る。

「咲紀さん、締め切りいつだっけ?」

 後ろからついてくる家政婦に問う。

「明日の一五時でございます」

 慣れた様子で淀みなく答える咲紀。彼女の頭の中には樹のスケジュールが完璧に把握されていた。

「終わる気がしねぇな…」

「そんなことはありません樹様。頑張りましょう」

「お、おう。そうだな」

 樹を担当しているこの家政婦、水野咲紀は二年前にこの旭家にやってきた。元は主婦をしていたそうなのだが、様々な事情から家政婦をすることになったらしい。

 はじめは音を上げることもあったが、今ではしっかりと仕事をこなしてくれる頼れる人だ。

 パソコンを開き原稿のページを立ち上げる。今書いている小説のテーマは「不倫」。主人公の至って真面目なサラリーマンがふとしたきっかけで不倫をしてしまい、それがきっかけでトラブルに巻き込まれる。そんな物語だ。ただ、彼女こそいるもののいまだ結婚経験のない樹は、「家庭」の描写が苦手であった。彼の家柄も、その苦手意識を助長しているのかもしれない。

 なぜ苦手な部類の小説を無理して書いているのかというと、言うまでもなくそれほどまでに切迫した状況に置かれているからである。泣かず飛ばずの新人作家。彼を適切に表現した言葉だ。

「はぁー…」

「コーヒーでも淹れましょうか」

 背後から優しい柔らかい声が聞こえる。咲紀との会話は樹にとって執筆の息抜きであり、楽しみでもあった。彼女の思慮深い言葉は、小説のヒントになることが多かった。

 手早くコーヒーを淹れた咲妃は、樹の机の上にそれを置き、後ろから樹のパソコンをのぞき込んだ。

「もしよろしければ、見せていただけませんか」

「え」

 樹にとってこれは予想外の言葉だった。咲紀はこれまで樹の小説執筆を応援はすれども、その内容に関わりを持とうとすることは無かった。

「もしかしたら何かの参考になることが言えるかもしれません」

 小説は、誰かに見られないことには始まらない。誰かに読まれて、その人の感性と合わさって初めて小説としての価値が生まれる。

「じゃあ、見てもらおうかな。酷評だけは勘弁してくれよ」

 樹はそう言うと、デスクにあるパソコンを見せるために、自分の隣に席を設けた。咲紀はその様子を見て、そっと微笑んだ。

 静かに読み進める咲紀の横顔を見ながら樹は思う。なんて出来た家政婦なんだろうと。ここまで親身になってくれる人はなかなかいないだろう。

「咲紀さん、咲紀さん」

 扉の外から声が聞こえた。この声は陽子の家政婦の丸井さんだろう。少しまるっとした体型と柔和な表情には不思議と安心感がある。

「はい」

「リビングのお掃除をしますので、手伝っていただけますか」

 丸井さんの声を聞き、咲紀は少し申し訳なさそうな顔を樹に向けた。

「申し訳ありません。お呼びがありましたので…」

「いや、いいんだ。今一章だけ読んでくれたみたいだけど、そこまでの感想だけでも聞かせてよ

「あ、はい」

 そう言ってから数秒の間が空いた。自らの主人に対する言葉であるから、慎重になるのも当然かもしれない。

「遠慮はしないではっきり言ってくれよ」

 この言葉が、咲紀へのプレッシャーになりかねないと分かっていながら、樹はこう言わざるを得なかった。自分の創作物への批評は何よりも怖い。

「さわりを読んだだけですが、面白そうだな、と思いましたよ」

 そしてこう続けた。

「ですが、…もう少しリアリティがあっても良いかと」

「あーやっぱりかぁ」

 樹自身、それは感じていた。不倫や浮気なんてしたことがないし、したことが無いことを上手く表現する方法も、よくわかっていなかった。ただ担当と相談して決めた内容だ。無名の樹がどうこう言える立場でもなく、ただ言われたとおりに書くしかなかった。

