第7話 一人暮らしの部屋は、たまに人の秘密の避難所になる
黒瀬レナが傘を返しに来たのは、翌日の放課後だった。
それだけなら、たぶん何も起きなかった。
教室の前で「これ」とぶっきらぼうに傘を突き返されて、「どうも」「じゃあな」で終わる。せいぜいその程度の、短くて味気ないやり取りで終わるはずだったのだ。
だが、人生はどうしてこう、余計な一段を足してくるのか。
「……影山」
六時間目が終わり、帰り支度をしていた涼太は、その声に顔を上げた。
レナが教室の入口に立っていた。
相変わらず愛想はない。
けれど昨日みたいな刺々しさは少し薄れていて、代わりにどこか落ち着かない気配がある。
「傘、返す」
「ああ」
涼太は席を立ち、入口まで向かう。
レナはコンビニで買ったビニール傘ではなく、きちんと畳まれた涼太の折りたたみ傘を差し出した。ちゃんと乾かしたらしい。そういうところは、思っていたより丁寧だ。
「ありがと」
「別に」
「……昨日、助かった」
その言い方は相変わらず素直ではないが、わざわざ返しに来た時点で十分律儀だ。
涼太が傘を受け取った、その時だった。
廊下の向こうで、聞き覚えのある声がいくつも近づいてくる。
「ねえ、今日先に駅前行く?」
「えー、でも雨また降りそうじゃない?」
「朝比奈って折りたたみ持ってる?」
女子数人の声だ。
しかもクラスメイトのやつらしい。
涼太とレナは、同時にそちらを見た。
レナの顔つきが変わる。
ほんの一瞬で、昨日の“助けられた側の弱さ”が消えた。
代わりに出てきたのは、いつもの、近寄らせないための硬い表情だ。
「……じゃ」
そう言って立ち去ろうとしたレナだったが、その直前、また別の声がした。
「あ、黒瀬」
最悪のタイミングだった。
女子グループの先頭にいたのは、クラスメイトの一人だ。涼太とは特別親しいわけではないが、話しかけてくること自体は不自然ではない。
不自然ではないが、今ここで来るな。
「影山もいたんだ」
「……いたけど」
「何してんの?」
何してんの、という質問ほど困るものはない。
傘を返してもらっていただけだ。
事実としてはただそれだけ。
だが、この空気の中でそれを一から説明するのは、妙に面倒だ。
しかもレナは明らかに、今この場で細かい説明をしたくない顔をしている。
「別に、何も」
涼太がそう答えると、女子たちは「へえ」と曖昧にうなずいた。
だがその「へえ」には、納得よりも“ちょっと気になる”が混じっている。
こういう時の空気は最悪だ。
何もないなら何もないで終わるはずなのに、説明を省いた瞬間だけ、逆に意味深に見える。
そして厄介なことに、そういう空気にもっとも敏感なやつが、今日に限ってすぐそこにいた。
「え、何これ」
藤宮みずきである。
どこから湧いた。
いや、同じクラスなのだから教室にいて当然なのだが、このタイミングで会話へ突っ込んでくるのは本当にやめてほしい。
「黒瀬と影山?」
「藤宮、おまえ来るな」
「来るなって何それ」
みずきはにやにやしながら近づいてくる。
レナの眉間にうっすらしわが寄った。
「何、影山って最近ほんとに女子のトラブル処理係になってない?」
「違う」
「いやだって朝比奈の件があって、私のノートの件があって、次は黒瀬?」
やめろ。
並べるな。
涼太が本気で頭を抱えかけた、その時だった。
「――レナ」
今度は、別方向から静かな声がした。
朝比奈ことりだった。
いつの間にいたのか。いや、女子グループの中にいたのだから当たり前だが、こうして一人だけ少し前へ出てくると空気が変わる。みずきの騒がしさとも、レナの刺々しさとも違う、落ち着いた張りつめ方だ。
「どうしたの」
ことりの問いはやわらかい。
だがレナは、すぐには答えなかった。
「別に」
昨日と同じ返し。
けれど、昨日の“別に”と今日の“別に”は少し違う。
今日は助けを拒絶するためではなく、事情を隠すための別に、だ。
その違いは、なぜか涼太には分かった。
