第4話 元気系女子はパンツという単語だけで勝手に大騒ぎする
朝というものは、前日の余韻を忘れさせてくれることもあれば、むしろきっちり連れてくることもある。
その日の影山涼太にとっては、完全に後者だった。
台所でフライパンを振りながら、彼は昨日のことを思い出していた。
駅前のパン屋。
レモンのクッキー。
朝比奈ことりの「借りっぱなしみたいで落ち着かないので」という妙に律儀な言い方。
そして帰り際の「また明日」。
別に何か特別なことがあったわけではない。
たったそれだけだ。放課後に少し話して、焼き菓子を受け取って、一緒に駅まで歩いただけ。
なのに、思い返せば思い返すほど、普通のクラスメイトの距離ではない気がしてしまう。
「……いや、普通だろ」
卵焼きをひっくり返しながら、小さく呟く。
普通だ。
お礼を受け取っただけだ。
深く考える方がどうかしている。
だが、そうやって理性で片づけようとするたびに、ことりが少しだけ笑った顔や、昨日より柔らかくなっていた声が脳裏によみがえる。女子に慣れていない自分にとって、ああいう細かな変化は必要以上に残るのだ。
涼太は自分の分の弁当箱へ卵焼きを詰め、きんぴらを寄せ、ふたを閉める。朝の仕事を手早く済ませると、少しだけ気持ちも整う。両親が海外赴任になってから一人暮らしを始めて数か月。最初はただ必死だった家事も、今では日々のリズムになっていた。
味噌汁を飲み干し、食器を流しへ置いて、制服の襟を正す。
よし。今日は普通に過ごす。
そう決めて家を出た。
けれど、人生というのはたいてい、そう決めた日に限って普通では終わらない。
◆
教室へ入った瞬間、涼太は妙な視線を感じた。
いや、視線というほどではない。ざわつき、とでも言うべき空気だ。誰かがこちらを見ているわけではないのに、なぜか“話題の中心に近いところへうっかり立ってしまった感覚”がある。
「……なんだ?」
小さく眉をひそめながら席へ向かう。
理由はすぐ分かった。
藤宮みずきがいたからだ。
朝から元気そうな顔で、しかも妙に機嫌がよさそうで、こちらを見る目が明らかに面白がっていた。
嫌な予感しかしない。
「おはよ、影山」
「……おはよう」
「なんでそんな警戒してんの」
「おまえがそういう顔してる時はろくなことがないから」
「失礼だなー」
そう言いながらも、みずきは全然否定しない。むしろにやにやしている。
藤宮みずきは、明るい。
そして近い。
距離感が近いという意味でも、他人の面倒ごとへ飛び込む速度という意味でも、とにかく近い。
ショートカットの髪を揺らし、運動部らしい軽さで人の机の横へ立つ姿は、朝から妙にエネルギーがある。こちらがまだ一日分のテンションを立ち上げ切っていない時間帯でも、彼女だけは最初から全開なのだ。
「で?」
「で、って何が」
「昨日さ」
その二文字で、涼太の心臓が嫌な跳ね方をした。
「……昨日がどうした」
「放課後」
やめろ。
朝からその話題を出すな。
涼太は一瞬だけ教室を見回した。幸い、周囲はまだ各自の朝の準備に忙しい。聞き耳を立てている様子はない。ないが、油断はできない。
「別に何もない」
「その“何もないです”って顔、ほんと分かりやすいよね」
「おまえにだけは言われたくない」
「で、パン屋どうだった?」
危うく咳き込みそうになった。
「なんでそこまで知ってるんだよ」
「昨日、廊下で聞いた」
みずきは悪びれもせず言う。
「朝比奈と影山、パン屋行くっぽかったじゃん」
「っぽかった、で確定するな」
「行ったんでしょ?」
「……行ったけど」
「うわ、認めた」
「隠してないだけだ」
「へえー」
その「へえー」に含まれている面白がり成分が濃すぎる。
涼太は机に鞄を置きながら、なるべく低い声で言った。
「変なふうに広めるなよ」
「広めてないって」
「その顔で言うな」
「その顔ってどの顔?」
「今のおまえの全部だよ」
みずきは楽しそうに笑った。やはりこいつは厄介だ。
だが、その時点ではまだ、涼太は事態を甘く見ていた。
みずきは“昨日のパン屋”のことを面白がっているだけだと思っていたのだ。
少なくとも、次の休み時間までは。
◆
