Jacqueline(age15) 11
激しい動きによってフワフワと揺れる腰まである黒髪に吸い込まれるような桃色の瞳。黒い髪をたなびかせて夢中でダンスを踊っているミアはジャクリーンが到着したことに気づいていない。
ここはジャクリーンがミアとブラッドの2人と落ち合う約束をしているウェインライト王都の隅にある宿の一室。昨日のダンスパーティーの後、ミアは皆が寝静まった深夜に予定通りレノン伯爵家から出奔した。
明朝、つまり今朝、ケンブル侯爵家から派遣されていた護衛や侍女たちによりミアの失踪が騒ぎになった。ジャクリーンとミアの父であるレノン伯爵が誰よりも狼狽え、平静さを失っていた事が印象深い。リーアの記憶を失ったミアに興味が無いように見えた父だが、日に日にリーアそっくりに成長していくミアの事を内心では気にかけていたのだろう。
そんな父の動揺を横目に、つい先ほど、一番陽の高い時間帯にジャクリーンもレノン伯爵家から脱出した。ミアもジャクリーンもラナの手助けによって誰にも気づかれずに逃げ出す事ができた。ジャクリーンは商人と駆け落ちするという置き手紙を残してきたが、あの父はジャクリーンの駆け落ちには狼狽える事などありえない。
ハモンド公爵家へ養子に出される前から事務的な会話しかしたことのない父、元々無関心だったがレノン伯爵家に戻ってからはジャクリーンのせいで自身の評判まで悪くなったと疎まれていた母、話しかけても返事どころか目も合わせない弟。特別憎しみもないが愛もない、そんな冷たい家族だった。彼らとはもう会うことはないだろう。
愛のない家族など貴族では珍しくもないとはわかっている。でも、ミアやリーアから与えられた家族愛を忘れることができないジャクリーンは、贅沢ができても愛のない貴族より、慎ましくても人を愛し愛されることのできる平民として生きたい。
ミアとジャクリーンの2人が出奔した後のレノン伯爵家は、ケンブル侯爵家との繋がりがなくなり困ることになるだろう。けれども、ケンブル侯爵家の繁盛があと数ヶ月でコーネリアスに終わらされることを考えれば、ここでケンブル侯爵家と無関係になっていた方が結果として良いはずだ。
ジャクリーンはミアには宝石類を持ち出させた。元々平民だったのに無理やり貴族にされ、しかも違法魔法薬漬けにされた代償としてミアはそれらを受け取る資格がある。でも、ジャクリーンは手元に残っていたエルドレッドから与えられた装飾品等は持ち出さず、身一つで家を出た。これは貴族として生まれ、少なくない費用をかけて15年も質の高い教育を受けた対価を払わずに平民になるという自分へのせめてものけじめ。
ジャクリーンは次期王妃になるため、自国だけでなく周辺国の歴史や文化から始まり、会話の中で引用される古典、税金の算出方法、資産の運用、季節や民族や行事毎に異なる服や装飾品、座っていい椅子の位置や座る順番など、文字通り朝から晩まで勉強をしていた。ハモンド公爵家にいた時は食べる物から始まり、着ているものも普段使う物、身の回りに関わる全てが一流品で揃えられ、それらと二流以下の物との差も学ばされた。貴族から平民になり、苦労するのは生活の質を落とすことだろう。それさえ乗り越えれば、名品を知り目利きが出来るという能力は必ずジャクリーンを助けてくれるはず。
ジャクリーンはブラッドへ、イングリス商会で雇ってもらえないか聞くつもりでいる。ただ、ミアを無理やり攫ったレノン伯爵の娘のジャクリーンがイングリス商会で受け入れられない可能性は高い。イングリス商会で働く事ができなくても、リーアにそっくりな優しい目をしたブラッドなら他の職場を紹介するくらいはしてくれそうだ。
そのブラッドは今、ミアと一緒に踊っている。
ミアが踊っているのは貴族の社交ダンス。きっとミアにとってこの数年で踊りなれたダンスも楽しいのだろう。『帝国に戻ってリーンちゃんと踊りたい』と言っていたのに、とジャクリーンは思わずムッとしてしまった。
「ミア、ジャクリーン様が来たよ」
ミアより先にジャクリーンに気づいたブラッドが踊る事に夢中になっているミアへ呼びかけた。
「良かった、リーンちゃんも無事抜け出せたのね!……って、リーンちゃんその顔、もしかしてやきもち焼いてるの?ブラッド、次はリーンちゃんと踊ってあげて」
ミアはダンスを中断し、ジャクリーンの方へブラッドの肩を押した。ジャクリーンは足元に荷物を置き、歩き出す。困り眉で笑いかけてくるブラッドの脇をすり抜け、ジャクリーンはミアの手を取った。
「ブラッドさんはピアノが弾けるって前に言ってましたよね?」
ブラッドに伴奏を頼み、驚いているミアを無視してステップを踏み始める。
ミアはすぐに笑顔に戻り、ジャクリーンと一緒に踊り出した。ブラッドは部屋にあるピアノを弾いてくれている。ミアとジャクリーンは自由気ままに女性パートを踊る。その型にはまらないでたらめなダンスは、他の貴族が見たら顔を顰めるものだろう。でもジャクリーンにとってはミアと初めて会った日に踊った事を思い出す楽しいダンスだ。