「他の作家の方の作品を参考にされてはいかがでしょうか」

「うーん、他の人の面白い小説見ちゃうと影響されちゃいそうでいやなんだよなぁ」

 昔は好きだった読書も、今は泣かず飛ばずの自分に対しての当てつけのように思えてしまい、気持ちよく読むことが出来なくなっていた。

「そうですか…」

「咲妃さん? どうしました?」

 ドアの向こうから丸井さんの声がする。

「あ、すみませんすぐに向かいますので先に行っておいてください」

「わかりました。早く来てくださいね」

「じゃあ、行かなければならないので」

 本当に申し訳なさそうな顔をして立ち上がる咲妃。

「あ、ごめんね付き合わせちゃって」

「いえ、樹様のためですから」

 ドアノブに手をかけた咲紀は、何かを思い出したように振り返った。

「あ、樹様」

「え?」

 樹は少なからず驚きを感じた。その瞬間の彼女の顔には、今までにないほどの笑みがあったから。

「今日も、あなたの空は綺麗ですか?」

「え?」

 窓に雨粒が当たる音を聴きながら、ドアの向こうに消えた咲紀を見ていた。



『おにいちゃん』

 頭の奥から声が聞こえた。

『おにいちゃん』

 楽しそうな、今にも飛んでいきそうな。

『おにいちゃん』

 楽しそうな。

『おにいちゃん』

 狂おしいほどに愛おしい。

『おにいちゃん』

 そんな声が聞こえた。

『おにいちゃん』

 何で今君は居ないのだろう。 

『おにいちゃん』

 ああ。帰ってきてくれ。

『おにいちゃん』

 お願いだよ。

『おにいちゃん』

 俺を愛してくれ。



「……てください」

 遠くから声が近づいてくる感覚。辺りを漂う暖かい朝の香り。

「ん……」

 樹は目を開けることなく気付いてしまった。自分が今いる状況に。

「やっちまった……」

「樹様、朝ですよ」

 背後から聴こえる咲紀の声に答える余裕など、今の樹にはなかった。

 終わっていない原稿が映し出されたパソコンをただ眺めることしか出来なかった。

「今日のグラノーラは……って樹様」

 咲紀は樹の様子を見て、ある程度を察したように少し顔を曇らせながら、椅子に座る樹の横からパソコンを覗き込んだ。

「間に合いますかね……」

「いや、これは無理だよ」

 まだ最終形の半分ほどしか書き上がっていなかった。流石にここから追い込んだとしても、間に合うはずがなかった。

「十一時、ですか……、あと四時間ですね……」

 全体のプロットは出来ているとは言え、残りの時間で書き上げるほどの能力は無い。

「編集に頭下げないとか……」

「いえ、樹様、やりましょう」

「え?」

 後ろを振り返ると、咲紀はなぜか腕捲りをしていた。

「私も、できることは全てやります。ですから最後まで頑張ってみましょう」

 無理なものは無理だよ、という言葉が喉元まで出て来ていたが、樹はそれを飲み込んだ。咲紀の顔が真剣そのものであったからである。

 人の為に何故そこまで言えるのか、樹には全く理解できなかった。

「わかった、ありがとう。頑張ってみるよ」

 そう言うしか無かった。

「では、コーヒーを淹れますね」



 あたりはぼんやりと薄暗く、木々の揺らめく音がよく聞こ

 樹は、自室の窓から見える木々をなんともなしにただ眺めていた。

 十五時には間に合わせた。なんとか。ただその評価は散々なものであったし、指摘された点が多すぎて目が回りそうだった。見せたことを後悔しながら、自分に浴びせられる言葉を無抵抗に受け入れることしかできなかった。

 「今回のコレは一旦白紙にして、新しく練ってみましょう」

 そう言っていた担当者は、どこか事務的で、もう自分への期待なんてどこにもないのでは、そう勘ぐってしまうほどであった。

 趣味で書き始めた小説。それを職にしたくてここまで頑張ってきた。なんとかなると思っていた。自分には才能があって、たくさん書いていれば、たくさん努力すればいつかは報われる。世界はそうできている。そう思っていた。だからひたすらに書き続けた。

 でもそれは正しい選択だったのだろうか。自分に読者を奮い立たせるような、心を動かすような、命を持っているかのように人に訴えかけるような、そんな文が果たして書けるのか。

「くそっ」

 窓の外から荒々しい声が聞こえた。

「兄貴か……」

 巨体を荒々しく揺らしながら家に入ってくる自分の兄を見て、深く呼吸を整えてから、ゆっくりと目を閉じた。

 目を開き、空を見上げてみる。

「うん。綺麗だ…」



「樹様」

 扉の向こうから、咲紀の声が静かに聞こえた。その声色からだけでも、樹を気遣う様子が表れている。

「お父様がお呼びです」

「ん。わかった」

 父さんに呼び出される、その意味は察しがついている。それを考えるだけでも気持ちが重くなるような、体の中に重りを入れられているような、そんな感覚に陥る。

 重い足を引きずりながら、父の書斎の前まで足を運んだ。

 ドアをノックし恐る恐る声を出す。

「樹です」

「うむ、入れ」

 荘厳な声が部屋の中から響き、樹は恐る恐る扉を開けた。

 その部屋は、二十畳以上の洋室で、大きなソファが二つ、その間には巨大な木製の机が置かれており、壁には大きな絵画かかけられており、部屋からも威圧的な雰囲気を醸している。

「とりあえず、座りなさい」

 ソファに腰掛け、父と対面する。父の顔は、浮かないもので、その顔を前にするだけで目をそらしたくなる。

「お前の兄は、駄目だ」

 向かい合っての第一声がこれである。

「私も、ここから生きたとして十年やそこらだ。私が何を言いたいか、わかるか?」

 わからないわけがないだろう。

「いや、兄さんもまだ変われるかもしれないじゃないですか」

「あいつは勘当する」

「え」

 ここまで父に言わせる兄が何をしたのか。正解を言ってしまうと、何も、である。何もしていない。彼は自らがいずれは父から様々なものを受け継がねばならぬ立場にあると知りながら、何もしなかった。楽をして、甘い蜜だけを吸って生きていこうとしているし、今までそうしていた。