一時間目の授業が終わる。
教科書を閉じ、軽く息をついていると、みずきがまたやってきた。
「影山」
「なんだよ」
「ちょっと確認したいことあるんだけど」
「嫌な言い方だな」
「大丈夫大丈夫、軽い話だから」
軽い話ほど信用できない。
そう思いつつも、無視するわけにもいかない。みずきは涼太の机に肘をつき、声をひそめるような素振りだけして言った。
「朝比奈のやつってさ」
「何が」
「返したの?」
涼太は一瞬、思考が止まった。
「……何を」
「パンツ」
その単語があまりにも自然に出てきたせいで、逆に反応が遅れた。
数秒の空白のあと、涼太は本気で固まる。
「は?」
「え、違うの?」
「おまえ何をどうしたらそうなるんだよ!」
思わず声が大きくなった。
教室の数人がこちらを見る。
まずい、と気づいて涼太は慌てて口を押さえた。
だが遅い。みずきは目を丸くし、次の瞬間には吹き出しそうになっていた。
「ちょ、そんな反応する!?」
「するだろ! 何でそんな話になってるんだ!」
「だって昨日、聞こえたんだもん。“返す”“言わない”“パンツ”って」
涼太は頭を抱えたくなった。
最悪だ。
昨日、一昨日の断片的な会話だけを拾えば、たしかにそう聞こえるかもしれない。かもしれないが、そこをなぜそのまま信じる。
「……おまえ、文脈って知ってるか」
「知ってるよ」
「知らないだろ」
「でも実際、朝比奈の“何か”を返したのは本当なんでしょ?」
「それは……」
そこで言葉が詰まる。
紙袋を返したのは本当だ。
だが、その説明をするには“紙袋の中身”へ少しでも触れざるを得ない。
それは約束違反だ。
涼太の沈黙を、みずきは都合よく解釈したらしい。
「うわ、やっぱそうなんだ」
「違う」
「でも完全に違うとも言ってない」
「言えないだけだ」
「それ、ますます怪しいやつじゃん」
「おまえが勝手に怪しくしてるんだろ!」
また声が大きくなりそうになり、涼太は慌てて抑えた。
その時だった。
「……藤宮さん」
静かな声が割って入る。
振り向くと、朝比奈ことりが立っていた。
みずきが机に肘をついていたせいで、ことりとの距離が妙に近い。しかも最悪なことに、ことりは今の会話の最後の方だけは聞こえていたらしい。
「朝比奈」
涼太が言うと、ことりは一瞬だけこちらを見る。
そしてみずきへ向き直る。
「何のお話ですか」
声は丁寧だ。
だが、丁寧すぎる時のことりは少し怖い。
みずきは悪びれもせず、むしろ面白そうに答えた。
「え? 影山と朝比奈の放課後の秘密について」
「秘密……」
ことりの頬がかすかに赤くなった。
涼太は反射的に割って入る。
「誤解だ。藤宮が勝手に変な方向へ話を持っていってるだけ」
「変な方向って?」
「そのままだよ」
「でも朝比奈、顔赤いよ?」
「おまえがその話題出すからだろ!」
「つまり何かあるんだ」
「ないとは言ってないけど、言い方!」
もはや会話がめちゃくちゃだ。
ことりは困ったように目を伏せ、それから小さく息を吸った。
「……昨日のことでしたら、その、ちゃんと理由はあります」
涼太は一瞬、心臓が止まりかけた。
やめろ。
説明しなくていい。
だがことりは、そこで続きを言わなかった。代わりに、みずきをまっすぐ見て言う。
「でも、人に詳しく話すようなことではないので」
言い方は柔らかい。
それなのに、きちんと線は引いている。
みずきは「おお」と少し感心したような顔になった。
「朝比奈、怒ってる?」
「怒ってはいません」
「でもちょっと圧ある」
「たぶん気のせいです」
「それ、気のせいじゃない時のやつだ」
みずきは笑っていたが、ことりの空気をきちんと読んだらしい。それ以上は踏み込まず、両手を上げてみせた。
「了解了解。変なふうに言わないって」
「最初からそうしてくれ」
「影山に言われたくないなー」
「何でだよ」
「昨日、朝比奈とすごい気まずそうだったし」
その一言で、今度はことりと涼太の両方が止まった。
みずきの観察眼は、ざっくりしているようでいてたまに妙に鋭い。
「やっぱなんかあったんじゃん」
「だから、あったけど」
