第2話 育ちのいい男子はパンツを拾った翌日にどう振る舞えばいいのか知らない
翌朝、影山涼太は目覚ましが鳴る三分前に目を覚ました。
春から一人暮らしを始めてから、こういうことが増えた。誰かに起こされるわけでもなく、家の中に自分以外の気配がないせいか、身体の方が勝手に時間を覚えているらしい。天井を見上げたまま、しばらく布団の中で目だけを動かし、やがて小さく息を吐いた。
「……最悪だ」
起きて最初に出た言葉がそれだった。
理由ははっきりしている。
昨日の放課後だ。
校舎裏。紙袋。レシート。パンツ。朝比奈ことりの真っ赤な顔。
そして最後の、「……誰にも、言わないでください」。
忘れようと思って寝たはずなのに、記憶は妙に鮮明だった。しかも困ったことに、細部ばかり変に残っている。風の強さとか、フェンスの音とか、ことりが紙袋を受け取る時に指先が震えていたこととか。別に覚えていたいわけではないのに、こういう時の記憶に限ってやけにしつこい。
涼太は布団をはねのけ、ベッドから降りた。
とにかく朝の作業を進める。そうすれば余計なことを考えずに済む。顔を洗い、米を炊飯器からよそい、味噌汁を温め直し、卵を焼く。フライパンの上で半熟気味にまとまっていく卵を見ながら、涼太は無心になろうと努力した。
だが、無理だった。
卵を皿に移しながら、思う。
今日、どういう顔で朝比奈に会えばいい。
これがみずきや男子相手なら、まだ楽だっただろう。変な空気になっても勢いで流せる。だが相手は朝比奈ことりだ。丁寧で、上品で、普段から隙を見せない優等生。そういう相手と“紙袋の件”を共有してしまった状態で、同じ教室に入って、同じ授業を受けて、何事もなかったように振る舞えと言われても無理がある。
「いや、振る舞うしかないんだけどさ……」
誰に言うでもなく呟く。
味噌汁をすすっても、答えは出なかった。
学校へ向かう道の途中でも、涼太はずっと同じことを考えていた。
どう接すれば自然なのか。
昨日のことに触れない方がいいのは分かる。だが、だからといって露骨に避けるのも違う。普通に接する? その“普通”が分からない。
女性慣れしていないというのは、こういう時に本当に不便だと涼太は思う。
別に女子が怖いわけではない。苦手意識があるわけでもない。ただ、距離感の正解が分からないのだ。特に、相手が“こちらに何かしら気まずさを持っている”と分かった瞬間、急に足元が曖昧になる。
礼儀正しく。
無遠慮にならず。
気を遣いすぎたようにも見せず。
自然に。
そんな器用なことができるなら、そもそも昨日の夜からこんなに悩んでいない。
教室の前まで来た時には、すでに少し疲れていた。
深呼吸を一つして、扉を開ける。
いつもの朝の空気。男子のくだらない話し声。提出物を確認する委員。窓際で朝日を浴びながら本を読んでいるやつ。すべてが普段通りで、だからこそ、涼太だけが違う秘密を抱えているような気がした。
そして、その秘密の相手は、もう教室に来ていた。
朝比奈ことりは自分の席で、いつものようにノートを開いていた。背筋はまっすぐで、髪も整っていて、見た目だけなら昨日の放課後のことなどまるでなかったみたいだ。
――そう見えたのは、最初の数秒だけだった。
ことりはふと顔を上げた。
その視線が涼太とぶつかる。
ぴたり、と止まった。
時間にすれば一秒もなかっただろう。だが、その一瞬で十分だった。ことりの目がわずかに見開かれ、すぐに視線が逸れる。ページをめくる手が、ほんの少しだけ不自然に早くなった。
あ、だめだ。
涼太は直感した。
昨日のことは、当然ながら向こうも忘れていない。
そして自分も、そこで変に意識してしまったせいで、足取りがぎこちなくなった。いつもなら自然に自分の席へ向かうだけなのに、今日に限って鞄を机の角に軽くぶつける。
ガタン。
少し大きめの音がして、近くにいた数人がちらりと振り向いた。
「影山、朝から危なっかしいな」
男子の一人が笑う。
