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ÆÏŒÇ
「お前には無理だ」
わかってるわよそんなこと。あたしが一番よく知ってる。
「まぁ、ダメもとで受けてみるのもありだが…」
ダメもとって。そんなこと言わないでよ。
「とりあえず、親御さんともよく相談するように」
「…っさい」
頑張ります。今からダメもとでも、もがいてみます。精一杯努力します。
―――そう、言えたらよかった。
だけど、空瑠は高校三年の成りたて。まだまだ子供だった。
「うっさいよバカ! あたしは頑張ってんだ! 嘘でもいいから大丈夫だって言えよ!」
空瑠はそう言うと椅子をひっくり返し、乱暴にドアをブチ開けた。
空瑠は逃げ出すように教室から走り去った。
「…ったく」
後に残された一人の教師は、空瑠が倒した椅子をもとにもどすため立ち上がった。
「期待持たせたら、可哀そうだろーが」
進路希望調査を手に取る。
そこには、空瑠が到底通えそうもない、大学の名があった。
「俺だってなあ、行かせてやりたいんだ」
分かっていた。自分が通えるはずもない。高校一年からバリバリ勉強していたわけでもない自分が行けるはずもないと。でも、目指すのは勝手だろう。只だし。
「あーあ。先生怒ってるかな―。あたしバカとか言った気がするし」
悲しいな。
『お前には無理だ』まるで、否定されたみたいだった。何をって言われると、それはまぁ、よく分からないのだけれど。
言いようもない悲しみが空瑠を襲った。
「今から頑張るって。―――たぶん」
何回言い続けたか分からないセリフを空瑠は再び呟いた。これほど虚しいことはない。
我ながら飽きないものだ。
「受かったじゃん! 先生の嘘付き!」
言ってみた。
言えるかな。言えるかな。
「頑張れる人がすごい。努力できる人がすごい。すごい。あたしには、―――――出来ないや」
空瑠は真っ青な雲ひとつない空を窓越しに見ながら、志望大学を考え直そうと決めた。
「うわっ…すごいねこの子。頭良いんだ。誰?」
霜奈冬樹は同僚の手にある進路調査書をのぞき見ながら感嘆の声を漏らした。
「貝井空瑠」
「え?」
間違いじゃないの? と言いたげな目で見てくる同僚にため息で応じる。
「あいつ面談中キレやがった」
「あーらま。それは…まぁ…目指すのは良いことだし…」
さすがの霜奈も苦笑いである。
「でも、すごいなあー俺だったら冗談でも書けないよ」
「…まぁ、確かに」
どうしたものかな。あいつは折れるようなたまじゃないと思うが。頑張れとでも言ってやればよかったのか。
「ま、貝井さんの頑張り次第では、どうにかなることもある…のかもしれない」
「…そうだな」
胃が痛くなりそうな思いでそう答えた。
ÆÏŒÇ
「うわ…最悪」
空瑠は自分の空っぽの手を見てため息をついた。
荷物を忘れてしまった。怒り心頭に周りが見えなくなり、そのまま教室から出てきてしまったのだ。
「あたしが面談最後だった、ってのが不幸中の幸い?」
空瑠は何回目になるのか分からないため息を肩をつかって大げさについた。
あれ、だれだ?
先生はもういなかった。その代わりというか何というか。教室には見知らぬ男子がいた。
「どちらさん?」
気軽に話しかけてみる。
「………………」
無視かい。まぁ、いいけどね。
空瑠は面談用に使われた机まで行って、机の横にかけておいた自分のカバンを手に取った。
「不法侵入はいかんよ」
「俺はここの生徒だ!」
たまりかねたようにその男子は叫んだ。
うそ! 空瑠は男子が身につけている制服を見て納得した。
でも、まぁ、生徒は千人以上もいるのだ。全員覚えられるわけがない。
さほど罪悪感は覚えなかった。皆無と言ってもいい。
「同じクラスだ」
…………。さほどどころではない。最悪だった。
「三年間」
………絶句。
「あ…あははー」
笑うことしかできなかった。
「まぁ、いいけど」
あら? いいの?