「ギャンブルで家の金を遣い、それでいて自分では一銭も稼がない。そんなクズに私の築きあげてきたものをやすやすと渡せるものか」

 父の言い分は確かに適当である。兄は人間として不適合であろう。だが。

「ですが俺も……」

「あれは事故だ。お前は何もしていない」

 樹の脳裏にあの時の景色がちらつき、自然と樹の表情を曇らせる。

 樹にはよくわかっていた。自分の父の言わんとすることが。手に取るように。

「お前、いつまで小説なんぞを書いているつもりだ」

 こういうことだ。

「いえ、だからそれは……」

 ここから先の言葉が出てこない。いくら脳内を引っ掻き回してみても出てくる気配がない。

「もう時期が時期だ。翔子さんとの話もあらかた付いている。職も新しく私が用意する」

 そう。これは覚悟していたこと。

「樹」

 でも。

「旭家は、由緒正しい資産家だ。私はこの家に生まれたことを誇りに思う。そして後世においてもその輝きを失わせたくはない」

 だからと言って。

「お前だけは、しっかりと私の意志に沿ってくれ」

 あの時、あの場所での出来事を、なかったことになんて出来ないんだ。



「では、私は少し出てくる。この後翔子さんが来てくださるそうだ。丁重にもてなしなさい」

 そう言うと、腰をゆっくりとあげ、樹を残し部屋を出て行った。

 その背中から、責任を迫るような威圧感を感じた。


 翔子は、樹が交際をしている女性の名である。ただ、恋愛から始まった交際ではないが。樹がいつまでも交際相手を見つけないのにしびれを切らした父が用意した女性だ。

 そのため交際といっても一般的なものではなく、一ヶ月に一度翔子が樹の家を訪れ、食事をとり交流するという、これもまた父により用意された機会で顔を合わせるだけの関係であった。


「樹様」

 廊下を歩く樹の背後から、聞きなれた声が聞こえた。

「翔子さんが来たのか?」

 樹は歩を止めることなく訊ねた。

「はい、いらしています。応接間へお越しください。それよりも樹様」

「なんだ?」

 歩を止め、背後に振り返る。

 10センチも離れていない距離に咲紀の顔があった。

「うわっ」

 樹が驚くのをよそに、咲紀は口元に笑みを浮かべながら、樹を見つめていた。美人の部類であるといえよう彼女の笑顔は、樹の顔を赤らめるのには十分なものであった。

「樹様」

「な、なに」

「顔色が良くないです。無理をなされているように見えます。何かに迷っていらっしゃるのでしたら、私を頼ってください。私は、樹様の味方ですから」

 そう言う彼女は、家政婦ではなく、近所のお節介なお姉さん、そんな雰囲気を醸していた。

「わかったよ、ありがとう。行こうか」

 樹は踵を返し、応接間へと向かい始めた。

 その後を追うように歩く咲紀の口元には、まだかすかに笑みが残っていた。


「樹さん、今日はあまりお話しにならないんですね」

 ナイフとフォークを置いた翔子は、膝に手を置き、真剣な眼差しで言った。

「え、そうかな」

「はい、先ほどから何だか上の空のようで……」

 翔子の心配そうにする顔をぼんやり眺めながら、樹は考えていた。このまま無抵抗にこの女性と結婚したその後のことを。自分は幸せになれるのかということを。樹は父に逆らうことはしたくないと考えている。というよりは、逆らうことなど、初めから諦めていた。

 本当にこの女性を生涯の伴侶として良いものなのか。

 それで自分の気持ちは整理できるのか。

 あの子を忘れることは、できるのか。

 いくら考えてみても、その答えは見つかりそうにない。

「すみません翔子様。樹様先ほどから少し体調がすぐれないようで……」

 咲紀が、樹の背後から、翔子に頭をさげる。

「あら、そうでしたか、すみません無理をさせてしまって」

 口元を抑え申し訳なさそうな顔をする翔子であったが、樹はその様子から、自分への気持ちを全く感じることができなかった。

 彼女も樹と同じなのである。当然といえば当然。彼女が樹に気があるとするなら、それは樹にとって、とても心苦しい。自分には、心に決めた人が、いた。心に決めたはずだったのに。なぜだろう。なぜ、こうなったのだろう。もっとなにか方法はなかったのだろうか。なぜ。なぜ。

「では、私は、今日は帰ったほうがよいですかね」

「申し訳ありません」

 なぜ俺はあの子を、殺してしまったのだろうか。

 咲紀は、翔子にもう一度頭を深々と下げた。


 電気のついていない薄暗い部屋。デスクにはパソコンと書き殴られた紙が散在していた。月の明かりだけがこの部屋の照明。

 樹はベッドに腰掛けたまま、窓から外を眺めていた。

「咲紀さん。いるんだろう」

 扉の向こうに呼びかける。

「はい」

「入ってきてくれないか」

「はい」

 扉が開き、廊下の光が差し込んだ。光を背後に浴びながら姿を現した咲紀は、樹の目にはどこか神々しく、妖艶に映った。

「樹様……」

 ゆっくりと扉を閉めた咲紀。部屋を照らす明かりは、月光のみとなった。

 

