不死の人
目覚め。何度経験しただろう。眠りからの目覚めではない。死からの目覚め。だが、感覚としてはどちらも一緒。異なる点が一つ。死から目覚めたとき、ボクは何も覚えていないのだ。死ぬ瞬間の記憶、感覚をもっていない、というのは幸運なのかもしれないけれど、それ以前の記憶もまた、失われている。記憶がないということは、ボクには過去がないということ。名前も、出自も、経験も、ボクの中には何もない。家族も、友人も、愛する人も、ボクの中には誰もいない。と、まあ、ボクの特殊性、不死であるということについてはこんなものでいいだろう。とにかく、ボクは不死で、死んでも生き返るが、代わりに記憶を失う。要するに、そういうことだ。
うつ伏せ。目覚めたとき、ボクは、頬に、胸に、腹に、脚に、地面の冷たさを感じていた。体が動かない。凍ってしまったかのように。いや、これは本当に凍ってるんじゃないか? 体の中には震えを起こす力さえ残っていないようだった。風が吹いている。おかげで顔にも感覚がないことが分かった。地面についた耳の中の、大河の轟に耳をすます。ゆっくりと落ちてくる瞼を持ち上げるのに必死になる。しばらくして、遠くから何かが近づいてくる音に気が付いた。やがてそれは大きくなり、はっきりと馬車の音だと分かる大きさにまでになった。音が止まる。馬の嘶き。誰かの話す声。二人、近づいてくる。ボクの体は相変わらず。落ちる瞼との格闘を続ける。
どうせもう死んでますぜ、と一人が言った。誰かの手がボクに触れる。細い指。暖かい、優しい指。まだ脈があります、と女性の声。もう遅い。ボクは瞼との戦いに敗北してしまった。
目覚め。何度経験しただろう。喜ばしいことに、これは眠りからの目覚めだ。といっても、失う記憶もたいしてなかったのだけれど。暖かい毛布。やわらかいベッド。ここはどこだ? 首を動かして窓の方を見る。まだ体を動かすには力が足りないようだった。枝についた葉も残り少ない木が見えた。まあいいか。もう少しだけ、この幸福を享受させてもらうとしよう。
覚えている限りではこれが三度目の目覚めだ。どうやら今際の際の夢ではなかったらしい。ベッドの心地いい感触を感じる。
「お目覚めになりましたか。」
女性の声。柔らかな声。聞き覚えのある声。
「今、女中を呼んで、食事を持ってこさせます。その間に、お着替えを。」
彼女は部屋から出て行った。体はなんとか動く。ボクは起き上がって用意された服に着替え、姿見の前に立つ。ぼさぼさの黒髪。中肉中背。二十代の青年が立っている。不死かつ記憶喪失だから、実際の年齢は知る由もないが。彼女が座っていた椅子の上には本が一冊残されていた。本を手に取り、ベッドへ腰かける。どうやら錬金術に関する本のようだ。しかも専門書。開く。発見だったが、どうやら知識は失われないらしい。内容を理解することができる。ノック。もう着替えを済ませた旨を告げる。扉が開く。食事を運ぶ女中とともに、彼女が入ってくる。本を閉じ、脇に置く。
「その本、内容がお分かりに?」
「ああ。まあ。分かる。」
返事がぎこちなくなってしまった。素性を聞かれたら困る。記憶を失っているが、錬金術の専門的知識は持っている人間。怪しい。が、彼女は、まあ、と感嘆しただけだった。
「倒れていらしたあなたのそばを、たまたま私の馬車が通りまして。」
彼女に助けられたわけか。どうりで聞き覚えのある声なわけだ。枕もとのテーブルに置かれたスープとパンに手を伸ばしながら、彼女を見る。白い肌。青い目。腰のあたりまで伸ばした金の髪。背はボクよりも少し小さいくらい。おそらく年はボクとそうかわらないだろう。ボクの見てくれの年齢と、だが。女中が付いていることや着ている服、所作、言葉遣いから、彼女がなかなかの身分であることが分かる。
