第10話 落とし物が増えすぎる学校は、たぶん何かがおかしい
昼休みの“ほぼ修羅場”から午後の授業へ移ったところで、影山涼太の心が落ち着くわけもなかった。
ノートに板書を書き写しながらも、頭の中ではさっきの会話が何度も再生される。
朝比奈ことりの「まだ、そういうんじゃありません」。
藤宮みずきの「影山って誰にでも同じことしてるわけじゃないんだ」。
黒瀬レナの「普通、人の家にちょっと上がらせるとか、そこまでしないでしょ」。
白鳥つばさの「誤解を生む才能はあります」。
全部やめてくれ、と思う。
思うのだが、完全に否定できない言い方ばかりなのがさらに困る。
そもそも自分は、別に人間関係をかき回したいわけではない。
困っている相手がいたら、その場をややこしくしないよう片づけてきただけだ。
それがどうして、こうして複数人の間に微妙な温度差を生むことになるのか。
「……意味分からないだろ」
小さく呟いたところで、前の席の男子がちらっと振り返った。
「何か言った?」
「いや、何でもない」
授業中に独り言を漏らすくらいには疲れていた。
そして、そういう日に限って、余計なことはまだ終わらない。
◆
放課後、教室の空気は思っていたより普段通りだった。
みずきは部活の時間が迫っていたせいか、「今日はもう変なこと言わないから安心して」と宣言してから去っていった。宣言する時点で信用ならないが、少なくとも今日はそのまま走っていったので助かった。
ことりもいつものように帰り支度をしていたが、昼休みのやり取りのあとだからか、涼太の方を見ても無理に話しかけてはこなかった。
その距離感がありがたい反面、少しだけ気を遣わせてしまった気もして、涼太はそれはそれで落ち着かなかった。
レナは授業が終わるとほぼ同時に教室を出ていった。
つばさに至ってはそもそも教室にいない。
ようやく平和だ。
そう思ったのは、本当に一瞬だけだった。
「影山くん」
ことりが、控えめに声をかけてきた。
涼太は鞄の中へ教科書をしまいながら振り向く。
「何」
「少しだけ、いいですか」
その言い方だけで、ただ事ではないと分かった。
ことりは普段、用事があってもここまで慎重な言い方はしない。
たぶん、誰かに聞かれたくない話だ。
「……廊下?」
「はい」
二人で教室を出て、窓際の人通りが少ないところまで移動する。
涼太はそこで改めてことりを見る。
やはり少し緊張していた。
だが昼休みのような“気まずさ”ではない。
何か考えている時の顔だ。
「どうした」
「その……最近、落とし物が多いと思いませんか」
予想外の切り出しだった。
「落とし物?」
「はい」
ことりは小さくうなずく。
「私の紙袋のこともそうですけど、それ以来、周りでも妙になくし物とか入れ違いの話が多い気がして」
涼太は少し考える。
言われてみれば、心当たりはあった。
みずきの部活ノート。
レナの紙袋は“なくした”わけではないが、雨の日の荷物トラブル。
教室でも、この前誰かが「定期入れが見つからない」と騒いでいた気がする。
生活の中に落とし物は珍しくない。だが、ここ数日のそれはたしかに少し続きすぎているような感じもあった。
「気のせいじゃないのか」
ひとまずそう言ってみる。
ことりは困ったように首を振った。
「私も最初はそう思ったんです。でも……」
「でも?」
「なくなっている物が、少し偏っている気がして」
「偏ってる?」
「その……人に見られたくない物、だったり」
ことりの声が少しだけ小さくなる。
その言葉に、涼太の中で何かが引っかかった。
人に見られたくない物。
たしかに、ことりの紙袋はそうだった。
みずきのノートも、部活の大事な記録であり、なくせばかなり困るものだった。
レナの紙袋も、本人にとっては人前で開きたくない類のものだっただろう。
偶然、で済ませられるか?
