第3話 優等生はパンツの借りを焼き菓子で返そうとしてくる
駅前のパン屋は、夕方になると少しだけ空気が甘くなる。
学校帰りの高校生、買い物帰りの主婦、塾へ向かう前らしい小学生、仕事帰りの会社員。誰が入っても不思議じゃない、町に一軒あると助かる類の店だ。ガラス越しに見える棚には、焼きたてのパンや菓子パンが並び、店先の黒板には季節限定の新作がチョークで書かれている。
その店の前で、影山涼太はものすごく落ち着かない気分になっていた。
理由は明快だ。
隣に、朝比奈ことりがいる。
しかも二人きりで、放課後に、駅前のパン屋に寄るという状況だ。
別に悪いことをしているわけではない。やましいことなど何一つない。きっかけはあくまでお礼であり、話の流れとしても不自然ではない。頭ではそう分かっている。
だが、頭で分かることと、心臓が落ち着くことは別だった。
「……影山くん、さっきから固まっていませんか」
隣で、ことりが少し不思議そうに言った。
「固まってない」
「そうですか?」
「そうだよ」
「なら、よかったです」
まったく、よくない。
自分でも分かるくらい表情が硬い自覚はある。だがどうしろというのだ。女子に慣れていない男が、クラスの優等生と並んでパン屋の前に立たされたら、このくらい硬くなるのが普通ではないかと涼太は思う。
もっとも、その“普通”を証明してくれる相手がいないので、単なる自分の想像にすぎないのだが。
ことりはそんな涼太の内心など知らない様子で、店頭の黒板を見上げた。
「今日の新作、これみたいです」
小さく指をさした先には、春限定・はちみつレモンの焼き菓子、と書いてあった。
「焼き菓子ってパン屋でも売るんだな」
「売りますよ。ここのクッキー、おいしいんです」
「詳しいな」
「たまに寄るので」
ことりの返事はごく自然だった。そこに変な含みはない。たぶん彼女にとっては、本当に“おすすめの店を案内している”程度の感覚なのだろう。
それに比べてこちらは何をやっているのか。
店に入るだけで心の準備をしている時点で、情けないにもほどがある。
「……入るか」
「はい」
二人で店の扉を開ける。
小さなベルが鳴った。
店の中は、外よりもさらに甘い香りがした。バターと小麦の焼ける匂いに、少しだけ砂糖の香りが混じっている。木の棚に並ぶパンはどれもつややかで、照明もやわらかい。放課後の高校生が二人で入っても、特に珍しがられるような雰囲気ではなかった。
それが逆に、少しだけ涼太を落ち着かせた。
ことりは慣れた様子でトングとトレーを取り、焼き菓子の棚へ向かう。
「影山くんは、どれがいいですか」
「いや、俺が選ぶのか?」
「お礼なので、選んでください」
「そういうのは本当に気にしなくていいって言っただろ」
「それは聞きました」
「聞いただけかよ」
「はい」
ことりはしれっと答えた。
こういう時、この子は妙に頑固だと涼太は知り始めていた。普段は穏やかで控えめに見えるくせに、一度“こうする”と決めたら意外と引かない。昨日だって、あの極限の羞恥状態からわざわざ教室までお礼を言いに来たのだから、その時点でかなり芯は強いのだろう。
「一つだけですから」
「いや、一つだからじゃなくて」
「受け取ってくれないと、私が落ち着きません」
それを言われると弱い。
涼太はため息をつき、棚を見た。
クッキー。スコーン。マドレーヌ。パウンドケーキ。
どれを選んでも、別に大差はない気がする。というより、ここで悩みすぎるとそれはそれでおかしい。
「……じゃあ、これ」
手近にあったレモンのクッキーを指さす。
「レモン、お好きなんですか」
「いや、そこまでじゃないけど。これなら軽いし」
「軽い?」
「高すぎなさそうだし、受け取る側としても気が楽」
ことりは一瞬目を丸くし、それから少しだけ笑った。
「そういう理由なんですね」