「俺は、どうしたらいいのかな」

  樹の心からの言葉。

「諦めなきゃ、ならないのかな」

 咲紀にしか伝えられない本当の言葉。

「何を、諦めるのですか?」

 答の見える問いをする咲紀の瞳には、かすかに輝くものがあった。

「俺の、人生」

「それは、いけません」

 強い瞳で樹を見つめ、樹の心に迫るように歩み寄る咲紀。樹はその視線を真正面から受け止めることができなかった。

「でもこれは決まっていることなんだ」

「そんなことはありません」

「でまかせを言うなっ」

 流れる沈黙。樹は強く唇を噛み締め、俯くほかなかった。

「すみません」

 そう言いながら、樹の横に腰掛けた咲紀。そしてこう続けた。

「確かに、あなたはお兄様に代わり、大きなものを背負わなければならない。将来の道を閉ざされてしまったかもしれない。ですが」

 咲紀は自身の胸に手を当てた。

「あなたには、味方がいます」

 ああ。

「私たちがいます」

 本当に。

「安心してください」

 この人でよかった。

 気がついたときにはもう、樹は咲紀を抱きしめていた。

「ごめん。今だけ……」

「私で良いのでしたら、ご自由にしてください」

 流れる沈黙が、今度は少しだけ心地よく感じられた。

 どれだけの時間が経っただろうか。長かった沈黙を破ったのは咲紀だった。

「樹様」

 柔らかな体温を感じながらも、樹は彼女の鼓動がいささか早まったのを感じた。

「なに」

「私と寝てみませんか」

 その言葉に反射的に咲紀から体を離した。

「いや何言って……」

 そこまで口にしてから、樹は自身のこれから発しようとしていた言葉の無意味さを悟った。咲紀の瞳から目が離せなかった。魅力的だと素直に感じた。まるで瞳の中に広い空を見ているようだった。同時に蛇に睨まれた蛙になったようでもあった。

「樹様。不倫、ほんのさわりだけでも体験しておいて損はないのでは?」

 そう言って微笑む咲紀を、自分の中で理性が後退していくのを実感しながら見ているうちに、なぜだろうか、

 あの時、自分に向かって微笑んだ、あの少女と咲紀が重なって映った。

 樹は彼女の腕を強く引き寄せ、もう一度強く抱きしめた。


 月光に代わり、朝日が差し込み始め、木々の擦れ合う音とともに心地よい風が部屋を吹き抜けた。

 樹が目を覚ました時、隣には何者もおらず、まるで何事もなかったかのようないつもの朝であった。ただ一つ異なる点を挙げるとするならば、今部屋の扉を開けて樹を覗き込んでいる咲紀の表情くらいである。

「おはようございます。樹様」

「おはよう」

「よく眠れましたか?」

「おかげさまで」

「それはよかったです」

 寝ぼけまなこを擦りながらようやく焦点が合い始めた時、樹は異変に気がついた。

「咲紀さん、右手どうしたの?」

 咲紀は包帯が巻かれた右手を撫でながら、少し恥ずかしそうな顔をした。

「ああ、これは先ほど階段で丸井さんとぶつかってしまいまして」

 心配そうに自身の右手を見つめる樹に気がつき、咲紀は慌てた様子で付け足した。

「あ、心配なさらないでください。少しひねっただけです」

「そうか」

 樹には、心を許せるものがいなかった。

「今日のグラノーラ、もうありますので召し上がってください、では」

 正確に言えば、たった一人のその存在を失ってしまった。

「あ。ちょ、ちょっとまって」

 だが、今、それに代わる存在が目の前にいる。

「はい」

 今は、そう信じたい。そう思った。

「怪我してるなら無理しなくていいよ。自分である程度はできるから」

 もう失いたくはなかった。

「いえ、そういうわけには」

 自分の味方を、失いたくはなかった。

「俺は咲紀さんに、早く怪我を治してもらいたいんだ」

 樹は咲紀に歩み寄り、当然のようにその唇を塞いだ。

「樹様、昨日限りというお話ではありませんでした?」

 樹を見上げ頰を緩ませる咲紀を見ながら、心の何か足りなかった部分が満たされていくのを確かに感じた。

「いや。まだ小説の資料が足りない」

「そういうことでしたら喜んで」

「私たちは樹様の味方ですから」


「樹」

 朝食を食べる樹の背後から重く腹に響く声が聞こえた。何を言われるか察したように樹は少し眉間にしわを寄せた。

「翔子さんのことですか」

 朝食を食べる手を止めることなく返答をした。

「当たり前だ。貴様どういうつもりだ」

「どうもこうも、これが俺の結論だよ」

 言い終えるや否や、深くしわの刻まれた手がテーブルを激しく叩きつけられていた。

 ミルクが入った瓶は倒れ、テーブルをミルクが侵食していった。

「ふざけるなっ」

 樹は自分の確固たる意志を示すかのように、朝食であるグラノーラを口に運び続けた。

 鼻息を荒げた父は、樹の後ろ襟を掴み上げ、その怒り狂ったような顔面を樹に押し付けるように向けた。

「貴様何様のつもりだっ。いつまでも結婚しないお前のために用意した方をないがしろにするなどあってはならん。そもそも貴様、そんな偉そうなこと言えるほど大した人間なのか? あ? 貴様には拒否権などないっ。私の理想に反することは許さん」