「誰かに何か聞いたのか」
「少しだけ」
ことりは周囲を確認するように視線を動かしてから、続けた。
「二組の子が、持ち歩いていた家庭科の課題をなくしたって言っていて。しかもそれ、クラスで一番手芸が苦手なのを気にしてた子なんです」
「……へえ」
「あと、一年生の子で、部活の当番表だけがなくなった子もいるみたいです。別のプリントは全部あったのに、それだけ」
「それ、単なる入れ間違いじゃなくて?」
「かもしれません。でも、ちょっと不自然じゃないですか」
不自然。
その単語に、図書室でのつばさの顔が浮かぶ。
あの後輩なら、こういう違和感にはすぐ気づきそうだ。
「白鳥に聞いてみるか」
涼太がそう言うと、ことりは少し驚いたように目を瞬かせた。
「白鳥さんですか」
「こういうの、あいつ好きそうだから」
「たしかに……」
好きそう、というより面白がりそう、だろう。
だが同時に、変に先走る前に一度見解を聞いておいた方がいい気もした。
ことりは少しだけ安心したように息をつく。
「私、気にしすぎなのかと思っていました」
「朝比奈はたぶん、そういう違和感をそのままにはしないタイプだろ」
「……そう見えますか」
「見える」
ことりは小さく笑った。
「影山くんも、やっぱり見てますね」
「何を」
「人のこと」
その言い方に、涼太は少しだけ返答に詰まる。
見ているつもりはない。
ただ、困っている顔とか、不自然な空気とか、そういうものが目に入ってしまうだけだ。
でも今の一言は、少し違う意味にも聞こえた。
だから余計に困る。
「……見てるというか、目に入るだけだよ」
「それでも、すごいことだと思います」
ことりは真面目に言った。
またそうやって真っすぐなことを言う。
女子に慣れていない人間へ、そういう言い方は効くからやめてほしいと、最近何度も思っている。
「とりあえず」
照れを紛らわせるように、涼太は話を戻した。
「白鳥探すか」
「はい」
◆
つばさは図書室にいた。
放課後の図書室は昼間より少し暗く、窓際の席に落ちる光もやわらかい。カウンターには司書の先生がいて、本の整理をしている。そんな中、白鳥つばさは昨日と同じように文庫本を開いていた。
こちらに気づくと、本へしおりを挟み、静かに立ち上がる。
「先輩方」
その言い方だけで、すでに少し面白がっているのが分かる。
「二人そろってどうしたんですか」
「変な聞き方するな」
「だって、朝比奈先輩と影山先輩が一緒に来る時点で、少し特別そうなので」
「そういうのをいちいち口にするな」
「善処します」
していない顔だ。
ことりが小さく咳払いして、本題へ入る。
「白鳥さん、少し相談してもいいですか」
「はい」
「最近、校内で落とし物やなくし物が多い気がしませんか」
その一言で、つばさの目が少しだけ細くなった。
楽しそうな顔ではない。
観察者の顔だ。
「思ってました」
即答だった。
涼太とことりが同時に目を向けると、つばさは本を閉じてテーブルに置いた。
「先輩たちも気づいてたんですね」
「やっぱりあるのか」
「はい。しかも少し偏ってます」
ことりと同じ言葉。
つばさは続ける。
「ただの筆記用具とか教科書じゃなくて、“なくなると持ち主が困る物”か、“見られると恥ずかしい物”が多いです」
「それ、朝比奈も言ってた」
「たとえば、手芸の課題、部活の当番表、相談メモ、予備の持ち物、そういうのです」
つばさは指折り数えるみたいに挙げていく。
どうやら本当にいくつか把握しているらしい。
「偶然じゃないのか」
涼太が問う。
つばさは少し考えてから答えた。
「偶然が何件か重なってる可能性もあります。でも、私は少し違うと思ってます」
「何で」
「なくなり方が雑じゃないからです」
その表現は妙に腑に落ちた。
「雑じゃない?」
「はい。たとえば誰かが鞄を丸ごと盗るとか、教室全体を荒らすとか、そういう分かりやすい悪意じゃないんです。もっと、小さくて、持ち主しか困らないズレ方をしてる」
つばさは淡々と話す。
「つまり、面白半分か、もしくは誰かの反応を見たいだけの人間がやってる感じです」
「……趣味が悪いな」
涼太が言うと、つばさは小さくうなずいた。
「かなり」
ことりはそこで少し表情を曇らせた。
「私の紙袋も……」
「それはまだ断定できません」
つばさはきっぱり言う。
「でも、ただ風で飛んだだけとは言い切れないです」
図書室の空気が少しだけ冷えた気がした。
涼太は腕を組み、考える。
