月は優しく
静かな夜だった。
「今夜は月が綺麗ね」
思わず呟いた私の足元でハウンドが甘える。
山間の使われなくなって久しい修道院でただ一人と一匹。
「私が修道女になるなんてね」
フッと笑ってハウンドの毛並みをそっと撫で、私はもう一度月を見上げる。
朽ちかけた修道院に女一人は怖いけど、ただ1つ許された所持品をハウンドにしたので、今のところは人にも獣にも襲われていない。大丈夫。
自給自足は元貴族の私にはキツいけど、祈りの日々は前の境遇より断然ラクだ。
かつて、王子様の婚約者だった日々は毎日が地獄だった。
元々、王子様は伯爵令嬢と恋仲だった。まだ10代も半ばである。二人はダンスしただけで、なんなら手の触れ合うだけでお互い赤くなるような微笑ましい仲だった。
15歳の伯爵令嬢は優しく美しい方で、13歳の私でさえ憧れた。王子様と伯爵令嬢は誰が見てもお似合いだったのだ。
王妃様はそれは忌々しい事だったのだろう。
王子様は王妃様のお子では無かったから。そして王妃様はお子に恵まれなかったから。
私は、公爵令嬢の肩書きだけは持っていた。しかも王妃様は叔母上だった。
我が姪と王子を結婚させる事。
急な病に身罷った王妃様の遺言だった。
誰も、王様でさえ覆せなかった。王妃様に負い目があったのかもしれない。父も関与していたのだろう。
私はそれ以来、王子様と伯爵令嬢の敵となった。
私は一人っ子だった。
だから将来嫁ぐ私の代わりとして、遠縁から養子をもらう事になった。
1つ年下の男の子だった。
美しく、臆病な子に見えた。
私は決意した。
この子を立派な公爵にしよう。王子様と仲良くさせよう。そして私は、恋敵となる伯爵令嬢を苛め抜こうと。
令嬢に来る縁談はないことないこと言いがかりを付けて徹底的に潰した。令嬢には公の場で必ず理不尽に貶めた。言葉だけでは足りないと、果ては足を引っ掻ける、紅茶をドレスに溢す、帽子や手袋に虫を入れる、あえて椅子を引く等、公衆の面前で徹底的かつ個人的に苛めて苛め抜いた。
「姉上お止め下さい」
臆病だった弟はいつか私を邪魔するようになり、とうとう私に意見するようにまでなった。
「何?お前は誰に意見してるの?」
扇子で口許を隠し私は冷笑してみせる。
「所詮は養子、本家の私とは格が違うの。意見する位なら未来の公爵として役目を果たせてからにしてちょうだい」
弟は唇を噛み締める。
悪役令嬢とは案外楽しいものだ。
でもこのままでは私の望みは達成されない。
私は一計を案じ勝負に出た。
私が伯爵令嬢に毒を盛ろうとして誤って王子がターゲットに、その間際で計画を知った弟に身を挺して王子を守らせる。
その際、黒幕として亡き王妃と父に関わる毒薬の密売ルートを弟に暴かせる。
そう王妃は本当は当て付けで毒を煽ったのだ。王様王子様を苦しめる為に。娘を妃にしたい父は子飼いに毒を調達させた。つまり私欲の為に実妹の自殺を幇助したのだ。
かなり骨は折れたが事は上手くいった。王妃様にまで遡る陰謀は暴かれ、父は幽閉。功のあった弟は廃嫡を免れ公爵に。私は婚約破棄され崩れかけの遠い修道院に飛ばされた。
そして伯爵令嬢は王子様と晴れて結ばれた。
何もかも上手くいった。
私の望んだ通りとなった。
弟だけが心配だったけどきっと大丈夫。本当は私の計画を事前に把握されてしまったけど、強行させてもらった。
***
「姉上どうかお止め下さい」
実行前夜は月夜だった。
「どうしてそうまで王子に尽くすのです」
何もかもバレていたようだった。
ここで嘘を付いたら、容赦ない弟に全て暴かれ水の泡になってしまう。
だから初めて本心を話した。
「…ずっと好きだったの」
弟が息を飲んだ。
「ずっと前から王子様を、伯爵令嬢を好きだったの」
月の光が背の高くなった弟を照らす。
