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放課後、秘密を拾ってしまった僕はなぜか美少女たちの相談役になった件  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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7/16

第7話 一人暮らしの部屋は、たまに人の秘密の避難所になる

黒瀬レナが傘を返しに来たのは、翌日の放課後だった。


 それだけなら、たぶん何も起きなかった。


 教室の前で「これ」とぶっきらぼうに傘を突き返されて、「どうも」「じゃあな」で終わる。せいぜいその程度の、短くて味気ないやり取りで終わるはずだったのだ。


 だが、人生はどうしてこう、余計な一段を足してくるのか。


「……影山」


 六時間目が終わり、帰り支度をしていた涼太は、その声に顔を上げた。


 レナが教室の入口に立っていた。


 相変わらず愛想はない。

 けれど昨日みたいな刺々しさは少し薄れていて、代わりにどこか落ち着かない気配がある。


「傘、返す」


「ああ」


 涼太は席を立ち、入口まで向かう。


 レナはコンビニで買ったビニール傘ではなく、きちんと畳まれた涼太の折りたたみ傘を差し出した。ちゃんと乾かしたらしい。そういうところは、思っていたより丁寧だ。


「ありがと」


「別に」


「……昨日、助かった」


 その言い方は相変わらず素直ではないが、わざわざ返しに来た時点で十分律儀だ。


 涼太が傘を受け取った、その時だった。


 廊下の向こうで、聞き覚えのある声がいくつも近づいてくる。


「ねえ、今日先に駅前行く?」

「えー、でも雨また降りそうじゃない?」

「朝比奈って折りたたみ持ってる?」


 女子数人の声だ。

 しかもクラスメイトのやつらしい。


 涼太とレナは、同時にそちらを見た。


 レナの顔つきが変わる。


 ほんの一瞬で、昨日の“助けられた側の弱さ”が消えた。

 代わりに出てきたのは、いつもの、近寄らせないための硬い表情だ。


「……じゃ」


 そう言って立ち去ろうとしたレナだったが、その直前、また別の声がした。


「あ、黒瀬」


 最悪のタイミングだった。


 女子グループの先頭にいたのは、クラスメイトの一人だ。涼太とは特別親しいわけではないが、話しかけてくること自体は不自然ではない。

 不自然ではないが、今ここで来るな。


「影山もいたんだ」


「……いたけど」


「何してんの?」


 何してんの、という質問ほど困るものはない。


 傘を返してもらっていただけだ。

 事実としてはただそれだけ。

 だが、この空気の中でそれを一から説明するのは、妙に面倒だ。


 しかもレナは明らかに、今この場で細かい説明をしたくない顔をしている。


「別に、何も」


 涼太がそう答えると、女子たちは「へえ」と曖昧にうなずいた。

 だがその「へえ」には、納得よりも“ちょっと気になる”が混じっている。


 こういう時の空気は最悪だ。

 何もないなら何もないで終わるはずなのに、説明を省いた瞬間だけ、逆に意味深に見える。


 そして厄介なことに、そういう空気にもっとも敏感なやつが、今日に限ってすぐそこにいた。


「え、何これ」


 藤宮みずきである。


 どこから湧いた。


 いや、同じクラスなのだから教室にいて当然なのだが、このタイミングで会話へ突っ込んでくるのは本当にやめてほしい。


「黒瀬と影山?」


「藤宮、おまえ来るな」


「来るなって何それ」


 みずきはにやにやしながら近づいてくる。

 レナの眉間にうっすらしわが寄った。


「何、影山って最近ほんとに女子のトラブル処理係になってない?」


「違う」


「いやだって朝比奈の件があって、私のノートの件があって、次は黒瀬?」


 やめろ。

 並べるな。


 涼太が本気で頭を抱えかけた、その時だった。


「――レナ」


 今度は、別方向から静かな声がした。


 朝比奈ことりだった。


 いつの間にいたのか。いや、女子グループの中にいたのだから当たり前だが、こうして一人だけ少し前へ出てくると空気が変わる。みずきの騒がしさとも、レナの刺々しさとも違う、落ち着いた張りつめ方だ。


