Mia(age17) 08
「リーンちゃん!」
リーアの香りによって忘れていた記憶を思い出したミアは、迷わずジャクリーンへ飛びつきその小さな身体を抱きしめた。ミアが抱きしめる寸前、目を見開き驚いていたジャクリーンは、ミアが飛び込んだために開けっ放しだった部屋のドアをメイドが閉めているのを確認した後でミアの抱擁に応えてミアの背に腕を回す。ミアとジャクリーンはしばらく無言で抱き合った。
「ミア、思い出したのね?……よかった。本当によかった」
顔を上げミアを見つめるジャクリーンの目からポロリポロリと大きな粒の涙が溢れ頬を伝う。ミアは自身のドレスの袖口をジャクリーンの目元にあてながら頷き、頷いた事で自分の目からも涙が溢れている事に気づいた。
「もう、ハンカチくらい持ってるでしょ」
そう言って笑いながらジャクリーンはハンカチを取り出しミアの目元にあてる。
「リーンちゃん、一緒にこんな家から逃げよう。……あたし思い出したの。あたしがリーンちゃんやリーアちゃん達のことを忘れてたのはトリスタンのせいだって。トリスタンが淹れたお茶を飲んだら頭の中がぐちゃぐちゃになってバルコニーから落ちて大怪我したことも、そんなあたしを見ながらトリスタンが薬を使ったって従者に話し掛けてたことも思い出したの……リーンちゃんがトリスタンのことが好きだとしても、あんなクソ男絶対ダメ!」
「ミア、落ち着いて。私はトリスタンのことなんて好きじゃないわ。むしろあんなクズ大嫌いよ!……それに、私もミアと一緒に帝国に逃げたいと思ってるの。奇遇ね」
ジャクリーンとミアは涙を溜めたままのお揃いのピンクの目を合わせて笑いあった。異母姉妹とはいえ、幼い頃に両手の指で数えれるほどの少ない回数を遊んだだけの仲だが、2人にはリーアの踊りに憧れていた同好の士という強い絆がある。
「あぁぁ!思い出した!リーンちゃんと噂になってる商人ってブラッドじゃない?あのふわふわの赤毛にリーアちゃんと同じ黒い目、絶対泣き虫ブラッドだ。屋敷ですれ違った時に懐かしい気がしたのは気のせいじゃなかったのね。……トリスタンが好きじゃないってことは、もしかして、リーンちゃんの本命はブラッドなの?」
ブラッドはリーアの弟の息子で、つまりミアの従兄妹。母親のリーアが踊り子として帝国内外で活躍していたためにリーアの実家のイングリス家に預けられることが多かったミアは、1歳年上のブラッドとは兄妹のように育った。柔らかく癖のある赤毛で黒目がちな黒い瞳のブラッドは、ミアよりも年上にも関わらずとても怖がりで事あるごとに泣いて怯えていた。そのせいで、ミアが姉でブラッドが弟だと勘違いされることも多かったし、実際にミアはブラッドの事を兄ではなく弟のように思っていた。
リーアが亡くなってすぐ、イングリス家へレノン伯爵家の使用人が来た。ミアがレノン伯爵家へ養子入りしなければイングリス商会に手を出すと脅され、レノン伯爵家へ行く事を決めたミアに、最後まで反対し抵抗してくれた祖父、叔父、叔母、ブラッド。
そのブラッドがレノン伯爵家に出入りしていたのは、どう考えても偶然ではなくミアのためだろう。ミアがイングリス家を出て行く時、ミアよりも大泣きしていたブラッドが、イングリス商会の商人として働き、ミアのために帝国からこのウェインライト王国へ出てきて、しかも可愛いジャクリーンと市井で遊んでいると噂されるような大人へ成長していた事を思うと目頭が熱くなる。
幼い頃、年に数回しか会えない異母妹ジャクリーンがとんでもなく愛らしいとブラッドへ自慢した時、ブラッドは無邪気に自分もジャクリーンに会ってみたいと言っていた。小さくてか弱い見た目にも限らず実はしっかり者のジャクリーンと、弱虫で泣き虫でだからこそ優しいブラッドは相性が良いのではないだろうか。