もし本当に誰かがやっているなら、その目的は何だ。
持ち主が困る顔を見るためか。
恥ずかしい思いをするのを見たいのか。
だとしたら相当たちが悪い。
「先生に言うべきか」
そう口にすると、つばさは首を横に振った。
「今はまだ弱いです」
「何が」
「証拠。落とし物が多い、なくし物が多い、だけだと、注意喚起くらいしかできません。それ自体は意味ありますけど、相手がやめるとは限らないです」
たしかに、と思う。
注意喚起が出れば、やっている側が警戒する可能性もある。
そしてそうなれば、余計に分からなくなる。
「じゃあどうする」
ことりが聞くと、つばさは少しだけ困ったように笑った。
「見ます」
「見る?」
「はい。どこで、何が、どうなくなってるのか」
やはり観察者だ。
涼太は思わず言う。
「一人で動くなよ」
つばさが一瞬だけ目を丸くした。
「心配してくれるんですか」
「そういう言い方やめろ」
「でもうれしいです」
「聞いてない」
ことりがそのやり取りを見て、小さく息をついた。
呆れているのか、少し安心しているのかは分からない。
「白鳥さん」
「はい」
「無理はしないでくださいね」
「朝比奈先輩まで」
「心配ですから」
つばさは少しだけ目を細めて、やわらかく笑った。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。私、危ないことはしません」
「その台詞、だいたいする直前のやつなんだよな」
涼太が言うと、つばさが珍しく少しだけ吹き出した。
「先輩、思ったより分かってますね」
「分かりたくもない」
その時だった。
図書室の入口がばたんと開く。
「いた!」
声だけで分かる。
みずきだ。
どうしてこう、必要な時に限って空気を読まない元気担当が現れるのか。
「何してんの三人で」
「静かにしろ」
涼太が即座に言うと、みずきは「ごめん」と口では言いながらも、目は完全にきらきらしていた。
「また秘密会議?」
「違います」
ことりが答える。
「違わないです」
つばさが答える。
どっちだ。
みずきはもう一歩近づいてきて、テーブルをのぞき込む。
「え、何何、面白そう」
「面白くはない」
「でも影山がそう言う時ってだいたい面白い」
「その認識をやめろ」
みずきはつばさの方を見る。
「白鳥ちゃんもいるし。何? またパンツ関連?」
「その単語から離れろ」
もはや反射だった。
しかしつばさは、意外にもすぐに本筋へ戻した。
「最近の落とし物の話です」
「落とし物?」
「はい。なくなり方が少し変だという話」
みずきはそこでようやく、面白がりだけではない顔になる。
「……あ」
「何だ」
涼太が聞くと、みずきは少しだけ眉を寄せた。
「私さ、前に言ったっけ。部活のロッカーの中で、ノートなくした時」
「言ったな」
「その時、ノートだけじゃなくて、変な場所に靴下入ってた」
一瞬、全員が黙る。
「……は?」
涼太が聞き返す。
みずきは少しだけ首をかしげた。
「いや、替えの靴下。自分のなんだけど、いつもはバッグのポケットに入れてるやつが、ロッカーの奥に押し込まれてて。私、最初それ見て余計に混乱したんだよね」
「何で今まで言わなかったんだ」
「だってその時は、私が自分でぐちゃぐちゃにしたのかなって思ってたし」
つばさの目が鋭くなる。
「それ、いつもと違う場所だったんですよね」
「うん。しかも変な押し込み方されてた」
なるほど、と涼太は思う。
なくしただけではなく、“別の場所へずらされている”のかもしれない。
それならたしかに、誰かが少しだけ触っている可能性が出てくる。
「藤宮先輩」
つばさが言う。
「他にそういうの、覚えてませんか」
「えーと……」
みずきは真面目な顔で考え始めた。
珍しい。
だが、必要な時はちゃんとそうなるのだ。
「ロッカーの鍵とノートの件くらい、かな。でも、そういえば部の一年の子が“ポーチの位置が変わってた”って怒ってたことあった」
「ポーチ?」
「中身は分かんないけど、なんか“見られたら困るから勝手に触るな”って」
ことりと涼太が顔を見合わせる。
やはり偏っている。
「……趣味悪いですね」
ことりが静かに言った。
その声は冷たかった。
たぶん、今まででいちばん。
つばさは小さくうなずく。
「かなり」
みずきも難しい顔になる。
「それってさ、誰かがわざとやってるってこと?」
「可能性は高いです」
つばさが答える。
「もちろん全部がそうとは言えません。でも、少なくともいくつかは“ただのうっかり”じゃない気がします」