「どうしたの」


 ことりの問いはやわらかい。

 だがレナは、すぐには答えなかった。


「別に」


 昨日と同じ返し。


 けれど、昨日の“別に”と今日の“別に”は少し違う。

 今日は助けを拒絶するためではなく、事情を隠すための別に、だ。


 その違いは、なぜか涼太には分かった。


「傘」


 レナが短く言った。


「昨日、借りたから返してただけ」


 それだけで十分だろ、という声音だった。


 女子たちは「ああ、そうなんだ」と一応うなずく。

 だが納得しきった感じではない。みずきも「ふーん」と意味深な顔をしている。


 最悪だ。

 このままだと、何でもないことを何でもないまま終わらせるチャンスを逃す。


 涼太は本能的に、それ以上の説明をしない方がいいと判断した。

 だが同時に、レナの様子も少し気になっていた。


 さっきから彼女はずっと、鞄の持ち手を握る手に力が入っている。

 何かを警戒しているというより、余裕がない時の固さに見えた。


「黒瀬」


 小さく呼ぶ。


 レナがわずかに目を向ける。


「……帰るなら、早い方がいいぞ」


 窓の外では、また空が曇り始めていた。

 昼間ほどではないが、いつ雨が来てもおかしくない色だ。


 レナは少しだけ唇を引き結び、それから短く言った。


「分かってる」


 そのまま踵を返す。


 だが二歩ほど進んだところで、不意に足を止めた。


 嫌な予感がした。


 レナは一瞬だけ壁に手をついた。

 ほんの一瞬だ。けれど、明らかに体勢が崩れた。


「おい」


 涼太が声を上げる。


 レナはすぐに「平気」と言いそうな顔をしたが、その前にみずきが反応した。


「え、黒瀬?」


「何でもない」


 即答。

 しかし声が少しだけかすれている。


 ことりも近づき、レナの顔をのぞき込んだ。


「顔色、悪いよ」


「平気だって」


「平気な人は壁つかまない」


 ことりの言い方は静かだが、正しい。


 レナは苛立ったように息を吐き、そこで初めて、ほんの少しだけ本音を漏らした。


「……ちょっと、家、帰りたくないだけ」


 廊下の空気が、ぴたりと止まった。


 その一言は重かった。

 重いのに、レナ自身がすぐに後悔したらしい。

 しまった、という顔をして、すぐ目を逸らす。


 みずきでさえ、この時ばかりは軽口を叩かなかった。


「黒瀬」


 ことりが小さく呼ぶ。

 だがレナは首を振る。


「大したことじゃない。今日はちょっと、タイミング悪いだけ」


「タイミング?」


「……家に人、来るから」


 それ以上は言わない、という線引きだった。


 十分だった。


 涼太はそこでいくつかのことを察した。

 詳しい事情は分からない。

 だが、“帰りたくない家の事情”というものが、軽いものではないことくらいは分かる。


 そしてたぶん、今ここでクラスメイト何人もの前で話すことでもない。


 どうする。


 放っておくか。

 ことりかみずきに任せるか。

 いや、どちらも違う気がした。


 ことりは気づかいが深いが、こういう時に踏み込みすぎるかもしれない。

 みずきは勢いがあるが、逆に空気を軽くしすぎる可能性がある。

 そしてレナは、そのどちらも今は望んでいない顔をしている。


 たぶん必要なのは、余計なことを聞かず、一時的に避難できる場所だけだ。


 そう考えた瞬間、自分でも信じられない提案が口から出た。


「……うち来るか」


 全員がこちらを見る。


 言ってしまってから、涼太は一瞬だけ自分を疑った。

 何を言っているんだ。

 一人暮らしの家に女子を連れていくとか、何をどう考えても面倒の火種だろう。