「あるんだ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どっちなの」
「おまえほんと面倒だな!」
そこへチャイムが鳴り、二時間目の先生が入ってきたことで会話は強制終了した。みずきは「続きはまたあとでねー」と軽く手を振って自分の席へ戻っていく。
涼太は机に突っ伏したくなった。
最悪の朝だ。
◆
二時間目の授業中、涼太はほとんど内容が頭に入ってこなかった。
原因は明白である。
隣の列の少し前に座っていることりの存在と、さっきのみずきの爆弾発言だ。
“パンツ”という単語だけが独り歩きしている。
しかも最悪なことに、完全な嘘ではない。紙袋のレシートにその文字はあった。だが、それをそのまま人間関係の中心へ持ち込まれると全部がおかしくなる。
問題は、ことりがどう思っているかだ。
さっき、彼女はちゃんと線を引いてくれた。みずきの勢いに流されず、「話すようなことではない」と守ってくれた。それだけでもありがたい。
だが同時に、“変に勘違いされるくらいなら説明した方がいいのでは”と無理をし始めないかも心配だった。ことりは律儀だ。必要以上に責任を感じるところがある。
授業のノートを取るふりをしながら、涼太はそんなことばかり考えていた。
黒板の文字があまり頭に入らず、気づけば先生に当てられそうになって慌てて教科書へ視線を落とす。危うく今日二回目の恥をかくところだった。
そして休み時間。
ことりが静かにこちらへ近づいてきた。
「影山くん」
「……悪い」
声をかけられる前に、涼太はそう言った。
ことりが少し目を丸くする。
「どうして影山くんが謝るんですか」
「いや、藤宮が変なこと言い出したの、たぶん俺の反応のせいもあるし」
「たしかに、少し分かりやすかったです」
「否定しないのか」
「事実なので」
ことりは淡々と言う。
だが口元がわずかにやわらかい。怒ってはいないらしい。
それだけで少しほっとした。
「その……朝比奈は大丈夫か」
「何がですか」
「いや、その、変な誤解」
ことりは一瞬だけ視線を下げ、それから小さくうなずいた。
「少し恥ずかしかったですけど、大丈夫です」
「少しか?」
「かなり、です」
「だろうな」
「でも」
ことりはそこで少しだけ笑った。
「影山くんが、私よりずっと慌てていたので」
「そりゃ慌てるだろ」
「そうですね」
その短いやり取りだけで、少し空気が和らいだ。
だが、その平和は長く続かなかった。
◆
昼休みの少し前、事件は起きた。
三時間目が終わり、廊下へ人があふれ出す。体育のあるクラスは早めに更衣室へ向かい、購買へ行く者は走り、次の授業の準備をする者は自席へ残る。そんな中、突然、廊下の向こうで大きな声がした。
「ない!」
聞き覚えのありすぎる声だった。
みずきだ。
「え、ちょっと待って、どこ!?」
ただならぬ気配に、周囲がざわつく。
涼太も反射的に立ち上がった。廊下へ出ると、みずきが自分のロッカーの前でしゃがみ込み、スポーツバッグの中身をひっくり返す勢いで探し物をしていた。
「どうした」
「影山!」
みずきが顔を上げる。
明るい顔は消え失せ、完全に焦っていた。
「部活のノートがない!」
「ノート?」
「試合の記録とか、メニューとか、全部書いてるやつ! あとロッカーの予備鍵も一緒に入ってたのに!」
周囲にいた女子が「え、まずくない?」と声を上げる。
たしかにまずい。部活で使う記録ノートと鍵が一緒に消えたなら、冗談では済まない。
みずきはいつも勢いだけで何とかしていそうに見えるが、実際にはかなり真面目だ。部のノートをなくしたとなれば、本人にとって相当なダメージだろう。
「いつまであった」
「二時間目の前にはあった! たぶん!」
「たぶんかよ」
「だって急いでたし!」
半泣き一歩手前の声だった。
涼太は周囲を見回した。ロッカーの前。ベンチの下。壁際。すぐ近くに落ちている様子はない。バッグの中も、少なくとも一番上には見当たらない。
「最後に使ったのは?」
「朝練のあと、一回ロッカー開けてタオル入れて、それから……あっ」
「何だ」
「二時間目の前に、体育館の倉庫でメニュー表見直したかも」
「かも、じゃなくて」
