プロローグ
中学三年の夏休みを終えてからはとても退屈なもので、俺の経験上、近視で乱視のくせに眼鏡を忘れ、映画館で観た作品が『博士の異常な愛情』くらいに味気なかった。
クラブ活動を夏に引退し、その暇をゲームや漫画などに費やしても費やしきれず、得意の絵画に性を出そうかと思ったけれど気分的に乗らないので手つかず。特にハプニングのない学生生活は、たったの二週間でマンネリ化。
いつもと同じように七時五五分の普通電車の三両目に乗り、二駅先の大型駅で快速に乗り換え、一五分ほど揺られていれば五百回は見てきたであろう我が中学の校舎が見えてくる。
学校に着いても学習意欲がなく、交友も浅い俺にとって校内にいる時間は味のないガムを噛むようなものだ。ただなんとなく通っているだけで、ぐるぐるぐるぐる同じ日常を送っている。こちらもマンネリ化。
ちょっとした事件が起こったとしてもそれは食堂の食事で腹痛や、家庭科室のガス漏れ程度に過ぎない。その程度、特別驚くことではない。まれに起こる人為的ミスが原因なのだから。
というのがこれまでの俺の日常だった。
けれど今日は違った。いつもと同じ普通電車の三両目に乗ろうと思っていたのだが、視線の先に隣のクラスの不良グループが車内にいたのでさりげなく四両目の列に足をすらし移動。妙にかまってこられると鬱陶しいことこの上ない。
いつもは昼前後から顔を出す奴らがなぜ真面目に登校時間を守っているのだろうかと一瞬考えたが、答えはすぐに出た。今日は運動会の全体練習なのだ。それも一日中。来週に迫った運動会のリハーサル。そのため生徒指導の先生が奴らにキツく言ってきかかせたのだろう。
車内は一両後ろになったからといって、いつも通りの人の多さと息苦しさは変わらず、うんざりしながらつり革に手を伸ばす。
変わらない、と思ったのは錯覚で、周囲を見渡すと若干空気が違うように思えた。
それは殺伐とした、ちょっと陰鬱な空間。
原因は俺の四人程左隣(五両目に近い方)にいた。
その人の顔は歪んでうねり、そしてぼやけて見える。表情を見ることは無理だと判断し、視線を下に落とす。青が混ざった緑のブレザーに灰色と黒のチェックのスカート。
俺と同じ中学の制服だ。
足下に下ろした視線をあげようと思ったのだが、太もも付近でつい視線を止めてしまった。なにも彼女の細く、それでいて張りのある太ももに眼がいったから、ではない。
ただ、女生徒の太ももを撫でる太く毛深く薄汚い指が見えたのだ。
なるほど、この子は痴漢されて感情が乱れているから、顔が酷く歪み、原形をとどめておらず、キャンパスに様々な色を混ぜた絵の具ように見えてしまうのか。
手錠をはめられることを決意してまで触れたいと思うからには彼女はそこそこの容姿の持ち主なのだろう。俺は彼女の顔のつくりが気になったので、つり革から手を離し、自分の太ももを強くつねった。そうでもしないと彼女の顔のうねりがなくならないからだ。
昨日あまり寝なかった為かいつものつねりじゃきかず、もう一つギアをあげてみる。
「痛っ」
と、つい声を漏らしてしまったが、そのお陰で彼女の容姿が確認できた。
気の強そうな吊り上がった大きな瞳にそこそこ整った鼻や口の作り。評価としては中の上が妥当だろう。ということは、犯人はロリコンの類なのだろうか。いい年したおっさんが触れるのだからそれくらいしか理由が思いつかない。それとも気の強そうな人間の苦痛に歪む表情を見て楽しんでいるのだろうか? そちらのフェチなら俺も少し納得できる。
一瞬あった彼女の視線を無視し、過ぎ行く町並みに目をやった。
彼女を助ける理由など一片もないのだ。
本当に嫌がっているのなら泣いて叫ぶだろう。だから援助交際の一環かもしれない。そうじゃないとしても僕がわざわざ人をかき分け助けに行くなんて面倒だ。周辺の人達が助ければいい。彼女の周りには立派な大人が憂鬱な表情で蠢いているのだから。
乗り換えの駅に着き、隣の快速待ちのホームに列をなした。運良く先頭になり、つま先で黄色の線を踏みおよそ二分後の電車を待つ。
「特急列車が通過しますので黄色い線の内側にお下がりください」
アナウンスに従い、僕は半分踏みつけていた線から一歩下がった。
つもりだった。
脇腹に重さを感じ、気付けばホームから足は離れ、線路上を舞っていた。何かがぶつかってきたのだ。しかもそれは俺の体に抱きついて離れようとしない。
横目で確認すると、それはさっき痴漢されていた少女だった。
どうせなら痴漢をした相手を殺せよ、と溜め息をつきたくなったが、そんな場合ではなく、大きなブレーキ音と共に特急列車が突っ込んでくる。それはどんな生物よりも威圧感があった。ただの鉄の塊なのに。命を落としてしまう。
死の直前になってこんな何もない繰り返しの日常を、俺は恋しく思ってしまった。
きっとそれなりに裕福な家庭で私立中学に入ったにもかかわらず自堕落な毎日を過ごしていたから罰があたったのだろう……と納得しようとしたができるわけがない。
ならばどうか来世はがんばります。
迫り来る特急列車から眼をそらし、俺は一心に当てのないことを願った。
そういえば朝、お母さんにいってきますと言わなかったし、朝飯も時間がないですましてしまった。最期だと知っていればもうちょっと愛想良くすれば良かった。
などと後悔を渦巻かせ、眼を瞑り、もう最期の最後というところで、巡るように先週公園で変な女に会ったことを思い出した。
そうだ、こいつに会ってから俺の日常は少しずつ歪んできたんだ。