ミアはどうしてブラッドがレノン伯爵家へ出入りしているのか理由を考えるべきところを、可愛い弟のように思っていたブラッドが同じく可愛いジャクリーンとお似合いではないかと考えていた。
「ブラッドさんも、トリスタンも、ヒューバートも、私は誰とも恋仲なんかじゃないわ。ブラッドさんだけはわざと噂になるようにしてたのだけど、彼とはミアに贈る香水を作るために一緒にいたのよ。……ミア、聞いて欲しい話があるの。すぐに話をしたいけれど、私の元へ走ってきたことでミアが記憶を取り戻したとケンブル侯爵家の使用人に知られてしまった可能性があるわね」
ジャクリーンは誰かに聞かれていないか気になるようで、部屋のドアを睨んでいる。
「それは大丈夫、なはず。記憶が戻った時、本当はすぐにリーアちゃんに会いたいってなったけど、トリスタンが雇ってる侍女や護衛は信用できないって思ったから、バレないようにいつも1人で図書室に行く時みたいに部屋を出てきたの。ほら、これ、そのための本」
ミアは部屋に入ったと同時に投げ捨てていた本を拾い、ジャクリーンへ見せた。
「……でも、廊下を歩いてる途中で気持ちが抑えきれなくなって、思わず走っちゃったから、その姿をレノン伯爵家の使用人達に見られちゃってる。まずかったよね。ごめんなさい」
ミアは己の不注意な行いをジャクリーンへ謝罪し、忘れてしまっていた感覚を思い出す。まだリーアが生きていた時、物事を深く考えずにすぐに体が動いてしまうミアは、事あるごとにリーアや叔母から怒られてその度に反省していた。
レノン伯爵家に来てからの自分は怒られるようなことをした覚えがない。突発的に何かしようとする度、壊れたように思考も体も止まり、何をしようとしていたか忘却していた自分に気づく。
記憶を失くしてから暫くした頃、確かに自分は夜遅くにレノン伯爵家から逃げ出そうと決意していたはずなのに、いつのまにか忘れてしまっていた。歴史や外国語などの暗記系教科は、どんなに勉強しても覚えた端からボロボロと忘れてしまい苦労していた。
レノン伯爵家へ来てからの自分の不可解さに、嫌な胸騒ぎがする。トリスタンに薬を盛られていたのはバルコニーから落ちたあの一回だけではないかもしれない……。
「確認するために少し退室させていただきます。ジャクリーン様もミア様もこのまま私が戻るのをお待ちください」
たった1人、ジャクリーンの部屋にいたメイドが部屋から出て行った。鼻の上のそばかすが素朴な印象のメイドがいなくなると、部屋にはジャクリーンとミアの2人きりだ。
部屋に侍女がいないことで義母がミアだけでなくジャクリーンをも冷遇している事が分かる。ジャクリーンがレノン伯爵家に戻ってきた春から今はもう冬の始まり。その間、ジャクリーンは不自由な思いをしていたのではないかと思い心が痛む。
一緒に遊んだ記憶が失くなっているとはいえ、小さくて可愛らしい異母妹に興味を持たなかった自分が腑に落ちない。ミアは可愛いものが好きだ。だが、その可愛いものが好きという感情も久しぶりに沸き起こった事に気づく。
この6年間のミアの思考はトリスタンが中心で、トリスタンに関係ないことは極端に興味を持てなかった。そのトリスタンがジャクリーンと隠れて逢瀬しているのではと疑ってても悲しむだけで、直接トリスタンを問い詰めなかった。今となってはトリスタンに都合の良いだけの自分の内心が理解できない。
「ミア?具合が悪いの?大丈夫?」
考え込み黙ってしまったミアを心配するジャクリーンへ、ミアは大丈夫だと答える。
「あのメイドはラナと言って事情を知っている有能な味方だから安心して。ラナが戻ってくるのを待ってたら大丈夫よ……それにしても、まさか香水を渡してすぐにミアが走ってここへ飛び込んでくるとは思わなかったわ。でも、とても嬉しい」