 樹には、反論の術はなかった。自身が大したことのない人間であると、自身に拒否権などないと、一番実感しているのは彼自身。

 ただの子供のわがままなのかもしれない、それも十分理解していた。

 だがそれは、樹の中でそれほど簡単な話ではない。

 なにに反抗したいのか、自分がなにをしたいのか、明確な確実なそれがあると言えるのかもわからない。

 だが本能的に嫌悪感を示してしまったのだ。

 こののまま成り行きに任せてしまうことに。

 自分のしょうもなさに。

 やるせなさに。

「咲紀さんはどうした」

 息を整えた父は、なおも険しい表情のまま樹に問うた。

「部屋で休んでる」

 深いため息を一つついた父は、樹の肩に手を置き、言った。

「樹、一つアドバイスだ。彼女に深入りはしないことだ」

「なにを……」

 樹が振り返ると、そこには、樹を慈しむような、哀れむような、樹が今まで見たことのない父の表情があった。

 樹は、声を出すことができなかった。

「そういうことだ、翔子さんには私の方から謝罪をしておく。貴様は今一度、自分の状況を冷静に見直すことだ」

 そう言い残し、リビングを後にした父。

 樹はただ、目の前のボウルに少し残っているグラノールを眺めることしかできなかった。

 自室に戻ると、咲紀がベッドに倒れ込むようにして眠っていた。

 家政婦としてはいかがなものか、と問われかねない行為ではあるが、今の樹にとってはなんてことのない、むしろ幸福感を覚える光景ですらあった。

 パソコンを開き、担当に却下された原稿を見直してみた。

 樹は自分で驚きを隠せなかった。なぜだろう、以前は全く構想が浮かばずに苦しんでいたはずであったのに、今、押し寄せる奔流のように、アイデアが溢れてきた。

 根を詰めすぎたせいで視野が狭くなっていただけなのか、それとも。

「コーヒーがないな」

 ベッドで眠る咲紀に目をやり、コーヒーを作るために立ち上がろうとした時。

 何かの着信メロディが流れ始めた。

 樹はこの音に聞き覚えがあった。

「咲紀さんのかな」

 ただなんともなしに、その発生源がどこなのか、探してみた。

 程なくして、咲紀が眠るベッドの上にその存在を確認した。

 そして、なんの抵抗もなく。

 たった今受信したメールを。

 他人の端末に届いたメールを。

 開いた。

 ロックはかかっていなかった。

 樹は自身の行動を理解できなかった。

 《魔が差した》。そういう表現も適切ではなかった。

 ただ、なんとなく。

 さも当然のように。

 何かに引っ張られるように。

 気がついたら。

 開いていた。


from:拓哉

そうか。早くまとめて金をもらって戻ってこい。


 送信ボックスをすぐに開いた。

 一時間前に送信したメールがあった。


to:拓哉

昨晩無事に証拠撮れた。これであなたも美空も救われる


 美空。

 美空。

 みく。

 ミク。

 みく。

《おにいちゃん》

 みく。

《おにいちゃん》

 うそだ。

《おにいちゃん》

 そんなこと。

《おにいちゃん》

 だめだ。

《美空は》

 やめろ。

《おにいちゃんの》

《味方だよ》


  自宅から一キロほど離れたところに、樹のお気に入りの公園があった。

 《さくら公園》。その名の通り、春になると百を超えるさくらの木に鮮やかな桃色の花が咲く。樹はこのさくらの木を見るのが好きだった。

 さくら公園は大変敷地の広い公園で、家族連れでのピクニックなどによく利用されていた。

 季節は冬。さくらの木々は花びらをつけず寂しそうに立っている。

 樹はその日も、いつも通りのベンチからただぼんやりと景色を眺めていた。

 いや、正確には、ぼんやりとではない。

 景色に映る、少女を見ていた。

 少女は樹が五回目に公園を訪れた時に見かけた少女である。なぜかいつも一人でいる少女は、ワンピースの裾をはためかせながらひらひらと歩いていた。遊具の無いこの公園で一人でいる子供は大変珍しい。

 少女には、目を引くものがあった。それが何か樹にもわからないが、確かに魅力的な少女だった。いつからか、樹が公園に行く目的が変わっていた。

 その日は、前の日に降った雪がまだうっすらと残っていた。ワンピースの上に薄いダウンジャケットを羽織った少女は、素手で雪を掴み取り、雪玉を作って遊んでいた。

 雪玉を作る少女。それをぼんやりと眺める樹。前日の雪もあってか公園は多くの人で賑わっていたが、樹の目にはその少女しか映っていなかった。

 樹にはわからなかった。自分の意志も、将来も。父にも、「お前の兄には期待していない。お前もそれなりの心の準備をしておくことだ」と言われた。

 小説を書き始めていた。自分の考えの発露とするのが小説のあるべき姿ではないのであろうが、樹にとっては自分を表現する唯一と言っていいほどの手段だった。

「ねえ」

 少女が目の前にいた。

「え」

 少し茶色がかった髪を風に揺らしながら、少し不機嫌そうな彼女は口元を少し歪めながら言った。

「おじさんは、雪好きじゃないの?」

「嫌いじゃないけど」

「じゃあ何してるの?」

「特に」

「じゃあ、ちょっと手伝ってよ。雪だるまを作りたいの」

 自分の身に起きていることを今ひとつ把握できていない樹は、瞬きの回数が少し増えただけでまともな反応ができなかった。

「行くよ、おじさん」

 しびれを切らした彼女に手を引かれながら立ち上がった樹は、やっとの思いで口を開いた。

「おじさんじゃなくてお兄さんだ」


 彼女の名前は美空。年齢を聞いたら「何歳だと思う?」などとませたことを言っていた。今度の春中学生になるという。年齢からすると容姿も言動も少し大人びているように感じたが、樹には今の小学生がどんなものなのかよくわからなかった。なにせ樹はその時二十五歳。小学生と接する機会もなければ自分が小学生だった頃の記憶も危うい。

