第1話 パンツを拾ったら人生が終わると思った放課後
春の放課後というのは、どうしてあんなに中途半端な熱を持っているのだろうと、影山涼太はよく思う。
教室の窓から差し込む西日が机の角を橙色に染め、廊下の向こうからは運動部の掛け声と笑い声が混じって聞こえてくる。帰る者は急ぎ、残る者はまだ一日の続きを生きている。授業は終わったはずなのに、学校だけがまだ終わっていないような、あの独特の時間だ。
涼太はその時間が嫌いではなかった。むしろ好きな方だった。
騒ぎの中心にいるのは苦手だが、誰かの声や靴音が遠くにある静けさは落ち着く。家に帰れば、一人暮らしの家が待っている。春から海外赴任になった両親に代わって、夕飯の段取りを考え、米を研ぎ、洗濯物の時間を見て、風呂を沸かす。そういう流れももう少しずつ板についてきていた。
今日の献立は何にするか。
冷蔵庫には鶏もも肉があったはずだ。玉ねぎも、人参も、たしか残っていた。照り焼きにするか、親子煮にするか。そんなことをぼんやり考えていた時だった。
「影山くん、これ職員室にお願いできる?」
教卓の前で、学級委員の女子が困った顔をしていた。
断れない。
いや、正確には断る理由が見つからない。両手で持つほどでもないファイル一冊。ついでと言えばついでだ。しかも頼んできた相手は、本当に困っている顔をしている。
「……いいよ」
「助かる! あと、日誌も一緒でいい?」
「増えたな」
「お願い!」
そこで押し切られる。
こういう時、自分は損な性格だと涼太はよく思う。育ちがいいだの礼儀正しいだの、親には言われてきたが、平たく言えば“人に頼まれると断りづらい”だけである。別に立派な人間になりたいわけではない。ただ、目の前の困った顔を放置して帰ると、家に着いてからも妙に気になってしまうのだ。
だったら引き受けた方が、まだ気が楽だった。
職員室にファイルを届け、ついでに日誌を提出し、さらに廊下に落ちていたプリントを拾って先生に渡し、ようやく解放された頃には、すでに校舎の影が長くなっていた。
「遠回りしたな……」
昇降口へ向かうメインの廊下は、この時間になると部活帰りの生徒で混む。涼太は人混みを避け、校舎裏へ抜ける通路を選んだ。少し薄暗くはあるが、その分静かで早い。
それが、たぶん分かれ道だった。
校舎裏は春の風がよく抜ける。
古いフェンスの向こうに植え込みが並び、どこからか舞ってきた桜の名残が隅に溜まっている。表の賑やかさとは違い、こちらは音が少ない。遠くの部活の声だけが、壁に反射してかすかに届いていた。
その時、涼太の視界の端で、小さな紙袋がふわりと浮いた。
白地にドラッグストアのロゴが入った、よくある紙袋だった。風にあおられて地面を滑り、植え込みの陰へ入りそうになる。
反射で、涼太はそれを拾った。
「……あ」
拾ってから、まずいと気づいた。
持ち手のところに挟まっていたレシートが、半分飛び出していたのだ。見ようと思って見たわけではない。本当に、たまたまだ。だが文字というものは、目に入った瞬間に読めてしまう。
ソックス。
ハンカチ。
携帯用ティッシュ。
そして――パンツ。
「終わった」
思わず口から出た。
なぜそれが“終わった”になるのか、自分でも論理的に説明はできない。だが気持ちははっきりしていた。高校二年の男子として、放課後の校舎裏で、ドラッグストアの紙袋を拾い、その中にパンツが入っていると察してしまった。この時点で、もう何かが危ない。
もちろん中身は見えていない。袋の口は閉じている。だが、だからといって安全なわけではない。むしろ“察してしまった”という事実が一番気まずい。
涼太はレシートを見なかったことにしようとした。無理だった。
「……どこ……」
すぐ近くから、小さく焦った声がした。
ぎくりとする。
声のした方へ顔を向けると、校舎裏の自販機の陰あたりを、きょろきょろと見回している女子生徒がいた。
朝比奈ことり。
二年A組、同じクラス。成績優秀、物腰柔らか、先生からの信頼も厚い優等生。落ち着いていて、言葉遣いも丁寧で、クラスでは“ちゃんとしている人”の代表みたいに扱われている女子だ。
その朝比奈ことりが、今はまるで別人のような顔をしていた。
真っ青だった。
