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Mia(age12) 03

ミアがバルコニーから落ちた日の夜遅く、父のレノン伯爵がミアの様子を見に部屋に来た。


父はオリーブ色の髪にミアと同じピンク色の瞳をした美丈夫で、ミアへの心配も、怒りも、呆れも何も感じ無い、まるで感情の無い人形のような顔で、何があったのかと聞いてきた。


ミアは父の顔を見ても何も思い出せないことに内心がっかりしつつ、光魔法で体の怪我は治ったが、今までの記憶が無くなったと報告する。


「リーアの事も忘れたのか?」


“リーア”とはミアの母親の名前だろうか。ミアが貴族令嬢らしく「お母様のことでしょうか?」と答えた途端、ミアを見つめる父のピンク色の瞳から光が消えた。

無表情の父だからこそ、その瞳の変化は分かりやすく、それまで僅かにあった父からミアへの興味がすっかり無くなってしまった事が分かったが、ミアには挽回する手段が分からない。


それ以降、父がミアに関心を持つことはなく、義母や使用人から冷遇されていても黙認し、父がミアを気遣う事はなかった。


やはりというべきか、トリスタンの会話で察した通りにミアはレノン伯爵家で冷遇されていた。否、“されていた”ではなく“されている”という方が適当だろう。


義母のレノン伯爵夫人はあからさまにミアのことを嫌い、話しかけることはおろか徹底して目を合わせない。そのレノン伯爵夫人から溺愛されている7歳の異母弟ハンフリーも同様だ。幼い子供なら仲良くできるかも知れないと期待し何度か話しかけてみたが、ハンフリーは蔑むようにミアを睨むだけで返事を返してくれることはなかった。


レノン伯爵家の使用人はミアの事はいないものとして無視し、食事の準備や部屋の掃除や洗濯などはするが、直接話しかけてくる事はない。ほとんどの使用人はレノン伯爵夫人からの命令だからとミアと関わらないようにしているだけのようだった。ミアが将来のケンブル侯爵夫人だとしても、今、レノン伯爵夫人に嫌われて解雇されてしまう可能性を考えたら、レノン伯爵家の使用人たちが言われた通りにミアを冷遇するのは賢明な判断なのだろう。


レノン伯爵夫人付きの侍女達と一部の女性使用人だけは積極的にミアの悪口を言い、時にはミアの私物を壊すなど低俗な嫌がらせをすることがあるが、気にしないように無視するしか対処法はない。


レノン伯爵家の使用人から冷遇されていても、ミアにはトリスタンが手配してくれたケンブル侯爵家の侍女と騎士がいるため問題はない。

そのケンブル侯爵家からの侍女と護衛は、ミアのことを敬ってくれていることはわかるのだが、丁寧に仕事をするだけで親密に接してくれることはなかった。当初は打ち解けて貰えないことが寂しかったが、しばらくして貴族と使用人との正しい距離感として納得できるようになった。


バルコニーから落ちた日からしばらくして記憶喪失以外に問題がないと診断されたミアは、レノン伯爵令嬢として、トリスタンの婚約者として、知識と経験を得るための勉強が始まった。


ミアには過去の記憶は無いが、光魔法の治療費が高額なことは覚えていたり、平民学校で習う範囲の算術は解くことができ、文字も書くことができる。それまで身につけた知識や技術は忘れていないことが判明し、ミアは安心したのだが、それはすぐに気休めだと気付いた。1ヶ月前に貴族令嬢になったばかりのミアにとって、平民としての知識と経験などあってもなくても変わらない無用の長物だったのだ。


この国の歴史から始まり、会話の中で引用される古典、財産の管理方法、税金の算出方法、季節や行事毎に変わる服や装飾品、座っていい椅子の位置や座る順番など、貴族として覚えないといけない事は多岐にわたる。ケンブル侯爵家から家庭教師達が派遣され、朝から晩まで勉強をし、記憶がない事への不安も忘れるくらい忙しい。


最初の数週間は言われるがまま努力することが出来ていた、と思う。


ミアはじっと座ったまま集中し続けないといけない刺繍が苦手だった。平民の時にはした事がなかったとわかるほどに手つきは拙く、刺繍の出来は悪い。それでも、貴族令嬢の嗜みとしてある程度の水準まで出来るようにと言われ、ミアは針が指に刺さるのを我慢しながら数日かけてハンカチにトリスタンのイニシャルを刺繍した。