「見直した! たぶん!」
「もういい、行くぞ」
「え?」
「倉庫。そこに置き忘れた可能性ある」
みずきは一瞬ぽかんとして、それから慌てて立ち上がった。
「え、待って、影山ついてきてくれるの?」
「おまえ一人だとたぶん途中で別のことに気を取られる」
「ひど」
「事実だろ」
「……事実かも」
そこで素直になるな、と内心思いつつ、涼太は先に歩き出した。
廊下を並んで走るように進みながら、みずきが横で言う。
「影山ってさ」
「今それ聞く必要あるか?」
「女子のトラブル処理、妙に慣れてない?」
「慣れてない」
「でもうまい」
「たまたまだ」
「やっぱ“パンツ案件のプロ”なんじゃ」
「その肩書きは本当にやめろ!」
思わず強めに返すと、みずきが少しだけ笑った。
こういう時でも軽口が出るなら、まだ完全には崩れていないらしい。
体育館の倉庫へ着き、涼太は中を見渡した。
ボールかご、マット、コーン、予備のビブス。
雑多だが、見渡せば分かる。
「あった」
「え!?」
棚の横の折り畳み椅子の上に、ノートらしきものが置かれていた。
その隣に小さな鍵もある。
みずきが駆け寄り、ノートを抱え込むように持ち上げる。
「あったあぁ……!」
力の抜けた声だった。
本気で焦っていたらしい。
「だから言っただろ。最後に使った場所を思い出せって」
「影山すご……」
「すごくない。置いた場所を辿っただけだ」
「でも私、一人だったら絶対ロッカー周りだけ探して終わってた」
「だろうな」
みずきはノートと鍵を胸に抱えたまま、へなへなとその場に座り込みそうになった。慌てて涼太が腕を掴む。
「そこ、埃だらけだぞ」
「あ、やば」
「まったく……」
思わず呆れた声が出る。
だが、みずきはそのまま涼太を見上げて、少しだけ真面目な顔になった。
「ありがと」
「いいよ。見つかったなら」
「ほんと助かった」
「次からちゃんと管理しろ」
「善処します」
「信用ならない返事だな」
「でも今ちょっとだけ、影山のこと頼もしいって思った」
「ちょっとだけか」
「だいぶ、かも」
そこでみずきが、にやっとする。
嫌な予感がした。
「何だその顔」
「影山ってさ」
「嫌な言い方だな」
「女子の“恥ずかしいやらかし”を広げないで処理するの、うますぎない?」
「……は?」
「朝比奈の件もそうだけど、今のもそうじゃん。普通なら“藤宮またやらかしてる”って周りにバレるのに、影山がいるとそうならない」
涼太は言葉に詰まった。
たしかに、そうかもしれない。
だが別に意識してやっているわけではない。
ただ、人の失敗が余計に広がる前に片づけた方が楽だと思っているだけだ。
「影山って、もしかして女子のピンチ専用ヒーロー?」
「違う」
「じゃあ何」
「巻き込まれ事故の被害者だよ」
即答すると、みずきは声を上げて笑った。
「それ、ちょっと分かる!」
「分かるなら巻き込むな」
「でも影山、嫌そうにしながら助けてくれるじゃん」
「嫌なのは本当だからな」
「ふふ、そこがいいんだよ」
その言い方はずるい。
軽い冗談のはずなのに、変に真っすぐで、涼太は一瞬返す言葉を失う。
女子にそういう近い言い方をされるのに慣れていない自分には、心臓に悪い。
「……戻るぞ」
「照れた?」
「照れてない」
「照れてるじゃん」
「早く歩け」
みずきはにやにやしながらも素直に後ろをついてきた。
廊下へ戻る途中、すれ違った生徒が「見つかった?」と声をかけてくる。みずきは「うん! 影山のおかげ!」と元気に答えた。
その言い方に、少しだけ嫌なものを感じる。
「おい」
「何?」
「それ、あんまり言うなよ」
「なんで?」
「目立つだろ」
「いいじゃん、助かったんだし」
「よくない。普通に面倒だ」
「ほんと影山って、助けたあとすぐ平穏に戻りたがるよね」
「当たり前だろ」
「それも分かるけどさー」
みずきは少し先を歩きながら振り返り、笑った。
「そういうとこ、結構好きだよ」
「……軽く言うな」
「重く言ってないから安心して」
安心できるか。
だが、みずきはそういう距離感で人と話すのが普通なのだろう。そこに悪意はない。ないからこそ余計にやりにくい。
