(上)
ただ、ぼんやりと歩いていた。
居住区の天井。そこにあるスクリーンに映し出される空。
その低い青空を眺めていた。
俺の眼は青い。深みのある青だ。親や同世代の友達は、この眼を空みたいだと言う。でも、俺にはそれが褒められているのかどうか、判断がつかない。俺はこの、作り物の空を奇麗だと思ったことが無いから。じゃあ、本物の空は奇麗なのか。それも分からない。だって、俺も、他の人たちも、本物の空なんて見たことが無いんだから。それでも年寄り達の言う、《地球》みたいだ、というのよりは理解できるし、実感もあるんだ。
その青い《地球》という物を、俺はデータとかホログラムとか、後は学校で習う知識の中でしか知らない。本物をこの目で見てみたい。とかいう願いは、この時代に生きる俺達には叶えられそうも無い話なんだが。
と、何かがコツンと足に当たった。上を見て考え事をしていたら、足元が疎かになっていたらしい。見やると、少し先に赤い目覚まし時計が転がっていた。道に落ちていたのを俺が蹴飛ばしたらしい。ふと、机に置けるくらいの時計が欲しいなぁ、とか言ってた奴がいたのを思い出した。
「どうしようかなぁ……。」
拾うのか。それとも、見なかった事にして通り過ぎるのか。迷った。
迷って、結局拾うことにした。
俺ってたぶん、自分が普段思ってるよりもお人好しだよなあ。とか考えて。それから、そのまま当初の目的地へと向かった。
○
宇宙のなかに、誰からも忘れ去られたように、ただ、ぽっかりと浮かんでいる。とても穏やかな気分で、周囲と自分との境界が曖昧になっていくような感覚がある。目の前に望むその星は巨大で、燃えるような赤色に墜落しそうになる……。
俺は夢見心地で、つい声を漏らした。
「…ぁあ……奇麗だな……。」
「そうね…。」
「!?」
心臓とロマンチックが止まるかと思った。その衝撃で現実が、俺に大挙して帰ってきた。
振り返ると、明かりを消した部屋の中。その暗さを背景に、彼女がいた。
俺は少し不機嫌な声を作って、言った。
「おい、驚かすなよ。」
すると、彼女――フェネルは、少々、戸惑うように首を傾げた。
「え、ごめんね? そんなつもり無かったんだけど。」
さらり、と長い金髪が顔にかかって揺れた。柔らかそうなその髪は、わずかな光しかない部屋の中で、ダイヤモンドの粒子でも含んだかのように輝いた。
フェネルは俺の幼馴染で、よき理解者だ。意外と面倒見が良くて、こうして、一人でふらふらしている俺を探しに来る。ただ、探しに来て、そのまま一緒にふらふらする事も多く、二人してよく親に叱られた。ミイラ取りがなんとやら、という奴だ。
彼女は髪をかき上げながら、少し目線を落とした。そして、ぱああ、という効果音でも聞こえてきそうな感じで、目を見開いて、くちもとを綻ばせた。
「ねえ、その時計、なに? わたしに? やったー。時計代がういたー。これで欲しかった服が買えるや。やった。ありがとう。」
あんまり嬉しそうにするので、つられて俺の不機嫌も吹っ飛んでしまった。
「それにしても、綺麗な赤だね。地球みたい。ね、ほら。」
そう言って、フェネルはそっと、時計を持つ俺の腕を取った。
彼女の腕と、俺の腕が、時計を窓のほうへと差しだす。
「そうだな…。」
つと、目線を横にやると、彼女の横顔が、すぐそこにあった。なんだか、おでこの辺りが熱かった。ひょっとしたら、熱でもあるのかもしれない。
なんだか、まだ夢見心地だ。
なんとなく目を離せないでいたら、フェネルと目があった。驚いて、おもわず俯いてしまった。彼女の手が離れたから、俺も手を下ろした。反射的に少し距離をとって、彼女の方を窺う。すると、彼女もこちらを見ていた。上目遣いで。
……悶絶しそうになった。反則だろ、これ…
その場に、沈黙が、流れた。
そうこうしている内に、室内の電気が自動でついた。
「もう、十八時か。早いな。そろそろ帰らないと怒られるな。」
「そうだね。そろそろ夕飯の時間だし。」