「ひどい状態でした。全身凍ったように冷たくて。お体の具合はいかがですか?」
なんとか動けるようには、と正直に答えておいた。パンを手に取る。ボクの脇に置かれた本に注いだ視線をボクに戻して彼女は、しばらく屋敷で療養なさっては、と提案してきた。
「二、三その本について聞きたいこともありますし。」
なるほど。そちらが本命か。
そんなことはなかった。彼女はボクの体調を十分に気遣ってくれた。歩き回る体力が戻るまでの数日間、彼女は暇つぶしにと本を持ってきてくれるだけだった。むしろ遠慮する彼女に、何か聞きたいことはないのかと尋ねるほどだった。体力が戻ってからは、ボクが彼女の書斎に赴くようになった。陽に当たり、屋敷を歩き回り、本を読み、彼女の書斎を訪ね、彼女に知識を授ける。そんな日々を過ごしているうちに、彼女がどういう身分で、ここがどういう場所なのかが分かった。どうやら、この屋敷の持ち主は、北の海沿い一帯を治める領主であるらしい。彼女はその領主の末娘。母親は彼女が幼い頃に亡くなっていた。母親と領主は彼女を産む頃には別々に暮らしていたようで、領主の元で育てられていた長女と次女との彼女の仲は、あまりよくないようだった。長女と次女には一度だけ会った。彼女に助けられた旨を説明したが、そう、といってすぐに去ってしまった。だが、長女らの去り際の嫌な笑みだけは、印象に残った。まだ見ぬ領主はあまり屋敷に帰らないらしい。周辺の有力貴族の元を訪れて外交活動に勤しんでいるらしいが、贅沢なもてなしを受けて回っている、といった方が正しいかもしれないようだ。彼女といえば、勉強熱心なだけではなく、領地を見て回るということもしているらしく、ボクの滞在中にも一度、日帰りで外へ出ていた。領民に慕われ、女中や使いの者にも好かれているようだった。学者としても彼女は実に優秀だった。彼女に教える内容は日々難しく高度なものとなり、彼女の書斎にとどまる時間は長くなっていった。時には、彼女の夕食に招かれ、食事をしながら話をし、時には、就寝時間となった後も彼女に頼まれ、彼女の自室で夜更けまで講義を行った。素性の事について、彼女はただ、話したくなったら話せばいいと言って、それ以上は何も言わなかった。彼女と話せば話すほど、彼女を見れば見るほど、なぜ誰もが彼女を慕うのか、その理由が分かる気がした。
彼女の出会いから少し経って、屋敷に客人が訪れた。まだ若い貴族。貴族の中でも名門の出らしい。国中を旅して回っており、人脈作りに加えて実務の勉強も兼ねた旅のようだ。自分の屋敷に戻ることの少ない、この領地の長からは何も得るものはなさそうだが。まあ、外交に関しては多少学ぶところはあるかもしれないな。青年とも少し言葉を交わしたが、凛々しく、意欲にあふれ、また、聡明さも持ち合わせた人物だった。さすが将来を考え、旅をしながら見分を広めているだけはある。彼の家の将来は安泰だろう。錬金術に関しても多少知識を持ち合わせているらしく、ボクが彼女に錬金術を教えていることは、青年の興味を引くに値したらしい。錬金術に関しての質問をされたが、何とか答えることができた。そうして、彼女の書斎での錬金術の講義には、青年が加わった。青年は彼女と、いや、彼女以上に優秀だった。ボクが一を教えれば十を知り、彼女の問いに彼が答えることもあった。青年は、ボクの中にある無尽蔵の知識に驚かされたようだ。しかし、一番驚いていたのはボク自身で、驚きを表に出さない努力を強いられた。また、さらなる発見もあった。どうやら錬金術だけでなく、他の分野に関してもボクはかなりの知識を有しているらしい。魔法の知識も豊富で、青年の興味はそちらにも向けられた。彼女の方は錬金術一筋で、この短期間うちに、ボクが教えることも残りわずかとなるほどまでになっていた。そのため、彼女に会う時間、回数は減った。逆に、彼女について領地を回ったり、彼が彼女に講義を行ったりと、青年の方は、彼女と過ごす時間が増えていった。