 だが、その一方で、いちばん現実的でもあった。


「は?」


 レナが素っ頓狂な声を上げる。


「いや、別に変な意味じゃなくて」


 慌てて補足する。


「家帰りたくないなら、少し時間つぶす場所くらいあった方がいいだろ。今日だけ。落ち着くまででいい」


「いやいやいや」


 みずきがようやく復活したように声を上げた。


「影山、それはそれで急すぎない?」


「俺もそう思う」


「思ってるなら言うなよ!」


「でも他にあるか?」


 その問いに、みずきが少し黙る。


 駅前のファストフードでもいい。

 だがレナの顔色を見る限り、にぎやかな場所より静かな場所の方がいい。

 ことりの家へ、という案も頭をよぎったが、それはそれで急すぎるし、家族の事情もある。

 何より、涼太の家は近い。一人暮らしで、親もいない。余計な気づかいも少ない。


 理屈としては通っていた。


「……」


 レナは完全に固まっていた。


 当然だろう。


 近寄りがたいクラスメイト認定されている女子が、同級生男子の一人暮らしの家へ行く。

 普通なら絶対に避けたい展開だ。

 だがレナの顔は、否定だけで突っぱねるには少し疲れすぎてもいた。


「嫌なら断れ」


 涼太は低く言った。


「無理に来いとは言わない。ただ、今のおまえ、どっかで一回落ち着いた方がいい」


 レナは視線を落としたまま動かない。


 やがて、絞り出すように言う。


「……本当に、ちょっとだけ」


 それは了承だった。


 みずきが「ええ……」と半分驚き半分心配みたいな声を出す。

 ことりはレナを見て、それから涼太を見た。


 何か言いたげだったが、結局は小さくうなずいた。


「影山くんなら、大丈夫だと思う」


「朝比奈まで言うのか」


「言います」


 ことりの声は静かだった。

 けれど不思議と、その一言で空気が少し整った。


 みずきも腕を組み、「まあ、影山だしなあ」と妙に納得した顔をする。


「何だよその評価」


「変なことしなそう」


「するか」


「それは知ってる」


 みずきはレナに向き直った。


「黒瀬、なんかあったら連絡してね」


「……しない」


「するんだよ、そういう時は」


「しないって」


 そんなやり取りすら、どこか無理しているように見えた。


 涼太は鞄を肩にかける。


「行くぞ」


 レナは小さくうなずいた。


     ◆


 家までの道中、会話はほとんどなかった。


 レナは涼太の半歩後ろを歩き、必要最低限しか口を開かない。

 無理もない。

 男子の家へ行くという事実だけでも十分落ち着かないはずだ。まして相手は親しい友人というほどでもないクラスメイトである。


 涼太自身も、内心かなり落ち着かなかった。


 女子を家へ入れるのなんて初めてだ。

 それも状況が状況だ。

 変に意識しない方が無理というものだが、だからといってぎこちなくすれば余計に不自然になる。


「……ほんとに近いんだな」


 家の前まで来た時、レナがぽつりと言った。


「言っただろ」


「学校帰りに寄るの、楽そう」


「寄るなよ」


「冗談」


 その冗談が言えるなら、ほんの少しは落ち着いたのかもしれない。


 鍵を開け、玄関の扉を開く。


「汚くはないけど、期待するな」


「何を期待すんの」


「分からん」


 そう言いながら靴を脱ぐ。


 レナも少しだけ躊躇ったあと、静かに上がった。


 家の中は、いつも通り静かだった。


 両親の海外赴任が決まってから、必要最低限の家具だけで回している。玄関から見える範囲に余計な物はなく、廊下の先のリビングも片づいている。生活感はあるが散らかってはいない。

