Contenerezza
月の明るいすてきな夜は、あなたとワルツをおどりましょう。
旅の楽士が琴をつま弾き、だれかが歌を歌うなら。
わたしとあなたでおどりましょう。
すてきなワルツを。
すてきな夜に。
あなたとふたり。
観客のいない舞踏会を、はじめましょう───。
いつから私はここにいたのだろう。
思い出せないということは想像しているよりもずっと前なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。少なくとも二、三日の話ではないと思う。
私はここから動くことができないので、毎日まいにち、道ゆく人々の様子を眺め、見送り、馬車のがたがたという振動を感じているばかり。
かつては自慢だった金髪もうつくしい色に染められていたこの服も、今では土埃に汚れ日に焼けてくすんで見えることだろう。
私は王子さまだった。いや、厳密に言えば今でも王子さまだ。
けれど、棄てられてしまった。この、人が過ぎゆくばかりの道端に。
すぐそばの店には豪奢なドレスたちがそれぞれ美しさを誇るように飾られていて、私はそれをショーウィンドウのガラス越しに眺めることしかできない。
どちらにせよ、あの煌びやかな世界は忙しなく生きる人間のためのもの。私が関わることは許されないだろう。
私はそんな分不相応な世界の前に、棄てられていた。
「ああ、やめてくれ!私は火が苦手なんだ…!」
だれかが火のついたままの煙草をすぐそばに落としていった。
その熱さにたまらず悲鳴をあげても、私の声が聞こえる者はだれもいない。いるはずがない。
しばらくすると風が煙草を少し遠いところに飛ばしていってくれたけれど、己が焦げついてしまいそうになった恐怖はなかなか離れてくれなかった。
「ああ、良い子だね。そう、きみはとても礼儀正しい良い子だとも。だからもう少しだけ離れてくれると嬉しいのだけれど」
「わう!」
荒い鼻息が身体をなでている。
つぶらな黒い瞳に見つめられるのは悪い気はしないけれど、齧られたり舐められたりしてはひとたまりもない。
大きなおおきな一頭の犬。人懐っこい生き物でさえ、私には脅威になりかねないのだ。
ずらり並んだ鋭い牙の向こうから、熱い息が吹きかけられる。もうそれだけでふやけてしまいそうだ。
「離れてくれ…お願いだから離れてくれ!」
ああもう駄目だ、ここまでか…
そう思った次の瞬間。
「いぬだ!」
「いぬがいる!」
幼い子どもの無邪気な声が、私に脅威をもたらす者の身体を強張らせた。
しかしすぐさま我に返った大きないきものは尾を掴もうとするてのひらをするりとすり抜け、猟犬のように町を駆けていく。
あとには残念そうな顔の子どもと見向きもされない私が残っているばかり。
これが私の日常だった。
夜。
昼間の町も良いものではあるけれど、夜は特に好きだ。
もの言わぬ無数の空の住人はただただまたたきを繰り返すばかり。月もなんだか眠そうな様子であたりをやわらかく照らしている。
けれども私が夜を好きないちばんの理由は、ほかにあった。
「なんてうつくしいんだろう…」
おもわず吐息まじりのつぶやきが漏れる。
私を魅了してやまないもの、それはショーウィンドウのむこうのきらびやかなドレスだった。
夜の闇にも負けないように煌々と輝く明かりに照らされ、彼女たちは飾り立てられたダイヤモンドやルビー、サファイアを自信満々にきらめかせる。
なかでも私の心を奪ったのは中央に飾られた星の色のドレスだった。
豪奢でありながら決して派手すぎることはなく、きっと着る女性をよりうつくしく見せてくれるであろうこのドレスは二日ほど前に新しくやってきたものだ。
胸元にはダイヤモンドのかけらがちりばめられ、ふんだんに使われた上質そうなシルクは夜空の宝石にも劣らぬ輝きをかえしている。
店にあるもののなかでもいちばん見事なそれは道ゆく人々の足を止め、ときには感嘆の息すら生まれさせた。
あのドレスは主役のための、選ばれた女性にのみ着ることを許された一着なのだろう。
世にふたつとなく、舞踏会へ赴けばだれもが自然と釘づけになるような、そんな特別な一着。
願わくばその美しさに見合った清らかな心根の女性のもとへ行ってほしいと、棄てられた立場ながら考えてしまう。
人から“在る”ことを望まれたのだから、どうかその幸せを手放さないでほしいと。