ただ忘れ物をしただけの人間の顔ではない。もっと切羽詰まっていて、もっと困っていて、そして何より、誰にも見られたくないものを失くした人間の顔だった。
涼太の手の中には、その“誰にも見られたくないもの”と思しき紙袋がある。
「……いや待て」
立ち去るか。いや無理だろ。
呼ぶか。呼んだら終わる気がする。
でも呼ばないのも違う。
涼太は本気で数秒悩んだ。
見なかったことにしてこの場を去れば、少なくとも今この瞬間の気まずさからは逃げられる。だが、あの朝比奈の顔を見てしまった以上、その選択をしたらきっと家に帰っても後悔する。米を研ぎながら思い出し、フライパンを振りながら思い出し、夜に布団へ入ってからも思い出すに違いない。
それはそれで落ち着かない。
「……なんで俺が」
小さく呟き、涼太は周囲を見回した。人影はない。今なら、たぶん見られずに済む。
たぶん。
深呼吸を一つして、できるだけ低い声で呼ぶ。
「朝比奈」
「ひゃっ……!」
ことりの肩が大きく震えた。振り向いたその顔は、いつもの整った優等生のそれではなく、完全に追い詰められた人間の顔だった。
そして視線が、涼太の手元へ落ちる。
時間が止まる。
「あ……」
ことりが小さく声を漏らす。
それだけで、もう答えは出た。
彼女の顔が、みるみる赤くなった。耳まで真っ赤だ。青ざめていたところへ羞恥が一気に押し寄せてきたらしい。口元が震えている。
「こ、こ、それ……」
「これ、おまえのか」
「わ、私のです……っ」
言った瞬間、ことりは両手で口元を押さえた。自分で認めたことすら恥ずかしいのだろう。
涼太は慌てて言う。
「大きい声出すな。誰か来たらまずい」
「影山くんが急に呼ぶからです……!」
「悪かった。でも見つかったなら受け取れ。早く」
なるべく無機質に、なるべく事務的に言う。そうしないとこっちの心臓がもたない。
ことりは一歩近づいてきた。いつもの上品で隙のない歩き方ではなく、完全に余裕のない小走りだ。涼太は紙袋を差し出した。
ことりはそれを両手で受け取る。だが受け取ったあともしばらく動けない。手が震えている。袋を鞄へ入れようとして、うまくいかず、余計に焦る。
見ない方がいい。
涼太はとっさに横を向いた。
「……落ち着け」
「無理です……」
「そうだろうな」
自分でも何を言っているのか分からないが、それでも口にしないよりましだった。
ことりはどうにか紙袋を鞄へしまい込んだ。ふう、と息を吐く。その息が小さく震えていた。
しばらく沈黙が落ちた。
風だけがフェンスを鳴らす。遠くでホイッスルが鳴った。
ことりは恐る恐るこちらを見る。涼太も視線を戻す。目が合う。ものすごく気まずい。たぶん高校生活の中でもかなり上位に入る気まずさだった。
「あの……」
ことりが先に口を開いた。
「見ましたか」
その一言が、あまりに直球すぎて涼太は一瞬返事に詰まった。
見ていないと言えば嘘になる。
見たと言えば追い詰める。
少し考えてから、涼太はできるだけ落ち着いた声で答えた。
「中身は見てない」
これは事実だ。
「ただ……レシートがちょっと見えた」
ことりは目を閉じた。消え入りそうな声で、「ですよね……」と呟く。
涼太は慌てて続けた。
「でも、わざとじゃない。本当にたまたまだ。あと、その……紙袋だけじゃなくて、ノートとかも入ってるの見えたけど、別に何も読むつもりはなかったし」
言ってからしまったと思った。
ことりの顔がまた赤くなる。紙袋の中には、替えの生活用品だけではなく、小さなノートとお守りも入っていた。拾った拍子に、ちらりと見えてしまったのだ。
「ノート……」
「いや、だから見てない。ちゃんとは見てない」
「……」
「ほんとに」
苦しい言い訳みたいになったが、本心だった。
ことりは少し黙り込み、それから意を決したように言う。
「あれ、緊張した時に読むノートなんです」
「……そうか」
「子どもっぽいって、思いましたよね」
「思ってない」
涼太は即答した。
ことりがわずかに目を見開く。
「いや、まあ、正直に言うと意外ではあったけど。でも子どもっぽいとか、変だとか、そういうのは思ってない」
「本当にですか」
「本当に」
涼太は自分でも驚くくらい、まっすぐ答えていた。
