2-5
「おっ、有馬。次も頼むぜ。なんたって男子リレーだかんな」
有馬がクラスに戻ると、クラスメイト達は呑気に駄菓子を食いながら気軽に話しかけてきた。さっきまではそれで良いように感じたのに、今ではその逆。なぜ何も努力しない奴らに頼られ、その期待に答えないといけないのだろう。そう思った途端、突然中庭で練習をしていたクラスの連中を有馬は羨ましく思った。
この場にいてはやる気が失せてしまうと感じた有馬は、トイレに行ってくると嘘をついてクラスを離れることにした。
ふらっとクラスの輪から外れた有馬だが、どこも行く当てがなく、取りあえず水分補給をしようと冷水機に向かった。その途中、何人もの生徒がすれ違い様に有馬の顔を見て、小さな声で友人とささやきながら歩いていく。誰も有馬には声をかけない、ただパンダとなって話題を与えるだけの存在。有馬はなんとなくその存在の虚しさに気付いた。
「おい、おいって」
またすれ違った生徒が声を上げる。友人にあれが有馬だと伝えようとしているのだろう。
「おいって。聞いてんのか有田」
「俺は有馬だ。名前が有田ってなんだよそれ」
名前を間違われ、つい振り返る有馬。そこには中々体格のいい男子が二人立っていた。体操着の色が有馬と同じなので三年の生徒だと気付き、顔を見た瞬間誰なのかを把握した。
元陸上部の副キャプテンと野球部だ。彼らは憎たらしい笑みを浮かべ、しかし眼だけは笑っておらず、有馬をきつく睨みつけている。
「ちょっと調子いいからって調子に乗るなよ。しょせん五組の奴らに走るのが速い奴なんて一人か二人で、しかもそいつらも大したことないんだからな。まあ男子リレーでお前に恥をかかせてやるよ」
唯賀の言っていたことは本当だった。出る杭を打つ者は性別関係なくいた。
有馬は言葉を返すのも面倒なので、何も言わず背中を向け冷水機に向かった。その態度が気に食わなかったのか、「調子に乗りやがって」という声が背中に届いた。
モヤモヤする気持ちを抱きつつも来賓席のテント裏を通り、教師のテント裏を通り過ぎようとテントの中央辺りまできたところで有馬は足を止めた。いや、正確には止めざるを得なかった。
目の前のテントが舞ったのだ。
上空に舞い上がり海老反りをしたような形になって、砂埃を散らしながら勢い良く有馬に向かって落下する。ほぼ無風状態なのに。
自分が命を狙われている存在だと完全に忘れ、有馬は油断していた。
突然の出来事でどう避ければいいのかわからず、有馬はその場にしゃがみ込んだ。どうか屋根の布部分が当たるようにと祈りながら。
パイプが地面とぶつかり、金属音を鳴らし、時に鈍い音を出してテントは崩れ落ちた。
有馬がゆっくりと眼を開くと何故か崩れたテントの外にいた。が、視線を下げるとその理由がハッキリとした。
「リラさん! 大丈夫ですか?」
そこには腰を抑えうずくまるリラの姿があった。
「また助けてくれたんですか? ど、どこか痛むんですか?」
周りの生徒も教師も崩れたテントの方に集まってくる。幸い上空に舞ったテントの中にいた教師達は無事だったが、あまりの摩訶不思議な現象に戸惑い、呆然としている。
「有馬、怪我はないか? 高等部の人、保健室行くぞ。おい、誰か手を貸せ」
教師は的確な指示を出し、リラを保健室に連れていく。
「いや、あたしは大丈夫」とリラは連れていかれることを拒否したが、パイプで腰を打った部分が痛むのか、両脇を抱える教師を引きはがすことができず、ゆっくりと引きずられていった。その姿を眼で追う有馬に数人の生徒が駆け寄ってきた。どうやらクラスメイトが、遠くから有馬の状況を見ていたようだ。
「有馬くん大丈夫だった? 怪我はない?」
「ああ、なんとか大丈夫だった」
いきなり大勢で押し掛けられた有馬はしどろもどろに答えた。クラスメイトは有馬の体に外傷がないことを確認すると安堵の表情を浮かべる。
「よかったー。これで優勝の可能性が残るね」
「ほんと。有馬が怪我したらうちのクラス終わりだもんな」
それは当然の反応だった。クラスメイトにとって、特に仲良くもない一男子が、運動会で活躍を見せても、しょせんはその程度の存在なのだ。
有馬は一緒になって笑い声を上げた。もう笑うしかなかった。
そして時間は過ぎ、テントの件は急な突風と言うことで解決され、応急処置としてテントにはロープが巻かれ、競技は続けられた。
