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雨音 II

作者: 伽藍 芥











雨が降っている。






漆を塗ったような闇が周囲に落ちていた。鬱蒼と茂る森の木々に囲まれて、男は土を握り締め起き上がろうともがくその格好のまま、かなりの時間目的を達することが出来ないでいた。

ここで死ぬわけにはいかない。朝が来て闇がここにいる自分を照らし出す前に逃げなければと思うのに、傷ついた体はいうことを聞かない。

長いこともがいてかろうじて出来たのは、うつ伏せていた体を仰向けに転がすことだけだった。


雨が自分の体を叩いている。その冷たさももう感じないほど。

深い傷を負った体は雨にも洗い流されることはなく、桃色の水溜りをあたりに作っているのだろう。べっとりと手をぬらしていた自分と他人の鮮血は洗い流され、じわじわとにじむ傷口からの出血を絶え間なく雨が洗う。周囲を包む闇の所為で目で確認こそ出来ないが、戦士である男には自分の今の状態は手にとるほどに分かった。

このままではあと二時間もすれば、体温も雨と同じ熱さになっていることだろう。朝が来て自分の居場所が追手にばれても、それも無意味になっていることだろう。

「サウラ……」

密やかに愛していた女の名前を呟きながら男は目を閉じた。頬を叩く冷たい雨がかすかに流れた涙をすぐさま洗い、もろともに地面へと吸わせていく。


愛した女の仇を討ちたかった。せめて楽に眠らせてやりたかった。

女が愛した男と作った娘の願いを、せめて少しでもかなえてやりたかった。

だが、叶わなかった。


男と一緒に走ってくれた仲間は死んだ。その中には、男を密かに愛していた女がいた。別の女に報われぬ想いを向け無謀なる勝負に出た男と最期までともに走った彼女は、男の退路を確保するために微笑って死んでいった。

サウラと同じように燃える髪の色をした妖艶な女だった。その最期の笑顔が美しかっただけに、男の後悔も深い。

「いきなさい」

死に際、果てを指差して彼女は言った。

行きなさいか生きなさいかは定かではないが、その言葉が諦めかけた男の背をここまで押してきた。降りしきる雨の中、剣を握る感覚が消え、痛みが消え、追っ手の姿が消えても、駆け続けた。人が見ればもう生きているのさえ不思議な傷を負いながらも執念で男はここまで駆け逃げ、やがてまろび、倒れた。



男は澱んだ目で空を見上げた。雨が降っている。

起き上がろうと土を掴んだ手を動かそうとしたが、今度こそぴくりとも動かせなかった。

こりゃあいよいよ駄目だな、そう思った途端急激に疲労が来た。四肢の冷たさ、雨が土に沁みるのと同じ速度でじわりと染みてくる傷の痛みと、瞼を開けているのも辛いほどの眠気とが唐突に男を襲った。

このまま眠ってしまえば、再び目が覚めたとき愛しい女たちや一座の仲間達が待っているのかもしれない。この世の苦渋とは無縁の場所でまた皆で旅が出来るのかも知れない……、そんな甘美な幻想を抱いてしまうほどに、男は疲れ果てていた。


死がゆっくりと近づいてくる足音が、本当に聞こえた気がした。

目を閉じた。すぐ近くの水たまりがかすかな音を立てたが、男は目を開けなかった。





もういい、―――このまま眠ってしまおう。








雨のなかにゆらゆらとランプの光が漂っている。雨避けのためだろうか闇と同じ色をしたフードを目深にかぶり俯きながら早足で歩いていたひとりの男が、通りすがりに道端の大きな塊に気づいたのは、奇跡に近い幸運だった。

ランプのかすかな光はシェードに遮られて男の足元だけを照らしていたが、彼は本能に近い感覚で少し離れた場所にいる怪我人に気がついた。雨音にまぎれて聞こえた、女の名前。


男は空耳のような声の流れたほうへと闇にもそれと分かる美しいエメラルドの瞳を向けた。それから目を細め、耳を澄ます。

雨音以外何も聞こえない。だが、彼の耳は人よりも研ぎ澄まされた感覚で死に向かおうとする人間の足音…かすかな吐息を、しかと聞き分けていた。


「怪我人ですか。こんなところに」


物音のしたほうへと歩くと、闇の中に何かが横たわっているのが見えた。呟きながら男はフードを跳ね上げて屈みこみ、死する間際の昏睡に落ちている怪我人の傷をすばやく検分した。命に関わるものもそうでないものもどちらもあちこち負っており、見る限りでは今息があることのほうが不思議だった。よほど心身ともに鍛えあげられた人間なのだろう。

肩の辺りで切りそろえられた彼の髪がしっとりと雨に濡れる。傷を検分し終えた通りすがりの男は、濡れた髪をうっとうしげに束ね、懐から取り出した紐で手早くくくった。それから雨に濡れた眼鏡を取り外套で拭いたが、すぐにまた濡れてしまい舌打をしながら胸ポケットにしまう。

「鬱陶しい雨ですね」

忌々しげに天を見上げた顔立ちはまだ若い。かすかに幼さを残すが、世間を知る男の顔をしている。年のころは二十歳そこそこだろうが、仕草、行動、落ち着き払った態度から見るに同じ年頃の人間よりは老成しているようだ。死にかけた人間を前に焦ることなく天を見上げて文句をつけるなど、どうかしている。



青年は倒れ伏した男を抱き上げようとしたが叶わなかった。傷を負った男は思いのほか重く、彼の腕では起き上がらせることも出来ない。仕方なく青年は溜息をつきつき重い傷だけを探し、その手をかざした。

かすかな呟きがもれる。不思議な抑揚で紡がれる言葉とともに青年の手のひらに光がともる。光はやがて手のひらから男の傷口へと移り、沁み込んでいく。

春の若草が土から芽吹くようにゆっくりとした速度で肉芽が盛り上がり、表面上の傷がふさがっていく。雨に濡れ土に横たわったままではとても奥深くまで癒すことは出来ないが、応急処置としてはまず充分だろう。

男の呼吸が少しだけ和らいだのを見てから青年は運ぶ手を借りるために一度その場を離れた。








雨が、降っている。








湿った土の匂いがする。

あぁ、ここは棺の中か。俺は死んだのか。


それにしちゃ体が痛ぇな。



「………痛え。」




呟いた声が自分で聞こえた。天国でも感覚はあるのかなどと莫迦なことを考えつつ男は目を閉じたまま気だるげに髪をかきあげた。途端電流のような激痛が前身を走りぬけ、悲鳴をあげたつもりだったがそれは声にならず、無言のまま声にならない声を上げ体をくの字に折り投げてのたうつ羽目に陥る。涙目で目を開けたら、赤茶色の染みがところどころについた白いシーツが目に入った。

