第11話 平穏に生きたい主人公ほど誰かの平穏を守るために動く
放課後の教室は、いつもより少しだけ静かに見えた。
たぶん気のせいではない。
数日前までの涼太なら、同じ景色を見ても「いつも通りだな」で終わっていたはずだ。だが今は違う。誰がどんな顔をしているか、誰の机の上に何が置かれているか、どこに妙な違和感があるか――そういうことが勝手に目に入ってしまう。
見ようとしているわけではない。
ただ、目に入る。
それが最近の自分の一番厄介な変化だと、影山涼太は思っていた。
窓際では、朝比奈ことりが帰り支度をしながら何か考え込んでいる。
廊下側では、藤宮みずきが部活前とは思えない元気さで、隣の席の女子としゃべっている。
少し離れた後ろの席には黒瀬レナ。今日は妙に静かで、周囲より先に教科書をしまい終えているのに、まだ立ち上がろうとしない。
そして一年の白鳥つばさはもちろんこの教室にはいないが、放課後に図書室へ行けばたぶんいるだろう、という変な確信まである。
平穏な高校生活を送りたいだけだったはずなのに、どうしてこうなったのか。
しかも、もっと面倒なのは、自分がもう“知らないふり”をしきれなくなっていることだった。
なくし物が多い。
しかも、それは“持ち主が人に見られたくない物”や“なくすと困る物”に偏っている。
誰かが、陰でそれを面白がって動かしているかもしれない。
そこまで分かってしまった以上、何もせずに見過ごすのは、たぶん後味が悪い。
「……ほんと損な性格だな」
小さく呟いた時、前の席の男子が振り返った。
「何か言った?」
「いや、何でもない」
自分の内心を誰かに説明する気にもなれず、涼太は短くごまかした。
するとそのタイミングを見計らったように、ことりが席を立った。
「影山くん」
「ああ」
声をかけられる前から立ち上がる。
ことりは少しだけ目を丸くしたが、そのあと小さくうなずいた。
たぶん同じことを考えていたのだろう。
昨日、図書室で四人で話してから、状況は変わった。
もう“気のせいかもしれない”の段階ではない。何かするなら今日からだ。
みずきもそれに気づいたらしく、「あ、会議?」と勝手に混ざってくる。
レナは露骨に嫌そうな顔をしたが、何も言わず鞄を持って立ち上がった。
結局四人そろって廊下へ出て、図書室へ向かう流れになった。
途中でつばさと合流した時、本人は「あ、やっぱり来ましたね」とあまり驚いた様子もなかった。
こいつ本当に何なんだ、と涼太は思う。
◆
図書室の隅、前より少し奥まった席へ五人で座る。
誰かが何か言い出す前に、涼太は先に口を開いた。
「とりあえず確認な」
全員の視線が集まる。
話す側としては、かなりやりにくい。
「今分かってるのは、落とし物やなくし物が最近妙に多いこと。しかも持ち主が困る物とか、人に見られたくない物に偏ってるかもしれないってこと」
ことりが静かにうなずく。
「はい」
つばさも続く。
「それから、何件かは“別の場所へずらされている”可能性があります」
みずきが「私のノートと靴下みたいなやつね」と補足する。
レナは腕を組んだまま黙っていたが、否定はしない。
「で」
涼太は少しだけ息をついた。
「本当は関わりたくない」
みずきが吹き出しそうになるのをこらえる顔をした。
ことりは少しだけ困ったように笑う。
レナは「でしょうね」という顔。
つばさだけは真面目に聞いている。
「でも放っといて、また誰かが困るのも気分悪い。だから、できる範囲では見た方がいいと思う」
それは、涼太にとってはかなり大きな譲歩だった。
自分から面倒へ関わる。
平穏から一歩外へ出る。
いつもなら避ける方を選ぶのに、今回はそうも言っていられない。
その言葉に、ことりが少しだけ表情をやわらげた。
「……はい」
みずきも珍しく素直にうなずく。
「私もその方がいいと思う」
レナはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「被害に遭ってるやつがいるなら、放っとくのは気分悪い」
