第6話 近寄りがたい女子は助けを求める前に限界が来る
その日の帰り道、空はあきらかに機嫌が悪かった。
朝の天気予報では「夕方からところによりにわか雨」と言っていた気がする。けれど、ところにより、という曖昧な言い方を信じた結果がこれなら、今後はもっと真面目に折りたたみ傘を持ち歩こうと、影山涼太は本気で思った。
駅前の信号を渡る手前で、空が一段暗くなった。
風が変わる。
次の瞬間には、ぽつ、ぽつ、と大粒の雨が落ちてくる。
「……最悪だな」
小さく呟いた時にはもう遅い。
春の終わりの雨は、降り始めの遠慮というものを知らないらしい。あっという間に音を立てて強くなり、アスファルトを叩き始める。周囲の人たちも慌てて軒下へ駆け込み、信号待ちの列は一瞬で崩れた。
涼太は舌打ちしたい気分をこらえつつ、近くのコンビニの庇の下へ走った。
制服の肩が少し濡れる。鞄はどうにか守れた。弁当箱はもう空だが、ノートや教科書が濡れるのは面倒だ。庇の下へ滑り込んでようやく一息ついたところで、ふと視界の端に立ち尽くしている人影が見えた。
少し離れたバス停の横。
雨宿りにもなっていない半端な場所で、一人の女子が困ったように立っている。
黒瀬レナだった。
二年A組。クラスメイトではあるが、会話らしい会話をしたことはほとんどない。
短めの髪。少し鋭い目つき。言葉数は少なく、愛想があるタイプでもない。
近寄りがたい、という言葉がいちばんしっくりくる女子だ。
実際、クラスでもレナへ自分から積極的に話しかける者は多くない。別に怖いことをするわけではない。ただ、壁があるのだ。自分から踏み込むな、と言っているような空気が。
その黒瀬レナが今、あきらかに困っていた。
右手には学校指定のバッグ。
左手には、どこかで買ったらしい紙袋。
だが紙袋は底のあたりが雨でふやけ、今にも抜けそうになっている。バッグのファスナーも少し開き、端からタオルのようなものが覗いていた。制服の袖口も濡れている。
問題はその困り方だ。
ただ雨に降られて立ち尽くしている、というだけではない。
何かを気にして、どう動くべきか決められない人間の顔をしている。
「……」
涼太は一瞬だけ迷った。
こういう時、自分は本当に損な性格だと思う。
見なかったことにして、自分の雨宿りへ専念すればいい。そうすれば面倒は増えない。黒瀬だって、頼んでもいない相手に勝手に助けられるより、その方が気楽かもしれない。
だが、そこで終われるなら苦労はない。
あの表情を見てしまった以上、たぶん家に帰ってからも気になる。
今日は鶏肉を焼くつもりだったが、フライパンの前で「あの時声をかければよかった」と考えるのが目に見えている。
「……ほんと、何なんだよ」
小さく呟いてから、涼太は庇の下を出た。
数歩で制服がまた少し濡れる。
「黒瀬」
声をかけると、レナがびくっと肩を震わせた。
振り向いた顔には、警戒と苛立ちと困惑が半分ずつ混ざっていた。
「……影山?」
「どうした」
「別に」
即答だった。
だが別に、で済んでいないのは見れば分かる。
紙袋の底は限界に近い。雨に濡れたまま持ち歩けば、そのうち破れる。しかもバッグの中身も整理できていないらしく、片手で押さえるのに必死だ。
「別に、じゃないだろ」
「放っといて」
「放っとける見た目してない」
「余計なお世話」
刺すような言い方だった。
だが、その言葉の裏に本気の怒りはあまりない。むしろ、“頼りたくないから近づくな”の方が強く聞こえた。
涼太はそこで一気に踏み込まず、少し距離を保ったまま言う。
「紙袋、底抜けるぞ」
レナの視線が一瞬だけ手元へ落ちる。
自分でも分かっていたらしい。だが認めるのが癪なのか、口を結んだままだ。
「コンビニで袋もらってくる」
「いらない」
「いやいるだろ」
「いらないって言ってる」
「じゃあ今そのまま帰れるのか」
そこでレナは言葉に詰まった。
図星らしい。
涼太はもう一歩だけ近づく。
なるべく低い声で、事実だけを並べる。
「今のままだと紙袋はそのうち破れる。バッグも開いてる。制服も濡れてる。このまま歩いたら余計面倒になる」