「どこだ、ここ」

痛みを堪えるためにじっとしている間、ようやくはっきりした意識がここが天国なんかではないことを男に知らせる。サウラも仲間もいなかったし、花畑でもない。湿った土の匂いのする、木の板と柱で囲われた小さな部屋。

寝かされていたベッドのほかに、棚がひとつとテーブル、椅子がひとつ。花瓶にいけられた花の匂いは可哀想に、土の匂いに負けている。


「あぁ、気がつきましたか。」


部屋のたった一つしかない椅子には見慣れない男がいた。怪我人の覚醒を知り、彼はそう声をかけると膝においていた本を傍らの机に乗せ、手を伸ばして欠伸をしながら近づいてくる。

「実に三日間寝っぱなしですよ。僕、その間椅子で寝てて体中痛いです」

ぎし、とベッドが揺れた。青年が傍らに座ったので、男は苦痛に耐えながら体をよじり青年を見た。

随分と綺麗な顔をしている。が、本人は無頓着なようで髪はざんばら、服はよれよれ、加えて寝起きの髪をがしがしと掻き大欠伸だ。なんだか顔とのギャップにあっけに取られてしまう。

「すまなかったな。」

「目が覚めていきなり謝るひとも珍しい」

どうやら瀕死の自分を助けてくれた上に自分のベッドを三日間提供してくれていたらしい。青年の眠そうな様子にとりあえず謝ると、青年はそんなことを言って男を見下ろした。


「構いませんよ。医者は怪我人を助ける義務があります」

「アンタ、医者なのか」

「ええ。やぶですけどね」


青年はにっこりと微笑しながらあっさりと言った。男が無言でいるのを見て青年は眼鏡をかけ直し、手早く布団を引っぺがすと傷の検分をはじめる。シーツも布団も血だらけだが、男の様子を見る限り傷は少しずつ良くなってきているようだ。

「やっと目覚めてくれましたから、これでようやく本格的に治療できます」

青年はそういうと再び男に布団をかけ直してベッドから離れた。怪訝そうに自分を見る男に

「意識がないときに一気に治すと、ショックで死ぬこともあるんですよ」

とだけ説明して、先ほどまで座っていた椅子を引き寄せて腰掛けなおす。

男はあっけに取られなすがままになっていたが、青年が離れてようやく落ち着いたのかもう一度きょろきょろと辺りを見回した。窓が一つもない部屋だ。空気は重く、ランプだけが唯一の光源。

「気になりますか?」

身を起こし、興味深げに辺りを観察し出した男の様子に、目も向けず手元の本に視線を落としたまま青年が尋ねた。そりゃあもう、と答えたいのを押し殺して男はただ短く、

「まあな」

とだけ答えた。答えに満足したのか青年が本を閉じるかすかな音が耳に届く。見上げた彼と視線が合った。エメラルドの色をした瞳が眼鏡越し、まっすぐ自分を見ている。

「僕も気になりますよ。あなたのこと、いろいろと」

言われてようやく、男は自分が彼に名乗ってすらもいないことに気がついた。


「すまねえ。俺ぁゲイルってんだ」

「僕はミズミールといいます。改めましてこんにちは」


頭を掻きながら苦笑してそう名乗れば、青年も間延びした自己紹介をしてへらりと笑った。







雨音が聞こえない。今は夜かと尋ねたら、青年は昼だと思いますよと曖昧な答えを返した。それから壁に触れ、湿った土の匂いがするから雨はまだ止んでないのでしょうなどと言った。

「ここは地下なんですよ。町外れの一人暮らしの老人の家の、いわゆる隠し倉庫という奴ですね」

複雑な顔をして説明しミズミールはゲイルから視線をはずし、傍にある金属のパイプに片耳を押し当てた。目を閉じて、開ける。

「あんたもいろいろとわけありかい」

「ええまあ、それなりに」

怪我に障るからと取り上げられた煙草は今ミズミールの口元にある。締め切った狭い部屋での他者の喫煙も結局自分が吸うのと同じことではないかと思ったが、口には出さずにしまっておいた。

今までの経験とささやかなやり取りで、この若い医者が怒らせてはいけないタイプだということが良く分かったからだ。

彼の言葉の断片から察するに、この若い医者は何かしらの理由で他者に見つからないようにこの地下倉庫とやらに匿われているらしい。夜になると徘徊し、その帰路でたまたま瀕死の男を見つけ持ち帰った、それがどうやら三日前の話だ。



可愛い弟子どもを港へと送り出した翌日エレンディラ、エミリオとともにサウラの首を奪還するべく晒し台を目指し駆けたが、警備は思ったよりも厳重だった。

エミリオがまず最初にやられた。三人とも腕は大陸中の戦士と比べたとてかなりの使い手であると言えたが、あまりにも敵の数が多すぎた。死に瀕しながらもエミリオは残る二人に一度退けといった。二人でも生き残り次こそはきっとという彼のため逃げる途中、エレンディラも死んだ。


仲間を置いてただひとり、郊外まで無我夢中で走ったゲイルだけが、この医者に助けられた。

なんとも情けない話だ。話せるようなことでもねえ。



ミズミールが最初事情を聞いたときにはそっけなく拒絶したゲイルだったが、にっこりと笑いながら頭から消毒液をぶっ掛けられ挙句の果てに「僕が温厚なうちに自白したほうが身の為ですよ~」などと間近で言われて、何が温厚なうちにだと思いながら結局あらいざらい白状させられた。

ミズミールは興味深げに話を聞いた。一座の、とりわけサウラとエレンディラの話を聞きたがったので、治療の合間にぽつりぽつりとゲイルは彼に語った。

治療は思いのほか長引いた。治癒の魔法ですぐに治す事も出来るのだが、それにはゲイルの体力が削られすぎていた。

魔法といえども万能ではない。とりわけ治癒魔法は体の新陳代謝を通常の何倍にも促進し強制的に傷を治す。戦闘中に倒れる程度ではなく、戦闘不能を通り越し冷たくなる寸前だったゲイルには急激な治癒はあまりにも危険だと若い医師は言った。毎日少しずつ的確に傷を治癒していきながら、ゲイルも根気よくミズミールの事情を探ろうとした。

「俺がこんだけ話してんだ。お前さんもちったぁ喋れや」

「あなたの話は宿代みたいなものでしょう」

遠まわしな言い方を辞めてずばりと切り出せばミズミールはそう言ってかわす。三日もの時間をかけ、自分のことは洗いざらい自白させられたゲイルが知りえたことといえば、ミズミールがかつて離れた国の軍医であったこと、目的のためにここを目指して旅をしてきたらしいこと、今はここで何かを待っていることだけだ。そしてどうやら彼の身分がそれなりのものであることも。



時折部屋の隅にあるパイプを伝い、しわがれた老人の声が聞こえた。恐らくこの家の持ち主であろう。その声は彼を「坊ちゃん」と呼び、医者は彼に何かを探るように命じた。最後にいつも一言「気をつけて」と付け加えるミズミールの顔は子どものようで優しかった。

