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唯のA

作者: 夜中カナ

 Action


「Aは生きた心地がしなかった。昨夜もカナと過ごしたこの寝室が、妙に居心地の悪い、得体の知れない気持ち悪さを纏っているようだった。まだ寝ぼけているのかと、フラついた足取りで洗面台に向かう。流水を手で掬い、寝汗でベタついた頬にそれを打ちつける。重い瞼がじんわりと開き、詰まらない現実世界に意識を呼び戻す。鏡を見ると、瞳の下の皮膚が蒲鉾の形に黒ずんでいた。その黒ずみは日に日に範囲を広げていて、寝起きの所為か死人の様な顔に見える。 彼はうんざりしていた。鏡に映る自分に問いかける。あの悪夢の原因は何だ、と。いつからか続くこの症状の所為で、彼は不眠症に陥っていた。不摂生な生活を送っている訳でも無いし、今まではしっかりと眠っていた。原因があるとするならば、仕事上のストレス。いやしかし、今の会社に勤めてもう長い。今更何をストレスに感じるのだ。

 目を瞑り意識を失うとそれは眼球の裏から顔を出す。まるで彼が眠るのを待っていたかの様に。目が覚めるとシーツには汗が沁みている。これの繰り返し。内容までは覚えていないが、同じ夢を見ている事は感覚的に分かっていた。

 歯を磨くと、先程よりも目が覚めた。こんな日々がずっと続くのだろうかと肩を落とす。

 気づけばキッチンから朝食を作る音がする。何かを、恐らく目玉焼きとベーコンをジュージューと焼く音。同時に良い香りが洗面所まで漂ってくる。彼女は別に料理が不得意な訳ではない。寧ろ、様々なレパートリーを持っており、付き合いたての頃は色々な手料理を振る舞ってくれたものだ。しかし、Aはそれよりも家庭的でシンプルな食事を好んだ。それに合わせ、彼女も凝ったものでは無く所謂簡単な、彼女からすれば手を抜いた食事を今日も拵えている訳である。

「おはよー」

 Aが起きて来たことに気づいたのか、カナは陽気な挨拶を響かせた。透き通ったその声に完全に目を覚ましたAは「今行くよ」と、恐らく彼女には聞こえない声でボソリと呟く。

 窓から差し込む朝日に嫌気を覚えながらも、如何しても仕事には行かなければならない。やつれた頬を掌で軽く叩き自らを奮い立たせ、彼はリビングへ向かった。

 

 Ability

 

 仕事中は眠気を抑えるのに必死だった。上司にバレぬ様、デスクを覗き込む体勢で虚ろ虚ろに作業を続ける。こんな日々が毎日続くと、彼のチマチマと重ねたミスに上司は嫌でも気付く。彼のデスクに近づき、コクっ、コクっと規則的に揺れる肩に手を置いた。

「言いたいことはわかるな?」

 上司の冷めた視線は、彼を心底蔑んでいた。お前は本当に使えない奴だ、と言われた気がした。

「今日までにコレ、全部直しとけよ」

 彼は心の中で舌打ちをして、返事もせずに黙って画面に視線を戻す。

 昼休みになると、同僚と食堂へ行く。最初は美味いと思っていた定食も、毎日食べ続ければ飽きてくるものだ。コイツもそれは同じ様で、冴えない顔で蕎麦を啜る。

「なあ、今度合コンするんだけどさあ、お前─────は来ないよな」

「ああ」

 捨てる様に答え、Aはいつもと同じ生姜焼きを口へ運ぶ。どうせどれを食べても感想は変わらないのだから、同じ定食でも構わないと思っていた。

「まだ彼女とは上手くいってんの?」

 他に話す事がないのか、同僚は興味無さそうに聞く。詰まらない質問だなと思いつつ、「まあな」と話を合わせる。彼女をどれだけ愛しているのか、コイツに言った所で意味など無い。 如何でも良い飯に如何でもいい同僚、如何でも良い上司に如何でも良い仕事。Aにとって如何でも良くないものは彼女だけだった。あの笑顔を自分のものに出来るだけで、彼は生きて行けると確信していた。