「人に見られたくないものって、誰にでもあるだろ」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。優等生相手に何を偉そうに言っているのかと自分で思う。だがことりは笑わなかった。
むしろ、その言葉が予想外だったらしく、少しだけ力の抜けた顔をした。
「朝比奈って、いつもちゃんとしてるから」
「……それ、よく言われます」
「だろうな。だから逆に、そういうのがあっても別におかしくないと思う」
「そうでしょうか」
「そうだろ」
ことりはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……前に、一度だけ学校でひどく困ったことがあって」
「うん」
「それ以来、何かあった時のために、少しだけ替えを持ち歩くようになったんです。あと、お守りとノートも」
「備えってことか」
「はい。念のためです。念のためなんですけど……それを見られるのは、やっぱり……」
「恥ずかしい?」
ことりはうなずいた。
その動きはとても小さかったが、さっきよりはずっと素直だった。
「私、ちゃんとしてるって思われたいんです」
ぽつり、と本音が落ちる。
「いつも落ち着いてて、失敗しなくて、恥ずかしいことなんてしない人、みたいに」
「大変だな」
涼太はついそう言ってしまった。
ことりが少しだけ眉を寄せる。
「慰めてないですよね、それ」
「ごめん。でもほんとにそう思った」
涼太は頬をかきながら言った。
「ちゃんとしてるように見えるやつって、たぶん見えないところでいろいろやってるだろ。俺だって家で毎日、味噌汁吹きこぼしそうになったりしてるし」
「影山くんは、そういう失敗するんですか」
「する。普通にする」
「ちょっと意外です」
「だろうな。人ってそんなもんだろ」
そこで、ことりがほんの少しだけ笑った。
教室で見せる優等生の整った笑顔ではなく、困って、恥ずかしくて、それでも少し安心してしまった時にだけ出るような、力の抜けた笑みだった。
その表情を見て、涼太は逆に視線をそらす。
不意打ちだった。
女子に慣れていない自分には、そういう無防備な顔は心臓に悪い。
「……あの」
ことりが改めて口を開く。
「ありがとうございます」
「いや」
「拾ってくれて、返してくれて、それから……変にしないでくれて」
「変にって何だよ」
「分かりますよね……」
「なんとなくは」
ことりはまた少しだけ笑った。
その笑い方で、さっきまで張り詰めていた空気が少し緩む。
けれど次の瞬間、ことりは表情を引き締めた。鞄を胸の前で抱えるように持ち直し、小さく頭を下げる。
「……誰にも、言わないでください」
その声音には、冗談の入る隙がまったくなかった。
ただ恥ずかしいだけではない。
彼女にとっては、本当に大事な秘密なのだろう。替えを持ち歩くことも、緊張対策ノートも、お守りも、きっと“弱い自分”の証拠みたいに感じているのだ。
だからこそ、涼太は軽く返したかった。
重々しく請け合うより、その方が彼女の気持ちも少し楽になる気がした。
「言うわけないだろ」
ことりがゆっくり顔を上げる。
涼太は疲れ切った顔のまま肩をすくめた。
「俺だって終わりたくない」
一拍置いて、ことりはきょとんとした。
それから、堪えきれないように口元を押さえる。
「……ふふ」
「笑ったな」
「少しだけです」
「元気出たならいいけど」
「出てません。まだすごく恥ずかしいです」
「それはそうだろうな」
それでも、さっきのような追い詰められた空気ではもうなかった。
ことりはもう一度、小さく頭を下げると、「失礼します」と言ってその場を去っていった。歩幅はまだ少し小さいが、背中にあった張りつめた感じはだいぶ和らいでいる。
その後ろ姿が見えなくなってから、涼太は大きく息を吐いた。
「……何だったんだ、今の」
風がまた通り抜ける。
ただの放課後だったはずだ。頼まれごとを片づけて、帰って、夕飯を作る。それだけのはずだった。なのに、どうしてこんなに心臓の悪い出来事が起きるのか。
パンツを拾ったら人生が終わる。
自分でも馬鹿みたいだと思うが、さっきは本気でそう感じた。