振り向いた顔はもういつも通りの、笑顔の仮面だ。笑ってるように見えて心は油断もなく、瞳は少しも笑ってもいない。歳相応のような笑顔を向けながら心は凍りついているかのように瞳の奥の深淵からは何も見えなかった。

笑顔こそなかったが、そんな顔を、似たような瞳を遠い昔に見たことがあった。拾ったばかりの彼の弟子が幼いころそんな瞳をしていた。

拾われたばかりの蒼流が周りの知らぬ人間の情けを猜疑し怯え母の死骸のところへ単身戻ろうとしていたときの瞳。あの時はふたりを除いて誰も気がつけなかった暗い翳りを、今ならば、分かる気がした。少なくとも目の前にいる人間の持つ闇には気がついたから。



どういう仕組みになっているのか分からないが、一日三回二人分の食事が降りてくる。その仕掛けのことを聞いたときあれこれと説明はされたもののちょっともなんだかわからなかったが、凄いなと褒めた時だけミズミールは子どもみたいに笑いながらありがとうございますといった。

食事の後の煙草も止められなくなり、身を起こすのもしんどくなくなった頃、医者はようやく「明日一気に治療します」と告げた。もう体力的にも急激な回復に耐えられるようになったらしい。

「回復したら、もう一度行くんですか?」

煙草を二人して燻らせている。ようやく慣れてきた何もない時間も明日で終わりだ。欠けた剣はいつのまにか磨かれている。

傍らでぼそりと呟く声が聞こえた。医師がいつのまにか間近で見下ろしている。

「当たり前のことを聞くんだな」

答えた声にかぶさるように、冷たい声が降ってきた。


「死にますよ」

「だろうな」


間違いなく今度こそ死ぬだろう。弟子には死に急ぐなといったが、このまま尻尾を巻いて逃げられるほどプライドは低くない。戦士に必要なものは結局は死に場所だと本心では思っている。

「死んだら何も残りません。それが分かってて行くのは無駄です」

真っ向から死ぬと決め付けている相手になんとなく苦笑を漏らし、見上げた。複雑な顔をして見下ろしている医者に視線を向けて、ゲイルは煙草の端を噛み潰すようにして笑った。

「少なくとも、先に逝った連中への餞にはなるぜ」

密かにずっと愛してきた女がいた。一座のためにと相手を信じて身を預けたその女は欺かれ、首だけになって晒された。それを取り戻そうと駆けた自分についてきてくれた、己を愛してくれた女は自分を守るために死んだ。

仲間のことはすべて置いておけたとしても、彼女達に対しての想いだけはとても崩せそうになかった。それで死んでも、それは望みのうちにある。

「馬鹿馬鹿しい」

ゲイルの感傷を鼻で笑い、医師は背を向けた。離れた椅子に腰掛け、真顔でベッドの上の怪我人を見ている。睨むような視線に苦笑しながら、ゲイルは煙草を消した。

「リアリストだな」

「ええ、それなりに」

口癖なのかミズミールの答えはいつもそれだ。

「殉死や天国などという幻想に惑わされぬ程度にはリアリストを自負しています。勝ち目のない勝負に挑み死ぬなど愚の骨頂だと思う程度には賢いですし」

「おいおい」

エメラルドの視線が睨みすえる。ぎこちない仕草で煙草を消し、椅子をずらす音が聞こえた。

意識が戻って日がたたぬうちに気がついたが、この医師は体が不自由なようだ。日常生活には支障がないが、彼の手は重いものが持てない。非力なのではなく、そういう機能がないのだ。


義手、義眼。

魔術と医術の融合は、今やそんなことも出来るらしい。



いいですか、と前置きしミズミールが傍らのナイフを手にした。ちらちらと映るランプの光をはじき、揺れる切っ先。

かすかな殺気にぎょっとしたゲイルが振り向いた。

「やっと助かった命を散らされるのは、医師として最大の侮辱です。」

続く言葉は言わなくても分かる。明日行くと言えば今すぐ殺すといわんばかりだ。

「そうかい」

それを知ってもゲイルの意思は曲がらなかった。何処で死んでも同じだが、行くと決めたら必ず行く。そのためなら治りきらない体で恩人である医者を殺すことも厭わないし、その体で翌日再び死地に向かうのも至極当たり前、当然の予定だ。

「悪いな、無駄な手間かけさせちまって」

「……まったくです」

気持ちが曲がらないのを知ってかミズミールは大げさに溜息をついてナイフを置き、椅子に腰掛けなおした。義眼にかぶせてある前髪をかきあげて、生きている左目でちらりとゲイルを見てから、芝居がかった溜息をもう一度。

「あなたに凄くよく似た知人がいます。僕の思い通りにならない人はこれで二人目です」

「それはそれは」

「止めても聞かないところがそっくりですね。ああまったく腹立たしい」

靴をがつがつと床に打ち付け、本当に忌々しそうに言うのでゲイルはなんだか爆笑してしまった。それをとがめるためかつかつかと近づいてきて鼻をつままれたものだから、笑えるやら苦しいやらでむせこんでしまう。

いつのまにかミズミールの仮面がはがれていた。恐らく自分は彼のとても大事な奴に似ているのだろう。



「あなた、僕に雇われませんか」


鼻を掴んだ手を払い、更に笑っていたら唐突に医者が言った。笑いを辞めて視線を向ければ、すぐ傍で医師が自分を見ていた。

エメラルドの視線が自分の藍色の目を見ている。部屋に不意に静けさが下りた。

聞こえるはずのない雨音までが聞こえる気がした。ランプが揺れる。

「取引しましょう」

ミズミールが静かに言った。


「あなたの仇と僕の仇は同一です。一人で行って死ぬよりも二人で生還しませんか」





少しばかりの沈黙の後で、ゲイルはゆっくりと頷いた。











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―――僕の仇とあなたの仇は同一です。


もう一度そう言ってミズミールは机にひじをつくと、指を組みその上に顎を乗せた。




虚空を睨みすえている碧玉の瞳には先ほどまで感情の色がなかった。が、今は違う。一つの色彩が彼の瞳を鮮やかに彩っていた。

憎しみの色、それも、長い年月を経て練り上げられた、深い悲しみをも含んだ根深い憎悪だった。

「あなたの大事な女性は二人とも、恐らく綺麗なまま領主の館にいるはずです」

静かに、テノールの声を低く押し殺し、彼は言った。

「あの領主には変わった性癖があります。美しい女性の死体をコレクションするんですよ」

サウラもエレンディラもともに美しい女性だった。一週間以上も晒された首は腐敗の影もなく完璧な美しさを保ったままだったことを今更ながらに思い出す。

「そりゃ悪趣味だ」

「まったくですね」

吐き捨てるように言う青年の様子をも探りながら、ゲイルは頭の後ろで手を組みベッドに寝転がった。目的を同じくした二人の間に隠し事は禁物だと今までは黙ったままであった身の上話をミズミールは自分から始めた。戦場で味方に対する猜疑は命取りだと、まったくもって軍人らしい理由で語り始める彼の話を聞くにつれ、ゲイルの顔が厳しくなる。



