Jacqueline(age15) 09
「これ以上ジャクリーンが傷つく姿は見たくない……。ミア、私は君との婚約を破棄してジャクリーンと婚約するよ」
魔法学園で開催される年末のダンスパーティーの最中、ジャクリーンを背に隠したトリスタンはミアへ婚約破棄を宣言した。
ジャクリーンは貴族学園の3年生。まだ魔法学園の生徒ではないし婚約者もいないのだが、トリスタンのパートナーとしてこのダンスパーティーに参加している。トリスタンは長年の婚約者のミアではなく、ジャクリーンをパートナーに選ぶまでに、こちらの思惑通り動いてくれた。
トリスタンに婚約破棄しろと命令し無意識下で宣言させると、整合性が取れない自分の行動に気付き魔法薬を投薬されてると勘付く可能性がある。そのため、コーネリアスはトリスタンへ“ジャクリーンを愛せ”と命令し、かつ、トリスタンの意思で婚約破棄を宣言するように仕向けていた。
コーネリアスの洗脳によってジャクリーンを愛するようになったトリスタンは、愛するジャクリーンをミアがいじめていると思い込む。その段階を踏んでコーネリアスは“ミアを疎ましく思うように”とも命令した。
エルドレッドの婚約者候補を降ろされレノン伯爵家に戻ってから商人との噂が出たジャクリーンには、もはやまともな嫁ぎ先はない。そのため、トリスタンはミアだけでなくジャクリーンもケンブル侯爵家で引き取りたいと考えるようになった。
これはコーネリアスの命令ではなくトリスタン自ら出した考え。こんなトリスタンの狂った提案は父レノン伯爵とケンブル侯爵にいとも簡単に受け入れられた。ケンブル侯爵は王子妃教育を受けていたジャクリーンと長年ケンブル侯爵夫人になるための教育を受けていたミアなら、どちらが正妻になっても良いとまで言ったようだ。
女性は飾り程度にしか考えていないケンブル侯爵とトリスタン、どうせ縁付くのだから1人も2人も変わらないだろうというレノン伯爵、3人の男たちのどこまでもミアを軽視した考えにジャクリーンの腸が煮えくり返る。
当事者のミアとジャクリーンに確認することなく、ジャクリーンも愛妾としてケンブル侯爵家で面倒を見るとケンブル侯爵家とレノン伯爵家の間で契約が結ばれた。それから間も無く、ジャクリーンはトリスタンから違法魔法薬を盛られるようになったが、トリスタンと離れたらすぐにコーネリアスが作ってくれた中和薬を飲むようにしていたことでジャクリーンに魔法薬の効果は出てない。トリスタンとケンブル侯爵はジャクリーンは魔法薬が効き辛い体質だと思っているようだが、そろそろ誤魔化すのも限界になっていた。
トリスタンからミアへの婚約破棄の言質を取ったから、もう大丈夫。
約20年前、魔法学園のダンスパーティーで長年の婚約者へ婚約破棄を宣言し真実の愛の相手と婚約すると宣言した侯爵令息がいた。その婚約破棄を宣言した令息の名前はチェスター、真実の愛という名の不貞相手の名前はベリンダ、そして婚約を破棄された令嬢の名前はカーラ。
カーラがチェスターの異母弟と結婚して当初の予定通り侯爵家に嫁いだため、周囲は侯爵家の権力を考えて口を噤んだ。そのため、我が国ではダンスパーティーに参加していた学生以外にその騒動を知っている人は少ないのだが、なぜか隣のテルフォート帝国ではカーラを主人公とした小説が出版されて舞台にまでになっている。その小説「親友に婚約者を寝取られた伯爵令嬢の本命は、婚約者の異母弟です」は、タイトルだけで大体のあらすじが分かる恋愛小説が帝国で流行するきっかけになったとまで言われている。
ジャクリーンたちは、チェスターをトリスタン、ベリンダをジャクリーン、カーラをミアに当て嵌めその小説を再現しているのだが、トリスタンだけはそのことを自覚していない。
