6話
突然のことに驚いた私はすぐさま振り向く。まさか王宮で聖女に手を出そうという不届き者は居ないと思ったが、それでもいきなり腕を掴まれ恐怖すら覚えた。
「レオン…?」
私の腕を掴み引き留めていたのは白銀の髪に琥珀の瞳を持つレオン。気の置けない仲の友人である魔術師。見知った顔に恐怖心が一気に消え去った。
仮に私を追いかける人が居たとしても、アルバートだと思っていたので少々混乱していた。決してアルバートではなくてガッカリした、わけではなく本当に驚いていたからである。何で彼が?と。
レオンは整った顔立ちだが目つきがやや悪く、黙っていると冷たい印象を与える。そして常に余裕綽々な態度を崩さなかった。流石に魔王と対峙している時は余裕が消え失せ、表情に焦りが滲んでいたが。
今の彼は、もしかしたらその時よりも焦っているように見える。私の知っているレオンは日常生活で焦ることはなかった。彼の行動を怪訝に思いつつも訊ねた。
「どうしたの?」
しかし、彼は答えてくれない。言いたくないのか唇を噛み締め、ふっと視線も逸らされた。用事もないのに謁見の間から出てくるはずがない。逃げるように出て行った私を心配して追って来てくれたのだろうけど、どうにも様子が変だ。
何かに追い詰められているかのように、彼の表情は強張っている。私が逃げた後何かあったのか、不安になってきた。
「…何があったか知らないけど、取り敢えず手を」
離して欲しいと言い切る前に、私の腕を掴む力が強くなる。ギュ、と擬音が聞こえてくる程に。力の調整をしてくれているのか痛くはないけれど突然のことに身体が大袈裟に反応してしまう。
そんな私にレオンはしまった、と言わんばかりに表情を歪ませるも手は離してくれない。
何だろうこの状況は。レオンは何故頑なに私の腕を離そうとしないのか。力尽くで振り解くことも出来なくはないが、見ず知らずの男に無体を働かれた訳でもないのに、と躊躇ってしまう。
だけどここは王城で、誰が通りかかるか分からない場所。魔王討伐から帰還したばかりの聖女と魔術師が廊下の真ん中で手を繋いでた(実際は腕を掴まれた)と他の人に見られ、あらぬ噂を立てらる可能性がある。それは良くない。どうせ帰る私と違い、今のところレオンはこの国で暮らしていく予定なのだ。娯楽に飢えている貴族達の餌食にされるのは忍びない。
だから早く手を離してくれないかな、と淡い期待をしているとずっと黙っていたレオンが口を開いた。
「…帰るってどういう事だよ」
喉の奥から無理矢理絞り出したような声。普段のレオンの声より低く、そして形容し難い圧を感じる。絶対答えなければいけない、という気持ちにさせられた。
「どういう事って、そのままの意味だよ。私のやるべき事は終わったから居るべき世界に帰るの」
本心をそのまま伝えたのにレオンは険しい表情のまま私を睨んでいる。怒っている?何で怒っているんだろう。確かに昨日までの私はアルバートとの未来を信じて疑わず、浮かれ切っていた。レオンもエドも私が恐らく元の世界に戻らないと思っていただろうし、私もそのつもりだった。
それが一転、さっさと帰りたいですには驚き、そして苦楽を共にした自分達を捨てるのかと怒りを抱いてもおかしくはない。実際レオンは責めているのだ、冷たい奴だと。
怒られても私の気持ちは、帰りたい、から変わらない。例え凄まじい目力を真正面から浴びているとしても。
美形の真顔、圧が強い。思わず目を逸らしたくなるも、蛇に睨まれたカエルのようにレオンの琥珀の瞳に視線が縫い止められている。するとレオンがやっと手を離してくれた。漸く腕が自由に動かせる、と安堵したのも束の間。
今度は両手で私の右手を握ってきた。何でだ、と困惑する私に向けられる琥珀の瞳がスッと眇められる。だから何で?何で握る?しかも両手。
片手で掴まれてた時より、一層逃げられなくなったのは気のせいじゃない。逃がさないからな、と言われてるみたいでちょっと怯む。
「あの、手…」
「セナはあいつと一緒になってここに残ると思ってた」
戸惑う私を無視してレオンが話し出す。あいつ、にだけ棘が含まれているのは恐らく気のせいではない。
「…まあ、私もそうすると思ってた」
「あの2人に会いたくないから帰りたいのか」
会いたくない、というのも嘘ではないがクレア殿下は兎も角アルバートと今まで通りに接することが出来ないから、というのが主な理由。さっきのことも、今までのことも無かったことに出来ない。私は引き摺るタイプだから、されたことを全て水に流すことが出来そうに無い。
だから帰りたいんだ、帰って二度と会うことがなければ悩むことも煩わされることもないから。
否定も肯定もしない私に、レオンは自分の指摘が事実だと判断し眉間に皺を寄せた。
「会いたく無いなら、手を回してあの2人がセナの視界に絶対入らないようにする」
突然何を言い出すんだろう。視界に入らないってどういう意味だ。まさか…。
「カイル殿下に協力を仰げば、2人揃って田舎に飛ばせる。王都から居なくなる理由なんて幾らでも作れるから」
懸念が当たってしまった。私1人のために勇者と王女を田舎へ追いやる?あり得ない、現実的じゃ無い。
「何言ってるの、そんなの出来るわけ」
「国を救うために召喚された聖女の望みを簡単に無下には出来ない。何せ勇者に聖女を落とせと命じた負目があるからな、寧ろこれくらい聞いて当然だ」
「しなくていいよ、私が帰ればいいだけなんだから」
するとレオンの表情が悲しげに歪む。何も変なことを言ってないのに、そんな顔をされると私が悪いことをしている気分になる。
「レオンは私に帰って欲しくないの?」
私の問いに彼の琥珀の瞳が見開かれた。至極真っ当な疑問をぶつけただけなのに、僅かに視線が彷徨う。動揺しているのだろうか。
それでも黙ることなく、だが躊躇いがちに応える。
「そりゃ、まあ、一緒に旅した仲間だしな。帰って欲しくないって思うだろ、普通」
普通。確かにそうだ、召喚されて数ヶ月も経たないうちに旅に出て、それから1年近く彼らとは共に過ごした。時間は長くなくとも濃い時間を共有した仲間。愛着が湧いて当然だ。
けどさっきと違い、レオンの口ぶりから帰りたい私を責めている訳ではないのは分かった。
「…私も皆と過ごせて楽しかった。勿論大変なこともたくさんあったけどね。皆と会えなくなるの寂しいけど、ここに残りたいっていう一番の理由が無くなったから。そうなるとやっぱり元の世界に帰りたいって気持ちが強くなったというか」
寂しいのも本当で、アルバートの事で私をこの世界に留まらせるだけの理由が無くなったのも本当。
嘘偽りない本心を告げるとレオンの瞳が切なそうに細められた。まただ、見たことのない表情。この短い時間でどれだけレオンの新しい表情を私は見たのか。
レオンは仲間として、友人として私に帰って欲しくないと思っているのだ。そんな相手に強固に帰る、という態度を崩さない私は酷い奴かもしれない。
でもやはり思い留まるだけの理由がない。残酷だと揶揄されようと事実なのだ。
けど。
「…この世界に残りたいって理由が出来れば、考え直してくれるのか」
「え?」
ふー、と息を吐いたレオンが何かを決意したかのように、真っ直ぐに私を見つめる。
「俺、セナのことが好きだ。だから帰って欲しくない」
思いもよらぬ言葉に私の中の時が一瞬止まった。