「僕の母が、多分ね。あの館にあなたの愛した人たち同様に飾られていると思うんです。もう十年も前になりますが……僕と母はあの男に殺されまして」


彼の父親は前領主で、民のために政治を行い誰にも慕われ尊敬されていた立派な統治者だった。それと同時に家庭に対しても良い父親であり、幼いミズミールに、跡取としてだけではなく一人の男として立派になるようにと、あらゆるものを学ばせた。

忙しい時間をぬってよく僕と遊んでくれましたと、懐かしそうに彼は話した。

「何の陰りもない平和な時代でした。僕の過去でもっとも幸せな時間でしたよ」

その平和が崩れたのはあまりにも突然だった。あくまでも幼かった彼にとってだけは。

「今の領主は父の弟……まあ僕の叔父です。子ども心にも怖い人だったと記憶している」

周りの大人たちはきっと知っていたのだろうと彼は言う。子どもであった彼は両親に守られ、周囲の暗雲を何一つ知らなかった。叔父はいつか国を我が物にしようと思っていたらしく、恐らく父も母もそれに気づいていた。しかし表向き叔父は節度ある振る舞いをしていたし、特に裏で何かをしていた様子もなかったため、人の良かった彼の父親はいずれそれらの暗雲への警戒を忘れていったのだと思う。

そしてある日、母と彼が出かけた際、突然何者かに襲われた。


「母は斬られて死に、僕は暴走する馬車ごと森の深い崖に叩き落され、半身を失いました。」


聞くもののほうが顔をゆがめるような昔語りを、淡々と、他人事のようにミズミールは語った。ランプの光が、生き残ったほうと寸分違わぬ義眼の中で揺れている。

生きているのが不思議だと幼い彼を診た医者、…その後彼を育てることになる人間は思ったそうだ。顔の半分はぐちゃぐちゃで、腕は半分もげていた。だが死んでいるだろうと思った通りすがりの猟師を、ぎょろりと残った片目が見た。怯えた猟師は魔物だと思い街に滞在していた魔術師を連れて退治に来た。医者でもあったその魔術師は瀕死の子どもを抱き、連れ帰って治療し養子にした。

「それでお前さん、そんな体なのかい」

「そんな体とは失礼な。普通の人なら分からないほど完璧なのに」

柔らかく微苦笑し、ミズミールは手をひらひらとふって見せる。右手。かつての利き腕で今は、一部が己のものでありながら己のものでなくなったその手を。

「で、討ちたい仇はそのお袋さんのためか」

「そうであってそうでもないです。ちょっと複雑なんですけど」

水差しから水をグラスに注ぎ、口を潤す。机に置き、その波紋をしばし見つめたあとでミズミールは静かに言った。



たとえば失った器官は戻らない。

彼の目が見えるようになることはもうない。元通りの腕が生えることもない。

死んだ人は戻らない。どれほどに望んでも、我が身と引き換えにして構わないとさえ思えども、我が身と引き換えにして取り戻せるような失われたものなどこの世にはない。


幼い頃ならば単なる憎しみだけでひとも殺せただろう。

仇討ちと言い、憎い男をただ殺し、かつて自身に穿たれた埋めようのない穴を埋められずとも少しの間だけの鎮痛剤と出来たかもしれない。

けれど幸か不幸か、命を救われた彼は失われた器官を補うものを手に入れた。


見えなくなった目は頻繁に激しい頭痛やめまいを引き起こし、吐きながら昏倒したことすらある。損なわれた目はいっそ掻きだしてしまいたいほどの苦しみ、無くした腕はもう感じるはずのない痛みを彼に与え続けた。

それでも、彼の傍らにはいつだって誰かがいた。

剣を持てなくなった代わりに魔術が与えられた。杖の代わりになってくれる誰かもいた。

見えなくなった目を補うための義眼にはなかなかなれなかったが、人の脳は不思議なもので、いつしか見えるはずのない右眼の視界を脳が補い、吐き気やめまいも消えていった。


「苦痛が癒えていくにつれて、憎しみが癒えると言うのもおかしな話です。けれど確かに僕は少しずつ、母や父のことを思い出に変え、ゆっくり穏やかに忘れていったのかもしれません」


昔、動けるようになった直後こそ仇を討とうと何度もこの地に舞い戻ろうとした。そのたびに師である魔術師に諌められた。まだ早い、と。

―――世間がお前を忘れるまで、憎しみは殺しておきなさい。

いつしかそれが師の口癖になった。殺すためだけではない力と勇気を覚えるまで、魔術師は旅立つことを赦さなかった。その間、師について軍医になり、いくつかの戦場へと赴いた。殺すより生かす仕事を続けているうちに、憎しみの無駄さを知った。無駄に散るものの悲哀も知った。

自分と母の存在を事故で片付け消し去った叔父が、数年かけて父を毒で蝕み殺したことを風の噂で聞いても、憎しみよりも悲しさが先に立った。どうしようもないことだと割り切りもした。


なのに。



「……じゃあ何故、そんな目をして今更仇を討ちに行く。」


永いこと沈黙を続けて聞くだけだったゲイルは初めて言葉を発した。見つめ返す医師の瞳にはやはり、燃えるような憎悪の色がありありと浮かんでいる。

「憎くねえなら何でそんな目をする」

わざと指をさし、ゲイルが真顔で聞いた。ミズミールが表情を変える。

瞳の色が変わった。憎悪から悲哀に、ゆっくりと変わる瞳。

「叔父の所業を知って僕が憎悪したのは、僕自身ですよ」

父が死に、叔父が国を継いだ。それはもしも彼がいれば彼が継いだだろう国だ。

叔父は国主になった途端に隠していた牙を剥いた。罪もないキャラバンに無実の罪をなすりつけ荷を奪い命を絶ち、それを諌めた心ある領民の首を跳ねたりもした。

「僕がいれば防げたことかもしれません」

ミズミールは言って、膝の前で手を組んだ。駐屯地で風の噂に聞いた己の故国の話に、同僚の肩を掴んでゆさぶり詳しく聞き出すと、その足で彼は軍を抜けた。誰にも言わずに、師にも言わずに、ただひたすら故郷を目指して急いだ。


無くした器官が疼いた。痛みが蘇る。

ただ憎かった。このまま流され平穏に暮らそうとしていた自分が。


「母のことはついでです。あなたが愛しい女性たちを眠らせるなら、もし見つけ出せたならばそのついでに頼みたいという程度です。僕はその間に叔父を殺します。」

殺したあとどうするのかゲイルは敢えて聞かなかった。今の領主が殺されて、それを殺した男が次の領主に収まるなんてそんな簡単に物事が進むはずはないが、この男のことだ、あれこれ考えた末の決意なのだろう。もしかしたらもっと違う結末を見ているのかもしれない。どっちにしても部外者が口を出せるたぐいの話ではないだろう。