侍女も付けてもらえず、しかも、先ほどの”私は誰とも恋仲なんかじゃない”という言葉を考えると、ジャクリーンはいつから辛い環境に身を置いていたのだろうか。ミアがジャクリーンを省みなかったことも傷つけてしまったのかもしれない。
ジャクリーンは慣れた手つきでお茶を淹れだした。お茶とともにミアの好物だったバームクーヘンを出されて、懐かしさで胸が一杯になる。ブラッドがミアの好物をジャクリーンへ渡してくれたのかもしれない。
久しぶりに食べたバームクーヘンは変わらぬ美味しさで、ジャクリーンにもらった香水のように過去を思い起こさせ、目に涙が滲む。
リーアちゃんもこのバームクーヘンが好きだったな……。
リーアの死を実感する間も無くレノン伯爵家に連れ去られ、それからすぐにトリスタンに記憶を消されてしまったミア。忘れてしまっていた中で過ぎた6年の歳月は、リーアとの日々を勝手に思い出に変えてしまったようだ。リーアの死を悲しむ時間までミアから奪っていたトリスタンのことが許せない。
2人でお茶を飲んでいるとラナが戻って来た。
「走るミア様を見た使用人の口止めをして来ました。それと、ケンブル侯爵家の使用人達はミア様がジャクリーン様の部屋に来たことは気づいていません」
「ラナ、ありがとう。これで安心してミアへ話ができるわ。……ミア、これから私たちの今後に関わる長い話をするけれど、頭が痛いとか気持ちが悪いとか身体の不調を感じたらすぐに言ってちょうだいね」
小柄で可愛らしい見た目に反し、力強い目線で威厳がある雰囲気のジャクリーンに、ミアは思わず姿勢を正し、真剣に聞いている姿を示した。ミアの方がジャクリーンよりも3歳も年上だというのに、これではどちらが姉かわからない。
「まずは、この香水について」
ジャクリーンはミアへプレゼントしてくれたのと同じ瓶を取り出し、蓋を開ける。記憶の中のリーアと同じ香りに、幼い頃、リーアに抱きついて、また、抱きしめ返してくれた時のリーアの柔らかな感触を思い出す。
「ミアがこの香りを嗅いで記憶を取り戻したのは偶然ではないの。ミアが飲まされた記憶を消す魔法薬を身体に影響なく中和させるには、消された記憶の中の思い入れのある香りが必要だって言われたのよ。それで、リーアの香りを覚えていた私とブラッドさんの2人で、リーアが実際に使ってた香水に色々ブレンドしてリーアの甘い体臭も再現したオリジナルの香水を作ったのよ」
ジャクリーンもブラッドもこの香りを作るのにきっと苦労したはず。リーアが愛用していた黄色い瓶に入ったオスマンサスの香水に、リーア自身の甘い香りが加わったこの独特な濃く甘い香りへの切ないほどの郷愁は、言葉では言い表せない。
「この香りが必要だって言ったのは誰?」
「王弟コーネリアス殿下よ。ラナはコーネリアス殿下の部下なの。1ヶ月前、私はコーネリアス殿下から手助けを頼まれて、その報酬として、ウェインライト王国を捨ててテルフォート帝国の平民になる手はずを整えてもらうことになった。ミアには私の話を聞いて、どうするか決めてほしい。このままトリスタンと結婚するのか、それともテルフォート帝国の平民に戻……」
「帝国に戻って、踊り子になる!」
そんなの、決まってるではないか。あたしはさっき一緒に逃げようと、トリスタンはクソ男だとちゃんとリーンちゃんに言ったのに。
憤りながら、ジャクリーンが言い終わる前に大声を出したミアだが、ジャクリーンはそんなミアの無作法を叱るどころか、花が咲くような笑顔になる。ミアには、その笑顔はテーブルに活けてあるパンジーよりもずっと華やかに感じた。
「じゃぁ、私はミアの踊り子になる夢が叶うように応援するわね」
それは香水に同封されていたメッセージカードにも書いてあった。きっとジャクリーンは、幼い頃にミアが踊り子になりたいと言った事を覚えてくれていたのだ。
ジャクリーンからの深い愛情に感動しているミアを他所に、ジャクリーンは真剣な表情に戻り話を続ける。