 美空と、少し泥が混じった、お世辞にも良い出来とは言えない雪だるまをなんとか完成させた。美空は、うーん、と少し唸ってから、「まあいいか」と言った。

「おじさ、ああ、おにいちゃんだ。おにいちゃんこの公園いつも来てる?」

 正直、お気に入りの公園ではあったが、週に一度くるかどうかであった。よく考えれば来るたびに必ず彼女はこの公園にいた。

「いや、そんなにかな」

「やっぱり、あんまり見ないもん」

「君は毎日?」

「うん」

「なんで毎日?」

「ここが好きだから。これじゃ理由にならない?」

「いや、なるけど」

 小学生に押される自分を少し情けなく感じながらも、心の中はなぜだか少し踊っていた。

「まあいいや、おにいちゃん明日も来てね」

「え?」

 思わず美空の方に振り返ると、満面の笑みの彼女が居た。

「待ってるから、じゃあね」

 走り去る彼女を見ながら樹は、毎日ここに来ようと思った。


 樹に、ちいさな親友が出来た。

 さくら公園に足繁く通っては、美空と他愛のない話をしたり、遊んだりした。

 彼女は太陽のようだった。樹を明るく照らし、その光は樹を勇気付ける。それでいて触れることのできないような存在。

 樹は彼女にはなんでも話した。いや、というよりは、自然と話していた。

 家族のこと、将来のこと、ほんの些細なこと、なんでも話していた。何を話しても、最後に美空が言う言葉は同じだった。その言葉は樹の気持ちを少し楽にさせた。


 その日、樹は浮かない顔をしていた。

「どうしたのおにいちゃん、顔色悪くない?」

 そう美空に問われても、まともな返事をすることができなかった。

「わかった。前に言ってたおにいちゃんの好きな女優が結婚したからでしょ? それともお父さんと喧嘩したとか?」

 美空の底抜けに明るい笑顔も今の樹にとっては苦痛であった。腹の底に鉛の塊を抱えているように俯きながら、やっとの思いでこう言った。

「……しゃが、できた」

「え?」

「婚約者が、できた」

「それって? 婚約者って?」

「結婚するって約束した人」 

 美空は目を見開いた。それがどのような感情から去来するものなのか、樹にはわからなかった。

「へ、へえ。いいじゃん婚約者。なんでそれで落ち込むの? いいことじゃん?」

 いつもの笑顔を見せる美空。怒るのではないか。嫉妬してくれるのではないか。少し期待していた自分がいた。期待していたことを恥ずかしく思った。

「美空にはわかんないよ」

「そうだね、よくわかんない」

 そう言うと、隣に座る樹の首に手を回し、顔と顔を近づけた。

「よくわかんないけど」

「美空は、おにいちゃんの味方だよ」


 次の日、樹はさくら公園のいつものベンチに座っていた。

 季節は春に差し掛かっており、さくらの開花を目前に控えていた。

 美空が来たのは、樹が到着した三十分後だった。

「今日は、私の話を聞いて欲しいの」

 樹の隣に座るなり、しおらしい顔で美空は言った。

 樹は少なからず驚いた。美空はいつも樹の話を聞いていたが、自分のことを話そうとしたことは今まで一度もなかったからである。

 一抹の不安が樹の胸を掠めた。

 そして彼女は、今まで語っていなかった分を取り返すかのように、多くのことを樹に話し始めた。

「美空ね……」

 言葉が切れた。その先の言葉を慎重に選んでいるようでもあった。樹は先を促そうとはせず、美空の口からその続きの言葉が発せられるのを待った。

 暫しの静寂ののち、美空は小声で言った。

「本当のお父さんがわからないの」

 思いもよらぬ言葉に思わず肩に力が入った。

「生まれた時にはもういなかったの。どこかで生きてるってお母さんは言ってたけど、そのときお母さんすごく嫌そうな顔してた。でね、半年くらい前、お家に知らないおじさんが来たの。自分のことをお父さんっていうおじさん。最初は本当のお父さんなのかと思ったんだけど、違った。新しい人なんだって。それでなんだかお家にいづらくなっちゃって」

 母親の再婚相手とうまくいかなかったということなのか。それとも、本当の父ではないものが自らを父と名乗ることへの抵抗なのか。

「それでここに……」

「お母さんも、なんだか変わっちゃって」

 次第に伏し目がちになりながらも美空は続けた。

「新しいおじさんはいつもお家で怒鳴ってるし、お母さんはいつも謝ってるの。いつも絆創膏貼ってて、美空が大丈夫? って聞いても大丈夫だよ、って」

 樹は、思わず眉間にしわを寄せていた。つまり、この子の家では家庭内暴力が行われている、ということ。美空の苦しげな表情に胸を締め付けられながら、なぜ今、自分にそんな話をしているのか、樹は疑問に思った。