ゲイルはそんな事情に興味はない。エレンディラとサウラを開放できればそれで良い。

「ようするに俺に囮になれってか?」

ミズミールは領主の首が欲しい。ゲイルは領主のコレクションを叩き壊したい。出来れば遺体を持ち帰りたいがそれは出来ないだろうから、館を棺に葬ってやりたい。ふたりの利害は一致する。

ゲイルの軽口に若い医者は不敵に笑った。

「言うなれば互いに囮ですね。片付けなきゃならない敵が半々になるなら悪くない取引でしょう」

館に入ったら互いに目的のものに向かう。コレクションは恐らく地下に、領主は上に。防ぎ手は必然的に分散される。ひとりでは防げない敵でも半分ならどうにかなる。

「で、ひとりの仕事が済んだらもう一人を助ける。ま、あてにゃ出来んが」

「あてにしてたら死にますよ。ですが先に片付けたほうがもう一方に恩を売れるとすれば悪くない話でしょう」

それだけ言うとミズミールは立ち上がった。ゲイルをベッドから蹴り飛ばし、床にかけ布団だけを落とす。

「お、おい?!」

「僕、明日はいろいろ大変なんです。今日くらい寝床譲ってくださいね」

打ちつけた頭を撫でながら跳ね起きると、それだけを言って相手は着の身着のままベッドの上で寝息をたてていた。眼鏡もかけたままだ。ずぼらにもほどがある。


「まったく」


歳相応の寝顔から眼鏡をはずしてやり、髪をぽんぽんと軽く叩くようにして撫でた。目を閉じているとそこらにいる若者達と変わらないのに、随分と難儀をしてきたのか、寝顔にすら疲れが見えた。

「歳はエクセリーヌとそうかわらねえのにエルフ並みの老けっぷりだな、お前さん」

まだ20歳になったばかりの青年の寝顔を見ながら一座の子ども達を思い出しゲイルは苦笑する。蒼流は少しずつ笑顔を取り戻していった。フィラリスも笑うようになり、……エクセリーヌはいつも笑っていた。全部済んだらこいつもあんなふうに笑えるようになるだろうかなどと、ふと思う。

「起きてりゃあんたには関係ねえというんだろうが」

見ず知らずの自分の傷が癒えるまで自分の寝床を分け与え、遠まわしに心配し、利害の一致を理由に協力してくれるという不器用な子ども。

守ってやりてえなと思う反面、それをこの男は望まないのだろうとも思った。


誰かを、自分を憎いと言いながら、何かを待つような瞳。

寂しそうな瞳をしながらも誰も要らないのだというその態度。


明日になればそれでもすべてが終わる。生き残ればゲイルもミズミールもともに過去から自由になる。もしこの男が望むなら、いや、望む望まないに関わらず、変えてやるのはそれからの話だ。

明日になれば、すべて終わる。

「おやすみ」

声をかけて、昼も夜もないような日の射さぬ部屋のランプを消した。途端に落ちた闇に目を伏せ、ゲイルもまた眠りに埋没していった。




翌朝。鳥のさえずりも差し込む光もなにもない部屋だと言うのに的確にいつも通りの時間に目を覚まし、ミズミールは家主の老人の用意する朝食をひとりほおばった。

ゲイルは床でまだ眠りこけている。そのヒゲ面を鬱陶しそうに眺め、悠々と三杯目のお茶を飲み干してから彼は居候の剣士を蹴り起こした。

「痛えな!」

「寝ているあなたが悪いんです」

拾われた頃には想像も付かなかったような態度だ。心を開いてくれるのはいいが態度と扱いは日に日に悪くなる。恐らくこういう扱いをされていたのだろう自分に似ているという誰かに心の中で同情し、汲み置きの水で顔を洗いナイフでヒゲを器用に剃るとゲイルは遅い朝食をとった。

傍らでミズミールが何かをしている。聞けばストックの中から使える魔法を選んでいるのだとか何とか、魔法使いのすることはなんだかちっとも分からない。

「よし。あとはあなたをとっとと治すだけですね」

片付けでもするように気楽に言い、ミズミールが伸びをした。腕をぐるぐると回し、調子を見ている。そうしているとまるで普通だ。

それから傍らに並べたナイフを手に取る。パンをくわえながら見ていると、ナイフは彼の手元から綺麗な線を描いて放たれ、壁に十字架を描いた。

「やるじゃねえか」

「訓練の賜物です」

手を叩いて褒めるとミズミールはさも当然と言うように笑顔を向けて答えた。



朝食が済むと最後の治療に入った。魔法の光が全身を包み、かあっと全身が熱くなる。肌があわ立つような不快と快感の入り混じる感覚が走り抜けたと思ったら、まだ無数に残っていたそれなりに酷い部類に入るだろう怪我がすべて、微塵もなくなっていた。

「すげえな」

「それはどうも」

心底から褒めたのだが、相手はさらりと流してしまった。包帯をすべて取り、まだ僅かに残る気だるさを振り払うために軽く体を動かす。

「外に出ますか?」

ミズミールが聞いたので、いいのかと聞き返すと、彼は大丈夫でしょうと答えた後、

「もし見つかったら、そのまま突撃しちゃいましょう」

などと笑って付け加えた。


地に倒れ伏したあの雨の日から数えて約一週間が経過していた。あれから久しぶりに出る外は明るく、太陽が眩しかった。雨の気配はなく、からりと晴れた空には雲ひとつない。郊外の森の中、鬱蒼と茂る木々が小さな老人の住まいを町から隠しているのだろう。

「レオノフは父の代からずっと領主の執事をしてくれているんですよ」

地下から出てきた二人を迎えてくれたのは人の良さそうな小柄な老人だった。ミズミールは特別高い身長でもないのだが、その老人と並ぶととても大きく見える。

顔のほとんどが白いヒゲで覆われているようなその老人は元気になったゲイルを見て、身内のように回復を喜んでくれた。

「忙しい父の代わりに僕を育ててくれた人でね。随分小さくなってしまったけど、昔と少しも変わってないのが嬉しかった」

草に寝転がりながら目を閉じて、若い魔術師はそんな風に語った。彼が故郷へと帰りつき、かつての記憶をたどってこの老人の家に現れたとき、レオノフはすぐさま彼が分かったのだそうだ。泣きながら彼の生存を喜び、それから叔父に知れたら危ないと彼を地下に匿ってくれた。それから何食わぬ顔をして叔父の家で執事の仕事をしながら、町の様子も館の様子も彼に伝えてくれていたのだという。