 早々に昼食を済ませ、彼はタバコを吸いに喫煙所に向かった。幸いにもそこには誰も居らず、壁にもたれ溜息を吐く。

「辞めたいんだけどなあ」

 それがタバコの事なのか会社の事なのか定かではないが、マルボロに火を付けた彼の頭の中には彼女の笑顔があった。吐き出した白い煙に撒かれ、彼女の幻想は薄くぼやけていく。彼は抱きつつある不安をかき消す様首を横に振り、湿ったフィルターを再び唇で噛んだ。

 

 Absorb

 

 帰宅すると何時もと変わらない眩しい笑顔が出迎えてくれる。Aにとってこれが人生で最高の瞬間であり、一番失いたく無いものだった。彼女の為ならば本気で死んでも良いとさえ思っていた。背中に手を回しキスをしようとしたが、彼女に手で制されてしまう。その顔はAを心配そうに見つめている。

「A君大丈夫?顔色悪いよ。今日もあんまり寝れなかったもんね」

「大丈夫だよ、会社でちょっと怒られちゃってさ」

 ネクタイを緩めながら取り留めのない会話を交わす。会社の時とは違い、冗談を混ぜながら今日あった出来事を事細かに説明する。彼女には何でも話したいし、聞きたいとAは思っていた。 

 やがて夕食を終え、彼女が風呂に入り、彼は少し眠気を感じた。と同時に言いようの無い不快感が体を包む。

 「あーこれこれ」この感覚だ。レム睡眠と言う奴だっけか。先日ワイドショーでやっていた。眠りが浅いと如何たらこうたら、あまり覚えてはいないが、Aの意識はまだ微かに残っている。しかし体は先程から全く動かない。

 医者に診てもらった方が良いのだろうが、酷く面倒臭がりであったAはその選択を放棄していた。深い原因などないと、たかを括っていたのだ。

 そうこうしている内に彼の意識は沈み込み、微睡んだ瞳は瞼に塞がれた。付けっぱなしの恋愛ドラマのBGMが彼をより一層眠りへと誘う。完全に意識を失う数秒手前で静かにガチャリ、とドアノブの回る音を聞いた。

 

 Accelerate

 

 目を覚ました時、Aは妙な既視感を覚えた。何時ものあの感覚が彼の意識を支配した。しかし何故だろう。何時もとは違う。何か引っかかるような気がする。頭に手を当て、さっきまで見ていた夢の内容を思い出そうと記憶を巡らせる。しかし何も思い出せない。全身にはびっしょりと汗が群がり、顔が少し暑い。喉は乾き切っていた。水を飲もうと床に手をついて立ち上がった時、隣で寝ていたカナも起き上がった。眠そうに目を擦っている。

「起きたんだ。ビ────」

 彼女の顔が『い』の形のまま固まる。まるで壊れた機械のように、一瞬動きが止まった。時間にして一秒足らずだとは思うが、その光景は明らかに不自然なものであった。

「ールでも飲む?」

 一瞬何を言ったのか聞き取れなかったが、すぐに理解し、喉の渇きからそれを欲した。

「うん。じゃあ貰おうかな」

「取ってくるね。A君────はここで待っててね」

 そう言って彼女は逃げるようにキッチンへ向かう。何だ?やはり何か変ではないか?如何にもぎこちない今のやり取りを頭の中で反芻させた。だが寝起きと言うこともあって思うように考えることが出来ず、ぼーっと口を開けたままの彼の元へ、彼女はすぐに戻って来た。その顔からは先程の違和感は消えていた。

「さっきもうなされてたんだよ。病院、行った方が良いんじゃない?」 

 心配そうな表情の彼女から缶を受け取り、プルタブに親指の爪を引っ掛ける。プシューッという音と共にそれを口につけ、ゴクゴクと半分ほど飲み干す。美味いと息を吐きながら、あくまでも彼女を心配させない様努める。

