第14話 相談窓口なんて冗談だと思っていたのに、本当に列ができるのは聞いてない
事件がひとまず片づいた翌週の月曜日、影山涼太は朝の時点でもう少し疲れていた。
何か大きな出来事があったわけではない。
むしろ逆だ。
大きな出来事が終わった“はず”なのに、その余波みたいなものがじわじわと日常へ広がってきている。
その気配を、ここ数日ずっと感じていた。
「……嫌な予感しかしない」
一人暮らしの台所で、卵焼きをひっくり返しながら小さく呟く。
フライパンの上で、きれいな黄色が半分に折りたたまれる。味噌汁の鍋からは湯気が立ち、弁当箱の隅には昨夜のきんぴらごぼうを詰めてある。
生活自体は順調だ。
朝の家事も、春から一人で回してきたうちにもう手に馴染んでいる。
だが学校の方は、順調というには妙な方向へ進みすぎていた。
パンツ入りの紙袋を拾ったあの日から、なぜか次々と女子の困りごとへ巻き込まれた。
朝比奈ことりの秘密。
藤宮みずきの部活ノート。
黒瀬レナの雨の日の立ち往生。
白鳥つばさの観察。
そして持ち物の位置ずらし騒動。
そこまでは、まだ“事件”として割り切れた。
問題は、そのあとだ。
今の自分はもう、クラスの中で完全に“ただの目立たない男子”ではない。
しかも嫌な方向だけではなく、妙に頼られそうな気配の方で変化している。
「……面倒だな」
卵焼きを弁当箱へ移しながら、もう一度呟く。
だが面倒だと思っている時点で、たぶん逃げきれないのも分かっていた。
完全にどうでもよければ、こんなに警戒しない。
弁当箱のふたを閉め、鞄へしまい、家を出る。
空はよく晴れていた。
それが余計に、嫌な予感を鮮明にする気がした。
◆
そして嫌な予感というのは、だいたい当たる。
教室へ入った瞬間、影山涼太はその事実を再確認した。
「おはよう、影山くん」
席へ向かう途中、女子に声をかけられる。
別に珍しいことではない。
同じクラスなら挨拶くらいする。
だが問題は、その直後だった。
「あ、影山くん。ちょっとあとで聞きたいことあるんだけど」
別の女子。
さらに席へ着く前に、
「ねえ、冷凍のおかずって何使ってる?」
これも女子。
「……は?」
思わず足が止まった。
なぜ朝からそんなことを聞かれる。
しかも全員、深刻な空気ではない。
雑談の延長みたいに、でも妙に自然にこちらへ聞いてくる。
何だこれ。
とうとう自分は“弁当男子枠”として定着したのか。
いや、それならそれでまだましだ。
問題は、その全部が少しだけ“相談っぽい入り方”をしてくることだった。
机へ鞄を置いた瞬間、背後からにやにやした声が飛ぶ。
「始まったねえ」
振り向かなくても分かる。
藤宮みずきだ。
「……おまえか」
「え、何が?」
「この空気」
「私だけのせいじゃないよ?」
「だけじゃない、って言う時点で一部は認めてるだろ」
みずきはまったく悪びれない。
今日も朝から元気で、今日も朝から人の平穏を削る方向へ全力だ。
「だってさ、みんなちょっと聞きたいことあっただけじゃん」
「その“ちょっと”が増えるのが嫌なんだよ」
「でも影山、答えられるでしょ?」
「答えられるかどうかの問題じゃない」
「じゃあ何の問題?」
「俺の心の平穏」
「そんなの最初からなかったでしょ」
ひどいことをさらっと言う。
だが否定しきれないところが腹立たしい。
「影山くん」
今度は静かな声がした。
朝比奈ことりだ。
涼太が視線を向けると、ことりは席を立ってこちらへ近づいてきた。
みずきとは違う。
ちゃんと相手のタイミングを見て、邪魔にならない距離で止まる。
「……何」
「その、少しだけ」
ことりは周囲を気にするように視線を動かしてから、小さく言った。
「本当に、相談され始めてますね」
「それを今言うのか」
