第18話 後輩は観察のつもりで近づくくせに、たまに本気で守りに入る
白鳥つばさは、自分のことをわりと冷静な人間だと思っていた。
感情で突っ走るタイプではない。
人間関係に対しても、少し距離を取って見ている方が楽だと知っている。
誰が誰を気にしているとか、誰が何を隠しているとか、そういうものは、輪の中へ飛び込むより外から観察していた方がよく見える。
だから最初、影山涼太のこともそういう対象の一人だった。
妙な噂の中心にいるのに、噂の内容はどこかずれている。
女子のトラブルに巻き込まれているらしいのに、本人はまったくその手の軽さを持っていない。
むしろ、面倒そうな顔をしながら、きちんと相手の困りごとを処理している。
面白い。
たぶん最初の感想は、それだけだった。
でも最近は、その“面白い”だけでは片づかなくなってきている。
「……だめですね」
昼休み前の図書室で、つばさは本を閉じながら小さく呟いた。
窓際の席からは、中庭へ向かう生徒たちの姿が見える。
昼食の時間が近づくと、廊下の足音も少しずつ増えてくる。
つばさの手元には、昨日返却された本が数冊。
図書委員の仕事は嫌いではない。静かで、人の出入りがあって、しかも言葉が少ない。観察するにはとても向いている場所だ。
だからこそ、変化にも気づく。
たとえば最近、一年女子の会話の中へ混ざり始めた単語。
「ねえ、二年の影山先輩って知ってる?」
「誰?」
「なんか相談するとちゃんと返してくれる人らしい」
「へえ、やさし」
「でもパンツの人って言われてるって」
最後の一言だけが本当にひどい。
つばさは最初、それを少し面白がって聞いていた。
でも今は違う。
このままだと、言葉だけが独り歩きして、本来の輪郭が消える。
影山涼太が“困っている相手にちゃんと向き合う人”ではなく、“なんか女子のパンツ絡みで有名な人”として雑に消費される。
それは、あまり面白くない。
「……観察対象が壊れると困るんですよね」
そうやって、自分へ言い訳する。
でもたぶん、少し違う。
影山先輩が変な噂で困るのを、見ていたくない。
それが本音に近い。
そこまで考えて、つばさは小さくため息をついた。
「ちょっと寄りすぎかもしれません」
観察者は、もっと遠くにいるべきなのに。
◆
その日の昼休み、つばさは図書室を出て、一年の教室側の廊下を歩いていた。
返却本を運ぶついで、ということになっているが、本当の目的は別にある。
最近の噂の流れが、どのあたりで、どんな言葉に変換されているのかを見るためだ。
すると、予想どおりだった。
廊下の窓際で、一年女子が二人、ひそひそ声で話している。
「だからその先輩、相談乗ってくれるらしいって」
「何の相談?」
「何でもじゃない? 弁当とか、生活系?」
「え、じゃあ普通にいい人じゃん」
「でもパンツ……」
そこでつばさは足を止めた。
十分だ。
この段階で割って入れば、不自然ではない。
「それ、言い方が違いますよ」
二人がびくっと振り向く。
「あ、白鳥さん」
「その先輩、別に変な人じゃないです。たぶん、困ってる人に現実的なことを教えるのがうまいだけです」
「え、そうなの?」
「はい。噂の切れ端だけ面白く広がってる感じです」
つばさはできるだけ自然に、でもきっぱりと言う。
「だから“パンツの人”って呼び方だけ残すのは失礼だと思います」
二人は顔を見合わせた。
「そっか……」
「じゃあやめた方がいいね」
「そうですね」
それだけで十分だった。
つばさは軽く会釈してその場を離れる。
別に、正義感が強いわけではない。
ただ、言い方が雑すぎるのが気になっただけだ。
そう自分へ言い聞かせていた、その時。
「……何してる」
すぐ後ろから、低い声がした。
つばさは反射で振り向く。
影山涼太だった。
「先輩」
「何してるんだ、おまえ」
「本の返却ついでに、少し」
「少し?」