ジャクリーンは心から喜びはしゃぎ回った。深夜に家出をしたために寝ていないミアが疲れたと言ってももっともっととねだり続け、クタクタになるまで2人で踊り続けた。
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「ジャクリーン様、こちらはかのお方からです」
帝国へ向かう辻馬車の中、ジャクリーンの対面に座っているブラッドがジャクリーンへ手紙を差し出した。青い封蝋にはシンプルな角笛の絵の紋章が入っている。“コーネリアス”には角笛という意味があったはず。
「ブラッドさん、私はもう平民でしかも無一文の厄介者です。これからは気軽に“リーン”と呼んでください」
「では、リーンちゃんも僕のことは気軽にブラッドと呼んでくださいね」
ジャクリーンとブラッドのやりとりを、ジャクリーンの横に座っているミアがニヤニヤしながら見ているのがわかる。ジャクリーンとブラッドでダンスを踊らせようとしたことからも、ミアがジャクリーンとブラッドを近づけようとしているのだと勘付くが、ジャクリーンとしては嫌な気持ちにはならないのでそのまま放置することにした。
コーネリアスからの手紙の封を開けると、瑞々しい若葉のようなローズマリーの香りがほんのりと漂う。人生の門出を迎えたジャクリーンのために魔除けの意味があるローズマリーの香りを付けてくれたのだろう。
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昨日のダンスパーティーも、その後の毒婦との立ち合いも、あなたの完全勝利でした。
あなたのおかげでこちらの陣営の優位は揺るぎないものになりました。
協力ありがとう。
誇り高いあなたはお金や物を受け取ることはしたくないのでは、と考えます。そのため、直接報酬を渡すのではなく、帝国にいる私の知り合いにあなたの手助けを頼むことにしました。赤毛の青年と共に帝国へ行き、春になったら憂いなく帝国の魔法学園へ入学してください。
計画当初あなたに服用を頼んだ例の薬についてですが、飲まなくて良いです。あなたから甥2人の出自の秘密が漏れてたとしてもかまいません。甥達の母親の実家を槍玉に挙げた後、わざと彼らの出自の噂を流そうと思っているからです。
それによりこちらの権威は落ちるでしょうが、そこから這い上がるのもまた一興。
兄の後を継ぐのは不本意ですが、困難があった方が楽しめるでしょう。その時私の横にいるのはあなたであればもっと良かったと思っていますが、あなたは私から逃げ切れたことに安堵しそうですね。
お姉さんはまだ治療を続ける必要があり、今後も私の手配する医者にかかって貰うことになります。また、赤毛の青年を介して連絡します。
あなたの未来が素晴らしいものになりますように。
脱出おめでとう。
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季節の挨拶どころか固有名詞の無いその手紙は、最後の一文を読み終わるとひとりでに火が付いた。対象者が読み終えると自動的に燃えるインクで書かれているようだ。ジャクリーンは火が馬車に移らないように注意しつつ、燃えていく手紙を見つめて笑顔を漏らす。コーネリアスの指摘通り、逃げきれて良かったと心から安堵している。
手紙には「横にいるのはあなたであればもっと良かった」とあったが、ジャクリーンの胸が高鳴ることなどない。これはコーネリアスからジャクリーンへの恋文などではなく、“周囲からの評判が悪いジャクリーンが妃になるくらいの障害がある方がおもしろかったのに”という意味。
コーネリアスはジャクリーンが勘違いすることなく正しく意図を汲み取ると分かっている上で揶揄ったのだ。
不敬を承知で正直に言うと、コーネリアスにはアメリアに感じるのと同じ恐怖を抱いてしまう。
ジャクリーンがどんなに嫌がっていたとしても、コーネリアスには無理やりジャクリーンを娶る力があり、コーネリアスの考え次第では妃になっていたかもしれない。そうしなかったコーネリアスへ感謝し、逃げ出せて本当によかったとジャクリーンは胸をなでおろした。
「リーンちゃん、ホッとしたり、ムッとしたり、はしゃいだり、感じてることをそのまま顔に出せるようになってよかったね」
燃え尽きた手紙を見た後に発したミアの言葉で、ジャクリーンは自覚していなかった自身の変化に気づかされ胸が熱くなる。
「ミアも。記憶を取り戻してからのミアの方が良い顔してる」
「うん。……さっき久しぶりに夢中で踊ったら心残りが全部吹っ飛んじゃったみたい。あたし、ダンスの方が好き」
ダンス『が』好き、ではなくダンス『の方が』好きという言い方に、ミアの心残りを察する。
トリスタンへの対象者を操る違法魔法薬の投薬は、効果を早急に出すために致死量ギリギリの量だった。副作用のことも考えていないとコーネリアスから言われていた。ジャクリーンはトリスタンへ毒を盛っていたようなものなのだ。
