蛍の声
タイトルの読み方は「ほたるの声」でもあるし、「けいの声」でもあります。
お好きな方でお読み下さい。
「蛍……?」
懐かしい珈琲の香りと共に、一年前に亡くなったはずの恋人の声を聞いた気がして、声のした方を振り向くと、一匹のほたるが飛んでいた。
仕事帰り、月明かりもない暗い夜道で、ゆらゆらと漂う小さな光。
その光に誘われるまま歩みを進める。
足元を転がる石の感触や鼻をくすぐる水の香りから、どうやら河原にたどり着いたようだ。
水がサラサラと流れる音だけが辺りに響いている。
蛍は儚く笑う人だった。
彼の周りはいつでも空気が澄んでいて、まるでこの世の人ではないような、そんな浮世離れした雰囲気を持っていた。
喫茶店で一人静かに読書をする姿に見惚れてしまい、私から話しかけ、あれよあれよという間に付き合うことになったのだった。
「君は太陽みたいな人だなって思ったから、一緒にいたら楽しいだろうなって」
そう言って笑う彼の隣で。
舞い上がってはしゃぐ私を優しく見守ってくれていたことが、昨日のことのように思い出せる。
彼は珈琲が好きだったから、彼のそばではいつも珈琲の香りがしていた。
週末はショッピングモールで買い物に付き合わせたり、映画を一緒に見たり。
蛍が読んだ本の話を聞いて、背伸びして同じ本を読んで感想を言って、「読んでくれて嬉しいな」と言って微笑む彼に「頑張ったから頭を撫でて!」なんてワガママを言ったり。
平日はお互いのアパートを行ったり来たりして、家事をこなしたりして。
蛍に朗読をして貰い、落ち着いた柔らかい声を聴きながら寝落ちしたり。
そんな何でもない日常が愛おしかった。
けれど彼はガンに侵され、若かったせいかあっという間にガンは進行してしまったのだった。
「蛍、蛍、私を置いていかないでよ!」
抗がん剤治療の為に髪は抜け落ち、枯れ木のように細くなってしまった体に縋り付く。
蛍は私の頭を優しく撫でた。
「僕以外の人と幸せになって欲しい」
柔らかく微笑みながら言うその言葉を、私は受け止めることが出来なかった。
「嫌、嫌だよ! 蛍がいいの、蛍じゃなきゃダメなの」
「……ごめんね」
困らせていることは分かっていたけれど、嫌なものは嫌だった。
零れ落ちる涙が止まらない。
病室のシーツを涙で濡らしてしまった。
「本当は僕のことは忘れてくれ、と言うべきなのかもしれない。だからこれは僕の最後のわがままだ。君が生きている限り、僕はこの世界で生きていたって記憶は残るんだ。だから生きていて欲しい」
その時の蛍は久方ぶりに私の手を力強く手を握り、涙を拭ってくれながら、真剣な目をして私に告げた。
いっそ後を追って一緒に死んでしまいたいと思っていたのに、それを許してくれない彼は酷いと思いながら。
それから数日の後に、彼は亡くなった。
火葬場で焼かれ、骨壷一つになってしまった彼の骨は所々が黒ずみボロボロだった。
亡くなってから一年が経ち、蛍の声を少しずつ忘れ、そして笑顔や想い出がおぼろげになっていく。
私はそんな自分が許せなかった。
大好きだった蛍のことを少しづつ忘れていく自分が、ひどく薄情に思えて仕方なかった。
うずくまり、そんなことを考えていた私の肩に蛍がとまった。
私を慰めるように明滅を繰り返している。
「蛍、蛍。会いたいよ。蛍のことを忘れたくないのに、どんどん忘れていくの……」
涙が止まらない。
残っている動画で声や姿は思い出せるけれど、少しずつ蛍を考える時間が減っている事に気が付く度に、自分に苛立って仕方が無かった。
夢でもいいから、もう一度、蛍の姿を見たいと思いながら。
私は肩に乗ったほたるがどこかに飛び去ってしまうまで、その場にとどまり続けたのだった。
天野月子さんの「聲」を聴きつつ。
お題サイトの『確かに恋だった』様より「君の声、届く夢から、醒めても」というお題と、ホラーゲームの『零』の「刺青の聲」からインスピレーションを得て書きました。