そしていよいよ混合リレーの次に点数が高い男子リレーが始まった。その前に行われた女子リレーでは有馬のクラスは一〇クラス中七位に終わり、総合点の順位は入れ替わり二位となってしまっている。ここは負けた女子の為にも、と気合いを入れるクラスメイトだが、有馬にそんな感情を抱く余裕はなかった。
リラがいないのだから。
クラスメイトは最後で追い上げを見せて欲しいと有馬をアンカーにしたが、リラがいない素の状態の有馬では差は縮まることなく離されること確定だ。一体今までは何だったんだと学校中がポカーンとする姿が目に浮かぶ。
そう考えると有馬は身震いしかしなかった。
「おっ、ぶるってるな有馬。武者震いか?」
第二走者の持木はそんなことを言って有馬に笑いかける。しかし残念ながら有馬の震えはマジビビリだ。
「おい有田。ここで一発屋ってわからせてやるよ」
自信満々に笑いながら、テント突風事件の前にあった元陸上部の副キャプテンが嫌味を言ってくるが、緊張がピークに達した有馬の耳には届かず、結果無視する形となり、「調子乗りやがって」と再び毒づかれてしまう。
そうこうしているうちに安物の銃声が運動場に響き渡り、第一走者がスタートした。
有馬のクラスは一〇人中七位、トップグループに早くも差を付けられている。第二走者の持木にバトンが渡されるが上手くいかず、その間にスムーズにバトンタッチを終えた六組が抜かしていく。持木はなんとか頑張り二クラスを抜かしたが、第三走者は中の上の走力しか持たない奴なので、走力自慢が集まる男子リレーでは完全にお荷物。結果持木が抜いた二クラスに抜かれ、プラマイゼロ。そしてついに有馬にバトンが渡った。
「いけー、有馬!」
クラスの待機席から大きな声が上がる。しかし、ろくに助走もつけれずにバトンを受けた有馬は一人抜かれてしまう。現在八位。トップはもう半周先を走っている。
これじゃ、運動会のヒーローになることも……唯賀を勇気づけることも失敗に終わってしまう。有馬は走りながらそんなことを思っていた。
徐々にスピードは上がってきたが、それは男子リレーのアンカーにとっては役不足なスピードであった。カーブにさしかかった所でもっと加速しろ、そう願い有馬は腕を大きく振ったが、左手が何故か前に振ったまま戻ってこなくなった。ならば右手だけでも、と更に大きく振るが、またも前で止まってしまう。
いったいどうしたんだ? 緊張で体がおかしくなったのか? そう思った有馬だが、手首辺りの暖かさを感じ、なぜ両手が戻ってこないのかやっと気付いた。
「リラさん」
「ちょっとスピード上げるな。ほい、舌噛むで!」
有馬はコクリと頷き、精一杯足を動かした。
買い物カートを押すような変な体勢だが、ぐんぐんとスピードが上がっていき、一人、二人と抜いていく。アンカーまではグラウンド半周の一〇〇メートルだが、アンカーはグラウンド一周の二〇〇メートルなのでまだ一位の可能性はある。残すは約八〇メートル。やっとトップグループの最後尾に位置する。
まるで一人だけ足にローラーが付いているような別次元の速度で有馬とリラは他の走者抜いていき、後は陸上部副キャプテンと練習熱心な六組を抜けば一着だ。
そして残り三〇メートルと言うところで六組を抜き、そのままの勢いで副キャプテンを抜き、白いテープをリラは切った。
有馬はゴールと同時に足がつり、また転がっていた。
仰向けになって有馬はつった足の痛みで涙を浮かべながらも隣にいると思われるリラに声をかけた。
「そこにいますよね、リラさん」
「おるよ、もう姿見せていける?」
「だめですよ、みんな見てるのに。それよりありがとうございました、怪我してるのに来てくれて」
ふふっとリラは照れくさそうに笑う。
「約束やからね。ずっと近くでおったけど話しかけるタイミングなくって。ごめんな、あたしももっと早く引っ張ってあげたら良かったんやけど、リレー? って人がいっぱいトラックにおるからどのタイミングで行ったええかわからんくて」
そういえば第一カーブから加速したことを思い出す。
「だからカーブのところで待ってたんですね」
「そうそう。でも、これでホンマにゆいかのライバルが有馬を好きになるんかな?」