「すみません。でも、なんというか……」
ことりは少しだけ言葉を選んだ。
「思っていたより、みなさん自然に影山くんへ聞きに来るんだなって」
「朝比奈、おまえ他人事みたいに言ってるけどな」
みずきが横から口を挟む。
「最初に“困った時は相談します”って言ったの、朝比奈だからね?」
ことりの頬がほんの少し赤くなる。
「そ、それは……」
「しかも影山、あの時ちょっと嬉しそうだったし」
「おまえは本当にそういう余計な情報だけ拾うな」
涼太が低く言うと、みずきはけらけら笑った。
ことりは困ったように涼太を見た。
その表情には、少しだけ申し訳なさと、少しだけ戸惑いが混じっている。
たぶん彼女自身も、こんなに早く“相談される人”として自分が広がるとは思っていなかったのだろう。
そこへさらに、別の女子が来た。
「影山くん、ごめん、今いい?」
涼太、ことり、みずきの三人が同時にそちらを見る。
女子は少し言いにくそうに笑った。
「お弁当ってさ、前の日にどこまで作っていいのかなって」
来た。
本当に来た。
涼太は思わず天井を見上げたくなった。
「……何で俺に聞くんだよ」
「え? だって藤宮さんが、影山くんそういうの詳しいって」
みずき、おまえか。
「おまえか!」
「だって詳しいじゃん!」
「広報担当やめろ!」
女子は少しだけ困ったように笑う。
「ごめん、今じゃなくていいから」
そう言われると、断りきれない。
涼太は深くため息をついた。
「肉とか魚は朝に火入れ直した方が安心。前の日に完全に作るなら、汁気少ないやつにしとけ」
「へえ、ありがとう!」
女子はそれだけで満足したように戻っていく。
みずきが横でにやにやしている。
ことりは少しだけ驚いたような顔をしていた。
「……本当に答えるんですね」
ことりが言う。
「断りづらかったんだよ」
「でもちゃんと答えてました」
「聞かれたからな」
ことりはそこで小さく笑った。
「やっぱり、向いてるのかもしれません」
「やめろ」
「何がですか」
「その評価が一番やばい」
「でも事実じゃん」
みずきが即乗ってくる。
「影山ってさ、相談されると“いやだなー”って顔しながら、結局ちゃんと答えるし」
「顔に出てるなら断る方向も察しろ」
「でも本気で嫌ならもっと雑に返すでしょ?」
それを言われると、少し詰まる。
たしかに、どうでもいい相談ならもっと適当に流すこともできる。
でも、聞いてきた相手が本当に困っている感じだと、どうしても少しは考えてしまう。
その“少しは考える”が積み重なって、今の空気になっているのだろう。
◆
昼休み。
涼太は弁当箱を開けた瞬間、嫌な予感がした。
今日は静かに食べられない。
そう思った直後、それを証明するように女子が一人やってきた。
「影山くん、マヨネーズ入れてもお弁当平気?」
「入れ方による」
「あ、ありがとう」
去る。
また一人。
「海苔って朝に巻く?」
「湿気るから別にした方がいい」
「なるほど」
去る。
さらに一人。
「ロッカー整理ってどうしてる?」
「袋を分ける」
「シンプル」
「それが一番だ」
去る。
「……何これ」
思わず本音が出た。
机の前に小さな列ができるほどではない。
だが明らかに、“聞けば答えてくれる人”として認識され始めている。
しかも質問内容が、絶妙に生活寄りだ。
恋愛相談でも進路相談でもない。
弁当。整理。持ち物。洗濯。雨の日の対策。
まるで暮らしのミニ窓口である。
「やばいね」
向かいから、みずきが楽しそうに言う。
「人ごとみたいに言うな」
「でも見てて面白い」
「おまえは本当に全部面白がるな」
「だって影山、毎回ちょっとだけ嫌そうなのにちゃんと答えるんだもん」
そこへ、ことりが静かに口を挟んだ。
「……嫌そうに見えるのは、たぶん照れてるだけだと思います」
