第15話 優等生は“みんなに優しい男子”を見ていると少しだけ落ち着かない
朝比奈ことりは、自分がこういう気持ちになるとは思っていなかった。
教室の窓から入る初夏の光はやわらかく、ホームルーム前のざわめきもいつも通りだ。ノートを開き、今日の提出物を机の端にそろえ、ペンケースの位置を整える。いつもと同じ順番で、いつもと同じように朝を始める。
そうしているのに、気持ちだけが少し整わない。
原因は、はっきりしていた。
「影山くん、昨日の乾燥剤の話なんだけど」
「ああ、ロッカーに入れるなら直接じゃなくて小袋にしとけ」
「なるほどー」
教室の斜め前。
影山涼太が、クラスの女子に普通に答えている。
普通に。
そこがいちばん困るのだと、ことりは思う。
みずきみたいに騒がしくしているわけではない。
変に愛想を振りまいているわけでもない。
むしろ少し面倒そうで、少し困ったような顔をして、それでも聞かれたことにはちゃんと答えている。
その“ちゃんとしてしまう感じ”が、見ていて落ち着かない。
自分だけが知っていると思っていた部分を、今では他の人たちも少しずつ見始めている。
あの人は、ただ無口で真面目なだけじゃない。
困っている相手に気づくし、見捨てないし、茶化さない。
それを最初に知ったのは、自分のはずだった。
そのことに、ことりは少しだけこだわってしまう。
「朝比奈?」
隣の席の女子に声をかけられ、ことりははっとした。
「え?」
「聞いてる? 次の委員の集まり、昼休みだって」
「あ、ごめん。聞いてる」
「珍しいね、ぼーっとしてるの」
女子が何気なく笑う。
ことりも笑い返したが、自分の笑い方が少し固いのは分かった。
珍しい。
たしかにその通りだ。
最近、自分でも少し変だと思う。
影山くんのことを考える時間が増えた。
それ自体はもう認めている。あの紙袋の一件以来、自分の中で彼が“ただのクラスメイト”ではなくなったことも分かっている。
でも、それとは別に。
今のこの、胸の奥が少しざわつく感じは何だろう。
嫌、ではない。
ただ、落ち着かない。
そして、その理由も分かりかけていた。
影山くんが“みんなに優しい”ように見える時。
それを見ると、少しだけ、心がざわつくのだ。
◆
一時間目と二時間目の間の休み時間。
ことりはプリントをまとめながら、またそちらを見てしまった。
今度は、クラスの女子が二人、影山くんの席の横に立っている。
「お弁当に入れるミニトマトって水気切った方がいい?」
「切れ。あとヘタは取れ」
「そこまで?」
「傷みやすくなるから」
「へえー」
やっぱり普通に答えている。
あの人は、相談を受けること自体が好きなわけではない。
むしろ、毎回ちょっとだけ面倒そうだ。
でも、その面倒そうな顔のまま、適当に流さない。
だから頼られる。
分かっている。
分かっているのに。
「……」
ことりは、持っていたプリントの角を少しだけ強くつまんでいた。
その時、みずきが自分の席からことりの方を見て、にやっと笑った。
嫌な予感がする。
そして、その予感はだいたい当たる。
「朝比奈ー」
ことりが小さく眉を寄せる。
「何ですか、藤宮さん」
「今、影山のこと見てたでしょ」
「見てません」
「いや見てたって」
「見ていません」
「でも気になってる顔してた」
言い返しかけて、ことりは一瞬だけ詰まった。
その隙を、みずきは見逃さない。
「ほら」
「……藤宮さんは、人の顔を見すぎです」
「朝比奈が分かりやすすぎるの」
みずきはそう言って笑うが、声量はそこまで大きくない。
からかってはいるが、本気で広げるつもりではないらしい。
それが分かるから、ことりも強く怒れない。
「別に、ただ」
「ただ?」
ことりは少しだけ言葉を選んだ。
この気持ちに名前をつけるほど、まだ自分でも整理できていない。
でも、まったく何もない顔をし続けるのも難しくなってきていた。
「……最近、影山くん、人気ですね」
口から出たのは、そんな言葉だった。
みずきが一瞬だけ黙る。
そして次の瞬間、妙に納得したような顔をした。
「あー、そっちか」
「何ですか、その反応」
「いや、何となく分かった」
「何がですか」
「朝比奈、ちょっとだけ落ち着かないんでしょ」
ことりは言葉を失った。
あまりにまっすぐすぎて、否定のタイミングを逃した。
みずきは意外にも、そこで大声で騒いだりはしなかった。
ただ椅子に浅く座ったまま、少しだけ真面目な顔をしている。
「まあ、分かるけどね」
「……分かる?」
「うん。だって最初に影山のそういうとこ知ったの、朝比奈でしょ」
その一言が、胸にすとんと落ちた。
そうなのだ。
ことりが落ち着かないのはたぶんそこだ。
影山涼太が、人の困りごとを笑わずに受け止める人だと。
秘密を見ても、変に騒がず、茶化さず、ちゃんと返してくれる人だと。
それを最初に知ったのは、自分だった。