やがてショーウィンドウの明かりすら消え、星と月と、ぼんやりした街灯だけが起きているほんとうの夜になった。
街灯に照らされた私はもの寂しい夜の過ごし方を知らない。
ガラスを隔てた必要とされるものたちの世界では何やら鈴を転がすような笑い声が聞こえてくるけれど、それも私には届かない世界のはなし。
ならば今日はもうおやすみ。
また明日、だれもが一日を穏やかに過ごせるようにと、ささやかな祈りを込めて眠りにつく。
それが、私の日常。
ここに“在る”私の、変わらない夜。
そんな時、まどろみのカーテンをゆっくりと上げるだれかがいた。
「ねえあなた。すてきな金の髪のあなた。あなたには私の声が聞こえていて?」
耳に心地のよい、ずっと聞いていたくなるような声の持ち主がだれかに話しかけている。
「ねえ、聞こえていらっしゃるのでしょう?平べったく横になっていらっしゃるあなたのことですわ。お眠りになるのはわたくしの話を聞いてからになさってくださいな」
「…私のことですか?」
「ええ、そうですわ。やっと起きてくだすったのね。お寝坊さんなひと」
驚いた。こんな私に話しかけるだれかがいたなんて。
私を覗き込んでいたのは歳若い女性だった。
白金色の髪を夜風に遊ばせ、纏うドレスは見覚えのある星の色。
いつもと同じ街灯の明かりですら、彼女が立てばスポットライトのよう。
ショーウィンドウから眺めるばかりだった、いっとう美しいあのドレスを身に纏っている彼女はこれから舞踏会に向かうお姫様のようだ。
…いや、ほんとうは彼女自身があのドレスなのだろう。さしずめドレスの精とでもいったところか。
私とは似て非なる存在だ。彼女は人々に望まれてそこにあり、私は不要だからとここに棄てられて。
「ねえあなた。どうかそんな所に横になっていらっしゃらないでもっと近くでお話ししませんこと?」
「それは…できません」
「なぜ?」
私はただの物にすぎない。たしかに彼女も物ではあるのだが、私と彼女では価値があまりにも違う。人のような姿かたちをとるなど、できるはずがないのだ。
「私にはあなたのその指先に口付ける唇も、あなたをエスコートできる手もないのです」
「いいえ。あなたにはすてきな言葉を紡ぐ唇が、わたくしの肩をやさしく抱いてくださる手がきっとありますわ」
「私にはステップを踏む足も、あなたを求めて幾千、幾万の距離を征く脚もないのです」
「いいえ、いいえ。あなたの足は軽やかにステップを踏むことができるし、その脚だってきっとどこまでも駆けられますわ」
想像してみましょうよ。そう言われ、私は質感をもった己の姿を思い浮かべてみることにした。そこまでしたくなるような響きが、彼女の言葉にはあった。
うまくいくだろうか。うまくいくといい。
この不思議な月夜であれば、奇跡だって起こせるかもしれないのだから。
あかるい月がもの言わずに私を見つめている。じっと息をひそめて、私を照らしてくれているのがわかる。
刹那、吹いた夜風にやさしく身体を持ち上げられるような感覚におそわれた。
「まあ」
彼女の驚いたような声が上がり、私は慌てて瞼を持ち上げた。
「これは…」
手を顔にやると、柔らかな肌の感触が手袋を通して確かに伝わってくる。
左足が上がる。下がる。おろした踵が軽い音を立てる。
そこには確かに、私の身体があった。
目線をほんのすこしだけ下にやるとドレスの彼女がやさしい眼差しを向けていて、どうしてだか目を合わせていられなくなってしまう。
「これは…奇跡、でしょうか」
「わたくしにもわかりません。けれども、こうしてあなたに触れることができるのはすてきなことですわね」
温度を感じさせない手のひらが私の頬を包む。慈しむようなその手の感覚を、今だけはただ感じていたかった。
たとえ袖口できらめくエメラルドのカフスが月夜のまぼろしに消えてしまったって、私はこの夜のことを決して忘れまい。
感極まった私は石畳の上に片膝をついていた。
「ああ……ああ、麗しいドレスのあなた。どうかあなたにこの夜の感謝を示したい!その指先に口付けても?」
「まあ、わたくしは何もしていませんわ」
「それでも!私がしたいのです」
そこまで仰るのでしたら、と彼女はかがやく白い手を差し出してくれた。
きっと彼女の手をとる私の指も、体温などこれっぽっちも宿っていないだろう。
それでもよかった。
「気はお済みになって?」
「ええ」