涼太が固まる。
みずきが数秒止まり、それから吹き出した。
「朝比奈、それ今言う?」
「え」
ことり自身も、自分が何を言ったのか一拍遅れて理解したらしい。
頬が赤くなる。
「ち、違っ、その」
「いや違わなくない?」
みずきは完全に楽しんでいた。
「影山、今のどうなの」
「どうもこうもない」
「照れてるの?」
「そこを本人に聞くな」
「じゃあ当たりだ」
「藤宮」
「はーい」
「静かに食べさせてくれ」
「えー」
だがみずきはわりと素直に引いた。
その代わり、ことりの方をちらちら見ている。
何か企んでいる顔ではなく、“朝比奈、ついに言ったな”みたいな顔だ。やめてくれ。
ことりもそれに気づいたらしく、少しだけ気まずそうにしていた。
涼太は箸を進めながら、ちらりとことりを見る。
ことりは自分の弁当箱へ視線を落としていた。
だがその耳が、少しだけ赤い。
こういうところで、意識してしまう自分が本当に面倒だった。
◆
放課後になると、今度は生活相談の第二波が来た。
今度は男子まで混ざる。
「影山、靴の雨対策ってどうしてる?」
「新聞紙」
「地味に役立つな」
男子は男子で、女子が聞いているのを見て“あいつ聞けば答えるらしいぞ”くらいの軽さで来るらしい。
これはこれでさらにまずい。
「ほんとに窓口じゃん」
レナが呆れたように言った。
教室の後ろの席でその様子を見ていたらしい。
いつの間にか近くまで来ている。
「……やめろ、その呼び方」
「でも事実」
「黒瀬まで」
「私は最初から否定してない」
そうだったかもしれない。
レナは最初から“そう見える”という認識寄りだった。
「影山」
今度はことりが呼ぶ。
「何」
「少し、いいですか」
「またか」
だが表情はどこか真面目だった。
二人で教室の後ろ、窓際へ移動する。
みずきが「また二人で話してるー」と騒ぎかけたが、レナが「うるさい」と一言で止めた。珍しく役に立つ。
「どうした」
ことりは少しだけ迷ってから言った。
「……本当に、これで大丈夫なんでしょうか」
「何が」
「影山くんが、こうしていろんな人に相談されることです」
その言い方で、問いの意味が少し見えた。
「朝比奈、おまえ」
「変な意味じゃありません」
即座にことりが言う。
だが“変な意味”という言葉を自分から出す時点で、多少は意識しているのが分かる。
「ただ、その……影山くんって、誰にでもきちんと返してしまうので」
「返してしまうって何だよ」
「だから、相手の人が勘違いしないかなって」
「……」
それは、昼休みに自分たちで話した内容と地続きだった。
誰かの困りごとへきちんと向き合う。
その向き合い方が、“自分だけをちゃんと見てくれている”ように感じられることがある。
ことりは、それを自分でも知ってしまっている。
だからこそ、今の状況が少し落ち着かないのだろう。
「朝比奈」
「はい」
「それ、朝比奈が一番よく分かってるってことだよな」
ことりが少しだけ息を止めた。
図星だったらしい。
「……そうかもしれません」
小さく答える。
「でも、それは別に朝比奈が悪いとかじゃなくて」
「分かっています」
「ならいいけど」
少し間が空く。
窓の外では、夕方の光が校庭の端を照らしていた。
教室の中のざわめきが、遠く聞こえる。
ことりは視線を下げたまま言う。
「私、自分が思っていたより、少しだけわがままなのかもしれません」
「何で」
「影山くんが、他の人にも同じように優しいと、少しだけ落ち着かなくなるので」
それは、かなりまっすぐな言葉だった。
女子慣れしていない男子高校生に、それをそんな落ち着いた声で言うのは反則ではないかと思う。
涼太は一瞬だけ何も言えなくなる。
ことりは慌てて続けた。