二人でそう言いあって、そそくさと帰った。
帰る道すがら、俺達は他愛のない話をし続けた。普段にも増して内容の無い話を。
まるで、沈黙を恐れるように。
○
「なあ、そういや実験ってさ、もうすぐだったよな。」
頭の上から、ラウロ先輩の声が降ってきた。
俺は、手元から視線を外さずに、返事をしなかった。
ラウロ先輩は、俺達の一つ上の十二グレード、つまりこの学園の三年生だ。そして、生徒会の役員で、四人しかいない天文部の部長でもある。
俺は今、俺を含めた天文部のメンバーと、カフェテリアで昼食を取っている。今日は、エビフライ定食だ。
「えと、それってあの、地球での?」
先輩の隣から、エルトが返事をしたので、俺はそのまま無視を決め込むことにした。
エルトは一年生で、学園内ではちょっとした有名人だ。なんでも、絶世の美少年とかで、男女問わずにモテるんだそうだ。本人いわく、俺達は少しもそういう眼で見ないから、安心して一緒にいられる、らしい。
「ああ。それだよ。前に、なんか騒いでたろ。そろそろなんじゃねーの?」
「たしか、二週間後くらいから、だったと思いますけど。」
「それより、ちょっとは静かに出来ないんですか。」
俺の隣でシンヤが、文句を言った。
シンヤは俺と同学年で、優等生だ。マイペースな奴で、周りをあまり気にしない。
俺たちは、二人とも理系だから、必然的にほとんどのクラスが一緒だ。だから学校では、ほぼずっと一緒にいる。あと、こいつは、はっきり物を言う。日本人って奥ゆかしいんじゃないのか。
「……おいお前ら。ちょっと、こっち見ろ。」
顔を上げて、先輩の方を見る。すると、不機嫌そうな暗緑色の瞳と視線がかち合った。
「ったく、なんでギオは時計いじってて、シンは本読んでんだよ。」
「シンじゃなくて慎也ですよ。」
またやってる、と思ったが口には出さなかった。仲良いよな、この二人。
「せっかく、オレがお前らに合わせた話題出してやってるってのに。あと、どっちも飯食いながらやる事じゃねえだろ、それ。」
先輩がシンヤを無視して続ける。
「別に良いじゃないですか。自分の本だし。貴方は僕のお母さんですか。なあ、ギオット。お前もそう思うだろ。」
「え? あ、ああ、うん。」
いきなり俺に振らないでほしい。だいたい、どれの事を聞いているんだ。
「良くねーよ。行儀悪いぞ。飯の時は手を休めるモンだろ。そういうのは食い終わってからにしな。」
先輩は、シンヤが広げていた本を無理矢理閉じた。
「だから、お母さんですかって。」
「せめて、お父さんと言ってくれ。」
先輩はそれで良いんだろうか。
「まあまあ、ご飯の時は楽しく、ね、おしゃべりしましょうよ。」
エルトが、二人の顔を交互に見ながら言った。
「だよな。エルの言うとおりだ。ほら、ギオもシンも広げてるモンしまえ。」
「だから、慎也ですよ。」
そう言いながらも、シンヤは本を置いた。仕方が無いから、俺も時計を片付けた。
「またやってんの。あんた達って、いつも楽しそうね。」
涼やかな声が、割って入った。見ると、ルリジューズ先輩だった。
「ギオ、頼むわね。」
彼女は、俺の横を通るとき、そうささやいた。そして、俺の頭をぽん、と撫でていった。
実は、ルリジューズ先輩は、ラウロ先輩の事が好きだ。色々と葛藤なんかもあったようだが、今は開き直って、回りくどい手で気を引こうと画策したりしている。
今回は、俺とシンヤも協力する事になった。
作戦はこうだ。俺とルリジューズ先輩が、ラウロ先輩に仲の良さを見せつける。ボロが出そうになったら、シンヤがフォローする。……これで本当に上手くいくんだろうか。
「今日は生徒会の、仕事の件で来たんだけど。」
ルリジューズ先輩は、ラウロ先輩のすぐ横で立ち止まった。
「そうか。ご苦労さま。」
ラウロ先輩は、それに微笑んで答えた。ルリジューズ先輩はプリントをさし出して話し始めた。
「それで、これなんだけど……」
(つづく)