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3-3

「ただいま」 

 有馬が家の扉を開くと、カレーの匂いがした。有馬の母は何か良いことがあるとカレーライスを作る傾向がある。

 有馬家のカレーライスは市販のカレールーを使わず、様々な香辛料を組み合わせ作る手間暇かかった一品で、有馬が最も好きな料理のひとつである。それが食卓に並ぶと考えると放課後の出来事などに苛々していた自分が馬鹿らしく思え、自然と階段を登る足取りも軽くなる。

 自分の部屋に入ると有馬はまずリラの名を呼んだ。

 登校拒否をしている生徒をどうやって登校できるようにするか、そのアドバイスをもらうために。リラの能力を使えば解決の糸口が見つかるかもしれない、そう思ったのだが……。

「リラ、おい。いるんだろ?」

 名を呼んでもダメなら、以前決めたリラを呼ぶ合図である咳を三度してみたのだが、これも反応がない。

 有馬の命を守るため、呼べばすぐに現れるはずのリラの気配がしない。そういえば昨日の放課後から一度も姿を見ていないことに気が付く。

 だとするとまだ機嫌が治っていない可能性が高い。リラの機嫌を損ねた理由がわからない限り、リラに謝ることもできない。しかたなくこの件は一旦保留にし、有馬はダイニングに向かった。

 何が悪かったのだろうか、と頭をかきながら階段を下り、ダイニングの扉を開くと、香辛料の香ばしさと果物の甘みのするカレーの匂いが鼻を通り、その悩みを一気に脳内から忘れさせた。

「お母さん。今日はどんないいことがあったの? 父さんが部長になったとか?」

 母親は興奮気味に話す有馬に対し穏やかな笑みをうかべる。

「ふふっ、残念だけど外れ。その父さんだけど今日は飲んで帰るって連絡があったから、今日は二人で夕食よ」

「ってことはお母さんにいいことがあった?」

「そうと言えばそうね。さあ立ってないで座って。いただきましょう?」

 机の上にはカレーの他にコーンポタージュスープとトマトやレタス、コーンなど彩り豊かな野菜が皿に盛りつけ、その中心にマヨネーズで和えたマカロニが置かれたサラダも並べられている。

「いただきます」

「はい。いただきます」

 有馬は勢い良くカレーを掻き込む。好きなものなら味わって食べろと言いたくなるほどの勢いだ。ものの数分で皿を平らげ、二杯目をおかわりし、それも平らげ、サラダに手を付けたところで有馬はやっと母親と会話を始めた。ちなみに母親はまだ一皿目。

「教えてよ。一体何があったんだよ。いつもより肉も柔らかいし、よっぽどいいことあったんでしょ」

 そうね、と言って母親はスプーンを一旦置き、有馬を見据えた。

「今日ね、先生から電話があったの。有馬は登校拒否をしている生徒に声かけをしてるんでしょ」

 余計なことを言いやがって、と有馬は心の中で担任を恨む。人の為に何かを行うことが少し恥ずかしい年頃なのだ。

「運動会の結果も有馬はまあまあって言っていたけど、大活躍だったそうじゃない」

「あれはたまたま調子が良かっただけ」

 褒められるのも恥ずかしい年頃だ。

「それでもいいのよ。あなたはあまり友達が多い方じゃないでしょ? いいのよ、それは人それぞれだから。でもこの間、視覚異常が見つかったじゃない? それがきっかけでますます人と接しようとしないんじゃないかってちょっと不安だったの。実は言うとお母さんはそうだったのよ」

 母親は一旦間を置き、グラスの水に口をつける。

「でも有馬は違ったわ。それがきっかけかはわからないけど変わったわ。積極的に運動会でがんばって、クラスの人達から信用されて、登校拒否の生徒の声かけまでしてる」

「登校拒否の奴らは先生に無理矢理やれって言われたんだよ」

「いいのよ、それでも。以前のあなたなら押し付けられても無視していたはず」

「それは……」

 反論しようとしたがその通りなので言葉が出てこない。

 確かに有馬は変わったのかもしれない、母親の言った通り。

 有馬はそれが誰のお陰かはわかっていた。

 もしも視覚異常が見つかってから、彼女に出会ってなければ学校に行かなくなっていたかもしれない。運動会で活躍するという目標もなく、ただ人の感情の変化ばかりを見ている日常を送っていれば、人に会いたいという感情は薄れていっただろう。

 引きこもり。その一歩手間にいたという事実を有馬は思い知る。それと同時に彼らを救いたいと思った。

「実は、今日クラス委員と一緒に、登校拒否をしている奴の家に行ったんだけど、全部門前払いされて……。お母さんは経験あるんでしょ? 登校拒否の。少しアドバイスしてくれない」