「噂の補正です」
つばさが正直に答えると、影山は数秒だけ黙った。
たぶん、“何を言っているんだこいつは”という顔だ。
それはそうだと思う。
「……なんでそんなことしてる」
その問いに、つばさは一瞬だけ言葉を探した。
観察対象が壊れると困るから。
そう答えるのが、いつもの自分なら自然だろう。
でも今この状況でそれを言うのは、少し違う気がした。
「先輩が困るのを見てても、あまり面白くないので」
結局、少しだけ本音寄りの言葉が出た。
影山は少しだけ目を細める。
「おまえ、本当に観察者なのか?」
「今のところは」
「今のところって何だよ」
「まだ完全に当事者ではない、という意味です」
「ますます分からない」
つばさは小さく笑った。
こういう時の影山先輩は、素で困った顔をする。
その顔を見ると、自分が少しだけ後ろめたいような、でもうれしいような、妙な気持ちになる。
「まあ、でも助かった」
影山が小さく言った。
その一言が不意打ちだった。
「え」
「噂の変な広がり方、俺も少し気になってたから」
つばさは一瞬だけ黙った。
感謝される想定はしていなかった。
いや、少しはあったかもしれない。
でも、こうもまっすぐ言われると、いつものように軽く流せない。
「……それなら、よかったです」
少しだけ声が固くなる。
影山がそれに気づいたのかどうかは分からない。
ただ、いつもみたいにそれ以上踏み込まなかった。
「で、他には」
「何がですか」
「変な噂」
仕事の話へ戻してくれる。その切り替えが、ありがたかった。
つばさはすぐに委員長みたいな顔に戻る。
「今のところ、“生活相談にちゃんと答える先輩”って方向へ上書きできそうです。問題は、みずき先輩がたまに面白がって元へ戻すことですね」
「それは分かる」
「なので、藤宮先輩の発言の方を抑えた方が早いです」
「それができたら苦労しない」
その返しがあまりにも自然で、つばさは思わず笑ってしまった。
影山が少しだけ怪訝そうな顔をする。
「何だよ」
「いえ。先輩、ほんとにそのままですね」
「褒めてる?」
「半分は」
「残り半分は?」
「もう少し慎重でもいいかもしれません」
「最近それいろんなやつに言われるんだけど」
だろうな、とつばさは思う。
この人は、近くにいる相手にだけ丁寧になる。
だから誤解を生む。
でも同時に、その丁寧さが本物だからこそ、近くにいる側も離れにくい。
たぶん、ことりも、みずきも、レナも、そこに引っかかっている。
そして自分も、少しだけ。
「先輩」
「ん?」
「これ以上、変な噂が広がったら私がまた補正します」
「何でそんなにやる気なんだよ」
「……面白くないので」
またそれを言う。
でも今度は、つばさ自身もそれがもう言い訳に近いと分かっていた。
影山は少しだけ肩をすくめる。
「無理するなよ」
その一言が、また少しだけやさしい。
つばさは一瞬だけ視線を逸らした。
「無理はしてません」
「ならいいけど」
その“ならいいけど”も、相変わらず普通だ。
普通なのに、ちゃんとこちらを気にしている。
だから困る。
◆
その日の放課後、つばさは図書室のカウンターで返却処理をしていた。
窓の外は少し赤くなり始めていて、部活帰りの生徒たちが校庭を横切っていく。
司書の先生は奥の棚の整理中。図書室の中は静かだった。
そういう静かな時間ほど、自分の中身がうるさくなる。
今日の昼の会話を思い出す。
先輩が困るのを見てても、あまり面白くないので。
そう言った。
間違いではない。
でも、それだけではない。
影山涼太が変な風に消費されるのが嫌だった。
誰かの恥ずかしい秘密をちゃんと守れる人が、雑な噂で笑われるのは、何だか違うと思った。
それはもう、“観察対象として面白いから守りたい”ではない気がする。
「……だめですね」
二回目の独り言だった。
こうして少しずつ、観察者の立場が薄れていく。