「悪い」
短く返し、涼太は席に座った。
落ち着け。
普通にしていればいい。
普通に。
そう自分へ言い聞かせる。
だが普通に、ができない。
前の席の男子に消しゴムを貸してくれと言われれば、いつもよりやや丁寧に渡してしまう。担任が入ってきた時の「起立、礼」も、いつもより一拍早く立ち上がってしまう。自分でも分かるくらい、妙に体が硬い。
しかも気のせいではなく、ことりの方も少し変だった。
授業が始まってしばらくした頃、担任が提出物の確認で教室を回った。ことりはいつも通りきれいにファイルをまとめて出していたが、その時だけ、涼太の席の方を一瞬だけ見た。すぐ逸れたけれど、見たのは分かった。
休み時間になると、ことりは女子の輪の中で笑っている。
だが、その笑顔は少しだけ固い。
しかも、二時間目と三時間目の間、廊下でたまたま鉢合わせしかけた時には、ことりは小さく会釈をしたあと、必要以上に端へ避けた。避けたというより、遠慮した、という方が近いかもしれない。だがどちらにせよ、妙だ。
そして涼太の方も、その瞬間に「あ、おはよう」とか「どうも」とか、何か一言返せばいいものを、軽く頭を下げることしかできなかった。
ひどい。
我ながら、ひどい。
自分は何をやっているのだろうと、三時間目の古典の最中、涼太は本気で反省した。
朝比奈は昨日、自分からお礼を言いに来た。あれだけ恥ずかしい思いをしたあとで、それでもきちんと伝えようとした。なのにこちらは、今日になった途端、まともに話せてもいない。
そりゃ気まずくもなる。
「影山」
古典教師の声が飛んできて、涼太ははっとする。
「その一文、現代語訳してみろ」
「……え」
完全に聞いていなかった。
教室にくすくすと笑いが広がる。涼太は教科書を見下ろしたまま数秒固まり、なんとか文脈から答えを組み立てた。八割方は合っていたらしく、教師は「まあいい」とだけ言って先へ進んだが、顔が熱い。
今日はだめだ。
朝からずっと調子が狂っている。
昼休み、いつものように購買のパンを買う気にもなれず、涼太は家から持ってきた弁当を自席で広げた。卵焼き、きんぴら、焼いた鮭。色味は地味だが味は悪くない。少なくとも自分の舌には合っている。
「影山ってほんと弁当ちゃんとしてるよな」
斜め後ろの男子が覗き込んできた。
「一人暮らしだからな」
「それでも朝からこれ作るの偉すぎだろ。俺とか冷凍食品しか無理」
「慣れだよ」
「朝比奈も見習いたいよなー、こういうの」
何気ない調子で別の男子が言った、その一言に、涼太の箸が止まった。
やめろ。
なぜ今その名前を出す。
だが現実は容赦ない。その声に反応したのか、窓際で女子数人と昼食を取っていたことりが、こちらを振り向いた。
目が合う。
ほんの一瞬。
ことりはすぐに目を逸らしたが、その前に、わずかに表情が曇ったのが分かった。
――避けられている、とでも思っただろうか。
いや、実際、自分は避けているように見えても仕方ない。
昨日の件を意識しすぎて、普通の会話すらできていないのだから。
食欲が少しなくなった。
弁当を半分ほど食べたところで、みずきが勢いよく近づいてきた。
「影山!」
「なんだ」
「その鮭ちょっとおいしそう」
「第一声それかよ」
「一口ちょうだい」
「やらない」
「けち」
いつも通りの調子だ。
みずきは机の横に立ったまま、弁当箱の中身を覗き込み、ふーんと感心したように言う。
「ほんとちゃんとしてるよね、影山。なんか変なとこでお母さんっぽい」
「男子高校生に対する評価じゃないだろ」
「でも分かる。朝比奈とかこういうの好きそう」
「なんで朝比奈が出てくるんだよ」
思ったより早く言葉が出てしまった。
みずきがにやっとする。
「あ、反応した」
「してない」
「したって。へえー」
「藤宮、おまえ絶対おもしろがってるだろ」
「うん」
即答だった。
涼太は深くため息をついた。みずきは相変わらず距離感が近い。悪いやつではないが、こういう時に余計なところまで踏み込んでくる。