小説では、ダンスパーティーの最中にベリンダがチェスターの目を盗み、赤ワインを手に持っていたカーラへわざとぶつかりドレスへ赤いシミを作る。ベリンダのドレスの赤いシミを見たチェスターは、カーラからの嫌がらせだと思い込み公衆の面前でカーラへ婚約破棄を宣言してしまうのだ。
先ほど、ジャクリーンはトリスタンの目を盗み、赤ワインを手に持つミアへわざとぶつかりに行った。
ジャクリーンが着ている金色のドレスには大きな赤いシミ。対面しているミアの手には僅かに赤ワインが残ったワイングラス。金髪のトリスタンのパートナーとして金色のドレスでパーティーに参加しているジャクリーンにトリスタンの婚約者のミアが嫉妬し、ジャクリーンにワインを掛けたのだとトリスタンが思うという筋書きになっている。
打ち合わせ通りに赤ワインが入ったグラスを手に持ちジャクリーンを待っていたミアは、今はトリスタンからの婚約破棄宣言に傷ついている演技をしている。
ダンスパーティーの立ち回りについての確認でどうしてもわざとらしさが抜けなかったミアは、コーネリアスに全てのセリフを削られてしまった。この後はトリスタンを切なそうに見つめて静かに退場するしかもう役割はない。
記憶を取り戻してからの1ヶ月、トリスタンをクズだと、クソ男だと罵っていたミアだが、心の底ではトリスタンへの思いを捨てきれていないことがジャクリーンにはわかる。ミアには強い中和薬が使えないため、人格形成の魔法薬は完全に抜けきっていないのだとコーネリアスが言っていた。
そして、精神機能に影響を及ぼす向精神薬の魔法薬がもたらす変化は、薬の効能なのか本来の性質なのかの区別が難しいらしく、ミアのトリスタンへの思いも魔法薬のせいだと言い切ることはできないのだとも言われてしまった。
コーネリアスがケンブル侯爵家を落とそうとしている今、どうやってもトリスタンの未来は暗い。
トリスタンはケンブル侯爵家へ生まれてしまったために、自分の意思とは関係なく幼い頃から犯罪を犯すことを強要され、倫理観が育つ余地が無かった可哀想な令息と言うこともできるだろう。けれども18歳になってもケンブル侯爵家の悪習を変えようともせず染まりきっていたトリスタンは、ジャクリーンの考えでは充分に家の責任を取るべきだと思えた。
ミアには時間をかけてゆっくりと治療してもらい、同時にトリスタンへの思いを整理してもらうしかない。
「君は私と婚約するためだけに引き取られた庶子だ。もう貴族令嬢として過ごせなくなることを覚悟して欲しい。……昔のミアはこんな愚かではなかったのに、とても残念だよ」
普段のトリスタンは自分のことを“僕”と言っているのに、今は“私”になっている。コーネリアスによって無意識下で小説を読まされた結果、同じ状況にいることで無自覚に台詞をそのまま再現してしまっているのだろう。カーラは由緒正しい伯爵令嬢だったため、トリスタンに読ませた小説は主人公を庶子のミアに変更したコーネリアスのお手製だ。
本来の小説では、ここからカーラの反撃が始まるがミアは反撃などしない。コーネリアスが変更した筋書き通りトリスタンは労わるようにジャクリーンの肩を抱き、ミアへ背を向けて出口へ向かい歩き出した。
ダンスパーティーには来賓として公爵や侯爵などの権力者や、生徒の中にエルドレッドもいた。皆が注目していたこの状況でのケンブル侯爵令息トリスタンが宣言したレノン伯爵令嬢ミアとの婚約破棄は冗談だったと撤回することなど許されない。
2ヶ月かける予定だった魔力操作を、侍女や護衛の目を盗みながら1ヶ月せずに終わらせたミアは魔法学園の卒業資格を得たために、もう魔法学園へ通う必要はない。
これでミアは自由になったのだ!