「でね、この間、おじさんがいきなり美空に、あの男は誰だ、って言ったの。お兄ちゃんのことだよ」

 心臓が飛び跳ねるようだった。見られていたのだ。美空の義父に。小学生の娘と遊ぶ、自分を。

「でね、もう会うなって」

「お母さんも、私のせいですごく怒られてて、お前のしつけが悪いんだぞ、とか、いっぱい、いわれてて……」

 美空は、小さな手で顔を覆い、泣いていた。小さく震えながら涙を流すその少女を、樹は抱きしめたい、抱きしめて、大丈夫、と言いたいと思った。だが、樹にはそのようなことを言う勇気も自信もなかった。

「お母さんを助けてあげたいの」

 美空は樹の左の袖を握っていた。

「お兄ちゃんだからこんなこと話せるの」

 樹は俯いていた。

「お兄ちゃん助けて……美空、なんでもするから」

「なんでもって……」

 美空が、息を深く吸って、そして、吐いた。

「美空お兄ちゃんのこと好きだからなんでもするよ」

 樹は俯いたまま目を見開いた。一瞬口角が緩んだ自分に激しい嫌悪感を覚えた。

「だから助けて……」

 美空は樹に徐々に体を寄せていった。

「おいちょっと、待っておれには……」

「こんやくしゃ? そんなのどうでもいいよ。お兄ちゃんも美空好きでしょう?」

 好きだった。

 許されないことくらいわかっていた。

 美空は今焦っている、樹はそう感じた。自分との関係を明らかにしようとしている。美空は自分を頼っている。心の支えにしようとしている。

 受け入れたい。その強い気持ちとは裏腹に、樹の口をついたのは、非情な言葉だった。

「だめだ」

 そういった時、ふと背後に人の気配を感じた。

「樹?」

 樹は自分が総毛立つのを感じた。

「あんた一体何してるの」

 妹だった。

「え、いや」

 樹の体は情景反射的に動いていた。

 美空の両肩に手をあてがい、突き飛ばしていた。

 小学生のあまりに軽い体は、軽々と横転した。

 空間に鈍い音が響いた。

 さくらの開花を間近に控えた、春のことだった。



 樹は、走っていた。あの場所に向かうために。

 運動不足がたたり、何度も立ち止まりながらも、必死に走った。なぜだろう、今すぐにそこに行かなければならないと感じた。

 必死に走りながらも、樹の頭の中は実に冷静にことの次第を理解しようと働いていた。

 樹が出会った少女、殺めてしまった少女である美空。その母親が樹の家政婦である水野咲紀であり、義父が拓哉という人物である。ということは間違いないだろう。

 そして、その母親である咲紀が樹の家政婦になったのは二年前。それは、あの事件の時期と一致する。

 樹は、美空を殺めてしまった。しかし、彼は裁かれなかった。彼の父の手でそれが防がれたからだ。どれほどの金が動いたのか、樹は知らない。その直後、新しい家政婦として水野咲紀が旭家にやってきたのだ。

 樹の予想はこうだった。娘を殺された咲紀が、その手を下したと言っても過言ではない男の家政婦をする。そこから考えられる彼女の目的。

「復讐……」

 昨晩のことを思い出した。咲紀は樹との不貞をおそらく彼女はなんらかの形で記録していた。メールにある「撮った」の文言がその証だ。

 そしてその事実を引き下げて交渉するとしたら、その相手はおそらく樹の父。

 息子の行為を認めた場合、咲紀は自らに対しての口止め料を要求するであろうし、認めなかった場合、その事実を相手ーー翔子に伝えれば良いというわけだ。そうすれば父と樹の関係は悪化し、樹の婚約は破談、加えて金銭的な報酬を受け取れる可能性もある。

 実に単純だが、正気の沙汰ではない。樹はそう思った。

 娘を殺した男の日常の世話をし、挙句自ら抱かれるなど、樹の常識からは大きく外れていた。

 ふと脳裏に、咲紀の顔がよぎった。

 やっと信頼できる人が一人できたと思っていた。この人を大切にすることが美空への償いになれば、と思っていた。だがそれは、樹の勘違いだった。

 樹は、よろよろと走りながら泣いていた。何にすがれば良いのかわからなかった。心の中心を無くしたようなそんな気持ちになった。

 その感覚は、樹にとって二回目の経験であった。


 さくら公園は、平日の夕方ということもあってか人が少なく、カラスの鳴き声が頭上をしきりに行き来していた。あの日から意図的に避けていた場所。来てしまえば、あの日の自分を延々と嫌悪してしまうことは目に見えていた。

 二人でいつも座っていたベンチ。二年が経ち、その木製のベンチは少し古びたように感じた。ベンチに腰掛け、久しぶりの景色を眺めていた。

 樹の中では、多くの感情が竜巻のように渦巻き、樹の全てを破壊しようとしていた。もう何もわからない、自分の味方はもういない。

 それからどれくらいの時間が経ったのだろう。あたりはすっかり闇に包まれていた。

 樹は、背後に車が停車したのを音で確認した。なんともなしに振り返ると、それは樹のよく知る車だった。運転席からスーツ姿の男が丁寧な所作で降車し、助手席に回り込みそのドアを開けた。