「大丈夫だって。大人になって悪夢にうなされているなんてお医者さんに言ったら笑われるよ」

 でも、と彼女は言いかけたのを遮り、肩に手を置く。

「ありがとね」

 まだ何か言いたげな彼女を尻目に、残りのビールを飲み干した。空いた缶を炬燵の上に置こうと手を伸ばす。その瞬間、先程のデジャビュが頭を駆け抜ける。Aはこの光景を見ている。体験したのではなく、見ていたと思ったのは何故だか分からない。しかし、今の一連の動作が先程も行われた事は確実だ。何故なら炬燵の上にはビールの缶が二本ある。Aが眠る前には置かれていなかったはずだ。それなのに何故。カナは酒を飲まない。自身が寝ている間に飲んだのだろうか。そんな事を考えているうち、カナがAの上に覆い被さる。いきなりだったのでAが驚いていると、それを察してか彼女は少し悲しそうな表情を浮かべAの体から距離を置く。

「だって最近すぐ寝ちゃうじゃん」

 彼女は子供の様に頬を膨らませ、拗ねた表情をしてみせる。Aは動揺していた自分が少し馬鹿らしくなった。よくよく考えてみれば、大して気にする様な事ではない。それよりも今は────。

「今日はもう大丈夫だよ。さっき寝たからね」そう笑い、今度は逆に彼女を床に押し倒した。

 暫く見つめ合った二人の唇が重なる。次第にエスカレートして行き、Aの右手が彼女の上着を捲りあげようとした時、彼女の首に真新しい痣があるのに気づいた。

「これは何だい」

 覗き込むように首を見ると、彼女は慌てて細い首筋を両手で覆う。

「え、A君が、さっき寝ぼけて付けたんでしょ」

 彼女は頑なに首から手を離さない。まるで悪事がバレた時の幼い子供の様だ。瞳には涙が浮かんでおり、今にも溢れ出しそうだった。

「正直に言ってくれないか?カナ」

「正直って、そんなこと言われても分かんないよ」

 涙混じりのその声は、まるでAを悪者に仕立て上げるかの如く、薄っぺらい気持ちの悪さを部屋全体に充満させる。

 尚もAは冷静な口調で。

「良いかい?これは僕達にとって大切な質問なんだ。お互いに嘘は無しだって、前に約束しただろう?」

 カナは相変わらず泣きそうな表情を浮かべているが、依然として「わからない」とあくまでシラを切っていた。五分、十分と時間が流れていく中、流石にAも冷静さを失いつつあった。


「そのキスマークは誰に付けられたんだ?」

 徐々に強くなっていく口調にカナは体を震わせ怯えている。今にも泣いてしまいそうだ。

「A君だよ!さっきからそう言っ───」

 言いかけて彼女は嗚咽する。やがてサイレンの音と共に放水を開始した。かつて二人で見に行ったあのダムの様に、彼女の涙腺は音もなく崩れた。整った顔に皺が寄り、遂には声を上げて泣き出した。しかし、Aはその様子をじっと見ていた。瞳から流れる透き通ったその粒の一つ一つには、彼女しか知り得ないドス黒い悪意が隠れていると、Aは確信していた。

 溢れる涙を床に撒き散らしながら、彼女の表情は悲痛に歪む。Aはそれに目も暮れず、首を左右に振りながら辺りを見回していた。

「どこにいるんだ?」

 そう言って立ち上がり、隅にあるクローゼットを乱暴に開ける。丁寧にハンガーに掛けられた洋服を全て剥ぎ取り床に捨て、中を確認する。感情の見えないその顔は、まるで工場のレーンに無機質に並ぶアンドロイドのそれだった。

「A君どうしちゃったの。怖いよ」

「んーここにはいないなぁ。風呂かな」

 先程とは打って変わっていつも通りの口調に戻ったAに、カナは一層恐怖を覚えた様だった。出て行こうとするAの足にしがみつき、もうやめてと泣いて懇願した。

「歩けないよ」

 Aはカナを軽く蹴飛ばすと、想像以上に彼女の体は軽く、壁に当たるまで床を転がった。その姿を横目に、Aは寝室を後にする。

 歩いて風呂場へ向かう際、ふとキッチンへ立ち寄る。綺麗に並べられた包丁の中から適当な物を一本手に取ると、Aは小走りで風呂場のドアを開けた。

「ここにもいないのかー。もう一度カナに聞くか」

 だが、このさほど広くはないアパートの一室にもう一人人間が隠れているとは思えなかった。もう帰ってしまったのだろうか。それを確かめるためにももう一度寝室へ向かう。彼の頭の中には先程の夢が鮮明に思い出されていた。いや、夢ではない、現実だ。彼女が自分を騙していたという現実。恍惚な表情を浮かべる卑しい悪魔。今まで美しいと思っていたそれは、想像を絶するほど醜い蛇であったことを、彼はもう知ってしまっていた。