「そういう理由だよ」
「もっと、味の好みとかで選ぶのかと思いました」
「そういう選び方を求めるなら、最初から聞くな」
「たしかに」
くす、とことりが笑う。
その笑い方が自然で、涼太は少しだけ肩の力が抜けた。
結局、ことりは涼太の分のクッキーと、自分用に小さなスコーンを一つ取り、会計へ向かった。涼太は「自分の分くらい払う」と言いかけたが、その前にことりがすっと財布を出してしまったので間に合わなかった。
「おい」
「お礼ですから」
「それ、便利な言葉だな」
「今日は何度でも使います」
店の外へ出ると、夕方の空気が少しだけひんやりしていた。手元の小さな紙袋からは、ほのかにレモンとバターの匂いがする。
駅前は、まだ帰宅ラッシュ前の中途半端な時間だ。人通りは多いが、立ち止まっていても邪魔にはならない。ことりは店先から少し離れた場所で足を止めた。
「それで」
「それで?」
「受け取ってもらえました」
「受け取ったな」
「これで少し、昨日のお礼ができました」
ことりがそう言って、満足そうにうなずく。
涼太は紙袋を見下ろし、少し考えた。
「別に、本当にいいのに」
「よくないです」
「そんなにか」
「そんなにです」
きっぱりしている。
ことりは自分のスコーンの入った袋を両手で持ちながら、少しだけ視線を泳がせた。
「昨日、私、かなり取り乱していたので」
「まあ……そうだな」
「今日も、朝から変でしたし」
「それは俺もだから」
「影山くんは、どうしてあんなに変だったんですか」
やはりそこを聞かれるのかと、涼太は思った。
でも聞かれて当然でもある。
昼間に一度説明したとはいえ、言葉だけで全部伝わった気はしていない。今なら、さっきよりはもう少しましに話せるかもしれない。
「……だから、分からなかったんだよ」
「何がですか」
「どう接すればいいか」
ことりは静かにこちらを見る。
店先の明かりが、彼女の髪にやわらかく当たっていた。教室の中で見るより少しだけ大人びて見えて、涼太は一瞬だけ言葉を失いかける。慌てて視線を少し逸らした。
「俺、そういうの得意じゃないって言っただろ」
「女子に慣れていない、という話ですか」
「それもある」
涼太は正直に言うことにした。
「朝比奈みたいな相手だと、なおさらだよ」
「私みたいな?」
「落ち着いてて、きちんとしてて、失礼のないようにしなきゃって思う相手」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなる。なんだその言い方は。まるで必要以上に意識しているみたいではないか。実際かなり意識しているのだから仕方ないのだが、わざわざ言葉にすると別の恥ずかしさが生まれる。
ことりは少しだけ瞬きをしたあと、ゆっくり口を開いた。
「……そんなふうに思われているんですね」
「思われてるも何も、事実だろ」
「でも私、全然そんなに立派じゃないです」
「立派かどうかはともかく、そう見えるって話だよ」
「見える、ですか」
「うん」
ことりは少し考えるように黙り込んだ。
その横顔は、やっぱり普段の教室より柔らかい。秘密を共有してしまったせいなのか、こうして外で話しているせいなのかは分からないが、少なくとも“完璧な優等生”という印象からは少しずつずれている。
それが悪いことだとは、涼太は思わなかった。
「私も」
やがてことりが言う。
「影山くんのこと、少し誤解していたかもしれません」
「誤解?」
「もっと何でもそつなくこなして、こういう時も平気な顔で対応できる人かと思っていました」
「そんな器用に見えるか?」
「見えます」
「外見だけだな」
「たぶん、そうですね」
ことりはそこで小さく笑った。
「でも、少し安心しました」
「何が」
「影山くんも困っていたんだって分かったので」
「困ってたよ。かなり」
「私だけじゃなかったんですね」