「ではおどりましょう!」
「お、おどるのですか」
「だってこんなに月のすてきな夜なんですもの。おどらなければ勿体無いとお思いになりませんこと?」
ああでも、と彼女は花のかんばせを曇らせる。
「わたくし、音楽をなにひとつ知りませんの。あなたは何かすてきな曲を知っていらして?」
「私もあまり詳しくはないのですが…知っているものがひとつだけ」
「まあ!歌ってみてくださる?」
「わ…笑わないでくださいね」
ひと呼吸おいて、私は幾度か耳にした歌を口ずさんだ。
めぐる月 星はおどり
彼方の夢は 今宵の現に
たった一夜の儚き時は 永遠にかがやくダイヤモンド
あなたがこの手を取ってくれたなら 私は決してあなたを離すまい
幸福は雲となってわきあがり 歓びは雨となって降り注ぐ
ああ この夜を硝子玉に閉じ込めて ずっと抱きしめていられるならば
私はこの命すら惜しくない この命すら惜しくない
夜が七度めぐったころに一度だけ現れる不思議な楽士たちがよく歌っている歌だ。
ピアノの鍵盤を縦にした、じゃばらのついた奇妙なかたちの楽器を鳴らす者もいれば少し音程の合っていないバイオリンを楽しげに弾く者もいて。
そんな彼らが歌う歌を、気づけば私も覚えてしまっていた。
続きを歌おうと口を開くとやさしく腕を引かれ、星屑を集めたようなかがやく瞳がすぐそばにあった。
「すてきな曲ですわね。さ、わたくしの腰に手を。歌いながらおどりましょう」
「は、はい」
言われるままに手をやるとこまかな震えが伝わったのか、やわらかい微笑みの音がした。
「こういったことは久しぶりで…」
「まあ、王子さまでしたら毎晩すてきな舞踏会を開いていらっしゃるのだと思っていましたわ」
「からかわないでください…!」
「ふふ」
ときどき歌を口ずさみながら、ときどきこのステップのような軽やかな会話をはさみながら、不思議な夜の舞踏会はつづく。
右にゆれて左にゆれて、片方の手が離れると花が咲くようにドレスの裾がふわり広がる。そしてあるべきものが元いた場所にかえるように、再び身体を寄せ合って。
「お上手ですね」
「どうしてでしょうね。わたくし、おどりたくてたまらないんですの」
至極楽しげに口元をほころばせる彼女の頬は薔薇色に染まっているように見えた。たとえそれが私の見間違いだったとしても、彼女の弾む声音とかがやく空色の瞳だけは、本物だと信じたい。
やがてゆるやかに動きを止めた彼女に合わせて私もおどるのをやめた。
「もうすぐ夜が明けますわね」
「人々が動き出すにはまだ早い時間ですよ」
「それでも戻りませんと。…お日さまが沈んだら、また一緒におどってくださる?」
「もちろんです」
「まあ嬉しい。あなたのようなすてきな方にお会いすることができてよかったですわ」
ではまた次の夜に。そう言って彼女は流れ星の軌跡のようにきらめく光をのこして消えてしまった。
太陽が顔を出したあとの私は、“次の夜”を待ちわびるあまりどこか浮き足立っていた。
声が届かないことを知っていても道行く人々に挨拶をおくり、かつてのように出来得る限りの優雅な仕草で一礼してみせる。
我が物顔で天高くのぼる太陽に、いつになったら夜がやってきますか、私はあとどれだけの時間を孤独のまま過ごさなければならないのですか、そう問いかけてみるけれど、昼間の空の王さまは答えてはくれなかった。
きっとあまねく生き物を、価値ある存在を照らしてやることで忙しいのだろう。
「ああ…一日が瞬きの間に過ぎてくれたのなら、こんなに嬉しいことはないのに…いやそれでは駄目だ、もしほんとうにそんなことになってしまったら、彼女との時間は瞬きどころか瞼をおろす前に終わってしまう」
そう呟く声はだれの耳にも届かない。それでもいっこうに構わなかった。
夜になれば彼女に会える。私がここに在り続ける理由は、それだけで充分だった。
かつての輝きを失った宝石も色褪せた己も気にならな……いや、
「私は、こんなにも褪せてしまったのか…」
まるで太陽が翳って永遠の夜がおとずれたような心地がした。彼女とおどる夜ではない、孤独と不安に縋りつかれる冷たい夜だ。
くすんだ金の髪に元の色がわからなくなり始めた青のコート。月明かりの下では分からなかったものが、陽の光に晒されると容赦なく明らかになってしまう。
私では、うつくしい彼女の手を取るのにふさわしくないのではないだろうか?