トリスタンは、ケンブル侯爵家の仕事として違法魔法薬を使用していて、トリスタンの投薬により死んだり没落させられた人達がいた。すでにケンブル侯爵家の悪事に関与していたトリスタンは、それらの罪が暴かれた時に連座で処刑される。ジャクリーンが違法魔法薬をトリスタンに盛らなかったとしても、トリスタンは処刑される運命だったはず。
王妃になっていたら、こういったふと立ち止まっただけで暗闇に引きずり込まれるような善悪の判断がつかないことや、一歩間違えたら私怨による犯罪を起こしかねないことがたくさんある人生になっていたのだろう。貴族学園を卒業する前に逃げ出したジャクリーンは、もう貴族籍に入る手段はない。伏魔殿のような貴族社会には戻ることはないのだ。
ジャクリーンは自分の行動でトリスタンが死ぬことになった事実や、ミアがまだそのトリスタンに未練があるかもしれないことを無理やり見ないふりをしつつ、もしかして、ミアに憎まれているかもしれないと密かに恐れてもいた。
「リーンちゃんはあたしの夢を叶えてくれるんだよね?」
黙り込んでしまったジャクリーンに、ミアが顔を傾げて問いかけてきた。
「もちろんよ」
「ならリーンちゃんには頑張ってもらわないと。実はね、平民なのに春から帝国の魔法学園に行く女の子がいないかブラッドに頼んで調べてもらったの。まずはお友達を作るのよ!」
ミアが何を言っているのかわからず、ジャクリーンは思わず首を傾げる。
「それで知ったんだけど、リーンちゃんが謝りたいって言っていたメリッサ様は帝国の魔法学園に通うんだって。きっと仲直りできるわ!」
ミアがブラッドの手を借りてジャクリーンのために動いてくれていたことがわかる。とても嬉しいが、ミアの“あたしの夢を叶えて”という言葉との繋がりがわからない。
「踊り子には絶対になる。なれる。だって、あたしはリーアちゃんの娘だもん!でね、最近もうひとつ夢ができたの」
「もうひとつの夢って?」
「リーンちゃんの夢を教えてくれたら教えてあげる」
ミアに夢を聞かれたジャクリーンは、雷を受けたように衝撃が走った。
「夢……。私、子供の頃にミアの真似して踊り子になりたいって言ったけど、それは夢なんかじゃなくて、寝る前に妄想するだけの夢物語だって分かってたの。……私の夢ってなんだろう。わからない。私、夢を持ってもいいのね……」
呆然としているジャクリーンをミアは大きく手を広げ抱きしめてくれた。ミアの身体はとても暖かくて柔らかくて、ジャクリーンがプレゼントした香水の思い出の中と同じリーアの香りに溺れそうになる。
「リーンちゃんも踊り子になりたい?」
囁くようにで聞いてきたミアに、ジャクリーンはミアに抱きついたまま首を横に振る。
「じゃあ一緒に探そう。あたしのもうひとつの夢はね、リーンちゃんが幸せになることだよ」
ジャクリーンが顔を上げてミアを見ると、ミアはリーアにそっくりな優しく包まれるような暖かい笑顔をしていた。お揃いの瞳のピンク色にはジャクリーンがトリスタンにしたことを責める色はない。
「ふふふ、久しぶりの泣き虫ブラッドだ」
ミアの言葉でブラッドを見ると、必死に堪えていたのに堪え切れなかった様子で大粒の涙を流している。
「だって、だって、貴族じゃなくなるなんてって思ってたのに、貴族じゃなくなって本当に良かったなって……」
いつも冷静で頼りになっていたブラッドのくしゃっとした泣き顔を見て、ジャクリーンの心臓がドキリと高鳴った。
「ブラッドさん、支離滅裂ですよ」
「“ブラッドさん”じゃなくて“ブラッド”でって言ったのに」
「せっかく今まで一生懸命カッコつけてたのに、ここで泣いちゃうのがブラッドだよね」
平民になること、ミアの記憶障害と貴族籍のこと、帰る家がなくなったこと、ジャクリーンの胸には消えない不安があるがそれより大きな希望が溢れているように感じる。ミアやブラッドがいればなんとかなる気がしてくる。
ジャクリーンとミアは顔を見合わせて笑い合った。
「私のこと'も'どうぞお気遣いなく、これまで通りにお過ごしください。」はこちらで完結となります。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
トリスタンやアメリアへの具体的なざまぁは描かれてませんが、スピンオフの本編「私のことはどうぞお気遣いなく、これまで通りにお過ごしください。」でトリスタンの末路は匂わせ、アメリアの末路はちゃんと描写されてます。
スッキリしなかったという方は、よろしければ本編をお読みくださいませ。
帝国に行ってからのジャクリーンも少しだけ出てきます。
ありがたいことに本編の「私のことはどうぞお気遣いなく、これまで通りにお過ごしください。」はネトコンで入賞致しました。
書籍化もされる事になりましたので、書き下ろし分にこちらのスピンオフ主人公達のその後も少しだけ入ってくるかと思います。
発売日など詳細が決まった際は活動報告やX(Twitter)などで告知させていただきますのでよろしくお願い申し上げます。