ミアは今日の夜中、皆が寝静まった後、“平民に戻されて追い出される前に金目のものを持ち出して家出した”ように装い、レノン伯爵家から逃げ出す予定になっている。
トリスタンに肩を抱かれたジャクリーンは、顔だけ後ろを振り返り、呆然と立ち竦む演技をしているミアに笑いかけた。ミアはジャクリーンの素の表情に呆れ、込み上げてくる勝利の喜びを抑えるためにギュッと拳を握りしめて堪えている。
これでジャクリーンは異母姉の婚約者を寝取って笑っている悪女だと周囲には思われたはず。ジャクリーンはどうしようもない男好きなだけでなく、性悪という悪評まで追加されたが構わない。
『トリスタンに近づいたのは庶子のミアが自分を差し置きケンブル侯爵夫人になることが気にいらなかったからで、ケンブル侯爵家なんかに嫁ぐなどありえない。私は本当に愛している人と幸せになります』
ジャクリーンは明日の昼、レノン伯爵家へこんな手紙を残し、トリスタンと恋人になる前に噂になった商人との駆け落ちを装い逃げ出す予定となっている。そして、ミアとブラッドと合流して3人でテルフォート帝国へ出国する。
トリスタンの恋人を演じるのも後少し。トリスタンへは嫌悪感しかないが、長年エルドレッドへ本心を隠して接していたおかげで、トリスタンへも敵意を隠し恋人を演じることができた。
パーティー会場になっていた講堂を出たジャクリーンは、自身の肩を抱くトリスタンへ本心から笑顔を見せる。ジャクリーンはトリスタンからミアとの婚約破棄宣言を引き出した喜びで浮かれている自覚がある。
廻廊の曲がり角の前、右折したら馬車どめへ向かうところでトリスタンへ声を掛ける。
「ドレスも汚れているし今日はもう帰るわ」
「僕はまだ残らないといけないから屋敷まで送ってあげられないんだ」
2年にエルドレッドがいるとはいえ、3年の中で一番高位の令息のトリスタンはダンスパーティーでやらないといけないことがあるらしい。
「えぇ、もうここで大丈夫よ。お仕事頑張ってね」
「ジャクリーン、ミアがひどいことをしてごめんね。でも、ミアは本当は良い子なんだ。今は嫉妬でおかしくなっているだけだから少ししたらきっと3人で仲良くできる。ジャクリーンは正妻として、愛妾のミアと仲良くして欲しいと思ってる。この件はまた話そうか。……じゃぁ気をつけて」
ジャクリーンは「ミアが良い子なことなど、お前より私の方が知っている」と心の中で悪態をつき、講堂へ戻っていくトリスタンの背中を睨みつける。コーネリアスが改変した小説ではトリスタンはミアと婚約破棄してジャクリーンと婚約するところまでしか書かれていなかったが、トリスタンはミアを愛妾として迎える続きを描いているようだ。
人格形成の魔法薬を飲ませているはずなのにジャクリーンをいじめないように制御できないミアに、トリスタンは違和感を感じていたはず。それなのにケンブル侯爵へ報告しないし、薬も増やさなかったトリスタン。ジャクリーンを愛しミアを疎むようにコーネリアスから暗示されていたにもかかわらず、ミアへ執着していたトリスタン。コーネリアスに操られていたとしてもミアを手放す選択はないトリスタン……。
ジャクリーンはその意味を考えないようにしていたし、このことはミアには絶対に告げないと決めている。
ジャクリーンとミアはもうトリスタンと二度と会うことはないのだ。ジャクリーンはすぐにトリスタンのことなど思考から追い出し、明日には様々なしがらみから解放されてミアとブラッドと共に旅立つのだと、期待で胸を高鳴らせる。
作戦の成功に安堵し、今すぐ歓声を上げたいほどの喜びを噛み締めながらレノン伯爵家の馬車へ向かって歩くジャクリーン。勝利に浮かれていたジャクリーンは、従者と護衛を引き連れて正面から歩いて来る令嬢の存在に気づくことに遅れてしまった。上等な紫色のドレスを着ているその令嬢は、ジャクリーンのドレスの赤いシミを見つめ、血のように赤い瞳を細めて笑いかけてきた。
予想していなかったアメリアとの遭遇にジャクリーンは全身に冷水を浴びせられ、体中の血が凍るような心地になる。
ここでアメリアに情報を渡し、コーネリアスの足を引っ張るわけにはいかない。簡単には終わらせて貰えないらしいと腹を括ったジャクリーンは、怪物との最後の対峙のために頭の天辺から瞳、指先、そしてつま先にまでの動きを意識し、密かに気合を入れた。