「随分と狸じゃねえの、あのじいさん」

「顔はヤギなんですけどねぇ」

声を立てて笑いながら、流れていく雲を見つめた。降りる静寂。

ミズミールの羽織る外套の下にはナイフと僅かな薬。ゲイルの傍らには剣。

「……行くことは言ってきたのかい」

日が落ちたらこのまま、老人の家には戻らずに行くつもりだった。もし途中で誰かに見つかったときに老人に危害が及ぶことがないように、早めに離れておくことが肝要だと二人ともが思っていた。

森の外れまで来て、夜を待つ。その退屈を紛らわすように取り留めのない話をしながらふとゲイルが呟いた質問に、複雑な笑顔でミズミールが答える。

「いいえ。ですが今日は館に行くなと言いましたから、きっと分かっていると思います。」

「そうか。ならいいな」

見上げた空が夕暮れの色に変わる。雲ひとつない空にいつしか流されてきた雲がオレンジに染まりただよっていた。目を細めて眺めているうちに、夜が来た。二人は腰を上げて、一度肩を叩きあってからきつく握手した。


「では、行きますか」

そして二つの影は薄闇にまぎれ足早に街の中へと向かった。






館の警備は完璧だった。もし何も知らずにゲイルがひとりで飛び込んでいたならば館に踏み入ることも出来ずに天に昇っていたに違いないが、幸いにも傍らにはここにかつて住んでいた男がいる。

「こちらです」

足音も立てずにすたすた歩いていく男に慌てて物音を立てぬよう気をつけながら追いつくと、館の裏手に誰も気づかぬような小さな祠があった。その要石を少し動かすと、なにやら複雑な石組みが現れる。肩越し覗き込めば青年はそれをあーだこーだと複雑にいじり、やがて要石を元に戻した。

「で、なんだいこりゃ」

「その奥に隠し通路が現れているはずです。そこから行きます」

指差すほうへ少し歩くと確かに壁に小さな空洞が空いている。階段が地下へと続いていて、恐らく屋敷の中に続いていると思われた。

屋敷に何かあったときの脱出路なのだと、元領主の息子は言った。慎重に踏み入り、歩く。

この通路は館の人間でもほとんどのものは知らない。恐らく叔父も知らないでしょうとミズミールは言った。だから当然見張りもいない。

やがて一つの部屋に出た。一階だろうか、窓がありカーテンが閉まっている。誰もいない。

ゲイルに続いてミズミールが入ってきた。手を貸してやると彼は短く礼を言い、部屋の中を懐かしそうに眺めた。

部屋の隅の壁に、美しいエメラルドの瞳を持つ女がいた。夫だろうか、身なりのいい男に寄り添い、赤ん坊を抱いて微笑っている。

「……母ですよ」

すぐ傍で声がした。老人に気をつけてというときと同じ顔で、ミズミールが絵を見上げている。

「もしあなたが地下でこのひとを見つけたら、焼いてください。出来ればこの屋敷ごと。」

ミズミールはこれから屋敷の上に、ゲイルは地下へと向かう。恐らく女性たちは死んだときの姿のまま、地下に展示されているだろう。

連れ出せないなら屋敷ごと燃やしてしまえばいいと言ったのは、ミズミールだ。

「その約束だったな。下は任せろ」

「よろしくお願いします」

深く頭を下げ、穏やかに微笑してからミズミールが戸を開けた。廊下の光が差し込む。

「出来るだけ暴れてくださいね。僕の仕事がしやすいよう」

あぁそうそう、ご無事で、とついでのように付け加えて彼は廊下に消えた。

お前もな、と答えた声が彼に聞こえたかどうか。心の中で20秒ほど数えてから、ゲイルは部屋に飾られた花瓶を蹴り倒してから、派手な音を立てて扉を開けると廊下をまっすぐ下り階段へと駆け出した。



狭い通路で戦うならば多勢もそんなに苦にならない。仲間の死体を踏み越えて次の敵が来るが、それを順に始末していけばいつか死体がバリケードになる。

同胞の死に恐れが走り、追手もだんだん勢いをかく。全快し冷静さを取り戻した歴戦の戦士にとっては、この状況はまだまだ修羅場ではない。

上にあがったミズミールもまた善戦しているようだ。敵の頭越しに走る動揺とたまに聞こえる声がそれをゲイルに知らせる。

一緒に行くほうがいいのではと言ったゲイルに笑いながら、いると巻き込みますからといった言葉は本心だったようだ。さぞや派手に暴れているのだろうと思うと笑いすらこみ上げてくる。

その笑いを隙と見てひとりの衛兵が襲い掛かってきたのを軽く切り伏せ、引き裂いたその死体を敵に向けて放ってやりながらゲイルは更に階段を下り奥へと進んだ。


地下の最奥の部屋は土が剥き出しの洞窟のような部屋だった。冷たい空気で満たされ人口の光がゆらゆら揺れる中に、けして少なくはない数の女性たちが硝子の器に入れられて飾られていた。

悪趣味この上ない胸糞の悪くなる部屋だ。

全身で飾られている女性はまだいいほうかもしれない。腰ほどの高さの台の上に並べられたものの中には、瞳だけ、手だけになった「展示物」もある。

通路を挟んで左右に飾られた女性たちは、魔術師たちの仕事場の棚にあるような標本の如く、大きなガラスの筒の中で揺れていた。


歩いていくとまず、眠るような穏やかな顔で飾られたエレンディラを見つけた。目を閉じた彼女の赤い髪が、ガラスの棺の中でゆらゆらと揺れている。

その反対側に、遠い空を眺めでもしているように虚ろな瞳を宙に向けた女性がいた。栗色の髪と美しいエメラルドの瞳は、彼女の息子と同じもの。

「ミズミール、見つけたぜ」

それから通路の先に目線を向けた。最奥の台の上、ガラスのケースで覆われた中に、美しい首が載せられていた。相変わらずいつものように穏やかな顔、眠っているようなその首。サウラだ。


背後から足音が響いた。

ひるんだ追手が勢いを取り戻し踏み込んできたのだろう。時間がない。ゲイルは手にした剣を構えなおし、手近にあった硝子の棺を叩き壊した。あたりに溢れる薬品の匂いの水と、倒れてくる人形のような見知らぬ女の遺体、それを受け止めながら叩き壊しつくし、最後にサウラを捕らえていたガラスの箱を砕いた。

「エレン、サウラ、ちゃんと葬れなくてすまねえな」

二人の女を床に寝かせ、エレンディラの愛用のイヤリングとサウラのバンダナを取る。

大きな音を立てて部屋の扉が開いた。それと同時、形見を無造作に懐に突っ込んだゲイルは試験管のようなものを二本取り出し、その封のコルクを噛み千切った。


「さて、派手に行くぜ。一座の葬送は明るくねえとな」



館の一角から爆音が轟いた。闇を照らすように火柱が上がり、街の人間が何事かと窓を開けると、上がった火の手は魔法のように凄まじい勢いで見る間に館を走り、紅の火の粉を巻き上げて領主の館を飲み込んだ。