最初に会った時は、可哀想な位おどおどしてたのに。
今は見上げないと顔が見えない。
大きくなったなぁ。
そう思うと何故か胸が苦しい。
「私はお二人を本当に好きだった…だから、お二人に掛けられた王妃様の呪いを解きたいの」
そう話す私を弟は見つめる。その視線はもう子供のそれじゃない。
いつの間にこんなに大人びてしまったのだろう。
「…お前を巻き込んでごめんなさい。信じてもらえないかもしれないけど、私はお前を大切に」
「馬鹿!姉上の馬鹿馬鹿!」
弟は美しい顔を歪めると、子供のように泣き出した。
大人びたと心の中で誉めてたのにお前という弟は。
おかしくなってフッと笑った。
泣いたまま弟は顔をあげる。
そんな弟の手を包む。
「姉らしい事を1つもできなくてごめんね」
弟がビクッとしたが構わない。
弟の手をゆっくり持ち上げる。そして私の頬に這わせゆっくりと擦る。
小さかった弟が泣いた時によく、あやしたやり方だった。
「お前は必ず、幸せになってね」
私は微笑んでみせた。
「…姉上は馬鹿だ」
弟はただただ泣いていた。
小さな修道院に足音がした気がしてハッとする。
今夜はあの時みたいな月夜だから、うっかり思い出に浸ってしまった。慌てて警戒し周囲を伺う。
この修道院は滅多に人は来ない。
まして夜なら。
ハウンドが吠えない。
私にしか懐かないよう弟が躾けたのに。
「姉上」
幻聴がする。
案外ここの生活を気に入っていたつもりだったのに、本当は無理をしていたんだろうか。
聞きたい、聞きたくない声が私を呼ぶ。
「壊れた扉も直さないなんて、あまりに無用心です」
いつもの説教するような声が再び聞こえる。
怖くて振り返りたくない。
「…どうして」
来てはいけないと言ったのに。
「公爵位を返上しました。元々私には過ぎたものです」
「私はお前を幸せにと」
「姉上、私の幸せは」
弟は私の前に回ると、真正面から私と目を合わす。
「貴女の側にあることです」
月影に照らされた弟は、あの時より一層大人になっていた。
「領民の処遇の保証に時間が掛かりました」
弟はゆっくりと私の手を包む。
「迎えが遅くなって…ごめんなさい」
「待ってない」
ハウンドが弟に擦り寄る。これではハウンドの意味がない。
「お前の幸せだけを祈ってたのに!毎日毎日!こ、こんな寂しい所で私は」
「ごめんなさい」
子供のように謝ると、弟は私の手を自分の頬へと擦り寄せた。
まるであの時の私のように。
とうとう泣き出してしまった私をあやすかのように。
「お前の馬鹿!お前は馬鹿!お前はお前は」
後から後から涙が溢れてくる。
弟はそんな私の涙を指で拭う。
そして優しく追いつめた。
「愛しています」
月の光はどうして優しいのだろう。優し過ぎて何処までが本当かわからない。
「もう、姉上と呼びたくないのです。受け入れて頂けますか?」
月の光のせいで状況がわからない。
「…受け入れたらどうなるの?」
心許なくなって聞いてしまった。
「還俗して下さい」
「還俗したらどうなるの?」
「できれば恋人に。そして結婚して欲しいのです。必ず幸せにします。後悔させません。絶対寂しくさせません。どうか受け入れて」
「…ふふ」
だんだん余裕がなくなる告白に、思わず笑ってしまった。
訝しげに覗きこまれる。
せっかくの美しい顔が月の影になる。
だからその頬をそっと両手で包み、柔らかい所にキスしてみた。
弟だった青年はビクッとした。
それから、同じように両手で私の頬をそっと包み込むとゆっくりともう一度キスを。私からもキスを。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
もう一度…
「…受け入れさせて」
やがてそのまま影が1つになる。
何時までも何処までも。
月が優しく包み込んでいた。