その、初めて仕上げた渾身の刺繍入りのハンカチが、義母付きの侍女にインクで汚された時、ミアは思った。


ここまでして貴族に拘る必要ある?記憶は無いけどあたしは今まで平民として暮らしていたんだから、平民として生きていけるでしょ。皆が寝静まったら金目のものを持ち出して逃げ出そう。


ミアが密かにレノン伯爵家からの脱走を決心した日の午後、見計らったようにトリスタンがミアに会いに来た。


「初めて刺繍したハンカチのこと、ミア付きの護衛から聞いたよ。あれは僕がもらう約束だったから、ケンブル侯爵令息の持ち物を汚されたとレノン伯爵に言及しておく。ハンカチを汚した侍女に相応の処分は受けさせるし、ミア付きの護衛と侍女にはレノン家の侍女に隙を見せないように注意した。……このケーキに免じて、まだミアからの刺繍入りのハンカチを楽しみに待っていても良い?」


「トリスタンがそう言うのなら、また刺繍に挑戦するわ」


トリスタンが持ってくれた美味しいケーキを食べ、手ずから淹れてくれたお茶を飲みながら、礼儀作法が拙くても嫌な顔をしないトリスタンと他愛のない話をしていたミアは、つい先ほどまで逃げ出そうと決意していたことをすっかり忘れてしまった。


明日からまたトリスタンのためにがんばろうとミアは思い直し、真実それからも朝から晩まで勉強漬けの毎日を過ごしていった。


そうして勉強の日々が続き、ミアがバルコニーから落ちてから2ヶ月、つまり、ミアがレノン伯爵家に引き取られてから3ヶ月経ったの秋の半ば、初めて他家のお茶会へ参加することが決まった。

そのお茶会は貴族学園入学前の令嬢だけのお茶会で、令息のトリスタンは招待されないため、ミアは1人で参加することになる。まだ礼儀作法を勉強中のミアは、お茶会の日が近づくにつれて、失敗しないかと緊張していた。


コスモスが咲き誇るレノン伯爵家の中庭でトリスタンとミア2人でお茶を飲んでいると、はじめてのお茶会に不安を感じているミアを見かねたトリスタンが、お茶会会場のハモンド公爵家はレノン伯爵家の本家にあたり、主催するハモンド公爵令嬢ジャクリーンはミアの異母妹だと教えてくれた。


レノン伯爵位はハモンド公爵家が持っていた爵位の一つで、ミアの父レノン伯爵は現ハモンド公爵の異母弟。ミアが参加するお茶会を主催しているジャクリーンはミアの3歳年下の9歳でレノン伯爵とレノン伯爵夫人の実子。ジャクリーンは6歳でハモンド公爵家に養子に出され、第一王子エルドレッド殿下の婚約者候補になった。


そんな重要な知識を知らなかった事でますます不安になっているミアを他所に、トリスタンの説明は続く。


「実はね、元々ジャクリーンは僕の婚約者候補だったけどエルドレッドに取られちゃったんだ。僕が9歳までは婚約者候補として遊んだりしてたから今は幼馴染って言えばいいのかな。大人しくて良い子だし、ミアが最近まで平民だったってわかってるから、お茶会はジャクリーンに頼るくらいの気持ちで安心して参加してきたらいいよ。ジャクリーンは3歳下とはいえ、分家の統率と後始末は本家の義務だからね」


トリスタンの父ケンブル侯爵と王妃は姉弟のため、トリスタンとエルドレッドは従兄弟にあたる。トリスタンは1歳年下の従弟のことを、王族だからと気にせずに気安く呼び捨てで呼んでいるようだ。


トリスタンが「エルドレッドに取られちゃった」と言った時、ミアは何とも言えない違和感を感じた。水の中に落ちた一滴のインクのように、ほんの僅かな黒いモヤモヤとした気持ちがミアの心に湧き出る。言葉では言い表せないその気持ちに気づかないふりをして、ミアは楽しくトリスタンとお茶を飲んだ。

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