第13話 終わったはずなのに、放課後の面倒ごとはむしろここから増えるらしい
小さな事件が片づいた翌日、影山涼太は朝からひどく不穏な予感に襲われていた。
理由は特にない。
いや、ないわけではない。
昨日までの一連の流れを考えれば、何も起きないと思う方がむしろ不自然だった。
朝比奈ことりの紙袋から始まった、妙に気まずい秘密の共有。
藤宮みずきのノート騒動と、勝手な相談窓口認定。
黒瀬レナの雨の日の立ち往生と、自宅への一時避難。
白鳥つばさの妙に鋭い観察。
そして、校内で起きていた“なくし物の位置ずらし”と、その場を押さえた放課後。
ひとまず片がついた、とは思う。
少なくとも先生たちは本気で動き始めたし、昨日見つかった件をきっかけに、各クラスで持ち物管理やロッカーの施錠についての注意も入った。
今後しばらくは、同じようなことは起きにくいだろう。
理屈ではそうだ。
理屈ではそうなのに、涼太の胸の奥にはずっと、よくない直感みたいなものが残っていた。
「……何だろうな」
一人暮らしの台所で、味噌汁の鍋を火にかけながら独り言が漏れる。
湯気の向こうで、卵焼きがちょうどいい色にまとまり始めている。
いつも通りの朝だ。
米をよそい、弁当箱へおかずを詰め、流し台を軽く拭き、時間を見て家を出る。
生活は変わらない。
ただ、学校へ向かう気分だけが、少しずつ“以前の自分”とは違っていた。
平穏な毎日を送りたい。
できれば目立ちたくない。
面倒ごとには巻き込まれたくない。
その気持ちは今も変わっていない。
変わっていないのに、最近はそれだけでは済まなくなっている。
人の困っている顔に気づく。
そのまま放っておくと後味が悪い。
気づけば首を突っ込んでいる。
我ながら損な性格だと思う。
「……しかも、最近は周りも巻き込まれてるしな」
朝比奈ことりの顔が浮かぶ。
静かなのに、前よりほんの少しだけ表情が柔らかくなった優等生。
みずきの、遠慮という概念をどこかへ置いてきたような笑顔も浮かぶ。
レナの不器用な礼も、つばさの観察者めいた目も、妙に鮮明だ。
そこまで考えて、涼太はため息をついた。
「……だめだな、朝から」
弁当箱のふたを閉め、鞄へ入れる。
そうしていつも通り家を出た。
◆
教室へ入った瞬間、ざわっと空気が動いた。
「……は?」
思わず小さく声が出た。
別にクラス全員が自分を見たわけではない。
だが、明らかに普段と違う空気がある。
朝の雑談の中に、何かを面白がっている気配。
しかも、その中心がどうも自分の周辺らしい。
最悪だ。
昨日の件がもう変な形で広まったのか。
いや、それにしては空気が妙だ。
面白半分の噂というより、“ちょっとからかいたくて仕方ない”時のざわつきに近い。
「影山くん」
席へ向かおうとしたところで、ことりが小さく声をかけてきた。
涼太は反射的にそちらを見る。
ことりはすでに登校していて、いつものように姿勢よく席についていた。
だが、いつもと違うのはその顔だ。
少し困っている。
そして少しだけ、申し訳なさそうでもある。
「何」
「その……ごめんなさい」
「は?」
意味が分からない。
だが、ことりが何かを言うより早く、別方向から元気すぎる声が飛んできた。
「おっはよー、相談窓口!」
藤宮みずきである。
やっぱりこいつか。
「何した、おまえ」
「え、何が?」
にやにやしている。
完全に何かした顔だ。
「朝から空気おかしいんだけど」
「いやー、ちょっとね」
「ちょっとで済む顔してない」
みずきは涼太の机の横へ来ると、楽しそうに声をひそめた。
「昨日の放課後さ」
「うん」
「朝比奈が言ったじゃん。“困った時はたぶん、影山くんに相談します”って」
やめろ。
その先を言うな。
だが、みずきは止まらなかった。
「で、それちょっと面白かったから、今朝、ことりに“もう影山、学園公認の相談窓口じゃん”って言ったの」
「……おまえ本当に余計なことしかしないな」
「そしたら朝比奈が否定しきれなくて」
みずきはここで一回笑いをこらえた。
「その流れで、クラスの女子が“じゃあ私も相談してみようかな”って乗ってきて」
頭痛がした。
「待て」
「うん」
「つまり今のこの空気って」