 人を招く前提の家ではない。

 だが、人を不快にさせるほど雑でもないはずだ。


「……きれい」


 レナが小さく言った。


「そうか?」


「そうだよ。男子の一人暮らしってもっとこう、床に何か転がってるもんだと思ってた」


「偏見だろ」


「半分は事実でしょ」


「知らない」


 リビングへ案内し、椅子を引く。


「座れ」


「うん」


 レナは慎重に座った。

 まだ完全には緊張が解けていない。

 だがさっきの廊下よりは、肩の力が少し抜けている気がした。


 涼太はキッチンへ回り、ケトルに水を入れる。


「飲み物」


「いらない」


「選択肢じゃなくて確認」


「何それ」


「紅茶か、麦茶か」


「……麦茶」


「了解」


 冷蔵庫からピッチャーを出し、コップへ注ぐ。ついでに、小さめの皿へ市販のクラッカーを少し出した。食べるかどうかは分からないが、何もないよりはいい。


 テーブルへ置くと、レナが少しだけ目を細める。


「何それ」


「クラッカー」


「見れば分かる」


「じゃあ聞くな」


「……そこまでしなくていいのに」


「してない。ついで」


 ついで、という言い方は便利だ。

 気を遣っていると思われにくい。

 こういう時、真正面から親切にしようとすると、かえって相手が身構えることがある。


 レナはしばらくコップを見ていたが、やがて麦茶を一口飲んだ。

 そこでようやく、本当に息をついた感じがした。


 静かな時間が流れる。


 時計の音。

 冷蔵庫の低い駆動音。

 外を通る車の気配。


 人の家というより、“生活している場所”の静けさだ。


「……変」


 しばらくしてから、レナが言った。


「何が」


「落ち着く」


 その一言は意外だった。


 涼太は少しだけ目を瞬かせる。


「そうか?」


「うん。変に静かで」


「変にって何だ」


「学校とか駅前とかって、黙ってても音あるじゃん」


「まあな」


「ここは……ちゃんと誰かが暮らしてる音しかしない」


 そう言われて、涼太は少し考えた。


 たしかに、そうかもしれない。

 一人暮らしの家は静かだ。

 両親がいた頃よりずっと静かで、最初のうちはその無音が少しだけ怖かった。だからテレビをつけっぱなしにしたり、換気扇の音をわざと残したりしていたこともある。


 今では慣れた。

 慣れたからこそ、その静けさが落ち着くものに変わった。


「まあ、誰もいないからな」


「そういう意味じゃなくて」


 レナは少しだけ眉を寄せる。


「ちゃんと片づいてて、変に気を張らなくていい感じ」


「褒めてる?」


「たぶん」


「たぶんなのか」


 レナはクラッカーを一枚つまみ、ぼそりと言った。


「……家だと、今日みたいな日はさ」


 そこで言葉が止まる。


 涼太は追わなかった。

 追えば、たぶん彼女は閉じる。


 代わりに、麦茶を自分の分も注いで席へ着く。


「今日みたいな日、何」


 それだけ、静かに聞く。


 レナはすぐには答えなかった。


 しばらくコップを見つめ、それから低い声で言う。


「父親の知り合いとか、親戚とか、そういうのが来る日」


「……ああ」


「別に何かされるとかじゃない」


「うん」


「ただ、面倒なの。愛想よくしろとか、ちゃんとしろとか、女の子なんだからとか。いちいちうるさくて」


 吐き出すみたいに、言葉が少しずつ出てくる。


「今日はその日で。朝から分かってたから、帰りたくなかった」


 涼太は黙って聞いた。


 なるほど、とだけ思う。


 事情の大きさや深さまでは分からない。

 だが“帰りたくない家の事情”としては十分にあり得るし、十分にしんどいだろう。


「それで昨日の雨の時も、ちょっと帰りたくなかったのか」


 なんとなく口にすると、レナは少し驚いたように顔を上げた。


「……分かる?」


「昨日も、ただ雨で困ってるだけじゃない顔してた」


「何それ、観察してたの」


「そういう言い方されると嫌だな」


「ふふ」


 ほんの少し、レナが笑った。


 初めて見たかもしれない。

 教室で見せる棘のある顔でもなく、昨日の追い詰められた顔でもない。

 気が抜けた時の、短い笑い方だった。


「ごめん」


 レナはすぐに言い直した。


「別に嫌味じゃない」


「ならいい」


「……ありがと」


「何が」


「今日も。昨日も」


 今度はちゃんと聞こえる声だった。


 涼太は少しだけ肩をすくめる。


「別に」


「影山、そういう時までその返しなんだ」


「便利だからな」


「便利って」


 レナがまた少しだけ笑う。


 その笑い方を見て、涼太は思った。


 この子は本当に、人前では気を張っているのだろう。

 ぶっきらぼうで、近寄りがたくて、壁がある。

 でもそれは、そうしていないとしんどいからなのかもしれない。


 時計を見ると、思ったより時間が経っていた。


「何時までいられそうだ」


「七時半くらいなら、たぶん帰ってももう客いない」