「傘」
レナが短く言った。
「昨日、借りたから返してただけ」
それだけで十分だろ、という声音だった。
女子たちは「ああ、そうなんだ」と一応うなずく。
だが納得しきった感じではない。みずきも「ふーん」と意味深な顔をしている。
最悪だ。
このままだと、何でもないことを何でもないまま終わらせるチャンスを逃す。
涼太は本能的に、それ以上の説明をしない方がいいと判断した。
だが同時に、レナの様子も少し気になっていた。
さっきから彼女はずっと、鞄の持ち手を握る手に力が入っている。
何かを警戒しているというより、余裕がない時の固さに見えた。
「黒瀬」
小さく呼ぶ。
レナがわずかに目を向ける。
「……帰るなら、早い方がいいぞ」
窓の外では、また空が曇り始めていた。
昼間ほどではないが、いつ雨が来てもおかしくない色だ。
レナは少しだけ唇を引き結び、それから短く言った。
「分かってる」
そのまま踵を返す。
だが二歩ほど進んだところで、不意に足を止めた。
嫌な予感がした。
レナは一瞬だけ壁に手をついた。
ほんの一瞬だ。けれど、明らかに体勢が崩れた。
「おい」
涼太が声を上げる。
レナはすぐに「平気」と言いそうな顔をしたが、その前にみずきが反応した。
「え、黒瀬?」
「何でもない」
即答。
しかし声が少しだけかすれている。
ことりも近づき、レナの顔をのぞき込んだ。
「顔色、悪いよ」
「平気だって」
「平気な人は壁つかまない」
ことりの言い方は静かだが、正しい。
レナは苛立ったように息を吐き、そこで初めて、ほんの少しだけ本音を漏らした。
「……ちょっと、家、帰りたくないだけ」
廊下の空気が、ぴたりと止まった。
その一言は重かった。
重いのに、レナ自身がすぐに後悔したらしい。
しまった、という顔をして、すぐ目を逸らす。
みずきでさえ、この時ばかりは軽口を叩かなかった。
「黒瀬」
ことりが小さく呼ぶ。
だがレナは首を振る。
「大したことじゃない。今日はちょっと、タイミング悪いだけ」
「タイミング?」
「……家に人、来るから」
それ以上は言わない、という線引きだった。
十分だった。
涼太はそこでいくつかのことを察した。
詳しい事情は分からない。
だが、“帰りたくない家の事情”というものが、軽いものではないことくらいは分かる。
そしてたぶん、今ここでクラスメイト何人もの前で話すことでもない。
どうする。
放っておくか。
ことりかみずきに任せるか。
いや、どちらも違う気がした。
ことりは気づかいが深いが、こういう時に踏み込みすぎるかもしれない。
みずきは勢いがあるが、逆に空気を軽くしすぎる可能性がある。
そしてレナは、そのどちらも今は望んでいない顔をしている。
たぶん必要なのは、余計なことを聞かず、一時的に避難できる場所だけだ。
そう考えた瞬間、自分でも信じられない提案が口から出た。
「……うち来るか」
全員がこちらを見る。
言ってしまってから、涼太は一瞬だけ自分を疑った。
何を言っているんだ。
一人暮らしの家に女子を連れていくとか、何をどう考えても面倒の火種だろう。
だが、その一方で、いちばん現実的でもあった。
「は?」
レナが素っ頓狂な声を上げる。
「いや、別に変な意味じゃなくて」
慌てて補足する。
「家帰りたくないなら、少し時間つぶす場所くらいあった方がいいだろ。今日だけ。落ち着くまででいい」
「いやいやいや」
みずきがようやく復活したように声を上げた。
「影山、それはそれで急すぎない?」
「俺もそう思う」
「思ってるなら言うなよ!」
「でも他にあるか?」
その問いに、みずきが少し黙る。
駅前のファストフードでもいい。
だがレナの顔色を見る限り、にぎやかな場所より静かな場所の方がいい。
ことりの家へ、という案も頭をよぎったが、それはそれで急すぎるし、家族の事情もある。
何より、涼太の家は近い。一人暮らしで、親もいない。余計な気づかいも少ない。
理屈としては通っていた。
「……」