「それはどうでしょうね? でも唯賀に勇気を与えられればとはおもいま――」
と格好良く締めようとした有馬だったが、いきなり飛びかかってきた持木に驚き、言葉を飲み込む。
「すごかったな、有馬。さすがだ!」
「そんなことより足、治してくれ」
有馬は伸びきったふくらはぎを慌てて指差す。
「おっ、ピーンとなってるな。わかった!」
持木は有馬のかかとを持ち、伸びきった筋肉を緩めようとしたが、第一走者と第三走者が有馬に飛びかかり、それどころじゃなくなってしまう。
「ちょい、足!」
悲鳴を上げる有馬。コートでは副キャプテンが悔しそうに顔を歪ませ、グラウンドを蹴って土ぼこりを巻き上げていた。三着に終わった六組は、どこかやわらかな光を放っているように有馬の眼には映った。悔しそうではあったが満足そうでもある不思議な顔つきをして、混合リレーもこの調子で、と気合いを入れる声が耳に届いた。
あれが本来の運動会を行う者のあるべき姿なのではないか、有馬はふくらはぎを押さえて思った。
ついに最後の競技、混合リレーが始まろうとしていたのだが、有馬は直前にトイレに行くと言ってクラスの待機場所から離れ、三年棟の裏にいた。リラと共に。
「そういえば昼休みに保健室行きましたよねリラさん。和勝と会いませんでした?」
「有馬に似た器の子? 会ってへんよ。女の子はおったけど男子はおれへんかったで」
そうですか、と有馬は呟き、余計な話しをしている時間はあまりないから本題に入ろうと、気持ちを入れ、ぐっと強い目でリラを見つめ、頭を下げた。
「今日はありがとうございました。もう……一緒に走るのはよしましょう」
「えっ? なんでよ。あたしの腰ならいけるで。それとも嫌いになった?」
そう言ってリラは、腰痛はしないと腰の辺りを叩きアピールする。
そんなリラを笑顔で見つめ、有馬は自分の気持ちを整理した。
テントの件が起こった時、有馬はクラスメイトを軽蔑したが、同時に自分も同類じゃないかと気付かされた。リラがいないとこれからの競技はどうするんだ? 彼女の心配よりも先に自分の保身が脳内を渦巻いた。けれどその感情は本来必要のない物だ。有馬は唯賀を勇気づける為に、何もできない眼鏡野郎のがんばりを見せることで、唯賀の心が良いように揺れればと、リラと共に運動会で活躍しようと約束した。けれどその感情だけならきっと競技で負ければどうしよう、なんて気持ちは沸き上らないはずだ。
それを一生懸命練習し、結果より心の繋がりを確かめ合う六組を見ていて有馬は気付かされた。
だから最後は自分の力で一生懸命走り、唯賀を勇気づける。有馬はそう決めた。
無理するなと言ったときの唯賀の顔が思い浮かぶ。
その気持ちを長々とリラに説明しようと思った有馬だが、結局言わずに、ただ一言、リラが見た中で最も強い眼力をして有馬は言った。
「リラさんのお陰で速く走るコツが掴めました。だから大丈夫です」
そんなわけがない、とリラは思ったが言葉にせず、優しく見つめ微笑んだ。
「そう? ほながんばってな」
結果、有馬は一〇人中九位でゴールした。有馬がバトンを受けた時点で六位だったが、ここから追い上げを見せるだろうと皆は有馬を見つめていた。しかし彼の必死の形相と速度は比例せず、次々と抜かれ、最後の最後、最下位のクラスに抜かれそうになったが胸を精一杯はって九位を手にした。ちなみに一位は六組だった。
クラスメイトはがっかりした様子だったが、男子リレーの時に足をつった有馬の姿を思い出し、責めることはせず、逆に有馬を働かせすぎた自分達を責めた。
待機席に戻り、有馬はまたリラに話しかけた。周りには独り言を言っているように思われるが、有馬はかまわず口を開く。
「リラさん、唯賀は登校拒否しちゃいますかね」
有馬の耳元にリラの呟く小さな声が届く。
「それなんやけど……ゆいか、混合リレーのあとすぐ帰ってもうたから確認できへんねん」
それはどういう意味なのだろうか、と有馬は考えた。
そして答えが思いついた途端涙があふれてきた。
「仕方ないです。俺のしたことなんてその程度だったんですから」
たった一度の頑張りで報われるほど世界は優しくない。
やわらかなオレンジの夕陽と汗ばむ体をほどよく包む風。有馬はそれらを肌に受け、声をあげて泣いた。そっと肩によりそう温もりを感じながら。