図書室の空気が、昼休みの騒がしさとはまるで違う緊張を帯び始めた。
涼太はテーブルの端を軽く指で叩く。
こういう時、自分が一番嫌うのは“人の恥ずかしさを面白がるやつ”だ。
助けるとか助けないとか以前に、単純に気分が悪い。
「……面倒なのが本当に面倒な話になってきたな」
思わずそう漏れる。
みずきが珍しくまっすぐな声で言った。
「これ、ちゃんと何とかした方がよくない?」
「そのつもりです」
つばさは落ち着いて答えた。
「ただ、まだ先生に全部話すには弱いです。だからまず、次に何か起きた時にちゃんと見ておきたい」
ことりが少し不安そうに眉を寄せる。
「でも危なくないですか」
「危ないことはしません」
「さっきも聞きました」
涼太が言うと、つばさは少しだけ苦笑した。
「じゃあ、危なそうならすぐやめます」
「最初から一人で追うな」
「じゃあ先輩も見ますか」
その問いに、涼太は即答できなかった。
見たい、とは思う。
だが、ここで変に首を突っ込みすぎると、また面倒も増える。
しかも相手が誰か分からない以上、油断もできない。
その沈黙を、ことりが破る。
「私も、気をつけて見てみます」
「朝比奈先輩まで」
「でも、放っておけませんから」
みずきも腕を組んだ。
「私も部活の方、ちょっと聞いてみる」
「おまえは騒ぐなよ」
「分かってるって。こういう時はちゃんと静かにする」
その言い方は、今日に限っては信用したい気もした。
涼太は三人を見渡す。
静かなことり。
鋭いつばさ。
勢いのみずき。
それぞれやり方は違うが、誰も“どうでもいい”とは思っていない顔をしていた。
そして自分も、たぶんそうなのだ。
「……分かった」
涼太が言う。
「次に何かあったら、ちゃんと共有しよう。小さいことでも」
つばさがうなずく。
「はい」
ことりも、少し安心したようにうなずいた。
「分かりました」
みずきは少しだけ口元を上げる。
「了解、相談窓口」
「今その呼び方するな!」
思わず声が大きくなり、司書の先生がまたこちらを見た。
全員が一斉に「すみません」と小声で謝る。
その瞬間だけ、張りつめた空気が少しゆるんだ。
だが本筋は変わらない。
校内で、落とし物やなくし物が妙に多い。
しかもそれは、“持ち主が困る物”“人に見られたくない物”に偏っている。
誰かが、陰でそれを面白がって動かしている可能性がある。
パンツだの相談窓口だのという、これまでの騒がしさとは別の意味で、話は少しずつ芯を持ち始めていた。
◆
図書室を出たあと、廊下を歩きながら、みずきが珍しく小さな声で言った。
「なんかさ」
「何だ」
「ちょっと本気で気持ち悪いね」
「うん」
涼太は短く返した。
それだけで十分だった。
ことりも隣で静かに歩いている。
つばさは少し後ろからついてくる。
四人の足音だけが廊下に細く響く。
さっきまでの“誰がどれだけ特別か”みたいな空気は、ひとまず奥へ引っ込んでいた。
その代わり、別の緊張がある。
誰かが人の困る顔を見たくて、持ち物をずらしたり隠したりしているのかもしれない。
そう思うだけで、たしかに気分が悪かった。
「影山くん」
ことりが小さく呼ぶ。
「ん?」
「私、最初は自分の気にしすぎかと思っていました」
「でも違ったな」
「はい」
ことりは少しだけ唇を結んだ。
「気づいてよかったです」
「朝比奈が言わなかったら、俺たぶんそのままだった」
「私も、白鳥さんがいなかったら自信が持てなかったと思います」
つばさが少しだけ笑う。
「役に立てて何よりです」
みずきがそこで横から言う。
「白鳥ちゃん、ほんと探偵みたいだよね」
「探偵は言いすぎです」
「でも、なんか似合う」
「ありがとうございます。でも肩書きはもう少し普通でいいです」
「じゃあ観察後輩」
「それは普通じゃないです」
そんなやり取りに、ことりが少し笑う。
みずきも笑う。
つばさは困ったようにしながらも、完全には嫌がっていない。
その様子を見て、涼太は少しだけ思う。
面倒ごとは増えた。
でも今のところ、自分一人で抱える形ではなくなっている。
それが救いなのか、さらに面倒なのかはまだよく分からない。
ただひとつ確かなのは――
これは、ただの“パンツ騒動”では終わらないかもしれない。
ということだった。
廊下の窓の外では、夕方の空が少しずつ色を変え始めていた。
春の放課後は長い。
そしてたぶん、自分たちの放課後も、まだ終わりそうになかった。