レナは完全に固まっていた。
当然だろう。
近寄りがたいクラスメイト認定されている女子が、同級生男子の一人暮らしの家へ行く。
普通なら絶対に避けたい展開だ。
だがレナの顔は、否定だけで突っぱねるには少し疲れすぎてもいた。
「嫌なら断れ」
涼太は低く言った。
「無理に来いとは言わない。ただ、今のおまえ、どっかで一回落ち着いた方がいい」
レナは視線を落としたまま動かない。
やがて、絞り出すように言う。
「……本当に、ちょっとだけ」
それは了承だった。
みずきが「ええ……」と半分驚き半分心配みたいな声を出す。
ことりはレナを見て、それから涼太を見た。
何か言いたげだったが、結局は小さくうなずいた。
「影山くんなら、大丈夫だと思う」
「朝比奈まで言うのか」
「言います」
ことりの声は静かだった。
けれど不思議と、その一言で空気が少し整った。
みずきも腕を組み、「まあ、影山だしなあ」と妙に納得した顔をする。
「何だよその評価」
「変なことしなそう」
「するか」
「それは知ってる」
みずきはレナに向き直った。
「黒瀬、なんかあったら連絡してね」
「……しない」
「するんだよ、そういう時は」
「しないって」
そんなやり取りすら、どこか無理しているように見えた。
涼太は鞄を肩にかける。
「行くぞ」
レナは小さくうなずいた。
◆
家までの道中、会話はほとんどなかった。
レナは涼太の半歩後ろを歩き、必要最低限しか口を開かない。
無理もない。
男子の家へ行くという事実だけでも十分落ち着かないはずだ。まして相手は親しい友人というほどでもないクラスメイトである。
涼太自身も、内心かなり落ち着かなかった。
女子を家へ入れるのなんて初めてだ。
それも状況が状況だ。
変に意識しない方が無理というものだが、だからといってぎこちなくすれば余計に不自然になる。
「……ほんとに近いんだな」
家の前まで来た時、レナがぽつりと言った。
「言っただろ」
「学校帰りに寄るの、楽そう」
「寄るなよ」
「冗談」
その冗談が言えるなら、ほんの少しは落ち着いたのかもしれない。
鍵を開け、玄関の扉を開く。
「汚くはないけど、期待するな」
「何を期待すんの」
「分からん」
そう言いながら靴を脱ぐ。
レナも少しだけ躊躇ったあと、静かに上がった。
家の中は、いつも通り静かだった。
両親の海外赴任が決まってから、必要最低限の家具だけで回している。玄関から見える範囲に余計な物はなく、廊下の先のリビングも片づいている。生活感はあるが散らかってはいない。
人を招く前提の家ではない。
だが、人を不快にさせるほど雑でもないはずだ。
「……きれい」
レナが小さく言った。
「そうか?」
「そうだよ。男子の一人暮らしってもっとこう、床に何か転がってるもんだと思ってた」
「偏見だろ」
「半分は事実でしょ」
「知らない」
リビングへ案内し、椅子を引く。
「座れ」
「うん」
レナは慎重に座った。
まだ完全には緊張が解けていない。
だがさっきの廊下よりは、肩の力が少し抜けている気がした。
涼太はキッチンへ回り、ケトルに水を入れる。
「飲み物」
「いらない」
「選択肢じゃなくて確認」
「何それ」
「紅茶か、麦茶か」
「……麦茶」
「了解」
冷蔵庫からピッチャーを出し、コップへ注ぐ。ついでに、小さめの皿へ市販のクラッカーを少し出した。食べるかどうかは分からないが、何もないよりはいい。
テーブルへ置くと、レナが少しだけ目を細める。
「何それ」
「クラッカー」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くな」
「……そこまでしなくていいのに」
「してない。ついで」
ついで、という言い方は便利だ。
気を遣っていると思われにくい。
こういう時、真正面から親切にしようとすると、かえって相手が身構えることがある。
レナはしばらくコップを見ていたが、やがて麦茶を一口飲んだ。