「……」
「だから袋とタオルだけ取ってくる。金は別にいい」
「なんで」
「なんでって」
涼太は一瞬返事に困った。
困ってるから、では足りない気がした。
黒瀬みたいな相手には、情けをかけるみたいな言い方は逆効果だろう。
少し考えてから、涼太は言う。
「見てる方が落ち着かないから」
レナが少しだけ目を見開いた。
「……何それ」
「本音」
「変なやつ」
「よく言われる」
そこまで言ってから、レナは深く息を吐いた。
あきらめた、というより、突っぱね続ける方が面倒だと判断した顔だった。
「……タオルだけ」
「袋もだ」
「タオルだけでいい」
「紙袋が崩壊したら意味ないだろ」
「……」
「袋も持ってくる」
レナは数秒黙り込んだあと、ようやく小さく言った。
「……じゃあ、勝手にすれば」
許可と受け取るにはずいぶん乱暴な言い方だったが、涼太には十分だった。
「待ってろ」
コンビニへ駆け込み、タオルと大きめのビニール袋を買う。ついでに薄いレジ袋も数枚もらった。こういう時、種類があった方がいい。生活しているとそういう感覚が身につく。
庇の下へ戻ると、レナはさっきと同じ場所にいた。
ただし、さっきより少しだけ肩の力が抜けているようにも見える。
「ほら」
まずは大きめのビニール袋を差し出す。
レナは一瞬だけためらってから、それを受け取った。
「……ありがと」
ほとんど聞こえないくらいの声だった。
次にタオルを渡す。
「袖、拭いとけ。あと髪も」
「そんな濡れてない」
「嘘つけ」
「うるさい」
言いながらも、レナは素直にタオルを受け取った。
そして濡れた前髪を軽く押さえ、袖口を拭く。その動きには、少しだけ無理をしている感じがあった。
「他、何がやばい」
「何がって?」
「その紙袋の中」
レナが目を逸らす。
「あんたに言う必要ある?」
「ない。でも袋のサイズ決めるには知った方が早い」
「……教科書とかじゃない」
「だろうな」
「……ちょっと、替えのもの」
その言い方で十分だった。
涼太はそれ以上聞かなかった。
紙袋に入っているのが、濡れたら困る身の回りの物だということだけ分かればいい。
「じゃあこっち」
薄めのレジ袋をもう一枚差し出す。
「紙袋ごと入れろ。二重にした方が安全」
レナは受け取ったものの、すぐには動かなかった。
片手でタオル、片手でバッグ、そこへ紙袋とビニール袋まで増えて、手が足りないのだ。
涼太は一瞬だけ考えてから言う。
「バッグ、持つ」
「は?」
「持ってる間に入れ替えろって意味」
「やだ」
「じゃあどうする」
「……」
レナは本気で悩んでいた。
プライドと現実がぶつかっている顔だ。
涼太はため息をつく。
「中は見ない」
「当たり前でしょ」
「分かってる。でもそう言った方が安心するかと思って」
レナは少しだけ唇を引き結び、それからバッグを押しつけるように涼太へ渡した。
「五秒」
「短いな」
「十秒でも長い」
「了解」
バッグは思っていたより軽かった。
レナはその間に、素早く紙袋をビニールへ入れ替え、さらにレジ袋で包み直す。動きに無駄がない。普段からこういう作業を人前で見られたくないのだろう。
「終わった」
「はい」
バッグを返す。
レナはそれを受け取ると、少しだけ表情を緩めた。
ほんの一瞬だったが、助かったという色は確かにあった。
「これで帰れるだろ」
「……たぶん」
「折りたたみ傘は」
「ない」
「だろうな」
「ムカつく言い方」
「事実確認だ」
レナは鼻を鳴らした。
だが完全に怒っているわけではないらしい。
問題はここからだった。
雨は弱まる気配がない。
庇の下にいたままでは帰れない。
かといってレナの家がどちら方面かも知らない。今から走って帰るにしても、さっき応急処置した荷物がまた濡れる可能性が高い。
涼太は自分の鞄の横ポケットから折りたたみ傘を出した。
今朝、空模様を見て何となく入れておいたやつだ。
「使え」
レナが目を見開く。
「……あんたは」
「家近い。走れば何とかなる」
これは半分本当だ。