「そりゃそうだろ」
ことりがまた少しだけ笑う。
その笑い方は、昨日の校舎裏よりさらに柔らかかった。緊張や羞恥はまだゼロではないのだろうが、それだけではなくなっているのが分かる。
ふと、ことりが手元の袋を見たまま言った。
「昨日、ずっと考えていたんです」
「何を」
「見られたことは恥ずかしいのに、どうしてあんなに、影山くんの言葉が頭に残るんだろうって」
涼太の心臓が小さく跳ねた。
「……俺、何か言ったか」
「言いました」
ことりは即答した。
「“人に見られたくないものって、誰にでもあるだろ”って」
「ああ……」
自分では、必死に気まずさを和らげようとして口走っただけの言葉だ。特別うまいことを言ったとも思っていない。むしろ少し不用意だったかもしれないと、後で反省したくらいだ。
だがことりは、その言葉をかなり真剣に受け取っていたらしい。
「私、ああいうのを持っていること自体が恥ずかしいんだと思っていました」
「違うのか」
「違うというか……たぶん、“知られること”が怖かったんです」
ことりはゆっくりと言葉を選ぶ。
「ちゃんとしている人だと思われていたいのに、そうじゃない自分を見られるのが嫌で。でも影山くんは、それを変だって言わなかったから」
「変じゃないだろ、実際」
「……そう言ってくれたのが、少しうれしかったんです」
まっすぐな声だった。
涼太は何を返せばいいのか分からなくなった。
こういう時、もっと気の利いたことが言えればいいのだろう。
だが女子慣れしていない男子高校生の語彙力には限界がある。
結局、少しだけ目を逸らしながら言うしかなかった。
「……それなら、よかった」
ことりはその返事に、どこか安心したような顔をした。
「はい」
夕方の駅前を、自転車が一台通り過ぎる。すぐそばの信号が赤から青へ変わり、歩行者たちが横断歩道を渡っていく。そんな何でもない町の音の中で、二人の間だけ少し静かな時間が流れていた。
ことりがふと思い出したように言う。
「影山くん、お弁当、毎日自分で作っているんですよね」
「そうだけど」
「すごいですね」
「そんなにすごいか?」
「すごいです。私、朝にあんなにちゃんと作れません」
「朝比奈なら作れそうだけどな」
「そう見えるだけです」
「今日だけで二回聞いたな、その返し」
「便利なので」
ちょっと得意げに言われて、涼太は思わず笑ってしまう。
「そんな万能な言葉みたいに使うな」
「でも本当ですよ。私、家ではそこまで器用じゃないですし」
「そうなのか」
「はい。むしろ母には、“外で頑張りすぎるぶん家で気が抜けてる”って言われます」
「なんか想像つくな」
「ひどいです」
「褒めてる」
「それも便利な言葉ですね」
「お互い様だろ」
そう言うと、ことりはくすりと笑った。
今の会話は自然だった。昨日のことを無理に忘れたわけでも、気まずさが消えたわけでもない。それでも、会話そのものはちゃんと前に進んでいる。涼太はそのことに、自分でも少し驚いていた。
だがその一方で、こうして距離が縮まっていくこと自体に、また別の落ち着かなさもあった。
放課後に二人でパン屋へ寄り、昨日のことを振り返り、お互いの印象について話している。
これが平穏な高校生活かと言われれば、間違いなく違う。
「影山くん」
「ん?」
「一つ聞いてもいいですか」
「何」
ことりは少しだけ躊躇ってから言った。
「昨日、紙袋を見つけた時、本当に終わったと思いましたか」
涼太は数秒考え、それから正直に答えた。
「思った」
「やっぱり」
「だってそうだろ。女子のそういうのが入ってる紙袋を校舎裏で拾ったら、普通は終わるって思う」
「普通、ですか」
「少なくとも俺は思った。しかも持ち主が朝比奈だって分かった時点で、余計に」
「余計に?」
「……余計にだよ」
