第1話:毒を盛ったのは、私じゃない
三年前のあの日のことを、私は一生忘れない。
六月。梅雨の合間の晴天。──でも、空はこんなにも晴れているのに、私の人生は一瞬でどしゃ降りになった。
元婚約者・望月隆也の結婚式。その披露宴の真っただ中。
花嫁のグラスに入れられていた赤ワインに、微量の毒物が混入していたことが発覚した。
誰かが小さく叫んだ。「気分が悪いみたいです!」
次に聞こえたのは、ガシャンというガラスの割れる音だった。
花嫁が、突然倒れ込んだのだ。
会場に緊張が走る。
警察と救急車が来て、式は中断。
原因不明の症状──けれどその日のうちに、「毒が盛られていた」という報道が流れた。
そして、その疑いが向けられたのは──
私だった。
「元婚約者に恨みを抱いていた柊美月さん(当時27歳)が、嫉妬から犯行に及んだ可能性がある」
スポーツ紙の小見出し。ネットの書き込み。あざ笑うような噂話。
でも、私はやっていない。
毒なんて盛っていない。
そもそも、彼の結婚式にだって、招待すらされていなかったのに──
どうして私が、犯人なんてことになるの?
誰かが、私を嵌めた。
けれど誰も信じてくれなかった。
当時勤めていた化粧品メーカーでは、すぐに私の名前が社内ネットワークから消えた。
上司は「事実はどうであれ、ブランドイメージに関わるから」と冷たく言い放ち、私はその日限りで“自主退職”させられた。
何もかも失った。
愛も、信用も、キャリアも。
──それが三年前の出来事。
そして、今。
新しい名前で転職した今の職場で、ようやく穏やかな日常を取り戻しつつあったある日──
「……嘘でしょ……」
私は目の前のエレベーターから降りてきた男を見て、思わず口元を手で覆った。
背の高いスーツ姿。鋭い目元に無駄のない所作。
冷たくも完璧な外見──それは、かつて私を地獄に突き落としたもう一人の男。
堂本司。
元上司。
あの事件のとき、誰よりも私を疑い、誰よりも早く手を切った男。
なのに、彼は私をまっすぐに見て、薄く笑った。
「やっぱり……お前だったんだな。柊美月」
「──っ、違います。もうその名前じゃ……!」
「名前を変えても、目は変わらない」
足音もなく、彼は一歩、私に近づく。
呼吸が止まりそうになる。鼓動が跳ねる。
「お前が毒なんて盛るタマじゃないこと、今ならわかる」
……は?
今さら何を──そう言いかけて、彼の指がスッと胸ポケットから一枚の写真を差し出した。
それは──私の事件当日、結婚式の厨房で、花嫁のグラスを手にしていた女性の写真だった。
よく見ると、それは……隆也の現在の妻、つまり“被害者”であるはずの女。
「……これ、まさか……」
「あの日、毒を盛ったのはお前じゃない。──真犯人は、花嫁本人だったんだよ」
頭が真っ白になる。
司の目が鋭く光る。
「俺と手を組め。三年越しの嘘を暴いて、全部ぶっ壊そう」
──そのとき、私は気づいた。
復讐を望んでいたのは、私だけじゃなかった。
会社の外。人気のない屋上。
私は息を飲んでいた。
「何で……今さら、そんなことを……?」
「俺の弟が、三年前の一件で自殺したんだ」
ぽつりと落とされた言葉に、私は凍りついた。
司の弟──堂本翔。あの式のあと、急に姿を消した同期の男性社員。
彼が──死んでいた?
「自殺と断定された。でも、俺は信じてない。あいつは……あいつは、何かを知っていた。だから、消された」
拳を握る彼の横顔は、悲しみと怒りと、ほんの少しの迷いに揺れていた。
完璧で冷徹な男の奥に、こんな顔があるなんて──知らなかった。
気づけば、私の手は震えていた。
「美月、復讐をしても、過去は戻らない。でも……」
「でも、未来は変えられるってこと?」
「そうだ。──俺と、未来を変えよう」
この言葉が、私の眠っていた感情に火をつけた。
あの日から止まっていた時間が、ゆっくりと、でも確かに動き始める──
そして、私はうなずいた。
「……わかった。私、やる」
この復讐は、誰かを憎むためじゃない。
もう一度、自分を取り戻すために。