久しぶりにだれかと言葉を交わしたからきっと浮かれていたのだ。私と彼女では天と地ほども差があるだろうに、そんなことにも気がつかないほど、どうしようもなく嬉しかったのだ。
夜になったら、彼女にきちんと話さなければ。
ああ太陽よ、どうかもうしばらくそこに居てくださらないか。
別れの時間が、瞬きの間だけでも遠ざかるように。
心待ちにしている時間ほどすぐ終わってしまい、目を背けたい現実ほど早足でやってくると言う。
「どうして今日は出てきてくださらないの?」
「ど、どうしてもです」
「またおどってくださるって、約束しましたでしょう?」
「それは…」
私を覗き込む彼女の瞳は星明かりよりも眩しくて、差し伸べられた手を取ろうとして、やめた。
悲しみをたたえた白い頬に何も思わないわけがないけれど。
「……ごめんなさい」
彼女がか細い声で言った。謝るべきは私の方であるというのに。
地面を濡らさぬ涙を流す彼女に思わず冷静を欠いてしまった。
「な、なぜあなたが謝るのです」
「だって…だって、わたくしの我が儘であなたを困らせてしまっているのですから。世間知らずで我が儘で、大切にすることを知らないんですもの」
真白い手で顔を覆う彼女に、胸を裂かれるような心地がした。
「それは違いますよ、レディ」
意を決して私は人のかたちをとった。月の明かりに照らされた姿はやっぱり色褪せていて、昨日はあれほど煌めいて見えたカフスもどこか虚ろな光を放っている。
「私は棄てられたものですから…あなたのようなうつくしさもなければここで朽ちていくのみ、あなたの手を取って良いはずもないのです」
私だって、出来ることならばこの素晴らしいひと時が少しでも長く続けば良いと思っている。
けれど、私は臆病なのだ。
棄てられた己を恥じて、彼女の目にみっともない姿が映ることを恐れ、それでもなおこの心は彼女に惹きつけられている。
「どうか私のことはお忘れなさい。あなたはまだだれかにとって必要なのですから」
「あなたのことだって、わたくしには必要ですわ」
「…それは思い違いです」
「いいえ。わたくしにだって、お店に帰ればお話ししてくださる方はいます。鞄に靴…それに手袋の皆さん。わたくしと同じドレスの方々はどこか冷たいですけれど……それでも、いまとってもお話したいのは、一緒にいたいと思うのは、ほかでもないあなただけですわ」
こちらを見上げる瞳にはもう涙は浮かんでいなかったけれど、雨が洗い流したようにふたつの空はどこまでも澄んでいた。
「私は明日をも知れぬ身です。雨が降ればひとたまりもありませんし、壊れるのはいとも簡単でしょう」
「それならわたくしだって同じですわ。わたくしも物です。古くなりますし、いつかは壊れます」
それはそうだ。
ただ、壊れるのが近いか遠いか、それだけのことにすぎないのだ。
「…では、こうしましょう」
束の間の時を、不思議な月夜を共にする。
私が壊れるか、彼女が誰かの手に渡るその時まで。
別れを前提とした約束に、彼女はひどく優しく微笑んだ。
「ええ、ええ。わたくしたち、きっといつまでもこうしていられますわ」
「……そう信じたいものです」
“いつまでも”などという言葉はまやかしだ。物はいつか壊れるし、持ち主だって時が経てばいなくなる。
それでも永遠に在ることを望むのは、私の中の何かが壊れてしまっているからだろうか。
もう壊れているものでも、いずれ壊れるものであったとしても構わない。今だけはこの幸福を手放したくない。いつかこの手を離してしまう時は必ず来るはずで、そんなことは充分に理解をしているのだが、それを考えると何もかもを棄て去ってしまいたくなる。───持っているものなど、己しかないというのに。
私の想像を超えて、夜の舞踏会は幾度も続いた。雨は降らず、火に苦しめられることもなく、今までよりもはるかに穏やかな日々に拍子抜けしたほどだ。
「あら、何か聞こえてきませんこと?」
ある晩、彼女はかたちの良い耳に手をあてて目を閉じた。
夜をひそやかに囁くようなその音たちは、時々現れるあの楽士が奏でるそれだった。どこか調子の外れた、それでいて自由で気楽な夜の演奏者たち。彼らの姿を見てみたいと彼女は言った。