「影山が“女子の相談を聞いてくれるらしい男子”として、ちょっとだけ期待されてる空気」
「最悪だな!」
思わず声が大きくなった。
教室の何人かがこちらを見る。
しかも、そのうちの数人は女子だ。
目が合うと、くすっと笑ったり、「おはよ、影山くん」と妙にやわらかく声をかけてきたりする。
やめてくれ。
本当にやめてくれ。
「藤宮」
「はい」
「おまえ本当に帰れ」
「まだ朝だよ!?」
「じゃあ消えろ」
「暴言のレベル上がってるって」
その横で、ことりが小さくため息をついた。
「……だからごめんなさいって言ったんです」
「朝比奈は悪くないだろ」
「でも、最初に言ったのは私なので」
「原因の九割は藤宮だ」
「九割!?」
「残り一割で感動するな」
みずきはまるで反省していない。
だがその一方で、ことりの方は本当に気にしているらしかった。
「本当に、すみません」
「だから謝るなって。朝比奈は別に変なこと言ってないだろ」
「でも、結果として……」
「結果として面倒は増えたな」
「やっぱり……」
「いや、そういう意味じゃなくて」
ここで言葉を間違えると本当にまずい。
ことりは、こういうところで余計な責任を抱え込みやすい。
何でも自分のせいにしてしまうところがある。
涼太は頭をかきながら、少しだけ声を落とした。
「面倒なのは事実だけど、朝比奈のせいではない。そこは分けろ」
ことりが少しだけ目を見開く。
その反応の横で、みずきがまたにやっとした。
「うわ、今のちょっと特別っぽい」
「黙れ」
「だって朝比奈にはやさしい」
「それ以上言うな」
そこへ、教室の後ろから低い声が飛んだ。
「朝から何やってんの」
黒瀬レナだった。
今日のレナは、いつもの不機嫌そうな顔に戻っている。
だがその視線は、一瞬だけことりとみずきの間を通って涼太に止まった。
「うるさい」
レナはそう言って、自分の席へ向かう。
だがその途中で、ぽつりと追加した。
「……相談窓口って何」
誰だ。
誰がそこで拾う。
みずきが待ってましたとばかりに振り返る。
「影山のこと」
「やめろ」
「朝比奈公認」
「公認してません!」
ことりが珍しく声を大きくした。
その瞬間、教室に笑いが広がる。
最悪だ。
完全にからかわれている。
だがもっと最悪なのは、ことりのその反応が、余計に“図星っぽく”見えてしまうことだった。
レナが少しだけ目を細める。
「へえ」
「黒瀬、変な納得するな」
「してない」
「今ちょっとしただろ」
「してないって」
ただ、その“してない”の声音はどこか面白くなさそうでもあった。
それに気づいてしまった瞬間、涼太はさらに面倒な気配を察する。
やめてくれ。
空気がまたややこしい方向へ行く。
「とりあえず」
涼太は低く言った。
「その相談窓口って呼び方、今日から禁止」
「えー」
みずきが即座に不満を漏らす。
「禁止」
「公認なのに?」
「してません!」
またことりが反応し、また教室に笑いが起きる。
終わっている。
朝から終わっている。
◆
一時間目の授業が始まっても、教室の空気はどこかおかしかった。
誰も露骨に何かを言うわけではない。
だが、ちょっとした視線や、休み時間の軽い声かけが妙に増えている。
「影山くん、消しゴム貸して」
「ねえ、今度家庭科の課題ちょっと見てくれない?」
「お弁当の冷凍食品って何使ってる?」
全部、別におかしな頼みではない。
むしろ日常的な範囲だ。
だがその一つひとつが、“ちょっと相談していい人”としてこちらを見始めている感じがして落ち着かない。
しかも、そういう空気の変化にいちばん敏感なのが、朝比奈ことりだった。
休み時間、ことりは自分の席でノートを開いたまま、何度かこちらを見ていた。
正確には、“自分を見る女子たちの空気”ごと見ている感じだ。
ことり自身、それが気になっているのだろう。
ただ、だからといって口を出すのも違うと分かっている顔でもあった。
その微妙な表情に気づいた時、涼太はふと、昼休みの前に一度話した方がいいかもしれないと思った。
しかし、そういう時に限って邪魔は入る。
「先輩」
昼休み直前、廊下のところで呼ばれた。
白鳥つばさである。
相変わらず静かな顔だが、目だけは妙に面白そうだった。