その“最初”が、少しだけ自分の中で特別になっている。
「……藤宮さんだって、影山くんを頼ってるじゃないですか」
ことりが小さく返すと、みずきは肩をすくめた。
「頼ってるよ。だって便利だし」
「便利」
「言い方悪かった。安心、かな」
その言い直しは、少しだけ本音に近かった。
ことりはみずきを見る。
みずきも、ただ面白がっているだけではないのだろう。
影山くんのことを、自分なりにちゃんと信頼している。
それが分かるから、余計に複雑だ。
「でも」
みずきが続ける。
「朝比奈の方が分かりやすく影響受けてるよね」
「そんなこと」
「あるって」
みずきは笑った。
「だって、影山が他の子と話してる時の朝比奈、ほんとちょっとだけ固いもん」
否定しようと思った。
でもできなかった。
図星だったからだ。
◆
三時間目のあと、委員の仕事でことりは職員室へ呼ばれた。
提出物の確認、掲示物の位置調整、次の週の行事に関する連絡。
いつもなら問題なくこなせる程度の作業ばかりだ。
なのに今日は、妙に手元が落ち着かなかった。
先生に渡すはずのプリントを一枚取り違える。
廊下で違う教室へ入りかける。
戻ってきた教室でも、自分の席へ置くつもりだったノートを別の机へ置きそうになる。
「……だめ」
小さく呟く。
自分がこういうふうに小さなミスを続けるのは珍しい。
たいていは、どんなに気持ちが落ち着かなくても、表面だけはちゃんとしていられるのに。
今日はそれが少し崩れていた。
昼休み直前、ことりは委員の提出物をまとめたファイルを抱えて教室へ戻ろうとしていた。
その途中で、廊下の角を曲がりかけた時だ。
「朝比奈」
呼ばれて足が止まる。
影山涼太だった。
「……影山くん」
「それ、違う教室」
ことりは一瞬きょとんとした。
顔を上げる。
たしかに、自分が今入ろうとしていたのは隣のクラスだった。
「あ……」
恥ずかしさが一気にこみ上げる。
「ご、ごめんなさい」
「別に俺に謝ることじゃないだろ」
涼太はそう言って、ことりの手元のファイルへ目をやった。
「今日、何か変じゃないか」
「……」
「委員の仕事多いのか」
聞き方がやさしい。
問い詰めるのではなく、ただ“気づいたことを確認する”みたいな聞き方。
ことりは一瞬だけ迷った。
ここで「大丈夫です」と言ってしまえば、それで終わる。
でもたぶん、それを言った瞬間にまた無理をする顔になる。
「……少し」
結局、小さく認めた。
「少しだけ、落ち着かなくて」
涼太はそれ以上は聞かなかった。
ただ、ファイルの一番上を見て、指先で端を軽く示した。
「これ、順番逆」
「え?」
見れば、提出順に並べていたはずの紙が二枚だけ入れ替わっている。
ことりは息を止めた。
「……ほんとだ」
「今直せば間に合うだろ」
「はい」
ことりは慌てて並べ直す。
その間、涼太は何も言わずに待っていた。
手伝いもしない。
代わりにやってしまうこともない。
ただ、ことりが自分で立て直せるだけの余白を残している。
その距離感が、どうしてこんなにちょうどいいのだろう。
「ありがとう」
ことりが言うと、涼太は肩をすくめた。
「また戻ってきてると思っただけだよ」
「また?」
「さっき、職員室の前でも違う束持ってただろ」
見られていた。
ことりは少しだけ恥ずかしくなった。
「……そんなに分かりやすかったですか」
「今日は少し」
涼太の返事は短い。
でもそこに変な優しさの押し売りはない。
「無理してる時の朝比奈って、ちょっとだけ動きが速い」
「え」
「落ち着こうとして、逆に速くなってる感じ」
ことりは思わず黙り込んだ。
そんなこと、自分では気づいていなかった。
でも言われてみればそうかもしれない。
ちゃんとしなきゃ、落ち着かなきゃと思うほど、少しずつ動きがずれていく。
「……よく見てますね」
ぽつりとそう言うと、涼太は少しだけ言葉に詰まった。
その反応に、ことりはふっと胸のざわつきが静かになるのを感じた。
そうだ。
影山くんは、みんなに優しいのではない。
その時、その人をちゃんと見ているのだ。
それを、自分は知っている。
「朝比奈」
「はい」
「今、行くなら左」
涼太が教室の方を指さす。
ことりはそこで、やっと小さく笑えた。
「はい」
「あと、次の提出、五分あるから焦るな」
「……分かりました」
その短いやり取りだけで、呼吸が少し整った気がした。
◆
昼休み、ことりは自分の席で弁当箱を開きながら、さっきの廊下での会話を何度も思い出していた。
影山くんは、やっぱり見ている。
誰にでも同じように、ではない。
その時困っている相手に、必要なぶんだけ目を向ける。
それを“みんなに優しい”と言うのは、少し違う気がした。
たぶん、あの人は“その時、その人だけを見る”。
だから困るのだ。
だから嬉しいのだ。
「朝比奈」
またみずきがやってきた。
「はい」