「別に何もないよ」
「別に何もない人は、そんなに“何もないです”って顔しません」
「どんな顔だよ」
「朝比奈のこと意識してる顔」
「してない」
「即答早っ」
みずきはけらけら笑って去っていった。
最悪だ。
他人から見ても分かるくらい不自然らしい。
涼太は思わず、ことりの方をちらりと見た。すると、ことりはちょうど女子の友人と話している最中だったが、その表情はどこか上の空に見えた。笑ってはいるが、完全にはそこへ入れていない感じがする。
やはり、自分のせいかもしれない。
午後の授業も、空気は微妙なままだった。
ことりと直接話す機会はない。だが、お互いに意識しているのだけは分かる。目が合えば逸れる。近くを通ればどこかぎこちない。決定的に何かがあったわけではないのに、“何かがあった人たち”みたいな空気だけが漂っている。
周囲だって馬鹿ではない。
五時間目のあと、男子の一人がひそひそ声で言った。
「なんか最近、影山と朝比奈変じゃね?」
「分かる。前より会話してないのに、逆に意識してる感ある」
「もしかして喧嘩?」
「いや、影山が朝比奈に怒られることあるか?」
「ないな」
やめてくれ。
聞こえている。
涼太は机に突っ伏したくなったが、そんなことをすれば余計に怪しい。真顔でノートを整理しているふりをするしかない。
六時間目が終わり、放課後になる。
チャイムと同時に教室の空気が緩み、生徒たちは部活や帰宅の準備を始めた。いつもなら涼太もさっさと鞄をまとめて帰るところだが、今日は無理だった。
このまま帰ったら、たぶん明日も同じ空気が続く。
それはまずい。
謝るべきなのか。
いや、謝るのも違う気がする。
でも説明は必要だ。
どうしたものかと考えながら鞄へ教科書を入れていると、不意に目の前へ影が差した。
「影山くん」
その声だけで、心臓が跳ねた。
顔を上げる。
朝比奈ことりが立っていた。
昨日よりは落ち着いている。けれど、やはりどこか緊張しているのが分かる。両手で鞄の持ち手を握っていて、その指先に少し力が入っていた。
「……何」
ひどい返しだと、自分で言ってから思った。
ことりも一瞬だけ目を伏せる。しまった、と涼太が後悔したその時、ことりは小さく息を吸って言った。
「少し、お話してもいいですか」
断る理由はなかった。
「……ああ」
涼太は立ち上がった。
教室の外、廊下の端。窓際の、人の流れから少し外れた場所まで移動する。昨日の校舎裏ほどではないが、ここならクラスメイトの耳も届きにくい。
涼太は先に口を開いた。
「その、悪い」
「え?」
「今日」
言葉を探す。
うまく説明できる自信はない。
だが、変に取り繕う方が失礼だと思った。
「どう接していいか分からなくて。変だったと思う」
ことりはしばらく黙っていた。
やはりまずかったか、と涼太が思い始めた頃、ことりがぽつりと聞く。
「……避けられているのかと思いました」
その声は小さいが、はっきりしていた。
涼太は息を止める。
「違う」
それだけは即答できた。
「避けてたわけじゃない。ただ、昨日のことがあって、その……何が普通か分からなくなった」
「普通」
「朝比奈と、どう話せば失礼じゃないのかとか」
「失礼じゃない、ですか」
「俺、そういうの得意じゃないから」
ことりが少し目を見開く。
驚いているのだろう。たぶん涼太は、クラスから見れば“わりと落ち着いていて、困った時にもそつなく動ける男子”に見えている。少なくとも、女子相手にこんなふうに戸惑うとは思われていないのかもしれない。
だが本当は違う。
「女子に慣れてないんだよ、俺」
言ってしまってから、自分で少し恥ずかしくなった。
「昨日みたいなことがあったあとで、普通に話しかけるのも違う気がしたし、でも無視するのはもっと違うし、どうすればいいのか本気で分からなかった」
ことりは数秒黙っていた。