「何」
「相談窓口って広まってますね」
「おまえまでその呼び方するな」
「失礼しました」
つばさはそう言いながら、まったく失礼した顔をしていない。
「一年の方にも少し来てますよ。“二年に、女子のちょっとした相談を真面目に聞いてくれる男子がいるらしい”って」
「何でそんな微妙に好意的な方向へ広がるんだ」
「実績があるからでは」
「その言い方やめろ」
つばさは少しだけ笑った。
「でも、先輩」
「何」
「今のところ、悪い噂ではないです」
「そういう問題じゃない」
「でしょうね」
即答だった。
「でも、朝比奈先輩は少し気にしてますよ」
その一言に、涼太の表情が止まる。
「……見てたのか」
「見てました」
「そういうとこだぞ」
「観察なので」
つばさは悪びれずに言った。
「たぶん、“自分の言葉がきっかけで先輩が変に見られてる”って思ってます」
やはりそうか。
涼太は小さくため息をついた。
「分かってる」
「じゃあ、ちゃんと先に言った方がいいです」
「おまえ、たまにやけにまともだな」
「たまにじゃなくて、普段からです」
その返しを最後まで聞かず、涼太は教室へ戻った。
◆
昼休み。
いつもより少しだけざわつく空気の中で、涼太はことりの席の近くへ行った。
「朝比奈」
「……はい」
「ちょっとだけ」
ことりは一瞬だけ迷ったが、すぐにうなずいた。
二人で教室の後ろ、窓際の人の少ないところへ移る。
そこまでした時点で、何人かに見られているのは分かった。
だがもう、その程度で気にしていられる状況でもない。
「その、さ」
涼太は先に口を開いた。
「今朝のこと、気にしてるだろ」
ことりは少しだけ目を伏せた。
「……少し」
「少しじゃないな」
「はい」
正直だ。
そこがこの子らしい。
「でも、本当に私が余計なことを言ったから」
「違う」
涼太は即座に否定した。
「朝比奈は普通に話しただけだろ。変に広げたのは藤宮」
「九割が藤宮さんで一割が私でしたよね」
「そこ覚えてるのか」
「覚えますよ」
ことりは少しだけ困ったように笑った。
その表情が、今朝よりは少しやわらかい。
「でも、やっぱり責任は感じます」
「感じなくていい」
「でも」
「感じなくていい」
もう一度、少し強めに言った。
ことりが黙る。
涼太はそこで、できるだけ言葉を選んだ。
「朝比奈が相談すると言ったのが嫌だったわけじゃない」
ことりの肩がぴくりと揺れる。
「むしろ……その」
続きが少し言いづらい。
だが、ここで曖昧にするとまた余計な誤解を生む。
「嬉しかった、は変かもしれないけど、嫌ではなかった」
ことりがゆっくり顔を上げる。
その頬は、少しだけ赤い。
「……本当ですか」
「本当」
「迷惑ではないんですか」
「迷惑なのは、変な呼び方で広がってる今の状況」
「それは、たしかに」
ことりが少しだけ笑った。
その笑い方は、いつもの優等生の顔よりずっと近い。
秘密を共有して以来、少しずつ見えるようになった素の笑い方だ。
「だから朝比奈は、そこまで気にするな」
「でも……」
「それでも気になるなら、今度から藤宮を止める方を手伝ってくれ」
ことりは一瞬きょとんとして、それから小さく吹き出した。
「それは、たしかに重要かもしれません」
「だろ」
「でも難しいですよ、藤宮さんを止めるの」
「それは知ってる」
二人で少しだけ笑う。
その空気がやっと落ち着いた、その時だった。
「おーい」
最悪のタイミングで、みずきの声が飛んできた。
「二人とも、そうやってすぐ別のとこで話すから余計に怪しいんだって!」
「おまえは本当に黙れ」
「でもほら、朝比奈ちょっと機嫌なおってるし」
ことりの頬がまた赤くなる。
「藤宮さん!」
「え、何、当たり?」
「違います!」
「即答が早い」
「違います!」
もう駄目だ。
教室の数人が笑っている。
完全におもちゃにされている。
だが、そのやり取りの途中で、後ろから別の声がした。
「騒がしい」
レナだった。
相変わらずぶっきらぼうだ。
だが今日は、その一言が妙に助かった。
「黒瀬!」
みずきが振り向く。
「何、もしかして黒瀬も相談したいの?」
「したくない」
「でも前したじゃん」