外から見ているつもりだったのに、気づけば少しずつこちら側へ寄っている。
しかも、自分でそれを止める気があまりない。
その時、入口のベルが小さく鳴った。
「失礼します」
また聞き慣れた声だ。
影山だった。
どうして今日に限ってこう何度も出会うのか。
いや、たぶんつばさが意識しすぎているだけで、別に偶然の範囲なのだろう。
「先輩」
「またいた」
「また来ましたね」
「図書室なんだからいるだろ」
たしかにその通りだ。
影山は手に持った本をカウンターへ置いた。
「返却」
「ありがとうございます」
つばさは本を受け取り、バーコードを通す。
その間、影山は少しだけカウンターにもたれた。
「今日、あのあと何かあったか」
「噂ですか?」
「うん」
「今のところ、目立ったものはないです。少なくとも一年の方は少し落ち着いてます」
「そっか」
影山は短くうなずいた。
そこで帰ればいいのに、なぜかそのまま立っている。
つばさも、帰っていいですよとは言えない。
微妙な沈黙。
やがて影山がぽつりと言う。
「おまえさ」
「はい」
「最近ちょっと、こっち寄りだよな」
その一言は、不意打ちだった。
「……こっち寄り?」
「観察してるだけっていうより、普通にフォローしに入ってる時あるだろ」
つばさは数秒だけ黙った。
見抜かれている。
思っていたよりずっと。
でも、それを指摘する言い方が責める感じではないから、余計に答えにくい。
「観察の精度を上げるためです」
とりあえず、いつもの言い訳を返す。
影山はすぐには何も言わなかった。
それから少しだけ目を細める。
「嘘ではないんだろうけど、それだけでもなさそう」
ずるい。
そう思う。
この人はこういう時、押し込まずに、でも妙に近いところまで来る。
つばさは本を棚へ戻すふりをして、一度だけ視線を外した。
「……観察対象が壊れると困るので」
「前も聞いた」
「便利なので」
「朝比奈みたいなこと言うな」
その返しに、つばさは少しだけ笑ってしまった。
もうごまかしきれない。
「半分は本当です」
棚へ本を戻しながら言う。
「でも、半分くらいは……先輩が困るのを見てるの、あまり気分よくないだけです」
影山は何も言わない。
その沈黙が、変にあたたかい。
つばさは背を向けたまま、小さく続けた。
「それじゃだめですか」
「だめじゃない」
返事はすぐだった。
振り向くと、影山はいつもの困ったような顔で立っていた。
「むしろ助かる」
また、そういうことを普通に言う。
つばさはほんの少しだけ、心臓のあたりが落ち着かなくなるのを感じた。
「……先輩って、たまにずるいですね」
「何で」
「そういう返し、もっと考えてからしてください」
「考えたら言わないかもしれない」
「じゃあ余計にずるいです」
そのやり取りのあと、二人とも少しだけ笑った。
図書室の静けさの中で、会話は小さいのに、妙に長く残る。
つばさはそこで、はっきりと理解してしまった。
これはもう、ただの観察ではない。
面白いから見ているだけでは足りない。
困らせたくない。
変な風に消費されたくない。
ちゃんと理解される側にいてほしい。
そう思ってしまっている時点で、自分はすでに“外側”ではない。
「先輩」
「ん?」
「観察対象としては、もう少し距離を取るべきなんですけど」
「そうなのか」
「そうです」
「でも取らないのか」
つばさは少しだけ黙って、それから小さく笑った。
「……取れないみたいです」
それはたぶん、今の自分に言えるいちばん正直な言葉だった。
影山は何か返しかけたが、結局は何も言わなかった。
代わりに、少しだけやわらかい目をする。
その視線を受けるのが妙に落ち着かなくて、つばさはまた視線を逸らした。
やはりだめだ。
観察者は、当事者になるべきではない。
そう思っていたのに。
気づけばもう、かなり遅かった。