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……影山くんって、意外と不器用なんですね」
「意外って何だ」
「もっと器用な人だと思っていました」
「買いかぶりだろ」
ことりは小さく笑った。その笑い方には、昨日みたいな限界の張りつめ方はもうない。
「私も、少し変だったと思います」
「朝比奈も?」
「はい。平気なふりをしようと思っていたんですけど、やっぱり昨日のことを思い出すと、どうしても……」
そこでことりは少し言葉を濁した。
無理もない。
“昨日のこと”をいちいち明確に言語化したら、それはそれでまた気まずい。
涼太は助け船のつもりで言う。
「忘れろとは言わないけど、別に俺、昨日のことで朝比奈のこと変に思ってないから」
「……本当にですか」
「本当に」
「変な人だとか」
「思ってない」
「がっかりしたとか」
「してない」
「子どもっぽいとか」
「それも」
ことりは何度かうなずき、少しだけ肩の力を抜いた。
「よかった……」
その一言が、思っていたよりずっと素直で、涼太は少しだけ目を逸らした。
こういう時、どんな顔をすればいいのか分からない。
ことりは窓の外へ一瞬だけ目を向けたあと、また涼太を見た。
「私、昨日のこと、すごく恥ずかしかったです」
「だろうな」
「今もかなり恥ずかしいです」
「それもだろうな」
「でも……」
ことりはそこで一度言葉を切る。
「影山くんが、笑わなかったから」
まっすぐな声だった。
「だから、たぶん、今日ずっと気にしてしまったんだと思います」
「……それ、どういう意味だ」
聞き返してから、自分でも少し間抜けだと思った。
だがことりは困ったように微笑むだけで、はっきりとは答えなかった。
「うまく言えません」
「そうか」
「ただ、昨日みたいなことがあったら、普通は終わりだと思っていたので」
「俺も思った」
「ですよね」
そこで二人とも、少しだけ笑った。
その瞬間、ようやく昨日から続いていた変な突っ張りが少しだけ解けた気がした。
ことりは鞄を抱え直し、どこか決意したように言う。
「それで、その……昨日のお礼なんですけど」
「またそれか」
「まだちゃんとしていません」
「もう十分だろ」
「十分じゃないです」
きっぱり言われた。
ことりは少しだけ頬を赤くしながら続ける。
「今日、帰りに駅前のパン屋さんで、新作の焼き菓子が出るんです」
「へえ」
「もしよかったら、その……一つ、受け取ってくれませんか」
涼太は一瞬、言葉に詰まった。
それはつまり、一緒に帰るということではないのか。
いや、別にそういう意味ではないかもしれない。
だが少なくとも、放課後に二人で話して、その流れでパン屋に寄る、という構図ではある。
女子に慣れていない涼太の脳内は、そういう些細な出来事で簡単に混線する。
「……お礼、物で返さなくていいって言っただろ」
「そう言われると思いました」
「じゃあなんで言うんだよ」
「言いたかったからです」
少しだけ勝ち気な返しだった。ことりにもこういうところがあるのかと、涼太は妙なところで感心する。
「だめ、ですか」
その聞き方はずるい。
だめと言ったら、今度はこっちが感じ悪い。
かといって即答で頷くのも、何か違う気がする。
結局、涼太は数秒悩んでから、観念した。
「……一つだけなら」
ことりの目が少しだけ明るくなる。
「はい」
「でも高いのはやめろ」
「そんなに高くないです」
「ほんとか」
「たぶん」
「たぶんかよ」
そのやり取りに、二人とも少し笑った。
その時だった。
「――へえ?」
聞き覚えのある声が横から飛んできた。
二人そろって振り向く。
藤宮みずきが、ものすごく面白そうな顔で立っていた。
「朝比奈と影山、放課後にこそこそ何話してんの?」
「こそこそしてない」
「してたしてた。しかも今、パン屋って言った?」
みずきの目がきらきらしている。厄介な光り方だ。
涼太は即座に嫌な予感がした。
「違う」
「何が?」