ずずんと足元が揺れた。方角は地下だ。

ゲイルはどうやら愛しい女に会えたらしい。彼にミズミールが渡した爆薬は特殊で、水の表を伝って走り、炎の勢いを増す。あの爆音ではゲイルの無事までは保障しかねるが、あの男のことだ、そう簡単に死ぬはずはない。

「叔父上、もう終わりにしましょう」

部屋に溢れる屍を前に嫣然と微笑む甥に剣を突きつけながらガタガタと震えている初老の男は、一座の人間ならば一生忘れられない顔だったろう。キャラバンに濡れ衣を着せては野盗に扮した部下に命じて虐殺し、その荷で私腹を肥やしていた愚かな男だ。

「お前の母を殺したのは私じゃない!部下が勝手にやったことだ」

最初に領主はそう言って命乞いをした。両親を殺し彼を死の淵ぎりぎりまで追いやったのは私じゃないから、助けてくれと。まだ周りに護衛がいたし、領主には出来ないまでも地位も名誉も与えると言えば甥も自分に傅くだろうと甘く見ていた。

一瞬後、自分以外の生きる者達がすべて氷の刃に貫かれ絶命しているのを見て、彼は腰の剣を引き抜きながらじりじりと後退した。


領主には、相手が剣士であったならば殺せる自信があった。

だがあいにく彼は今まで魔術師という存在に出会ったことがなかったのだ。

初めて見るあやかしの技を彼は恐れ、自分よりもはるかに小さく貧弱な甥を切り伏せることが出来ずにいる。


「父母のことも僕のことも、この際どうでも良いんですよ、叔父上。僕はただ、あなたの嘘から出た真を防ぐためにここに来たんです」

怯える叔父にそう言って、ミズミールは笑った。

「あなたがついた嘘が現実になろうとしている。この国を挟んだ両国があなたの嘘の通りに手を結び、この地が乱れ人心が離れている隙に国土を侵略するつもりでいるんです」

戦になれば罪のない民草がたくさん死ぬだろう。子どもも大人も、たくさんの命が失われる。侵略された国に残るものはただどこかに従属し自由もなく誰かに保護される生活だけだ。

そんなものは平和ではない。

「それでもあなたがいる限り、人々は『そのほうがましだ』と言うでしょう。だから僕が来たんです。父が死んだときに名乗り出なかった僕には、そのために起きた過ちを正さねばならない義務がある。ですから僕はあなたを殺さなければならない」

魔術師はエメラルドの瞳を細め、笑った。狂気すら含む瞳に憎悪が宿る。

憎悪だけが人を殺す。震える足を前に踏み出させる。上がらない腕をあげる。震える刃を誰かの胸へと突き立たせる。


「死んでください。誰のためとは言わない、…――この僕のために」


ミズミールがそう言って小さく詠唱を始めた。両手を広げ無防備な姿を目の当たりにし、その瞳が自分を見て笑ったのを、領主は隙だと誤解した。奇声をあげながら走り、手にした剣を甥の胸めがけて突き立てる。

血がしぶいた。


「さようなら」


わき腹を切り裂かれた魔術師が穏やかに言った。鋭い氷の牙が、かざした手から一直線に領主の胸を貫き、その背中から生えていた。

自分の上で血を吐きながら絶息した叔父に一瞥もくれず、彼はしばらくそのままで、返り血も拭わずに懐かしい天井を眺めていた。

幼い頃はとても高く見えた。シャンデリアがまぶしかった。こんなくすんだ色はしてなかった。外を照らす炎よりもずっと明るかったはずなのに、今はどうしてこんなに冷たい色をしているのだろう。

わけもなく泣きたくなった。起き上がりたくない。立たせてくれる誰かが欲しかった。



炎が本格的に館を喰らいはじめたらしい。外から悲鳴と何かが崩れる音が届いた。扉の隙間から煙が入り込んだ。窓が割れ炎の舌がカーテンを舐めた。

三階。今を逃せば恐らく逃げられなくなるのだろう最奥の部屋。ミズミールはようやく叔父の死骸を脇にどけ、身を起こし髪をかきあげた。

「やっと、終わった……」

呟いて安堵の溜息とともに肩を落とした。軍を抜けるときに置いて来た最愛の人にはさよならが言えなかったけれど、よく似た人と最後に走れた。

ゲイルは無事に逃げられただろうか。きっと無事だろうと思ったとき、勢いよく扉が開いた。

「ミズミール!!無事か?!」

爆風がまたどこかを吹き飛ばしたのだろう。轟音とともに吐き出された言葉の後半はかき消されたが、問い掛けられた人間にはちゃんとわかった。

「ゲイル!」

何で逃げなかったのかと尋ねたら、こともなげに笑って彼は

「かたっぽが済んだらもう一方に恩を売るんだったろ。高く買えよ」

軽口を叩いて室内へと踏み込もうとした。


途端、真下で轟音が響いた。踏み込もうとしたゲイルの足元で床が揺らめき、シャンデリアが牙を剥いた。天井が音を立てて崩れた。床から炎が吹き上げた。

二人の間を炎がふさぐ。炎の舌がちろちろと身を舐めるその向こうで、ミズミールが穏やかに笑っていた。

「お願いがあります。ゲイル」

やがて彼は静かに言った。炎の中、氷のように透き通る、いつもの声音で。


「レオノフの家……あなたが寝ていたベッドの下に、妹の出生証明があります。彼女のことは多分父と僕以外知りません。父がずっと昔、母に内緒で行きずりに産ませた娘ですが、とてもいい子です。 その子を連れてきてください。そしてその子の声で共和制を告げてください。国を民に譲ると」


ゲイルは手にした剣を危うく取り落としそうになった。

来る前に殉死など幻想だと言った男が今まさに笑ってそれをしようとしている。ミズミールに逃げる気はない。憎しみは消え、ただ冬の朝のような物悲しさだけが、凍った湖のような静謐だけが炎にも溶かされずにあるばかりだ。

「莫迦だな」

「僕もそう思います。」

言えば、微笑が返った。手を伸ばしても届かない。炎がもしここになくても、彼を連れていけなかったかもしれないとゲイルは危うく諦めかけた。


「わかった。願いはかなえてやる」

「ありがとうございます」

溜息をつき額の汗を拭いながら言ったゲイルにほっとしたように礼を言ったミズミールの肩へ、次の瞬間何かが当たった。丸められた、軽い何か。藍色の……

「その代わり、俺の頼み事はお前が叶えろよ」

「は?」

ぶつけられたものを開くと、それは群青のバンダナだった。

「北エルト峡谷にエクセリーヌって娘がいるはずだ。真っ赤な髪をした元気のいい娘だから行って聞けば多分分かる。アレクセイっていうエルフが恐らく一緒にいる。そいつらにそれを渡してくれ。」