「で、でも、だから独り占めしたいとか、そういう」
「そこまで言ってないだろ」
「そうですけど……」
声が小さくなる。
涼太は頭をかいた。
正直、こういう時に何を返すのが正解なのか分からない。
でも少なくとも、否定する方向ではない気がした。
「……朝比奈がそう思うのは、たぶん普通だよ」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
ことりが少しだけ顔を上げる。
「普通、ですか」
「たぶん。俺はそういうの詳しくないけど」
「詳しくない人の答えにしては、少しだけ安心します」
「それならいい」
ことりはそこで、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、もう最初の頃の“優等生のきれいな笑顔”とは違う。
気まずさや秘密を共有した相手にだけ見せる、少し素直な笑い方だった。
「……ありがとうございます」
「最近それ多いな」
「だって、本当にそう思ってるので」
また真面目に言う。
涼太は視線を逸らした。
「それより」
話を切り替えるように言う。
「本当に相談窓口みたいになったら止めろよ」
「それは藤宮さんを先に止めないと無理です」
「それもそうか」
ことりが小さく笑う。
その空気が落ち着いたところで、教室の方から元気な声が飛んできた。
「影山ー!」
「何だよ!」
「生活相談第二部! ロッカーに乾燥剤って入れた方がいい!?」
「入れてもいい!」
「やったー!」
みずきの声に、教室のあちこちから笑いが起こる。
ことりが横で肩を震わせた。
「……本当に窓口みたいですね」
「やめろって」
「でも、少しだけ似合ってきました」
「朝比奈までそう言うのか」
「はい」
その“はい”が妙に穏やかで、涼太は反論する気力を少し失った。
◆
結局その日、放課後の終わりには小さな紙が教室の端に置かれかけた。
みずきの字で、
影山生活相談所(仮)
と書かれた紙である。
「やめろ!」
涼太が即座に取り上げる。
「えー、まだ置いてないじゃん」
「置く気だったろ!」
「ちょっとだけ」
「ちょっとでも駄目だ」
みずきは不満そうに口を尖らせるが、ことりも今日はすぐに味方した。
「それはさすがにやめた方がいいと思います」
「朝比奈まで」
「だって、本当に定着してしまいそうなので」
「今もだいぶ定着しかけてるけどねー」
つばさがいつの間にか教室の入口から覗いて言った。
またおまえか。
「白鳥」
「はい」
「その気配の薄さどうにかならないのか」
「褒め言葉として受け取ります」
「違う」
レナは後ろの席からそれを見て、呆れたようにため息をついた。
「……何この学校」
「俺も知りたい」
涼太が本気で答えると、みずきが吹き出した。
ことりも少し笑った。
つばさは静かに楽しそうな顔をし、レナは小さく鼻で笑う。
夕方の教室は少しうるさかった。
でもそのうるささは、前みたいな一方的な面倒とは少し違う。
自分をからかい、巻き込み、頼り、それでもちゃんとこちらを見ている相手たちのいるうるささだ。
相談窓口なんて冗談だと思っていた。
なのに気づけば、本当にそれっぽい空気ができている。
納得はできない。
でもたぶん、これから先も、完全には逃げられないのだろう。
「……ほんと、ここからなんだな」
小さく呟く。
「何が?」
みずきが聞く。
「何でもない」
そう返しながら、涼太はみずきの紙を半分に折って自分の鞄へねじ込んだ。
「ちょ、何で持ってくの」
「証拠隠滅」
「それ、自分で保管してる時点で隠滅じゃなくない?」
「うるさい」
また笑いが起こる。
その笑いの中で、ことりが少しだけやわらかい目でこちらを見ていたことに、涼太は最後まで気づかないふりをした。