「そうね。ひとつだけ言えることは、有馬が最もその子達を救える可能性があるってことかしら」

 そう言って母親は有馬の瞳に指先を向けた。有馬は思わず目をそらす。

「あっ、ごめんなさい。先端恐怖症だったのよね」

「そうだよ、怖い」

「じゃあ、お母さんの言いたいことはわかったかしら?」

 意味が分からないと有馬は首を傾げる。

「見えるんなら見てしまえばいいのよ」

 母親のその言葉に有馬は動揺する。

「でもこれは特別な力で、普通の人にはない――」

「なら有馬は一生、その力に背を向けて生きていくの? 無理よ。無意識に見えるのだから。だったら甘えちゃえばいいのよ、この能力に。だってその分、有馬は先端恐怖症とかテレビを長時間見れなかったりすぐ眠たくなったりって悪い部分もあるでしょ。視覚異常が良いか悪いかは置いといて、それを上手に使って幸せになった方が、お母さんは嬉しいし、きっと有馬も楽しいはず。お母さんのお母さんもそのまたお母さんもそうやって生きてきたわ」

 有馬はなにも言わずにゆっくりと頷いた。そして昨日、リラに言った言葉を思い出す。

 ——同じ土俵の上で戦うのっておかしいかな、と思いまして。

 同じ世界に生きるなんて間違っている。昨日の言葉はそういう意味に取られても文句は言えない。

「お母さん、ごちそうさま。ちょっとカレー持ってくよ」

 食器棚から新しい皿を取り出し、ご飯を盛り、ルーをかける有馬。さらにラップをかける。

「あら、ここで食べればいいのに」

「どうしても食べさせたい友達がいるんだ……それにありがとう、母さん」

「いいえ、こちらこそありがとう。有馬」

 その言葉を背に受けながら、有馬は扉を開き、カレーを持って外に飛び出した。そして近くの児童公園に着いてから咳を三回ほどする。

 けれど、またしても反応はない。それでも有馬は話すことにした。

「リラさん。これが会ってくれない理由かどうかわかんないけど話します。俺の眼は特別だけど、それを使わない行為は能力を持たない人をバカにしている。俺の考え方は差別を生んでいたんだ。それが嫌だったんでしょ?」

 言い終ると、有馬の目の前に砂埃のようなものが巻き上がり、次第にそれはリラを形作っていった。

「リラさん」

 姿を見せてくれたことで、有馬の顔は綻ぶ。

「ごめんな、有馬。……でも気付いてくれて嬉しい。でもな、それだけやないんよ」

 リラの瞳は弱々しく、今にも溶け出してしまいそうだ。

「向こうの有馬は、能力を持ってなかったねん。けど、いきなり能力使えるようになってん。そこであいつは躊躇せんと能力を使った。すぐに受け入れたねん、自分を。でもこっちの有馬は悩んでた。それで気付いたねん。やっぱりあいつは……おらんやなって」

 瞳から雫がポタリと落ちる。

「有馬とおると楽しくて、器もあいつと一緒やし、あいつがおれへんなったこと、あたし忘れれたねん。けど、昨日の有馬の言葉で、あいつは……あいつにもう会われへんやって気付いてしまった。でも感謝してる。それに気付けたし……だからこっちこそごめん」

 リラは笑みを有馬に向けながらも涙を流していた。

「リラさん……無理しなくていいです。笑わなくていいですよ、俺のことなんて気にしないで」

「で、でも人が泣いてるのん見たら悲しくなるやろ? それに有馬は感情も見える、余計苦しいんちゃうの」

 有馬は優しく微笑んだ。その表情は、今日の母親と似ていた。

「見えるから言ってるんですよ。今は泣いた方がいいって顔に出てます」

「そうなん? じゃ、お言葉に甘えて」

 リラは声を出さず、ただ涙を流し続けた。小さく肩を奮わせて。

「リラさん、泣いてる最中ですけど、お腹がすいていたらこれを食べて下さい」

 涙を拭いながらリラは有馬の持つ皿を不思議そうな目で見つめた。

「これ? おいしいの?」

「失礼な。俺がこの世界で一番好きな食べ物です」

 リラは震える手で有馬に手渡されるスプーンを持とうとするが、持つことができない。

「仕方ないです。口を開けて下さい」

「……?」

 有馬の言葉の意味を理解していないリラだが、言われた通り口を開いた。有馬はその口にカレーライスを含ませる。

 こういう意味だったのか、とリラは納得しながら味わい、何度も咀嚼する。

「めっちゃおいしいわ」

「それはよかったです」

 カレーを食べてもリラの涙は止まることがなかったけれど、瞳に若干明りが灯ったような気が有馬にはした。

「なんでご飯ごちそうしてくれたん?」

 自分でしたことなのに理由がわからない有馬は一瞬考え、答えが出ると優しい声で答えた。

「今日はいいことがあったからですよ」


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