 扉の前に立ち、ドアノブに手をかけた時、ポケットの携帯が鳴った。こんな時に、と思いながらもいつもの癖でスピーカーを耳に当てる。電話の向こうは騒がしく、グラスを擦る音から居酒屋である事は想像がついた。

「もしもし」

「よう永井。やっぱ今日のコンパ今からでも来てくれねえかな。お前の話したら女の子たちが会いたいって聞かなくてさあ」

 同僚が話し終わらないうちにAは通話終了のボタンを押した。役割を終えた忌々しい機械を投げ捨て、再びドアノブに手を掛けた。


 Adam


 部屋の中央にカナは立っていた。天井を見上げ微笑んでいた。先程まで濡れていた頬は既に乾き切っている。Aが部屋に入ってきたことに気付くと、ドアが閉まる音と共にAに視線を移す。

「まだ───A君?」

 そう言って彼女は室内をぐるぐると歩き出した。Aが握ったままにしている包丁には目もくれない。

「何を言ってるんだ」

 Aはカナの気が狂ったと思った。自身の罪から逃れるべく、責任を在らぬ方向へ押し付けた結果だと。その所為で意味の分からない事を言っているのだと思った。

 カナはゆっくりとAに歩みより、頬に右手の甲を撫ぜる。

 Aは動けなかった。先程までの殺意がそれよりも大きな闇に吸い込まれていくのを感じた。カナは、耳元まで唇を近づけ囁く。

 「つまんない答えだね」

 ハッとしてAは後ろに下がる。自分は大変な勘違いをしていた事に気づいた。コイツには最初から罪の意識などなかったのだ。理屈では説明出来ない程大きな蛇。それが彼女の脚に絡みつき、とぐろを巻いている。この女そのものが、最初から罪悪と呼ばれるにふさわしい生き物だったのだ。

 そのあまりに歪で美しい鱗に圧倒され、Aはその場にへたれ込む。カランっと床に落ちた包丁は、今では何の役にも立たないただの鉄塊と化していた。

 だがA自身もまた、悪魔となんら差し支えない生き物である事は既に分かっていた。彼女に手渡されたその実を、彼は喉に詰まらせていた。

 息苦しさと共に罪悪感が押し寄せる。思い返せば彼女を抱いた事など一度も無い。いつから付き合っていたのかも分からない。毎日仕事に明け暮れ、帰ってくれば直ぐに寝てしまう。起きた時には彼女が朝食を作っており、また仕事へ向かう。休みの日には何をしていたか。そもそも休みなどあったのだろうか。

 人格には明確な役割分担がされていた。そのトリガーが睡眠である事に、彼は今まで気づく事が出来なかった。

 Aはおもむろに、床に転がる鈍を取り上げる。

「何するの?」

「殺すんだよ」

そう言って刃先を自らの腹めがけて突き立てようとする。彼女の狼狽えたその表情こそ、彼にとって復讐であり愛の証明でもあった。

「止めて、B君!」

 瞬間、先程と同様の息苦しさが彼を襲った。喉を引っ掻き詰まった物を掻き出そうとするが、それが唯気の所為である事にAは気づかなかった。悶え苦しむが、やがて勢いを失い、とうとう動かなくなった。彼女すぐに駆け寄り、私の肩を揺らす。

「B君!死なないで!お願い」

 再び泣き出しそうな彼女に大丈夫と言って、私は起き上がる。喉に違和感などなかった。そして可哀想な奴だと思った。唯、Aは気づけなかったのだ。

 私は彼女の肩に手を回し、これで全てが終わった事を知った。いや、始まったのか。私は祝杯の為に、炬燵の上に置かれた残りのビールを勢い良く飲み干した。

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