手に手を取って音のする方へ歩いていく。先を行く彼女のいくらか小さな手は音楽が近づくにつれ力が籠っていき、決して振りほどかれることはない。
「まあ」
やがて彼女が声を上げた。贈り物の包みを開けた子供のような、喜びと驚きの入り混じった、そんな声であった。
視線の先では幾人かが楽しげに語らっている。それぞれ違う楽器を手に持ち、調子の外れた音を奏でては笑い、だれかが冗談を言えばまた笑う。彼らの足元には空になった瓶が転がっていた。
「とても…楽しそうですわね」
「ええ」
かくいう彼女の体温を宿さない頬も薔薇色に染められていて、なぜだかそれだけが私には鮮やかに見えた。
名もなき楽士たちはしばらく他愛もない会話をしたあと、おもむろにそれぞれの楽器を構えて目配せをする。それが演奏会の合図であった。
月の夜にふさわしい、静かであたたかい旋律が私たちを包む。意外にも繊細な指の流れ、吹き込む息に乗った音のきらめきは、奏でることへの想いを雄弁に物語っている。
前奏が終わると管楽器を持たない幾人かが歌い始めた。
そう、彼女との時間を彩るあの歌を。
めぐる月 星はおどり
彼方の夢は 今宵の現に
たった一夜の儚き時は 永遠にかがやくダイヤモンド
あなたがこの手を取ってくれたなら 私は決してあなたを離すまい
幸福は雲となってわきあがり 歓びは雨となって降り注ぐ
ああ この夜を硝子玉に閉じ込めて ずっと抱きしめていられるならば
私はこの命すら惜しくない この命すら惜しくない
私たちはすぐ側のベンチに腰かけ、穏やかな心地で耳を傾けていた。
冬の空は凍った湖のようにどこまでも見渡せそうで、散りばめられた星々は決して手の届かない宝石だ。
その宝石に手を伸ばしてみたくなるのはきっと人も私たちも変わらなくて、けれども届かないということを悲しいとは思わない。
悲しいのは、さっきまでしっかりと手にしていたはずの大切なものが不意にどこかへ行ってしまうことだ。
確かにここにあったのに。ちゃんと握りしめていたのに。
それなのに、そんなものは初めからなかったのだとばかりに私をあざ笑う。
「どうされたのですか?」
昏い思いに囚われかけていた私を引き戻してくれたのはやはり彼女だった。
「…いえ、宵闇があまりにも暗いので」
「夜がどんなに暗くても、お月さまが照らしてくださいますわ。それにほら、」
彼女は楽器を手におどりまわる彼らに目をやって言う。
「人は明かりを灯すのがとても上手ですから」
その瞳は輝いていた。疑うことを知らず、信じることをこそ何よりの宝とし、愛されるために生まれたもの。
かつては私もそうだったはずなのに。
もうそれも、遠い昔のはなし。
「古い明かりは、新しいそれの前では無力なものです」
「…それでも、だれかがそこに“在る”ことを憶えていますわ」
握った手が自分よりもいくらか小さなそれに包まれる。頑なな己をほんの少しほどくと、蝶の羽のように重なりあって繋がれた。
「憶えていて、くださいますか」
「もちろん。ですから、わたくしのことも、きっと憶えていてくださいまし」
「忘れられるはずもありません」
人よりも長く、しかしながらいつ潰えるかもわからないこの命。
この夜と彼女の瞳、髪のきらめきを憶えるためだけに在るのも悪くない。そう思ってしまえるほどに、浮かぶ月はやさしかった。
よくある話だ。
人々が手に取るような悲恋になど決してなりえない、あっけない結末だ。
そう。
彼女はいなくなった。簡単に言えば、人の手に渡ったのだ。
彼女のひどく混乱した声がした。普段であれば店の中から声なんて聞こえることがないはずなのに、その時だけはいやにはっきりと聞こえたのだ。
「まだここにいたい」と。
しばらくして店から人が出てきた。育ちの良さそうな、それでいてまだ少女らしい活発さを残した女性だった。
「わたしはいらないって言ったのに…」
「必要なものは必要ですわ、お嬢さま」
後から出てきた女性はメイドだろうか。窘めるように“お嬢さま”の後を歩く。
その手には、幾度か目にした店の箱が抱えられていた。