何とかなる、と言い切るには少し距離があるが、濡れて困るものは鞄に入っているし、さっきまでのレナほど切羽詰まってもいない。
だがレナは即座に首を振った。
「いらない」
「今度は本気でいるだろ」
「だからいらないって」
「黒瀬」
「一人で帰れる」
「帰れるかどうかじゃなくて、また荷物濡れるぞ」
「……」
「さっきのやり直しになる」
その一言は効いたらしい。
レナは傘と涼太の顔を交互に見たあと、苦いものを飲み込むみたいに言う。
「……借りるだけ」
「別にやるわけじゃない」
「分かってる」
「明日でいい」
「……うん」
最後の返事だけ、少しだけ素直だった。
涼太は傘を開き、レナへ渡す。
レナはそれを受け取る時、ほんの一瞬だけ躊躇った。
自分のために差し出された物を、そのまま受け取ることに慣れていないのかもしれない。
「じゃあな」
涼太が言うと、レナはまだ納得していないような顔のまま、でも小さくうなずいた。
「……今日のこと」
「ん?」
「誰にも言わないで」
「言うわけないだろ」
その言葉に、レナは一瞬だけ何か言いたそうな顔をした。
たぶん、礼を言うかどうか迷ったのだろう。
だが結局、出てきたのはそっけない一言だった。
「……じゃあ、借りる」
「おう」
レナは傘を差し、足早に雨の中へ出ていった。
背中はいつも通り少し強張って見える。
だが、さっきみたいな追い詰められた感じはもうない。
それを見届けてから、涼太は自分の頭を軽くかいた。
「……俺は何をやってるんだ」
朝比奈ことりに続いて、今度は黒瀬レナ。
しかもパンツだの紙袋だのの次は、濡れた荷物の応急処置と傘の貸し出しである。
完全に何かがおかしい。
平穏な高校生活とは程遠い。
だが、見捨てた方が後味が悪いのだから仕方ない。
たぶんこれが自分の性分だ。
深く息を吐き、涼太は自分の鞄を抱え直した。
もう一度コンビニへ入り、安いビニール傘を買う。最初からこうしておけばよかったのかもしれないが、まあいい。
外へ出ると、雨はさっきより少しだけ細かくなっていた。
◆
その夜、夕飯を食べ終えて食器を洗っている時だった。
スマホが震える。
見ると、見慣れない名前から短いメッセージが届いていた。
黒瀬レナ
今日の帰り際、傘を貸した時に「返すから連絡先」と言われ、必要最低限だけ交換したのだ。あの時もずいぶん不機嫌そうな顔をしていたが、背に腹は代えられなかったのだろう。
メッセージは二行だけだった。
……今日は助かった。
変なこと言って悪かった。
短い。
だが、黒瀬レナがこれを送ってくるまでにどれだけ迷ったかは、何となく想像できた。
涼太は少しだけ考えてから返す。
気にするな。傘は明日でいい。
送ってすぐ、既読がついた。
だが返事はない。
それらしいといえば、それらしい。
涼太はスマホを置き、洗い終えた皿を水切りかごへ並べた。
台所の窓の外では、まだ小さく雨音が続いている。
朝比奈ことりは、静かな秘密を共有した相手。
藤宮みずきは、勝手に距離を詰めてくる騒がしい相談常連。
そして黒瀬レナは、人を頼るのが下手なくせに、限界になるとひどく危うい。
「……何で俺の周りだけこうなるんだ」
誰に向けるでもなく言ってみる。
当然、答えはない。
ただ、少しだけ分かっていることもあった。
たぶんこれは、偶然だけではない。
困っている人を見ると放っておけない自分が、こういう面倒へ自分から首を突っ込んでいるからだ。
分かっている。
分かっているのに、次もたぶん同じことをする。
それがいちばん厄介だった。
スマホがもう一度だけ震える。
短い追加メッセージ。
……あと、傘ありがとう。
それだけ。
だが、さっきの二行よりほんの少しだけ柔らかく見えた。
涼太はそれを見て、ふっと息を吐く。
ため息というより、少しだけ力が抜けた感じに近い。
「……まあ、無事ならいいか」
そう呟いて、流し台の水を止める。
雨の夜の台所は静かだった。
その静けさの中で、また一つだけ、自分の放課後が平穏から遠ざかったことを、涼太はぼんやり実感していた。