つばさは最後に、静かに笑った。
「影山先輩が自分から動くって言うの、ちょっと珍しいですね」
「珍しいよ。自分でもそう思う」
「でも、たぶん先輩はそういう人です」
「それ、今は褒め言葉に聞こえない」
そう返すと、みずきが小さく笑った。
空気が少しだけほぐれる。
だが、笑っているだけで済む話ではない。
「じゃあ、どう動くの?」
ことりが聞く。
そこが問題だった。
涼太は考えながら言う。
「大げさに張り込むとかはなし。先生にすぐ全部話すのも、まだ弱い。だからまず、情報を集める」
「情報って、どんなの?」
みずき。
「いつ、どこで、何がなくなったか。あと見つかったなら、どこで見つかったか」
つばさがすぐに引き取る。
「持ち主がどう困る物だったかも必要ですね。共通点を探しやすいので」
「じゃあ私は、二年の女子の方で聞いてみます」
ことりが言った。
声は落ち着いているが、その目は真剣だった。
「変に騒がず、自然に」
「朝比奈はそれ向いてるな」
涼太が言うと、ことりは少しだけ照れたように目を伏せる。
「がんばります」
「私は部活の方」
みずきが手を上げる。
「運動部まわりで、なくし物とか位置が変わってた物とか、何か聞けるかも」
「おまえは騒ぐなよ」
「分かってるってば。今回はちゃんと静かにやる」
「それを信じるしかないのが怖いな」
「ひど」
だが、みずきも本気なのは伝わった。
こういう時のこいつは、意外と頼りになる。
「私は……」
レナがそこで少しだけ間を置いた。
四人が視線を向ける。
「別に友達多いわけじゃないけど、逆に言うと、派手にしゃべらないやつの空気は分かる。変に黙ってるやつとか、見てるだけのやつとか」
それはレナらしい言い方だった。
派手に情報を集めるより、空気を読む。
たしかに向いているかもしれない。
「ありがたい」
涼太が言うと、レナは少しだけ眉をひそめる。
「素直に礼言うのやめて。調子狂う」
「何だそれ」
「何でもない」
だが完全に嫌そうではなかった。
最後に、つばさが指を一本立てた。
「私は一年の方を見ます。あと図書室経由で来る噂」
「噂って役に立つのか」
「質によります。でも、“どの単語がどこまで独り歩きしてるか”はけっこう大事です」
なるほど、と涼太は思う。
実際、自分が“パンツの人”になっている時点で、噂はかなり歪んで広がる。
歪み方そのものにも、元の出来事の輪郭が残るかもしれない。
「無理しないでくださいね」
ことりがつばさに言う。
「危ないことはしません」
「それ、何回目だ」
涼太が言うと、つばさが少しだけ困ったように笑った。
「今回は本当に」
その“本当に”が信用できるかは分からない。
だが少なくとも、今はそれ以上言いようもなかった。
◆
話がまとまったあとも、すぐには立ち上がらなかった。
図書室の静かな空気の中で、それぞれが少しずつ考え込んでいる。
部活の声もまだ遠く、窓の外では夕方の光が本の背表紙を斜めに照らしていた。
そんな中で、ことりがぽつりと言った。
「……最初は、自分の気のせいかと思っていました」
全員が彼女を見る。
「でも、違うって分かって、少しほっとしました」
「ほっとする話じゃないけどな」
涼太が言うと、ことりは小さく笑った。
「そうですね。でも、私一人で考えすぎてるわけじゃなかったので」
その言葉は、少しだけ切実だった。
ことりにとって、最初の紙袋の件はただの恥ずかしい事件ではないのだろう。
“見られたくないもの”が自分の手を離れ、気づかないところで人の目に触れるかもしれない。
その怖さを、たぶん誰より強く感じている。
だからこそ、今の話を放っておけないのだ。
「気づいてよかったと思う」
涼太は素直にそう言った。
ことりが少しだけ目を見開く。
「何が」
「朝比奈が言わなかったら、俺たぶん“気のせいかも”で流してた」
ことりはしばらく黙って、それから静かに言った。
「……ありがとうございます」
「別に礼じゃない」
「でも、うれしいです」
また、そういうことを真面目に言う。
涼太は少しだけ視線を逸らした。