ここで“優等生だから余計に気まずい”と正直に言うのもどうかと思ったが、別の言い方を考える間に、ことりの方が先に察したらしかった。
「私だったから、ですか」
「まあ」
「それは少しだけ傷つきます」
「なんでだよ」
「もっと気楽な相手ならよかった、みたいに聞こえました」
「違う。そうじゃなくて」
涼太は慌てた。
「朝比奈って、そういうのを絶対人に見せたくないタイプだろ。だから余計に、まずいって思ったんだよ」
ことりは一瞬黙り、それから小さく息を吐く。
「……それなら、いいです」
「よくはないだろ」
「少しだけです」
ことりは小さく笑った。
涼太は心の中で、また一つ学ぶ。
この子は落ち着いて見えるくせに、たまに妙なところでからかってくる。
そして自分は、そういうのに弱い。
店先の時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
「そろそろ帰るか」
「はい」
二人は駅へ向かう道をゆっくり歩き出した。肩が触れるほど近くはないが、昨日のような不自然な距離でもない。並んで歩けるくらいには、空気が和らいでいる。
ことりは手にした袋を見下ろしながら、ぽつりと言った。
「影山くん」
「ん?」
「今日、お礼を受け取ってもらえてよかったです」
「そこまで気にしてたのか」
「気にしていました」
「なんで」
「だって、何も返せないままだと……」
ことりはそこで少し言葉を探し、ほんのわずかに頬を赤くする。
「借りっぱなしみたいで、落ち着かないので」
その言い方に、涼太は何とも言えない気持ちになった。
借り、という表現は間違っていない。たしかに昨日、自分はことりのピンチを助けたと言えなくもない。そしてことりはその分を返そうとしている。
けれど、それだけでは片づかない何かが、もう少しずつ混じり始めている気がした。
「……別に、借りとかじゃないけどな」
思わずそう言うと、ことりは少しだけ目を丸くした。
「そうですか?」
「うん。困ってたから返しただけだし」
「それでも、私は助かりました」
ことりはまっすぐ言った。
「だから、ありがとうございます」
またそれか、と思う。
けれど今度は不思議と照れくささの方が強くて、軽く流すことができなかった。
「……どういたしまして」
やっとそれだけ返す。
ことりは満足したように微笑んだ。
駅の手前で、二人は帰る方向が分かれた。
「それじゃあ、また明日」
ことりが言う。
昨日までは、そんな挨拶を意識することもなかった。同じクラスメイトなのだから、明日また会うのは当然だ。なのに今は、その“また明日”の一言が妙に静かに胸へ残る。
「ああ、また明日」
そう返すと、ことりは軽く会釈して歩き出した。
その背中を見送りながら、涼太は手元の小さな紙袋を見る。
パンツの借りを焼き菓子で返す優等生。
言葉にすると本当に意味が分からない。
けれど、その意味不明さが、昨日の放課後から始まった妙な関係をよく表している気もした。
「……平穏じゃないな」
ぼそりと呟く。
家に帰れば、また一人分の夕飯を作るいつもの時間が待っている。冷蔵庫の中身を思い出し、鶏肉をどう調理するか考える。そういう生活は何も変わらないはずだ。
なのに確実に、何かは変わり始めていた。
朝比奈ことりは、もうただの“優等生のクラスメイト”ではない。
自分もまた、たぶん彼女にとって“同じ教室にいる男子の一人”ではなくなっている。
それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ言えるのは――
「受け取るんじゃなかったかもしれないな、これ」
手元の紙袋にそう呟きながらも、涼太はそれを捨てたりしなかった。
むしろ潰さないように少し丁寧に持ち直して、駅へ向かって歩き出す。
そういうところが、もう少し手遅れなのだと、自分でもなんとなく分かっていた。