「なぜここに……」

 自らに歩み寄る父を見上げて言った。

「なぜ? 貴様の尻拭いのためだよ、樹」

 父はその荘厳な威圧感を裸のまま樹にぶつけながら、樹の瞳の中心を射抜くように見つめていた。

「ことの次第は水野咲紀に聞いた。私は彼女の要求をのんだよ」

 樹の空っぽの心に、彼は鉛を投げ込んだ。

「私にとっての障害はいち早く除去せねばならんからな。彼女には今日いっぱいで貴様の家政婦を辞めていただくこととした。もちろんそれなりのものを彼女に与えた上で、だ」

 それなりのもの、つまり金銭的なやりとりということなのだろう。

「翔子さんの件に関しては、今後もこのまま続けること。いいな」

「はい……」

 樹は、力なくこう言うしかなかった。それ以外の行動を起こす気力も起こらなかった。

 父は樹から目をそらし、車の方へ目をやった。そして車に近づくと、後部座席のドアを開けた。

「最後の挨拶に、ということで彼女もここに来てもらった」

 中から、二年間樹のそばに居続けた女の姿が現れた。

「咲紀さん……」

 咲紀は、頭を下げていた。樹はわからなかった。復讐の目的を達したと言っていい彼女が、なぜその相手に頭を下げているのか。

「あの後、丸井さんに頂いたお饅頭を食べている時に気付いたんです。私が開けていないメールが開かれているって。本当はあなたを巻き込みたくはなかったけど……、ごめんなさい、樹様。だけど、こうしなければならなかった。許してください。いえ、許してだなんて甘いですね。この事実を認めてください」

「そんな」

 咲紀の顔色が変わった。わずかな変化ではあったが樹はそれを確かに感知した。

「仕方ないんです。こうしないと、あの人が怒るから」

「あの人の為なんです。あの人を幸せにする義務が私にはあるんです。この気持ちをわかってください」

「あの人は私がいないとダメなの。私が支えてあげないといけないの。彼を救うことが美空を救うことにつながるの」

「わかって? ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 彼女の目は、怯えていた。それが何に対してなのか、『あの人』が誰なのか、樹には見当がついていた。拓哉、という名の彼女の夫であろう。

「もう、いいです」

 そういうほかなかった。もう樹の中で全てが終わっていた。樹には何も許されていなかった。ただレールに沿って生きるしかないと、悟ってしまった。

「それだけか、挨拶は。もう二度と会えないんだぞ?」

 父の言葉に違和感を覚えた。もう二度と。とは。

「うっ」

「咲紀さん?」

 途端に苦しみだした咲紀。人のそれとは到底思えぬ形相で、胸元を抑えながら、膝から崩れおちた。

 呻きながら転げ回る咲紀を見下ろしながら父は言った。

「言っただろう。いらぬものは除去せねばならん」

 その時の父の顔を、樹は一生忘れることはできないだろう。そう思った。それほどに残忍な顔をしていた。

「あんた……、自分が何やったかわかってるのかっ」

 次第に動きが鈍くなる咲紀を涙で溢れる目で見つめながら言った。樹には、どうすることもできなかった。

「ほう、貴様がそんなことをいうのか。貴様にも同じことが言えるだろう。自分がなにしたのか、わかってるのか」

「父親に面倒をかけさせやがって」

「こんなの……」

 動きを止め完全に静止した咲紀を、運転手が抱きかかえ、車へと運ぶ。彼の足が草を踏みしめる音がやけに頭に響いた。

「望んでいなかったと?」

 樹は思った。

「貴様の都合など知らん」

 自分に。

「貴様は私の支配下にある」

 味方など、はじめからいなかったのだ、と。



 数日後。その日は雨が降りしきり、人々が外出する気力を確実に削いでいっていた。

 樹は自室のデスクに向かい、久しぶりにパソコンを開いた。この数日間彼はほとんど何も食べていなかった。起動前のパソコンの真っ黒な画面に、痩せこけた自分の顔が映し出された。

 少し目を落とすと、キーボードの上に一枚の紙切れがあった。

『樹様。最後までお役に立てない家政婦ですみませんでした。この机の後ろに美空を置いていきます。樹様に召し上がっていただきたいのです。それでは、また会う日まで。水野咲紀」

 無表情で文面に目を通した樹は、ふらつきながらも立ち上がり、机の後ろを覗き込んだ。そこには、タッパーに入れられた、グラノーラがあった。樹はそれを手に取り、中身を外側から観察してみた。中に白い破片が散見される以外はいたって普通のグラノーラだった。

 キッチンに向かい、ボウルとミルクを手に自室に戻った。しっかりと施錠し、机の上のパソコンを閉じ、ベッドに向かって投げた。ぼふっという音をたて、それは埃とともに小さく跳ねた。 

 机の中心にボウルを置き、タッパーの中身を入れ、ミルクを注いだ。

 息を深く吸って、吐いた。

 恐る恐るそれを口に運び、咀嚼した。

 じゃり、じゃり、と、グラノーラとは思えない音が樹の口から発せられていた。

 樹は、すぐに理解した。

 これは、美空だ。

 ここには確かに美空がいた。

 じゃり、じゃり、音を立てながら、樹は涙を流していた。涙はこの数日で、とうに枯れたと思っていた。スプーンにグラノーラを取り、それを、白い破片を眺めてから、口に運び、咀嚼した。何度も、何度も。

「ちくしょう」

「こんなもん、うっ……食えたもんじゃ、ねえよ」

 声がうまく出せなかった。不意に笑いがこみ上げてきた。

「はっ、ははははは……」

 おれの味方はまだここにいる。


 さくらの開花を間近に控えた春のことだった。



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