女子に慣れていない人間へ、そういう真っすぐな言葉は本当に効くからやめてほしい。
みずきがそれを見て、にやっとした。
「影山、今ちょっと照れた?」
「照れてない」
「照れてたよね、朝比奈」
ことりが少しだけ困ったように笑う。
「……少し」
「おい」
「だって本当にそう見えましたし」
レナが鼻で笑う。
「分かりやす」
「黒瀬まで言うのか」
「事実だから」
つばさが静かにまとめるように言った。
「先輩、平穏に生きたいタイプのわりには、感情が顔に出ますよね」
「それは初めて言われた」
「たぶん、今までそこまで見られてなかっただけです」
それも嫌な分析だった。
だが、反論しにくい。
こうして四人に囲まれていると、自分が思っているよりずっと読まれやすい人間なのかもしれない、とすら思う。
「まあでも」
みずきが椅子の背にもたれながら言う。
「影山がちゃんと動くって言ったの、ちょっと安心した」
「何だそれ」
「だってさ、今までの影山って、毎回“巻き込まれただけです”って顔してたじゃん」
「実際そうだったろ」
「でも今回は、自分からじゃん」
そう言われると、その通りだった。
たしかに今回は、自分から関わると決めた。
それは今までと少し違う。
「……仕方ないだろ」
涼太は小さく言う。
「分かってしまった以上、知らないふりするのも気分悪い」
その一言に、レナが少しだけ目を細めた。
「そういうとこだよ」
「何が」
「面倒なやつ」
「悪口か」
「半分は」
ことりがそのやり取りを見て、ほんの少しだけ笑う。
つばさは「でも信用できる面倒さですね」と静かに言った。
みずきは「うわ、それ分かる」と頷いている。
何だそれは。
だが、全員が同じ方向を向いている感じは、少しだけ不思議だった。
昼休みまでは、誰がどう見えているか、誰にどう特別に見えるか、そんな話ばかりだった。
けれど今は違う。
少なくともこの場では、誰かの秘密をめぐって争う空気ではない。
同じものを見て、同じ気持ち悪さを感じて、それを何とかしたいと思っている。
それはたぶん、悪くなかった。
◆
図書室を出る前、ことりが小さく息を吸った。
「影山くん」
「ん?」
「私、最初の時、すごく怖かったんです」
その言葉に、涼太は動きを止める。
他の三人も自然と静かになる。
「紙袋をなくした時も、見つかった時も、誰かに知られるのが怖くて……本当に終わったと思いました」
ことりはゆっくり話す。
「でも影山くんが、あの日、変に騒がずに返してくれて、笑わないでいてくれたから、たぶん今こうしていられるんだと思います」
「朝比奈」
「だから」
ことりは顔を上げた。
その目は静かで、でもまっすぐだった。
「今度は私も、逃げません」
図書室の空気がしんとする。
それは大げさな宣言ではなかった。
ただ、自分の怖さを知っている人が、それでも前へ出ようとしている声だった。
涼太は一瞬だけ言葉を失う。
返すべき台詞はいくつか頭をよぎったが、どれも少し違う気がした。
結局、出てきたのは短い言葉だった。
「……分かった」
ことりは小さくうなずいた。
みずきが、その空気を壊さないようにか、いつもよりずっと控えめな声で言う。
「じゃあ私もちゃんとやる」
「私も」
レナ。
「観察、強化します」
つばさ。
そこで涼太はようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
面倒ごとだ。
かなり面倒な話だ。
平穏からは確実に遠ざかっている。
それでも、今はもう一人で抱える形ではない。
ことりがいて、みずきがいて、レナがいて、つばさがいる。
この五人でどこまでできるかは分からないが、少なくとも見て見ぬふりだけはしない。
「……じゃあ、行くか」
そう言うと、四人がうなずいた。
放課後の図書室を出る。
廊下の窓から見える夕焼けは、昨日より少し濃かった。
平穏に生きたい主人公ほど、誰かの平穏を守るために動く。
そんなの皮肉だと思う。
でもたぶん、今の自分はそれをもう否定しきれないところまで来ていた。