「え……」

「必ず渡せよ。母親の形見だ。届けてやりゃ喜ぶ」

そんなの、出来るわけないでしょう。そう言いたかったのにゲイルの瞳が有無を言わせない。

「いいか。生きたくなくても生きろ。お前がここで燃え尽きて誰も泣かねえなんて思ってるならそれはお前が勝手に通り過ぎ置いてきた人間すべてに対する侮辱だと思え。死ぬならそのバンダナ届けてからにしろ。お前が少しでも俺に悪いと思うならな」

「……参りましたね。」

炎の向こうで魔術師が苦笑した。ゲイルの目の前でバンダナを丁寧に畳み、懐に入れる。わき腹から流れる血で汚れないように、傷のない胸ポケットにしまった。

「渡すとき、あなたやお仲間のことはなんと?」

ゲイルの死んだ仲間のこと、彼のこと、真実を伝えるべきか否かと問うと、ゲイルは困ったような顔をして首を横に振った。

「名乗らなかったと言え。それでいい」

「わかりました」


爆音が近づいてくる。ミズミールのいる場所はもう四方を炎に囲まれ、唯一残された窓ももう炎にふさがれている。どうしたものかと思案しているゲイルに、ミズミールは笑いながら行ってくださいと告げた。

「確かにお預かりしました。必ず届けますから、行って下さい」

視線が合った。エメラルドの瞳に、先ほどとは別の色がともっているのを確認し、ゲイルは身を翻した。ミズミールがバンダナを届けるならば自分は彼の妹を連れてこなければならない。それには生きてここから出なくては。

炎が館を少しずつ崩していく。駆ける足元から廊下が、階段が崩れていく。

爆音と熱風の中をゲイルはひたすらに走った。外に出たとき、背後で派手に音がした。


領主の館の屋根が吹き飛んだ。街の人間が見守る中、館は一夜にして燃え落ち……その焼け跡から領主や警備兵たち、そして幾体かの女性の遺体が見つかった。

ゲイルは人目につかぬように屋敷を離れ、レオノフに告げて証明を手にミズミールの妹とやらを探す旅に出た。そのまま彼の足取りは知れないが、数年後その国は領主による統治を廃止し、民間の代表者による政治へと代わったという。





窓の外で、オレンジの光が揺れている。わき腹に空いた穴を魔法で軽く塞ぎながら、ミズミールは溜息をついた。

砕けたシャンデリア、燃え落ちた天井。炎を吹き上げている床をぼんやりと見つめる。

「ここから助かれって言うのも殺生な話ですよねぇ」

自分勝手に誰かの形見を押し付けて走り去った勝手な男に思いつくだけの悪態をついてから、ミズミールは楽しそうに笑った。

そうだな、まだまだ足掻いてみますか。見えなくなった目が、見えないまでも苦ではなくなったように、上がらない腕がこうして誰かの手を取れるようになったみたいに、僕にはまだ何かが出来るのかもしれないから。

置いてきた人間に対する侮辱だと言われた。そんなに深く誰かに愛されたことなどないと思っていたが、そうでもなかったのかもしれない。泣く人がいるのかもしれない。

殺し続けてきた憎しみや悲しみに諸共に押しつぶされ今までは思いもしなかったたくさんの「かもしれない」が、春の芽吹きのように彼の中に生まれ始めた。


「これを届けたら、いつか……置いてきた彼にごめんなさいと言えるだろうか」


とても大切な人がいた。ゲイルによく似た、まっすぐなその人から、いずれ僕は死ぬからとずっと逃げ続けていた。もし生き残れたならばいつか、彼に謝れるだろうか。そんな日が来るのだろうか。

手を炎の壁に向けて差し出し、もう片手で汗のにじむ額を拭うと長い詠唱に入る。水流で道が開ければ助かるかもしれない。今自分の命は己だけのものでなく、押し付けではあるものの背負わされた誰かの絶対なる信頼がある。

生き残れたらではなく、生き延びねばならない。


彼の腕を螺旋で巻くようにきらきらと水が渦を巻く。長い詠唱は轟音の中歌のように響いた。

水は次第に量を増し、周囲の気温を下げていく。

やがて術師はそっと指を炎の吹きすさぶ廊下へと向けた。水が緩やかに、そして次第に激しく逆巻いて廊下へと溢れた。包んでいた炎が刹那、途切れた。

「行ける」

炎が途切れ切り開かれた道を再び炎が喰らい尽くす前にと、ミズミールは廊下へと飛び出した。思うように動かない体を無理やりに動かし、階段へと向かった瞬間、傍らの部屋が吹き飛んだ。

唯一残された目をとっさにかばう。爆風が彼を吹き飛ばし、思わず伸ばした右手がかろうじて廊下の端に触れた。

階下は地獄の釜のようだ。炎が足をちろりと舐めた。

(……これまでですか)

廊下の端に触れた手は、彼の体重を支えられるほどには頑丈ではない。彼の命を握る指先はもう10年前からずっと彼のいうことを聞いてくれなくなった右側だった。

(ごめんなさい)

仕方がないと思った。あと数秒後には自分はあの炎の中にいる。

心でそっと謝罪した。ゲイルに、そしてもうひとりに。


本当は逢ってきちんと謝りたかった。

謝れなくてもいい。もう一度もし逢えたなら。


「心残り、出来ちゃいましたね。」


呟いて目を閉じる。力の抜けた指先がすべり、体がふわりと浮いた。

あとは落ちていくだけ。引力に従って落下する寸前、ミズミールの腕を誰かが掴んだ。

それは彼にとって、あまりにも懐かしい感触だった。




「グレ、イ……?」






次の瞬間、爆音が轟いた。屋根が吹き飛び火柱が天にまで届く。

一夜かけて館はすべて燃え落ち、後には何も残らなかった。










遠く離れた北エルト峡谷に住む四人の子ども達のもとに、とても大切な女性の形見が届けられたのはそれから半年が経った頃になる。子ども達は届け物の主の事を聞いたが、旅人はただ、相手は名乗らなかったのだとだけ言った。

赤い髪の少女が彼の目の前でそのバンダナを巻いた。炎のような髪に青いバンダナが良く映える。 それを一番見たかっただろう男の代わりにと目に焼き付けてから旅人はさよならを言ってその場を離れようとしたが、使い魔の猫が少女の傍らにいたエルフの飼い猫に擦り寄って離れようとしない。

苦笑混じりに使い魔猫を抱き上げ、「また遊びに来て良いですか」とエルフに聞くと、彼は嬉しそうにこれもまた縁です、是非にと笑った。

「…それでは、また」


短く、しかし次にまた逢うための挨拶をして、旅人は再び歩いていった。

雨はいつしか止み、かっらからに晴れた曇りのない空がそこにある。




雨は止み、雲は風任せ空を流れる。

道は無限にある。何処にでも行ける。



 さあ、これから何処へ行こうか。




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