彼女に会う時間が減り、屋敷を歩き回る時間が増えた。部屋でただ本を読むということができなかった。あちらの部屋へ行き、本を開く。すぐに閉じる。また別の部屋へ移り、窓の外の景色を眺める。何となく胸の中がさざめき、じっとしていられない。屋敷は小高い丘の上にあり、近くの村までは少し距離があったが、歩いて見に行ってみたりもした。体はもう休養の必要がないほどに回復していた。しかし、何となく、屋敷を離れがたい。出ていくべきなのだろうかと悩んだ。そして、彼女のことを思うと、なぜか複雑な気分になる。屋敷の端、尖塔の一番上。そこから、午後の日課として庭を散歩する彼女を見つけた際には、どうしてか胸が躍った。彼女がボクを見る。彼女は手を振る。彼女は微笑む。そのためだけに、わざわざ塔に上る自分がいることを知った。自分が喜びを感じていることを知った。いつかは屋敷から去らなければ、彼女に別れを告げなければならないと気づいているのに。
塔の上から眺める世界。ただ時間だけが過ぎていく。空虚に。頬杖。こんなところに椅子などない。腰を曲げて肘をついている。窓枠は石造り。肘が痛むのはもう毎度のことになってしまった。そろそろだろうか。庭の生垣の影。歩く人。ただいつもと違うのは、それが一人ではないこと。呼吸が浅くなっている自分に気が付く。思考が静かになっていく。あそこの角を曲がれば、姿が見える。冷静になっていくのではない。むしろその逆。現れたのは、二人並び歩く、青年と彼女の姿。そう。やっぱり。体を起こす。顔を背ける。息が苦しい。どうしようもなくむかつく胸。何とか落ち着こうとゆっくりと呼吸する。なぜこんなにも動揺している? 別に普通のことじゃないか。ただ二人で歩いているただそれだけのこと。外に視線を戻す。ごちゃごちゃとした頭の中。思い浮かぶある一つの事。彼女はこちらを見るだろうか。ボクがここから落ちたら。フン。馬鹿馬鹿しい。実に愚かだ。そんなことに何の意味もない。それで? 何かが変わるとでも? 一体ボクは何を求めているというのだ。一体ボクは何に期待しているというのだ。大体、彼女はただの人間で、ボクは不死。窓枠に置かれた手。体重を支える腕。うなだれた頭。早鐘のように鳴る心臓。衝動に燃える魂。そう、ボクは、不死なのだ。
落ちた。
気を失っていたようだ。頭を持ち上げ、周りを見る。彼女の姿はない。女中や小間使いの叫び声が聞こえる。大丈夫。記憶はある。つまり、死んでないということ。全身に痛みを感じる。生きているからこそ感じる痛み。一体ボクは何をしているんだ? 自嘲。落ちた際に頭を打ったせいで、気を失ったのだろう。手をついて起き上がろうとする。感覚がない。あきらめて頭を再び地面につける。世界が暗い。どれくらいの間気を失っていたのだろう。今は昼間じゃなかったか? 誰かがそばにいるのが分かった。景色がどんどん暗くなる。誰かの手がボクの首筋に触れ、何かに驚いたのか、すぐに離れた。
「あんた……不死なのか……。」
視界は黒一色になった。