◆
昼休み。
結局、みずきは本当に何人かへ「影山が見つけてくれた」と言って回っていた。大げさではないが、小さく広がるには十分だ。
しかも悪いことに、その流れで「朝比奈の件も何かあったんだっけ?」みたいな空気が少しずつできかけている。
最悪だった。
「影山くん」
弁当を広げていると、ことりが小さな声で呼んだ。
「……何」
「藤宮さん、ずいぶん元気ですね」
「いつものことだろ」
「そうですが……今日は特に」
ことりは少し言いづらそうにしながら、視線を廊下の方へやる。そこではみずきが、部活仲間に囲まれて何やら大きめの声で笑っていた。
たぶん今も、ノートの話をしている。
涼太はため息をついた。
「俺、あいつに変な信頼持たれた気がする」
「変な信頼」
「“女子の恥ずかしいミスを黙って処理してくれる人”みたいな」
ことりは一瞬だけきょとんとしたあと、ふっと笑った。
「それは……少し分かります」
「分かるのかよ」
「だって、実際そうでしたから」
そう言われると、否定しづらい。
ことりは続ける。
「でも、悪いことではないと思います」
「俺の平穏は悪くなる」
「それは……そうかもしれません」
少し申し訳なさそうに言ってから、ことりはまた笑った。
「影山くん、最近よくため息をつきますね」
「原因の一部は朝比奈にもある」
「そんなにですか」
「かなり」
「じゃあ、お詫びに今度また焼き菓子を」
「物で解決しようとするな」
「便利なので」
「またそれか」
その会話の途中で、みずきがこちらへ戻ってきた。
「何の話?」
「何でもない」
「絶対何でもなくない」
ずかずか来るな。
そう思うが、この子は言っても止まらない。
みずきは机に手をつき、まずことりを見て、それから涼太を見る。
「ねえ朝比奈」
「はい」
「影山って、ほんと変なとこ頼りになるよね」
「そうですね」
「即答だ」
「事実なので」
ことりが落ち着いて答えると、みずきは面白そうに目を細めた。
「何それ。二人、やっぱ息合ってない?」
「合ってない」
「合ってません」
またきれいに声が重なる。
一瞬の沈黙。
そしてみずきが、今日いちばん楽しそうな顔になる。
「うわ、今のすごい」
「……藤宮」
「はい?」
「もう帰れ」
「まだ昼休みだよ!?」
その返しで、ことりがとうとう声を立てて笑った。
涼太も少しだけ吹き出しそうになる。
最悪な誤解から始まったはずなのに、気づけば三人で変な会話をしている。
平穏とは程遠い。
だが、完全に悪いわけでもない。
たぶんそれがいちばん厄介だった。
◆
放課後。
部活へ向かうみずきは、体育館履きに履き替えながら、最後にもう一度涼太の方を振り返った。
「影山!」
「何だ」
「今日のこと、ほんと助かったからね!」
「分かったから、今度からノート置き忘れるなよ」
「善処します!」
「信用ならない」
「あと」
みずきは少しだけにやっとして言った。
「もし次に“パンツ案件”があったら、最初に呼ぶね」
「呼ぶな!」
教室に笑いが起きる。
みずきはけらけら笑いながら去っていった。
残された涼太は、机に片手をついて深くため息をつく。
ことりがその横で小さく言った。
「……賑やかな方ですね」
「台風みたいなやつだよ」
「でも悪い人ではないです」
「それが一番厄介なんだ」
ことりは少しだけ笑った。
窓の外では、夕方の光が校庭を斜めに照らしている。
部活へ走る足音。
教室に残るわずかなざわめき。
昨日までとはまた違う放課後の空気が、そこにあった。
朝比奈ことりとの静かな気まずさに、藤宮みずきの騒がしさが割り込んできた。
そのせいで平穏はさらに遠のいた。
けれど同時に、物語は少しだけ動き始めた気もする。
影山涼太は窓の外を見ながら思う。
パンツという単語だけで大騒ぎする女がいるなんて、普通は予想しない。
しかもそいつが、今後も面倒ごとを持ち込んでくる気配しかしない。
「……ほんと、何なんだよ」
だが、その呟きに以前ほどの本気の拒絶はなかった。
面倒だ。
すごく面倒だ。
それでも、ただ困るだけで終われない自分がいる。
たぶんその時点で、もう少しだけ手遅れなのだった。




