序章 青い烏
____夜桜の散る真夜中の聖域で俺は、凛とした弓士に出会った。
見渡せば、どこかしこも この夜の漆黒に塗り上げられ、とても街灯無しでは夜道を歩く事すらままならなかった。もしかしたら、そういった自然的現象の要因が俺をここへと向かわせたのかもしれない。
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仮初の放課後に思いを馳せるわけでもなく、ただじっと開花の瞬間を待つ。そんな、来るか分からない時間の流れの中をひたすらに立ち止まらない様にと____。
それだけを胸に刻み、生きてきた。
ふと、視界に入った教室の時計は午後六時を回っており、部活動にいそしむ生徒たちも、この時間帯には活動を切り上げ、とっくに帰路に着いている頃だ。夕日が窓から差し込み、廊下を照らす。淡く揺らめく様に差し込んだそれは、オレンジ色を優しく滲ませていた。聞こえてくるのは、靴底が床を踏みしめる音のみで、それだけでここには自分しかいないのだと改めて実感させられる。寂しさはない、けれど孤独感はある。それは、空白の休日を過ごした後の空虚な時の様に____。
それだけで何でこんなにも後を引くのだろう。
下駄箱に着くと、微かだが人の声がした。どうやら、まだ生徒は残っていたらしい。下校時間を大幅に過ぎたというのに学校に残っているという事は理由ありか、それとも俺と同じように何かを探しているのだろうか____?いや、それは無い。何故なら、聞こえてくるのは感情のこもった楽し気な声だからだ。大方、遊びの延長線でもしてるのだろう。
シューズと革靴を入れ替える為、下駄箱の蓋を開けた時だった____。
ハラッ____と、紙切れの様な何かがゆっくりとズレ落ち、そっと地面についた。その見た目から、手紙だという事が容易に視認できた。しかし、こんな俺に手紙というのは信じがたく、悪戯か人違いなのではないかと思ってしまう。
もし、その手紙が可愛げのある、真っ白なモノだったら そう判断できたのに____。
白とは真逆の黒が侵食した、手紙は今もなお、下駄箱の地面に違和感を残し続けながら、静かに落ちたままだった。流石にこれをこのままにして行くわけにもいかず、俺は少しの間、手紙を凝視した後、意を消したかの様に手を伸ばし、拾い上げた。
____心臓が止まった。
____呼吸が絶たれた。
そして、意識が戻る。
灰を触った後の手に残る、黒の鱗粉が右手の人差し指と親指の先に細かくつき、擦るとそれは風に乗り、消え去った。後に残ったのは左手に握ったままの黒い手紙だった。
俺への嫌がらせか、不吉な知らせなのか?
そのどちらとも言える、この状況を少しでも理解しようと封を切った手紙の中には何も入っておらず、残ったのは始まりと終わりが同じ、【黒い手紙】だけだった。俺は振り払う様に、それを投げた。
その軌道の先にあったのは美化委員が設置したゴミ箱だった。普段は生徒たちが頻繁に使い、常時一杯のゴミ箱は今は清掃が終わった放課後という事もあり、中には何も入っておらず、俺が現時点での初めての利用者と言うことになる。羽の様にゆらゆらと、宙を舞う、手紙が完全に収まったことを確認すると、安堵のため息と、不確かな不安が同時に押し寄せた。
____もしかしたら、これは何かの暗示なのではないかと思ってはいたがすぐさまその考えをやめた。
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校舎を出て、中庭を通り、舞い散る桃色の花びらが夕日に照らされ、黄昏の雨を降らせる。季節は春で新たな何かを始めるには絶好の門手だろう。
しかし、俺にはそんな気が起きることは無く、冷めた瞳と冷徹な感情だけが滞在し続けていた。
校門を出ると、涼やかな風が羽衣の様に身を包み、そして解けてゆく。
冬の寒さとは違い、この気候は眠気を誘う。暖かくもあり、寒くもある。それであって、過ごしやすい。
親し気で仲の良い温度だ。
道路横の歩道に一定の距離を保ち、備え付けられた街灯の一つが点滅し、消灯しかけていた。その光はチカチカと時折、明るさを濁し、地面に一瞬の暗黒を生み続けていた。
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帰路に向かうはずの足はいつの間にか別の方向へと歩みを進めていた。それもそのはずだ、家までは街灯が照らす道を歩いて行けば自然と着くはずなのだが、何故か今日は俺の周りの機会が不調を起こし、それは公共的な物にまで影響を及ぼしていた。具体例を挙げるとするならば、今も俺の帰宅を妨げている、光の消えた街灯だろう。直線状に見ても、どの街灯も本来の機能を果たしておらず、このまま道を進み続けるには少々、勇気が必要だった。霊的な存在を信じてはいないわけではないのだが、この先の事を考えると今、この時だけは全否定を推奨した。