「分かった」


「……いいの?」


「何が」


「少し長くいても」


「別に。飯作るだけだから」


「もう作るの?」


「一人暮らしは時間配分命なんだよ」


 レナが目を丸くする。


「何それ」


「真実」


「……じゃあ、私、邪魔じゃん」


「静かに座ってるなら別に」


「その言い方」


「気を遣う方が落ち着かないだろ」


 レナは少し黙ってから、ふっと息を抜いた。


「……そういうとこ、変」


「褒めてる?」


「たぶん」


「またそれか」


 キッチンへ立ち、冷蔵庫を開ける。

 鶏肉、玉ねぎ、味噌、豆腐。

 予定通りなら鶏を焼いて味噌汁だ。


 後ろからレナの声がする。


「ほんとに今から作るんだ」


「作る」


「外食とかしないの?」


「たまにはする。でも基本は家の方が楽」


「へえ」


「黒瀬は?」


「私は……コンビニ多い」


「だろうな」


「何その分かったみたいな顔」


「昨日の紙袋の扱いが慣れてなかった」


「あれは雨のせい」


「はいはい」


 包丁で玉ねぎを切りながら、涼太は少しだけ笑う。

 こうして会話していると、レナは思っていたよりずっと普通だ。

 もちろんぶっきらぼうではあるが、それだけだ。

 近寄りがたいというより、近寄られ慣れていないのかもしれない。


「……あんたさ」


「ん?」


「何でそんなに普通なの」


「何が」


「女子が家にいるのに」


 その一言で、危うく包丁を止めかけた。


 普通なわけがない。


 内心ではかなり落ち着かない。

 女子を家に入れるのは初めてだし、相手はクラスメイトだし、しかもこういう事情付きだ。

 ただ、それを表に出しても何の得もないだけだ。


「普通じゃないよ」


 正直に言うと、レナがきょとんとした。


「そうなの?」


「かなり気は遣ってる」


「見えない」


「見せないようにしてるからな」


「……変」


「今日それ何回目だ」


「便利だから」


「朝比奈みたいなこと言うな」


 そこでレナが少しだけ首をかしげた。


「朝比奈?」


「いや、何でもない」


 危ない。

 変な比較を口にしすぎると、話がややこしくなる。


 鍋へ火をかけ、味噌汁の準備を進める。

 その間、レナは黙って座っていた。だが気まずい沈黙ではない。

 誰かが家にいて、でも無理に話さなくてもいい空気。


 それは涼太にとっても不思議と悪くなかった。


 やがて七時を少し回った頃、レナがスマホを見て言った。


「……もう平気かも」


「そうか」


「客、帰ったっぽい」


「ならよかった」


 火を止め、レナの方を見る。


 来た時より、だいぶ顔色がましになっていた。

 完全に元気というわけではないが、少なくとも廊下で壁につかまっていた時ほど危うくはない。


 レナは立ち上がり、鞄を持つ。


「……ありがと」


「おう」


「それと、今日のこと」


「言わない」


「まだ言ってない」


「どうせそう言うだろうと思った」


 レナは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。


「分かってんじゃん」


「だいたいは」


「……助かった。ほんとに」


 今度の礼は、昨日よりずっと素直だった。


 玄関まで見送り、靴を履くレナを待つ。


 扉を開ける前に、レナが振り返った。


「影山」


「ん?」


「……あんたのとこ、変に落ち着く」


 その言い方は、ぶっきらぼうなのに、ちゃんと本音だった。


 涼太は少しだけ目を瞬かせ、それから肩をすくめる。


「それならよかった」


「うん」


「でも次は、もっと早くどっか別の場所探せ」


「それは……善処する」


「信用ならない」


「お互い様」


 そう言ってレナは出ていった。


 扉が閉まり、家の中にまた静けさが戻る。


 さっきまでそこに別の気配があったはずなのに、いなくなると妙に広く感じるのが不思議だった。


「……何なんだ、ほんと」


 小さく呟きながら、涼太はキッチンへ戻る。


 鶏肉はちょうどいい焼き色になっている。

 味噌汁の湯気がゆっくり上がる。

 いつもの一人分の夕飯のはずなのに、今日だけは少しだけ違う家の空気が残っていた。


 一人暮らしの部屋は静かだ。

 でも、その静かさが誰かの避難所になることもある。


 そんなこと、春の始まりには想像もしていなかった。


 パンツ入りの紙袋を拾った日から、少しずつ何かがおかしくなっている。

 それはたぶん間違いない。


 けれど、そのおかしさの中には、妙に拒みきれないものも混じり始めていた。


「……平穏、どこ行ったんだよ」


 ため息交じりにそう言って、涼太は一人分の皿をテーブルへ運んだ。

 静かな部屋の中で、時計の音だけがやけにきれいに聞こえていた。

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