そこでようやく、本当に息をついた感じがした。
静かな時間が流れる。
時計の音。
冷蔵庫の低い駆動音。
外を通る車の気配。
人の家というより、“生活している場所”の静けさだ。
「……変」
しばらくしてから、レナが言った。
「何が」
「落ち着く」
その一言は意外だった。
涼太は少しだけ目を瞬かせる。
「そうか?」
「うん。変に静かで」
「変にって何だ」
「学校とか駅前とかって、黙ってても音あるじゃん」
「まあな」
「ここは……ちゃんと誰かが暮らしてる音しかしない」
そう言われて、涼太は少し考えた。
たしかに、そうかもしれない。
一人暮らしの家は静かだ。
両親がいた頃よりずっと静かで、最初のうちはその無音が少しだけ怖かった。だからテレビをつけっぱなしにしたり、換気扇の音をわざと残したりしていたこともある。
今では慣れた。
慣れたからこそ、その静けさが落ち着くものに変わった。
「まあ、誰もいないからな」
「そういう意味じゃなくて」
レナは少しだけ眉を寄せる。
「ちゃんと片づいてて、変に気を張らなくていい感じ」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなのか」
レナはクラッカーを一枚つまみ、ぼそりと言った。
「……家だと、今日みたいな日はさ」
そこで言葉が止まる。
涼太は追わなかった。
追えば、たぶん彼女は閉じる。
代わりに、麦茶を自分の分も注いで席へ着く。
「今日みたいな日、何」
それだけ、静かに聞く。
レナはすぐには答えなかった。
しばらくコップを見つめ、それから低い声で言う。
「父親の知り合いとか、親戚とか、そういうのが来る日」
「……ああ」
「別に何かされるとかじゃない」
「うん」
「ただ、面倒なの。愛想よくしろとか、ちゃんとしろとか、女の子なんだからとか。いちいちうるさくて」
吐き出すみたいに、言葉が少しずつ出てくる。
「今日はその日で。朝から分かってたから、帰りたくなかった」
涼太は黙って聞いた。
なるほど、とだけ思う。
事情の大きさや深さまでは分からない。
だが“帰りたくない家の事情”としては十分にあり得るし、十分にしんどいだろう。
「それで昨日の雨の時も、ちょっと帰りたくなかったのか」
なんとなく口にすると、レナは少し驚いたように顔を上げた。
「……分かる?」
「昨日も、ただ雨で困ってるだけじゃない顔してた」
「何それ、観察してたの」
「そういう言い方されると嫌だな」
「ふふ」
ほんの少し、レナが笑った。
初めて見たかもしれない。
教室で見せる棘のある顔でもなく、昨日の追い詰められた顔でもない。
気が抜けた時の、短い笑い方だった。
「ごめん」
レナはすぐに言い直した。
「別に嫌味じゃない」
「ならいい」
「……ありがと」
「何が」
「今日も。昨日も」
今度はちゃんと聞こえる声だった。
涼太は少しだけ肩をすくめる。
「別に」
「影山、そういう時までその返しなんだ」
「便利だからな」
「便利って」
レナがまた少しだけ笑う。
その笑い方を見て、涼太は思った。
この子は本当に、人前では気を張っているのだろう。
ぶっきらぼうで、近寄りがたくて、壁がある。
でもそれは、そうしていないとしんどいからなのかもしれない。
時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
「何時までいられそうだ」
「七時半くらいなら、たぶん帰ってももう客いない」
「分かった」
「……いいの?」
「何が」
「少し長くいても」
「別に。飯作るだけだから」
「もう作るの?」
「一人暮らしは時間配分命なんだよ」
レナが目を丸くする。
「何それ」
「真実」
「……じゃあ、私、邪魔じゃん」
「静かに座ってるなら別に」
「その言い方」
「気を遣う方が落ち着かないだろ」
レナは少し黙ってから、ふっと息を抜いた。
「……そういうとこ、変」
「褒めてる?」
「たぶん」
「またそれか」