「ハモンド公爵家が落ちぶれた今、ケンブル侯爵家は王妃の実家として、そして将来の国王の外戚として国内貴族の中で絶大な権力を握っているわ。そんなケンブル侯爵家が影で違法な魔法薬を作っている事と、その魔法薬を使って王家を乗っ取ろうとしている事、それと、アメリア・ジョンストンがそんなケンブル侯爵家を手助けしていた事がわかった。……コーネリアス殿下の望みは王妃とケンブル侯爵家を潰す事なの」
その後、長い長いジャクリーンの話が続いた。
話が進むにつれジャクリーンの不憫さに同情し、薬漬けにされた自身の身体が心配になり、トリスタンへ怒りを抑えられなくなるなど、様々な感情が襲ってきて処理しきれなくなったが、全て聞き終わった今、アメリアという少女への恐怖が一番強く残る。
そのアメリアとミアの初対面は3年前の動物園。
ミアはそこでジャクリーンとヒューバートが恋仲だという噂が流れていることを知ったが、ジャクリーンがアメリアとヒューバートの2人を応援している姿も、”リーン””メル”と呼び合うほどにジャクリーンとアメリアが親しくしている姿も見ていた。それなのに、ジャクリーンとヒューバートの噂を流したのは、そのアメリアだったのだ。
アメリアと仲良くなったばかりの頃、アメリアにメリッサから冷遇されてると匂わされたジャクリーンは、メリッサについてジョンストン公爵へ言い付けた。その結果、メリッサはジョンストン公爵家を追い出されてクリストファーの婚約者候補から降ろされてしまったのだが、今になって、メリッサの事はアメリアの虚言だった可能性が高い事に気付いたジャクリーンは、メリッサへの行いを後悔し、メリッサに謝ることも出来ないと自分を責めていた。
ジャクリーンの10歳の誕生会で、令嬢から避けられているミアに声を掛けてくれたメリッサを思い出す。ジョンストン公爵家を追い出された事はもちろん同情するが、長い目で見れば、冷たい家族や悪魔のようなアメリアと物理的に離れることが出来た方がメリッサの人生にとって良い結果をもたらすのではないかと、根拠もなく思う。メリッサに罪悪感を持っているジャクリーンに、いつかメリッサへ謝罪する場がありますようにと願う。
3年前の動物園でアメリアと出会ったのはミアだけではない。トリスタンも、そこで、アメリアと出会った。
アメリアとトリスタンの出会いにより、ジャクリーンは貴族令嬢としての人生を台無しにされたが、その2人が出会った事で、実父と養父の人形だったジャクリーンとトリスタンの人形だったミアが自由になるチャンスを得ることもできたのだと思う。
アメリアとトリスタンは密かに親交を深め、ケンブル侯爵家で密かに作っている違法な魔法薬をトリスタンがアメリアに売るまでの仲になった。取引していた違法な魔法薬の中には、魔法薬に込めた魔力の持ち主に思考を支配されて操られてしまう、恐ろしい薬まであった。
トリスタンは、ミアと出会ってからのこの6年の間、思考を誘導し人格を矯正する魔法薬をミアに投薬していたそうだ。ミアは1番最初に盛られた記憶を消す薬でせん妄を起こしたことで強い薬はせん妄を起こす可能性が高く、そのために効能の弱い思考誘導の薬を盛られていた。記憶を消す薬と思考誘導の薬の副作用で、感情と結びつかない事が覚えられないなどの記憶障害が起こっていたらしい。歴史上の出来事や外国語の単語が覚えられないのは単純にミアの記憶力が悪いのだと思っていたが、トリスタンが盛った薬の副作用のせいだったようだ。
レノン伯爵の愛人の子として伯爵家内と学園で居場所が無いミアにとって、唯一ミアに優しいトリスタンは自分の全てだった。それは思考誘導のせいだったのだが、ミアとしては真実トリスタンを愛していたし、トリスタンに愛されていたと思っていた。トリスタンはミアのためにと気を配り思いやってくれたその裏で、違法な魔法薬をミアへ盛っていたのだ。