「さっき廊下で影山と話してたでしょ」
見られていた。
「……見てたんですか」
「たまたまね」
絶対たまたまじゃない。
「で?」
「で、って何ですか」
「ちょっと機嫌直った?」
ことりは少しだけ驚いた。
みずきは本当に、人の表情を見るのがうまい。
雑なようでいて、感情の揺れ方だけはよく拾う。
「……そんなに分かりやすいですか」
「今日は特に」
みずきは机に肘をつき、にやっと笑った。
「影山にフォローされた?」
ことりは一瞬言葉を失う。
図星だった。
「何で分かるんですか」
「朝比奈の顔が、“ちょっと嬉しいの隠しきれてない時の顔”だから」
「そんな顔、あります?」
「あるある」
みずきは遠慮なくうなずく。
ことりは思わず弁当箱へ視線を落とした。
頬が少し熱い。
「……影山くんって」
気づけば、自分の方からそんな言葉が出ていた。
「うん」
「みんなに優しいわけじゃないんですよね」
みずきが少しだけ目を細める。
「へえ」
「その時、その人に必要なことだけする感じで」
「うん」
「だから、たぶん……勘違いしやすいんだと思います」
みずきはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「分かる」
その返事は、思っていたより素直だった。
「私もさ、影山に相談したあと、ちょっとだけ“あ、今自分だけ見られてたな”って思うもん」
ことりはそちらを見る。
みずきは笑っているが、言葉は本音らしい。
「でも朝比奈は、その“最初”だもんね」
「……」
「そりゃ、ちょっと落ち着かなくもなるか」
ことりは何も言えなかった。
否定できない。
そしてそれを、否定したくない自分にも気づいてしまった。
みずきはそんなことりを見て、少しだけやわらかく笑った。
「まあでも、影山ってちゃんと朝比奈のこと見てるじゃん」
「え」
「さっきの見てて分かった」
みずきはそこで少しだけ肩をすくめる。
「だから、そんなに不安にならなくてもいいんじゃない?」
その言い方は、いつもの軽口とは少し違っていた。
ことりは驚く。
みずきが、こういうふうに静かな言い方をするのは珍しい。
「藤宮さん」
「何?」
「やさしいですね」
「え、やめて。今それ言われると照れる」
そう言って、みずきはすぐにいつもの調子へ戻った。
「でもまあ、朝比奈がもやもやしてるの見るのも面白いけど」
「やっぱりやさしくないです」
「ほら、こっちの方が私っぽいでしょ」
ことりは少しだけ笑った。
◆
放課後。
その日は大きな相談も騒ぎもなく、比較的穏やかに時間が流れた。
ただ一度だけ、帰り支度の最中に涼太がことりの席の横を通りかかる瞬間があった。
ほんの一瞬。
目が合う。
その時、ことりは自分でも驚くほど自然に言えた。
「今日は、ありがとうございました」
涼太が少しだけ立ち止まる。
「……何のこと」
「お昼前のことです」
「ああ」
涼太は少しだけ視線を逸らした。
「別に大したことしてない」
「そういうところです」
「何が」
「影山くんが、勘違いされやすいところ」
ことりが小さく言うと、涼太は一瞬だけ黙った。
それから、少し困ったように笑う。
「それ、最近よく言われる」
「事実なので」
「朝比奈までそう言うのか」
「はい」
ことりは少しだけ胸を張るように言った。
涼太はそれを見て、やれやれというふうに肩をすくめる。
その仕草が妙に自然で、ことりはまた少しだけ嬉しくなる。
「でも」
ことりは続けた。
「私は、そういうの……嫌いじゃないです」
言ったあとで、少しだけ心臓が跳ねた。
言いすぎただろうか。
今のは、かなり危なかった気がする。
だが涼太は、すぐには何も言わなかった。
ほんの少しだけ、考えるようにことりを見る。
「……そうか」
返ってきたのはそれだけだった。
それだけなのに、ことりには十分だった。
軽く流された感じではない。
ちゃんと受け取って、でも余計に踏み込まない返し方。
やっぱりそうなのだ。
影山涼太は、その時、その人だけを見る。
だから特別に見える。
だから、少しだけ落ち着かない。
そして同時に、少しだけ嬉しい。
「じゃあ、また明日」
ことりが言う。
「ああ」
涼太は短くうなずく。
そのまま教室を出ていく背中を見送りながら、ことりはそっと息を吐いた。
まだ名前をつけられるほどではない。
恋、と言い切るには少し早いのかもしれない。
でも、自分にとって影山涼太が特別だということだけは、もうかなりはっきりしていた。
そしてたぶん――
“みんなに優しい男子”を見ていると落ち着かないのではなく、
“自分が特別だと思ってしまった男子が、他の子にもちゃんと優しい”のを見ると落ち着かないのだ。
「……ほんとに、少しだけわがままかもしれません」
誰もいない教室で、小さく呟く。
でもそのわがままを、今はまだ嫌いになれなかった。