もちろん中身を見たわけではないし、何かやましいことをしたわけでもない。だが、クラスの優等生の“誰にも知られたくない秘密一式”を拾ってしまったという意味では、精神的な破壊力は十分すぎた。
「……帰るか」
誰に言うでもなく呟く。
だが、そのまま昇降口へ向かう前に、涼太は一度だけ教室へ戻った。鞄を取り、窓を閉め、忘れ物がないか確認する。そういうことが気になってしまうのも、たぶん育ちのせいだ。
夕方の教室はがらんとしていた。机の列だけが静かに西日を受けている。
鞄を肩にかけ、今度こそ帰ろうとした時だった。
「影山くん」
また名前を呼ばれて、涼太の心臓が跳ねた。
振り向くと、教室の入口にことりが立っていた。
さっきよりはだいぶ落ち着いている。頬の赤みも薄れ、いつもの“朝比奈ことり”に近い顔に戻っていた。ただ、目が合うとやはり少しだけ気まずそうに視線が揺れる。
「なんだよ」
思わず慎重な声になる。
ことりは小さく一歩近づいた。
「あの、さっきは……ちゃんとお礼を言えていなかったので」
「もう言っただろ」
「さっきのは、半分混乱していましたから」
「今はしてないのか」
「少しはしてます」
「してるのかよ」
それが予想外だったのか、ことりは少しだけ目を丸くし、それからまた小さく笑った。ほんのわずかな笑みだが、さっきより自然だった。
「でも、伝えたかったんです」
ことりはそう言って、涼太の前で背筋を伸ばした。
「今日は、本当にありがとうございました。見つけてくださらなかったら、たぶん……私はすごく困っていました」
「大げさだろ」
「私にとっては大げさじゃないです」
きっぱりとした返事だった。
涼太は少しだけ言葉に詰まる。
ことりは続けた。
「あと、笑わなかったことも」
「そこ何回礼言うんだよ」
「大事なことなので」
「そうか」
短いやり取りなのに、妙に空気が静かだった。
秘密を共有してしまった相手とだけ生まれる、どこか居心地の悪い、でも完全には嫌ではない距離。そういうものが、二人の間に確かにあった。
ことりは少し迷ってから、さらに小さな声で言った。
「私も、誰にも言いませんから」
「……何を?」
「影山くんのことです」
「俺の何をだよ」
「ちゃんとした人だってことを」
「それ、秘密にする必要あるか?」
「あります」
ことりは珍しく、ほんの少しだけ悪戯っぽい顔をした。だがすぐに真面目な表情へ戻る。
「今日のことを変に話したりしません。影山くんが困るのも分かるので」
「ああ……助かる」
「はい」
また沈黙が落ちる。
窓の外では、どこかの部活が片付けを始めたらしく、金属音が遠くで響いた。カーテンがふわりと揺れ、夕方の光がことりの横顔をやわらかく照らす。
ことりは鞄を抱え直し、出口へ向かいかけて、ふと振り返った。
「影山くん」
「今度は何だ」
「……本当に、ありがとうございました」
今度のお礼は、もう混乱したものではなかった。
きちんと自分の意志で言いに来た言葉だと、分かる声だった。
涼太は肩の力を少しだけ抜く。
「……どういたしまして」
ことりは満足したように微笑み、そのまま教室を出ていった。
足音が遠ざかってから、涼太は一人で天井を見上げる。
「なんなんだよ、これ……」
人生が終わると思った。
少なくとも、平穏な高校生活はここで一度終わる気がした。
けれど実際には、終わらなかった。
その代わり、何かが始まった気がする。
まだ名前のつかない、気まずくて、妙に静かで、たぶん少しだけ特別な何かが。
朝比奈ことりを見る目は、きっともう前と同じではいられない。優等生、ちゃんとした人、隙のないクラスメイト――それだけではなくなってしまった。彼女が人に見せない部分を、ほんの少しだけ知ってしまったからだ。
そしてたぶん、向こうも同じだ。
「……平穏じゃないな」
誰もいない教室で呟く。
でも、不思議と嫌ではなかった。
涼太は鞄を持ち上げ、今度こそ昇降口へ向かった。夕方の廊下は長く、窓の外はまだ明るい。家に帰れば、一人分の夕飯を作るいつもの時間が待っている。
ただ、その“いつも”はもう少しだけ、元の形からずれてしまった気がした。
パンツを拾ったら青春が終わると思っていた。
けれど本当は――
たぶん、ここから始まるのだ。