「俺なんて、空気だし…」
嫌ああああ! 叫びたい気分だった。
「いや、ウソウソ! 覚えてたって! ジョークジョークあめりかんジョーク!」
「……………」
「いや、わかった。睨むな。おーけー。ウソ。これこそがウソ。真のウソ」
「もう、いい。いつものことだ、諦めてる」
そう言ってため息をついて、悲しそうにそいつは、――――笑った。
…諦めてる?
その言葉は、今の空留にとっては一番辛い言葉だった。
何でよ! 何で諦めんのよ!
理不尽にもそう叫びそうになったが何とか堪える。
「お、お名前をお聞きしてもいいでしょうか」
「嫌だ」
即答だった。
「じゃ、じゃあ…えっと」
「穂でいい」
何だ?
「…それ、本名?」
「違う」
「なんだ」
「覚えてられたらな、本名教えてやるよ」
「分かった。覚えてる」
「無理だ。絶対無理だ。出来るわけない」
―――刹那、空留の中の何かがプツンと切れたような気がした。
「なんでよ! バカ! 絶対覚えててやるよ! 忘れるもんか! みのりみのりみのりみのり――唱えながら帰る! じゃあね! みのりみのりみのりみのり――――」
嵐のように去っていった女を呆然と見つめていた男子生徒は。
「変な奴」
そう、呟きながらもどこか、嬉しそうに笑っていた。
空留は怒り心頭に帰り、それから夕食とお風呂に入り、それから、それから、少し不安になっていた。
進路のことなど、どこかにふっ飛んでいた。
慣れている風な彼、諦めていると言う彼。
そんなことを空瑠は言って欲しくなかった。自分が諦めようとしているからだろうか。
よく分からなかったが、あいつは、穂は、空瑠の目にはとても悲しそうに映ったのだ。
絶対覚えててやる。
空瑠はそう呟くと、広告の裏紙を居間から大量に持ってきた。そこにマジックペンで大きく書く。
『みのり 忘れたら負け! 絶対だめ!』
そして壁に張った。布団から起きて一番最初に目に入るだろう場所に。
シュミレートもした。実際に布団を敷いて寝て起きて。
位置を何度も修正して。
本当に忘れてしまうような気がして。消えてしまうような気がして。人間一人を忘れてしまうことがこれほど恐ろしいものか。自分もいつか、忘れられるのではないか。生まれてきたこと自体無かったことになってしまうのではないか。
不安で不安で、不安で。
忘れるということが酷く恐ろしくて、それはもう、さながら怪物のようで。
空瑠は何かに取り憑かれたように、夢中で書いては張るという作業を続けた。
ÆÏŒÇ
「お、覚えてる」
空瑠は壁を呆然と見ながらそう呟いた。
「よ、よかった! ざまあみろ! みのり! 覚えてんよあたし!」
嬉しくて、子供のようにはしゃぎまわった。
それは数分後には空瑠の赤く染まった頬とともに終息へと向かったのだが。
「ま、まぁあたしそんなバカではないし…あたりまえっちゃ当たり前…」
なんでこんなに嬉しいのだろう。
『受かったじゃん! 先生の嘘付き!』まがいのことを言えたからだろうか。
とにかく、興奮はおさまったものの嬉しさは増すばかりだ。
「早く学校に行こう!」
空瑠は叫んで騒がしく狭い廊下を駆けぬけた。
「みのり! おはよう!」
朝一番の笑顔で叫んだ。
それはそう、心からの笑顔だった。そして、返ってきたのは―――
「…………………」
見事なまでの沈黙だった。
「あれー? ビックリした? はっはっは! ほれ見たことか! 言わんこっちゃない」
「お、前」
「何よ」
「ほんとに覚えてんのかよ」
「覚えてるにきまってんじゃない」
「…そ、そうか」
「……………」
あれ、もっと喜んでくれると思ったんだけどな―。
少しがっかりした空瑠だった。
その後、会話が続くということもなく。
空瑠は友達と話し。
穂は顔を空瑠から前へと向けて音楽を聴きだした。