「してない」
「してるでしょ」
「おまえは本当にうるさい」
レナは呆れたように言ってから、涼太の方をちらりと見た。
その視線には、少しだけ“巻き込まれて大変そう”みたいな色があった。
それを見て、ことりも少し冷静になったらしい。
「……とりあえず」
ことりが言う。
「今後は、みなさんの前で変な言い方をされても、私も慌てないようにします」
「それは助かる」
「でも、藤宮さんが静かになる方が早いです」
「それもたしかに」
涼太は素直にうなずいた。
みずきが不服そうに口を尖らせる。
「何か今日、私の当たり強くない?」
「いつものことだ」
「ひどい」
そこへさらに、教室の扉のところから小さな声がした。
「先輩方」
白鳥つばさだ。
いつの間にか来ていた。
こいつ、本当に気配が薄い。
「何でいる」
「図書室から返却本を届けに」
手には確かに本がある。
だが目は完全にこちらの空気を観察していた。
「……なるほど」
「何が」
「朝比奈先輩が気にしていた件、ちゃんと解決したみたいで何よりです」
ことりが少しだけ固まる。
みずきが「うわ、白鳥ちゃんまた見抜いてる」と笑う。
レナは「怖」と一言で済ませた。
涼太は心の底から思う。
やっぱりこの周囲、面倒な人間しかいない。
そして、その中心に自分がいるのも納得がいかない。
◆
その日の放課後、結局また五人で少しだけ話す流れになった。
ただし今日は、昨日までのような“事件”の話ではない。
もっとくだらなくて、もっと今後に関わる話だった。
「つまりさ」
みずきが言う。
「もう影山が相談窓口なのは既定路線ってことで」
「違う」
「だって今後も誰か困ったら頼られるでしょ」
「それは……」
否定しきれないところが腹立たしい。
ことりが静かに言った。
「でも、そういうふうに見られるのは悪いことではないと思います」
「朝比奈まで」
「ただし、“変な意味じゃなく”です」
その“変な意味じゃなく”をやけに強調するあたり、今朝のことをまだ気にしているのだろう。
だがその慎重さも含めて、この子らしいと少しだけ思う。
つばさが本を抱えたまま小さく笑う。
「じゃあ名称を変えればいいんじゃないですか」
「何に」
レナが聞く。
つばさは少し考えてから、静かに答えた。
「“困りごと処理係”とか」
「嫌だ」
涼太は即答した。
「何でそういう役職っぽくなるんだよ」
「でも実態に近いですよ」
「近くても嫌だ」
みずきがそこで声を上げて笑った。
「影山ってほんと、自分の評価だけ頑なだよね」
「いらない評価だからな」
「でも実際、助かってる人はいるじゃん」
その言葉で、ことりが小さくうなずく。
レナは目を逸らす。
つばさは静かに見ている。
涼太はそこで、少しだけ観念した。
「……分かったよ」
「何が?」
みずきが食いつく。
「別に窓口にはならない。でも、困ってるって分かる範囲なら、無視はしない」
それが今の自分に言える、いちばん正直な言葉だった。
みずきが「それほぼ窓口じゃん」と笑い、ことりがやわらかく笑い、レナが小さくため息をつき、つばさが「データ更新します」と訳の分からないことを言う。
夕方の教室は、少しだけうるさかった。
でもそのうるささは、もう完全に嫌なものではなくなっている。
パンツを拾ったあの日から、青春は終わると思っていた。
でも、終わったんじゃなかった。
たぶん始まったのだ。
面倒で、騒がしくて、秘密があって、誤解もあって、それでも誰かが困っていたら見過ごせないような、そんな放課後が。
「……やっぱり、少しだけ特別になってるな」
思わずそう漏らすと、すぐにみずきが聞き返した。
「何が?」
「何でもない」
「絶対何か言った」
「言ってない」
「朝比奈、聞こえた?」
「少しだけ」
「何て?」
ことりは少しだけ考えて、それから涼太を見た。
その視線は静かで、でも前よりずっとやわらかい。
「……たぶん、いい意味のことです」
「何それ、ずるい!」
みずきが騒ぎ、レナが「うるさい」と呆れ、つばさが静かに笑う。
その真ん中で、影山涼太はまたひとつ、自分の平穏が戻ってこないことを確認した。
けれどたぶん、もうそれでいいのだろうとも思い始めていた。