キッチンへ立ち、冷蔵庫を開ける。
鶏肉、玉ねぎ、味噌、豆腐。
予定通りなら鶏を焼いて味噌汁だ。
後ろからレナの声がする。
「ほんとに今から作るんだ」
「作る」
「外食とかしないの?」
「たまにはする。でも基本は家の方が楽」
「へえ」
「黒瀬は?」
「私は……コンビニ多い」
「だろうな」
「何その分かったみたいな顔」
「昨日の紙袋の扱いが慣れてなかった」
「あれは雨のせい」
「はいはい」
包丁で玉ねぎを切りながら、涼太は少しだけ笑う。
こうして会話していると、レナは思っていたよりずっと普通だ。
もちろんぶっきらぼうではあるが、それだけだ。
近寄りがたいというより、近寄られ慣れていないのかもしれない。
「……あんたさ」
「ん?」
「何でそんなに普通なの」
「何が」
「女子が家にいるのに」
その一言で、危うく包丁を止めかけた。
普通なわけがない。
内心ではかなり落ち着かない。
女子を家に入れるのは初めてだし、相手はクラスメイトだし、しかもこういう事情付きだ。
ただ、それを表に出しても何の得もないだけだ。
「普通じゃないよ」
正直に言うと、レナがきょとんとした。
「そうなの?」
「かなり気は遣ってる」
「見えない」
「見せないようにしてるからな」
「……変」
「今日それ何回目だ」
「便利だから」
「朝比奈みたいなこと言うな」
そこでレナが少しだけ首をかしげた。
「朝比奈?」
「いや、何でもない」
危ない。
変な比較を口にしすぎると、話がややこしくなる。
鍋へ火をかけ、味噌汁の準備を進める。
その間、レナは黙って座っていた。だが気まずい沈黙ではない。
誰かが家にいて、でも無理に話さなくてもいい空気。
それは涼太にとっても不思議と悪くなかった。
やがて七時を少し回った頃、レナがスマホを見て言った。
「……もう平気かも」
「そうか」
「客、帰ったっぽい」
「ならよかった」
火を止め、レナの方を見る。
来た時より、だいぶ顔色がましになっていた。
完全に元気というわけではないが、少なくとも廊下で壁につかまっていた時ほど危うくはない。
レナは立ち上がり、鞄を持つ。
「……ありがと」
「おう」
「それと、今日のこと」
「言わない」
「まだ言ってない」
「どうせそう言うだろうと思った」
レナは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「分かってんじゃん」
「だいたいは」
「……助かった。ほんとに」
今度の礼は、昨日よりずっと素直だった。
玄関まで見送り、靴を履くレナを待つ。
扉を開ける前に、レナが振り返った。
「影山」
「ん?」
「……あんたのとこ、変に落ち着く」
その言い方は、ぶっきらぼうなのに、ちゃんと本音だった。
涼太は少しだけ目を瞬かせ、それから肩をすくめる。
「それならよかった」
「うん」
「でも次は、もっと早くどっか別の場所探せ」
「それは……善処する」
「信用ならない」
「お互い様」
そう言ってレナは出ていった。
扉が閉まり、家の中にまた静けさが戻る。
さっきまでそこに別の気配があったはずなのに、いなくなると妙に広く感じるのが不思議だった。
「……何なんだ、ほんと」
小さく呟きながら、涼太はキッチンへ戻る。
鶏肉はちょうどいい焼き色になっている。
味噌汁の湯気がゆっくり上がる。
いつもの一人分の夕飯のはずなのに、今日だけは少しだけ違う家の空気が残っていた。
一人暮らしの部屋は静かだ。
でも、その静かさが誰かの避難所になることもある。
そんなこと、春の始まりには想像もしていなかった。
パンツ入りの紙袋を拾った日から、少しずつ何かがおかしくなっている。
それはたぶん間違いない。
けれど、そのおかしさの中には、妙に拒みきれないものも混じり始めていた。
「……平穏、どこ行ったんだよ」
ため息交じりにそう言って、涼太は一人分の皿をテーブルへ運んだ。
静かな部屋の中で、時計の音だけがやけにきれいに聞こえていた。