ÆÏŒÇ
霜奈冬樹は、授業中に大欠伸をかました空瑠を注意するか、一瞬迷った。だが、ここは教師として注意するべきだと判断し口を開く。
「貝井さん。俺の授業眠い?」
ビクッと空瑠の肩が揺れた。
「い、いいえ…あの、今のは、ちがくてっ…! あの、えっとあごの関節体操で…」
「休み時間にやってね」
と、ここで皆が笑いだし、空瑠は頬を赤くした。のだが、恥じらいは一瞬で吹き飛び、やがて頭に手を当て自分も一緒に笑いだす。
「さぁ、気を取り直して貝井さん」
「はい」
「一〇三ページの五行目の構文訳して」
「は、はい! えっと、私は…覚えていた…彼の名前とその姿を… 私はもっと彼を理解し、理解してもらいたい…お互いに?」
「はい、おーけー …言いたいことは分かるよ、すごく」
「…すみません」
さて、貝井さんは英語があまり得意じゃないしなあ。
あいつが悩むのも分かる。なにか一個でも自分の武器になる教科があればいいんだけどね。
「じゃあ、次のページの問題、問五まで今からはじめてー」
霜奈は頬をビタンと叩いて気合を入れなおしている空瑠をしばらく眺め、窓の外の雲に視線を移した。
「おい、お前、次移動教室」
「あ、あれっ!? 皆は? 」
空瑠はガランとした教室を眺めまわして呆然とした。
「もう行った」
「うそでしょ! よりちゃんヒドッ! なんで待っててくれないんだよー!」
空瑠は拗ねたように顔をそむける。
「で、みのりんはどーしたの」
「みのりんゆーな。お前なあ、さっきの授業なんだよ。関節体操て。俺はあやうく笑いそうに――――」
冷汗をかきながら、という感じで喋る穂に不満を感じた。
「なんで、笑えばいいじゃん」
「断る」
「なんでよ」
「俺は空気だからな」
そう言うと穂は一人頷き納得していた。
「でも、不思議だよね。なんでそんなに影が薄いの?」
空瑠が何の気なしに問うと穂は大げさに心臓のあたりをつかんだ。
「…お、おお、容赦ねえなあ…」
「ふっ…。勝負はあたしが勝ったからね!」
わびれる様子もなく空瑠は得意げな顔を披露する。
知らねえよ、と穂は興味なさげに答えたのだった。
「不思議だねえ」
「不思議だな」
ゆるやかな時間が流れていた。
「穂はどうすんの? 大学」
空瑠はこれまた何の気なしに聞いてみた。
「俺? 俺は大学行かねえよ」
「え? そうなんだ」
「家継ぐ」
「ほう、今時めずらしいのう」
「おい、老化老化」
「何屋? 八百屋? らっしゃい?」
「何その先入観」
「分かった! 花火職人だ!」
「お前適当言ってるだろ。ちげーよ」
「じゃ、何さ」
「酒屋」
「同じジャン!」
「全然ちげえよ!」
空瑠は穂が酒屋とは何たるかを語り出したところでそうそうに目を伏せた。
あーやっぱり皆それぞれ決めてるんだなぁと、ぼんやりと焦りを覚える。
「ねえ、あたしを嫁にしてよ」
「つまり、期間を置けば置くほどうまい味が――――」
…って聞いてないか。
眼中なしだなこりゃあ。将来酒とでも結婚するんじゃなかろうか。
我ながら良い計画だと思った。将来は安定。今から焦ることもない。勉強も必要無し。
「ねえ、そろそろ移動教室」
「――――――ってうおわっやっべえ! 起こした俺まで遅刻とかありえねえだろ!」
「先行ってるよー」
怒鳴る穂を尻目に、空瑠はどうしたものかと考えながら、全力で走り始めた。
「…なんなんだよあいつ」
一人残された穂の頬はしかし、不自然なほどに赤い。
「…変な奴だよなあ全く」
大げさに溜息をつく。
………―――――段階ってもんがあんだろーがよ。
そんな穂の発言から推測するにまんざらでも無かったらしく。
「空気と結婚は出来ないんだがなあ」
理解しがたい言葉を残して穂も慌てて教室を去ったのだった。