ああ、きっとあの中には。
「ねえ、どこへ行くの?わたくしはもうあの場所に戻ってこられないのかしら?」
彼女の声だ。
“お嬢さま”が彼女を買ったのだ。
混乱のいろを端に滲ませたまま、彼女は言葉を私に向ける。
「ねえあなた。月明かりのような、わたくしのすてきなひと。わたくしはこれからどうなるの?」
「私の星、いとしいあなた。あなたはこれから、あなたを愛してくださる方のもとに行くのですよ」
「もうあなたにはお会いできないのかしら?」
「幸運があなたに寄り添い続けてくれるのならば、もう会うことはないでしょう」
「嫌よ、嫌ですわ。そんなの幸運なんかじゃありません。だってわたくし、まだあなたのことを何も知らないんですもの。もっとお話ししていたいですわ」
「知らなくとも良いのです。話せるようなことなど、私は碌に持ち合わせていないのですから。私のようながらくたのことなど、すぐにでもお忘れなさい。私以外にも、あなたを愛してくれるだれかがきっと現れますよ」
人に望まれて生まれた彼女が、ようやく誰かの手に渡って愛されるのだ。眺めるだけで手の届かぬ店先などではなく、きちんとその役割を果たせる時が、やっと訪れる。
喜ばしいことなのだ。だから、せめて私は彼女の行く末を願う。
「どうか、幸せに」
この祈りが叶えられるのであれば、己の幸などすべて擲っても構わない。
ただ、彼女が愛されることだけを、切に。
久方ぶりに目が覚めた。店先には彼女ではないドレスが飾られることになり、かつてのように夜の過ごし方が分からなくなってしまった私はただの物に戻る道を選んだ。昼も夜も、私はもの言わず、おどらず、眠り続ける。
そんな折、何かが私を深い眠りから無理やりに浮かび上がらせた。その何かを理解するのに数秒を要したが、理解をしたところで私にどうにかできるようなものではなかった。
赤。真っ先に飛び込んできたのは眩い赤だった。
そして、熱。
熱など感じないはずのこの身が、「熱い」「苦しい」と悲鳴をあげている。
燃えていた。
かつて彼女がうつくしく飾られていたあの店が、低いうなりをあげて燃えていた。
この熱さと苦しさのみなもとは、私をもっとも害するものであったのだ。
黒い煙は空に滲んで雲に化けている。降りかかる火の粉は容赦なく私の服を、肌を焦がして斑に染め上げる。
このままでは自分自身に火が燃え移るのも時間の問題なのだが、それでも私は奇妙な安堵をおぼえていた。
なぜって、彼女がこの厄災に苦しめられずに済んだのだから。
きっと今頃は、素晴らしい舞踏会の中でひときわ目を引く存在としてそのうつくしさを讃えられているのだろう。それでいい。彼女が幸せならば、それで。
店の中からは人ではないものたちの悲鳴が聞こえてくる。彼らはその場から動くこともできず、ただただ焼ける哀しみに声をあげるばかり。
「嫌だ、嫌だいやだいやだ……」
誰かが、いや、何かが外へ飛び出してきたかと思うと炎を纏って消えていった。あれは鞄だろうか、それとも帽子だろうか。今となってはもう知る由もないが、本体が燃えてしまってはもう助かる道などないのだ。
まさに地獄のような世界だった。私は物であるが故に彼らを助けることもできず、この身を焦がす小さな炎から逃れることもできない。
私もいずれは彼らの後に続くだろう。
思い出すのは彼女の姿ばかりだった。
おぼろげな記憶のなかで、彼女だけが鮮やかにきらめいている。
「せめて最期に一度でも、あなたの顔を見てから灰になりたかった……」
煙の滲む空の向こうにある星を想って目を閉じたその時。
「さよならにはまだ早い時間ですわ!」
…なぜだろう、彼女の声がすぐ傍で聞こえた気がした。こんなところに彼女がいるはずがないのに。人で言うところの死が近いからだろうか、きっと幻聴というものに違いない。
それでも。
「…それでも、まぼろしだとしても、私は嬉しく思います……」
「よくご覧になってくださいまし!」
誰かが私の本体を抱え上げた。途端に狂暴な熱の波は遠ざかり、久しく感じていなかった人の手の感触が私の肌を撫ぜ、抱きしめられる。