人の心があるとは思えないトリスタンの異常さにぞっとする。
トリスタンはアメリアからジャクリーンへ近づくように頼まれ、ジャクリーンがどんなに拒んでも親しげに声をかけていた。トリスタンとジャクリーンの噂も、ヒューバートの時と同じくアメリアの策略だったのだ。トリスタンのせいでジャクリーンの悪評が増え、結果、ジャクリーンはエルドレッドの婚約者候補から降ろされてしまった。
その後も何食わぬ顔でジャクリーンの友達としてレノン伯爵家へ来ていたアメリアは、ミアの婚約者としてレノン伯爵家に来ていたトリスタンと、レノン伯爵家を薬の受け渡し場所として利用していた。ミアが見た、レノン伯爵家の中庭でトリスタンと逢引していた紫色のドレスの令嬢は、ジャクリーンではなくアメリアだったのだ。
アメリアが先月までジャクリーンとの友情を続けていたのは、薬の受け渡しにちょうど良かったからだろうと、ジャクリーンは悲しそうな顔で言っていた。
そして、先月、アメリアはエルドレッドの婚約者に決まり、アメリアとジャクリーンの親交はなくなった。
義姉メリッサの婚約者候補のクリストファーと仲良くなり、メリッサが婚約者候補を降ろされ、親友と呼ばれるまで仲の良かったジャクリーンに取って代わりエルドレッドと婚約したアメリア。一連の経緯を冷静に思い返せば、アメリアは順当に成り上がっていると分かるのだが、誰からもアメリアへの不信は出ていない。誰もがアメリアを努力家で健気な令嬢だと思っている。
トリスタン以上に表と裏の顔を使い分け、道徳や倫理観など無く、自分の利益のために人を使い捨てているアメリアが恐ろしい。
ジャクリーンが赤毛の商人に変装しレノン伯爵家へ入り込んだコーネリアスに声を掛けられたのは、アメリアとエルドレッドの婚約の少し前。
驚く事にコーネリアスは帝国にいるミアの叔父に借りがあるらしく、叔父に頼まれて数年前からラナを使いミアを見守っていたらしい。ケンブル侯爵家の悪事を掴んだ時にミアが薬漬けだったことに気がつき、ケンブル侯爵家を潰す前にミアがケンブル侯爵家へ嫁入りするのを阻止することになったために、同じレノン伯爵令嬢のジャクリーンに協力の声がかかったそうだ。
ジャクリーンはコーネリアスからブラッドを紹介され、コーネリアスの指示でわざとブラッドと噂になり、その後、同じくコーネリアスの指示でトリスタンへ近づき誘惑し恋人になった。
魔法薬を中和する薬を作るためには、材料として魔法薬へ魔力を込めた人物の髪の毛が必要らしい。ミアはトリスタンの魔力がこもった魔法薬を飲まされていたため、ジャクリーンはミアのためにトリスタンの髪の毛を手に入れてくれたのだ。
しかも、信じられない事に、記憶を消す薬の中和薬を、ミアに盛ったのはトリスタンだと言われた。
コーネリアスは配下をジョンストン公爵家の従者として忍び込ませ、アメリアから薬を盗み出し、複製に成功した。ジャクリーンはコーネリアスの魔力で作った人を操る魔法薬をトリスタンへ盛った。こうして、トリスタンはコーネリアスに思考を支配され、操られ、しかもその事に気づいていない。
「目には目を、歯は歯を、違法魔法薬には違法魔法薬を、よ!まさか自分が他人へ使っている薬を自分が使われているなんて、あのクズは思ってもないでしょうね。いい気味だわ」と笑っていたジャクリーンは、ミア以上にミアが薬を盛られていた事に怒っている。
今日のお昼、トリスタンは「ジャクリーンとミアと私の3人で仲良くしよう」などと言いながら、コーネリアスの指示で無意識下でミアのお茶へ中和薬を入れたというのだから滑稽だ。ミアはトリスタンの盛った中和薬を飲んだ上でリーアの香りを嗅ぎ、記憶を取り戻すことが出来たのだ。
トリスタンがジャクリーンとデートするようになってから、つまり、トリスタンが薬を盛られて操られるようになってからは、ミアはトリスタンに思考誘導の薬ではなく、思考誘導の薬の中和薬を盛られるように変わっていたらしい。