朧かな月明かりが微かに照らす道を慎重に一歩一歩____。
そうして、辿り着いたのは林の中にひっそりと造られていた、百段はあると思われる。石畳の階段だった。予想を立てるとするなら、この階段は神社か寺へと続く道だろう。家に帰るのを放棄し、俺はその段を上り始めた。もしかすると、こっちの方が脈拍を跳ね上がらせる、何かしらのリスクに遭遇する可能性が高いのではないかと思ったが興味の方が勝ってしまっていた。
草木が、ざわめき。 木々が揺れる。
青光の月明かりがその隙間から差し込み、階段を照らし出す。
コンッ____!と靴先で蹴った小石が転がり下に落ちてゆく。
カサカサと枯葉を踏み鳴らす音が風に乗り、反響する。
幻想的な光景と空気感、未だに現実とは思えない不思議な感覚と夜の静けさが、俺の探している何かとを巡り合わせている気がした。
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上り切った階段の先には神々しくも儚い、神社が姿を現していた。
赤く塗られた、鳥居をくぐり抜けると、促されるままにその先へと足が動いていた。吹き抜けた風が群青色の花びらをさらい、闇へと吸い込んでゆく。
俺は持っていた鞄をその場に置くと、さらにその奥へと歩み進めていた。もう、ここに来た時点で俺は自分自身の本来の目的である帰宅という日常的な動作の一つを投げ出していた。
賽銭箱と参拝用の鈴。
どこにでもある、極普通の神社だった。それでも____。
それでも、俺はここに何かを見出したかった。そうでなければ、俺は________。
________【何も持ち合わせていない、感情の欠落した、ただの人形になってしまうからだ】。
シュッ________。
その時だった。俺の耳に風を切り裂き、突き刺した音がした。
突然の出来事と心拍数を上げる胸の鼓動に息を切らしながらも、俺は音のした方へと視線を向ける。しかし、そこには何の姿形も無く、幻覚でも見ているのかと思わされてしまった。
だが、それは数分もしない内にもう一度、音を響かせた。
コンッ________!
今度は何かに刺さった様な音だった。薪を割る様に木を打ち付ける様な音だ。
そして、今回はその音のした場所がはっきりとわかった。それは、この神社の裏手だ。俺は恐る恐る、ゆっくりと足を運び、砂利の地面を踏みしめる。それでも、僅かに鳴り響く音に息を殺し、怖いモノ見たさに体を預けた。視界に入る、自然の光景に心を落ち着かせつつ、深い深呼吸をする。吸った冷気が口を乾かし、吐いた息が白く視認できる。それだけで、今の季節が本当に春かどうかが分からなくなる。
夢でも見ているのだろうか?
それとも、これは下界と異界の境目に位置する場所なのだろうか?
あろうことか、俺の目の前に広がっている光景に目を奪われるのと同時に自身の思考が停止していた。
大樹と言い表すには大きすぎる程の桜の木が月の明かりを背景に神々しく照らされ、吹いた疾風にその装飾を散らせていた。本当にこんなものが、存在するのかと言う疑問よりも、自分が何故ここに居るのかという過程的疑問の方が大きく、いつしかその両方に圧倒され、ただ、その場に立ち尽くしていた。
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風向きが変わるのと同時に意識を治した俺は、すぐさまもう一度幻想的な桜に視線を向ける。淡く、儚く、寂し気な佇まい。それでもって、美しい。自然にこんな気持ちを芽生えさせたのはいつぶりだろう_____。
_________誰?
聞こえてきたのは【声】だった。
驚くこともままならない、ほんの少しの時間の中で見開いた瞳は桜の下で存在している少女に向いていた。いつからそこにいたのか、いつから俺に気づいていたのか____。
____はっきりとは分からない、状況と不意に訪れた【巡り合わせ】。
声が出ない。
________いや、出せなかった。
金縛りの様な拘束と非日常的な体験に心と体が追い着いていないのだ。硬直した自分の体を無理やりにでも動かそうと、力を込めていると少女が再び口を開く。
________気がそれるから、消えて。
その声を皮切りに俺の体の拘束は解け、言葉を発する事が出来た。でも、今、目の前の少女とその背後の光景を見て、とてもではないが何かを口に出す気にはなれなかった。
____桜の大樹に無数に刺さっている、矢を見てしまった今では。
そして、少女は持っていた弓に新たな矢を射ると俺の方へとそれを向け____。
________【夢中になれるモノは一つだけでいい。だから、余計なモノはいらない。そうでなければ私は私じゃいられないから】____。
射出された矢は一寸の乱れも無く、俺へと放たれた。
これが背景の青い月明かりに照らされた長く繊細な黒い髪を靡かせた、【青い烏】との出会いだった。