「ああ、こんなにぼろぼろになって…きっと熱かったし、痛かったでしょうね」
彼女の声ではない、しかしいつか聞いたような女性の声。慈しむような声に私を呼ぶ彼女のそれが重なった。
「お嬢さま、そのようなことをされてはせっかくのドレスが汚れます!」
「汚れたドレスで舞踏会に行く令嬢なんていないでしょうね。でも、笑われたって構うものですか!こんなに綺麗なのに黙って燃えるのを見ている方がよほど嫌よ!」
「たかが絵本ではありませんか!しかもそんな道端に棄ててあるような…」
「たかが絵本かもしれないけれど、誰かに大事にされてたものには違いないわ!名前みたいなものだって書いてあるし、それに…」
「それに?」
「どうしても放っておいてはいけない気がするの!理由はわからないけど、なんとかして助けてあげなきゃいけないって、直してあげたいって思うのよ!」
“お嬢さま”だ。彼女を買っていったあの女性が、私を救ってくれたのだ。
ということは。
「ねえ、聞こえていらして?どうかお返事をしてくださいな。でないとわたくし、こんなに腫らした目で舞踏会に行くことになってしまいますわ」
星の声がする。
昏い夜を彩ってきらめき、たくさんの人を、そして人ではない私までもを導く一等星の声。
こうして彼女は、幾度でも私を引き上げてくれるのだ。
「どうして…」
どうしてここにいるのか。どうして助けてくれるのか。
どうして、そんなに悲しそうな顔をしているのか。
聞きたいことは山のようにある。それをすべて問うには、私はあまりにも疲れていた。
「会いたかったから。…ただ、それだけですわ」
「……それだけ?」
「あなたのいない夜は、月のない空のように昏いんですもの」
私を抱えた女性が馬車に乗り込んだ。鞭の音がひとつ。ゆっくりと動き始めたそれはすぐにでも私を眠りに引き込もうとこの身をゆりかごのように揺らす。
とても、心地が良かった。
「はやく、急がないと夜が明けてしまいますわ」
「まだ月は出たばかりですよ」
柔らかな絨毯の上を、手を取り合って駆けていく。夢のようなひとときに彼女がいて、私に微笑みかけてくれる。ただそれだけのことがたまらなく嬉しく、得難いもののように感じられた。
すれ違いざまに帽子を取って紳士的にお辞儀をしてくれた彼は懐中時計。几帳面でありながらも洒落た一面を忘れない、とてもやさしい方だ。
階段を挟んだ向こう側で手を振っている貴婦人はシャンデリア。この屋敷のなかで最も輝く彼女は音楽家の風貌をしたグランドピアノの側に寄り添っている。
かわいらしいオルゴールが歌う。コントラバスがそれに重なり、トランペットにオーボエ、ホルンにフルート、さまざまな楽器が仲間に入って素晴らしい音色になっていく。人の耳に決して聞こえぬ音楽は、月夜だけの舞踏会を彩ってくれるまぼろしの旋律だ。
舞踏会は終わらない。
陽が昇って月が沈んでも、きっとまた次の夜がくる。
彼女の手を取るために、修繕されたこの手を何度でも差し伸べる。
白い指先に口づけるために、この唇をそっと寄せる。
永遠というものはきっとどこにもないのだろうけど、それでもこの幸せが確かにここにあったのだという事実だけは変わらない。だれかがこの出来事を憶えていてくれるのなら、この出来事がだれかの寝物語になるのなら、それもまた私にとっての幸せだ。
「すてきな夜ですわね」
「ええ、とても」
暗闇に嘆く物には月の、星のささやくような光を。棄てられた物には夜明けのようなハッピーエンドを。
これはそう、まさにちょうど今日のように、今にもなにかが起こりそうな不思議な月の浮かぶ夜のお話。
ようく見てご覧なさい。大きな窓のその向こう、だれもが羨むような広いダンスホールの真ん中を。
あなたが心ある者ならば、寄り添うようなふたつの影が見えることでしょう。
美しいドレスを愛した一冊の絵本は、今宵も月の下でおどるのです───。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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