ジャクリーンが言うにはミアは薬が効きづらい体質で、魔法薬の薬部分への依存はないらしい。本来ならば、中和薬を使うと知覚過敏や震え、頭痛や不眠、神経衰弱などの副作用が出るらしいのだが、その体質のお陰かミアは副作用は出ていない。それでも念の為、近日中にコーネリアスと直接会い、診察を受ける事になっている。ブラッドとも再会できると聞いたミアは、嬉しくて思わず泣いてしまった。
医療分野を独占しているケンブル侯爵家は、魔法薬の作成だけでなく、麻薬などの密売も行なっているようだ。ジャクリーンがトリスタンへ薬を盛り、コーネリアスがトリスタンを操り、ケンブル侯爵家の悪事の証拠を着々と手に入れているらしい。
トリスタンの婚約者としてケンブル侯爵家へ出入りすることができるミアも協力すると言ったのだが、ジャクリーンに断られてしまった。ミアへ明かしていない秘密が沢山あるらしく、将来の自由のためにミアはこれ以上の事を知るべきではないと、ジャクリーンがミアのことを思って判断してくれたのだ。
家族にも婚約者にも友人にも恵まれず、王族と結婚するための長年の努力はなかった事にされ、気の休まる時もなかったジャクリーン。ミアはこのかわいそうで可愛い妹が幸せな姿が見たい。
踊り子になる夢の他に、ジャクリーンの幸せもミアの夢になった。ジャクリーンはミアの夢が叶うように応援してくれると言っていた。しっかりもののジャクリーンが応援してくれれば、ミアの夢は必ず実現するだろう。
その夢への第一歩として、1ヶ月後の年末にある魔法学園のダンスパーティーで、トリスタンへミアとの婚約破棄を宣言させ、年内にジャクリーンと共にテルフォート帝国へ逃げるのだ。
魔力持ちなのに魔法学園を卒業しなかった場合は、魔力封じをされてしまうが、それは両手に重い腕輪をつけることになる。踊りの枷になるような腕輪は避けたいため、ミアはダンスパーティーの前日までに魔法学園の卒業資格を取得しておかないといけない。
卒業資格を得て、あとは卒業証書を受け取るだけにしておけば、コーネリアスの伝手で卒業式には参加せずとも卒業証書送付で対処してもらえるらしい。
ケンブル侯爵夫人になるために努力をしていたおかげで、筆記の授業は全て単位を取得済みのため、残す卒業資格は魔力操作のみだ。
魔力を持つ者は10歳前後で魔力が身体から漏れ出るようになり、この漏れ出る魔力を使う事で魔道具なしで魔法を使えるのだが、この勝手に出てくる魔力を魔力操作で完璧に抑えることが魔法学園卒業に必須となっている。完璧な魔力操作のためにはただただ魔力の溜めと放出とを反復するという単純作業するしかないのだが、卒業まであと残り4ヶ月の今、あと2ヶ月ほどで魔力操作が出来る予定だった。
それを、ケンブル侯爵家から派遣されてる侍女と護衛の目を盗みながら、今から約1ヶ月の間に終わらせないといけない。
ジャクリーンから、円滑に計画を進めるため、侍女へ人を操る魔法薬を投薬するかと聞かれたが、ミアは迷う事なく断った。薬を使えば部屋で魔力操作の訓練どころか、自由に踊ることすらできるとは分かっているのだが、きっとあの侍女と護衛たちはケンブル侯爵家の違法な魔法薬の事など知らないはず。
打ち解ける事はなかったとはいえ、長年世話をしてくれた彼女達へ自分に都合が良いからという理由だけで違法な薬を盛って操ることなどできない。
ミアよりも3歳も年下のジャクリーンはコーネリアスの指示のもとで嫌っているトリスタンの恋人を演じ、危険な任務を遂行しているのだ。それを思えば、ミアの苦労など苦労には入らない。
ミアは侍女に見つからないように魔力操作の訓練を頑張り、ひと月後、年が明けた時にジャクリーンと共にイングリス家でダンスを踊るのだと固く心に誓った。