「おまえが想像してるようなことじゃない」
「まだ何も想像してないけど?」
「じゃあするな」
「無理でーす」
みずきはけらけら笑い、ことりの方を見る。
「朝比奈も、最近なんか影山にだけ態度違くない?」
「そ、そんなこと」
「あるでしょ」
「ありません」
「あります」
なぜみずきが断定するのか。
ことりは分かりやすく困っている。頬も赤い。涼太は頭を抱えたくなった。
ようやく少しまともに話せたと思ったらこれだ。
「藤宮、おまえ帰るんじゃなかったのか」
「帰るよ。でもおもしろそうだから寄った」
「最低だな」
「褒め言葉?」
「違う」
みずきはますます楽しそうに笑った。
「まあいいや。二人とも、変なことしてるならちゃんと説明してよねー」
「してない」
涼太とことりの声が、きれいに重なった。
一瞬の沈黙。
そしてみずきが、にやあっとする。
「わ、息ぴったり」
「……おまえ本当に帰れ」
「はいはい、お邪魔しましたー」
まったく邪魔した自覚のない声音でそう言って、みずきは手を振りながら廊下の向こうへ去っていった。
残された涼太は、深いため息をつく。
「……疲れる」
「少し、分かります」
ことりも困ったように笑った。
だがその表情は、昼まで見せていた無理な笑顔ではなかった。ちゃんと空気が緩んでいる。少なくとも、もう“避けられているかもしれない”と怯えている顔ではない。
それが少しだけ、救いだった。
「じゃあ、その……帰るか」
涼太が言うと、ことりはうなずく。
「はい」
二人は廊下を並んで歩き出した。
並ぶと言っても、肩が触れるほど近くはない。きちんと一人分の距離がある。それでも昨日までの関係にはなかった、不思議な静けさがその間にあった。
昇降口へ向かう途中、ことりがぽつりと言う。
「影山くん」
「ん?」
「今日、少し安心しました」
「何が」
「避けられていたわけじゃないって分かったので」
涼太は一瞬、返事に迷った。
だが今回は、昨日よりは少しましな言葉が出た。
「……俺も」
「え?」
「朝比奈が怒ってるわけじゃないって分かったから」
ことりは目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「怒ってはいません」
「ならよかった」
「でも、少しは困っていました」
「それは悪かった」
「はい」
「そこは許してくれよ」
「考えておきます」
ほんの少しだけ意地悪な言い方だった。
でも、それができるくらいには、ことりもいつもの調子を取り戻しているらしい。
昇降口の前で、ことりは立ち止まった。
「それじゃあ、パン屋さんだけ寄っていきますか」
「本当に買うのか」
「約束しましたから」
「してない。受け取るとは言ったけど」
「じゃあ、受け取ってください」
そう言ってことりが柔らかく笑う。
その笑顔を見て、涼太は思う。
パンツを拾った翌日に、どう振る舞えばいいのかなんて分からなかった。
たぶん今も、正解は分かっていない。
でも少なくとも、避けることが正解ではなかったらしい。
昨日の放課後に始まった気まずさは、今日一日で消えたわけではない。
それでも、その気まずさの中に、昨日にはなかった少しだけ穏やかなものが混じり始めている。
それが何なのかは、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは――
「影山くん?」
「いや、何でもない」
たぶん、平穏な高校生活はもう少しずつ手遅れだ、ということだった。
ことりと並んで昇降口を出る。
春の夕方の風はまだ少し冷たく、街の方からはパン屋の甘い匂いが流れてくるような気がした。
そしてそのすぐ後ろでは、きっともう誰かが言うのだ。
あれ、影山と朝比奈、一緒に帰ってなかった? と。
面倒だ。
すごく面倒だ。
けれど、その面倒さを、少しだけ受け入れかけている自分にも気づいてしまって、涼太はひそかに頭を抱えたのだった。