気が付いた。目を開く。暗くじめじめとした空間。目の前には鉄の棒が並ぶ。牢の中か、ここは。うつ伏せ。首は鉄格子の方を向いている。体が重かった。息を大きく吐く。かび臭いにおいがする。自分は不死であることがばれてしまったのだろう。おそらく。自分でも確かではないのだが、ボクは死に、そして生き返った。少なくとも、周りはそう捉え、ボクを牢に捕らえた、ということだろう。自分の思考に鼻を鳴らす。ボクはどうなるのか。不死性は、化け物、あるいは、神性の証。少なくとも吸血鬼には見えないだろう。神にでも担ぎ上げられるかもしれない。いきなり崇め奉られても、ボクはただ死なないだけだから何もできないのだけれど。果たして彼女はボクをどう思うのだろうか。悶々。しばらくして鉄格子を剣の柄でたたく音がした。首をひねって現れた人物を見上げる。兵士。いや、牢番か? 牢番は無言で牢の鍵を開ける。ボクは立ち上がろうと腕を動かしてみる。そこでようやく、手首がつながれていることに気が付いた。すっと暗雲がボクの胸を覆い始める。牢番はボクを立たせると、ボクを地下牢から地上へと引っ張り出し出した。
彼がボクを連れてきたのは、屋敷の裏、領主の私兵の訓練場だった。前に一度だけ見たことがあったが、兵士はほとんどいなかった。その時のガラリとして、やや寂しさを感じさせる風景とは違い、今の訓練場は兵士でいっぱいだった。ボクは訓練場の真ん中に座らされる。正座で。兵士がボクを取り囲む。完全武装だ。鎧を着、槍を持つ者もいれば、盾と剣を持つ者、弓を持つ者、魔術師のローブを着る者、様々な兵士がいる。以前見たときにはなかった、木で組まれた舞台のようなものが見えた。その上には、椅子が置かれている。領主、その長女、次女、そして、青年と彼女が座っている。領主と娘二人は、何かを期待したような笑みを浮かべている。領主は盃を片手に持っていた。領主が盃を持った手を掲げると、兵士が一歩、ボクを囲む輪を小さくする。彼女の姿が見えなくなった。舞台に向かって何か言おうと、ボクは体を伸ばす。見えない。兵士が一人、ボクの前に立った。槍を構える。まさか。兵士の槍がボクを貫く。思わず声を上げる。鋭い、耐え難い痛みが駆け巡る。歯を食いしばり、目の前の兵士をにらみつけた。呼吸しようとすると、痛みが走った。息をいつまでも止めているわけにもいかない。喘ぎとともに、痛みをこらえ、何とか空気を肺に入れようとする。背中からの衝撃で喘ぎは叫びに変わった。何とか首を曲げ、自分の腹を見る。ボクを貫通した穂先が、目の前の兵士の槍と交差していた。さらに背中からの槍が深く、差し込まれる。息が詰まり、喘ぎすら出ない。そして、左右からの衝撃とともに、ボクの体は四本の槍を受け止めた。もはや、天を仰ぐことしかできない。体が持ち上がる。膝が伸びるが、足を持ち上げる力もない。が、槍は止まり、足が地面につき、ボクは立った。立たされた。ただひたすら痛みに耐える。視界に闇が忍び寄る。誰かの笑い声が聞こえた。そして、闇が視界を支配しようとした瞬間。槍はボクから引き抜かれた。痛みが闇を追い払う。視界が晴れる。崩れ落ちる体。何とか舞台を見ようとする。首を、目を、上へ上へと。兵士達の隙間からなんとか、舞台の上が見えた。彼女に話しかける青年の姿が見える。彼女の姿は兵士で隠れて見えない。痛みの中で、胸が重くなるのを感じる。遠くで詠唱が聞こえた。視界の隅で、にやけ顔の領主が再び盃を掲げる。刹那、ボクの視界は炎に包まれた。
目覚め。何度経験しただろう。眠りからの目覚めではない。死からの目覚めだ。だが、感覚としてはどちらも一緒だ。異なる点が一つ。死から目覚めたとき、ボクは何も覚えていないのである。死ぬ瞬間の記憶、感覚をもっていない、というのは幸運であるのかもしれないけれど、それ以前の記憶もまた、失われているのだ。記憶がないということは、ボクには過去がないということ。名前も、出自も、経験も、ボクの中には何もない。家族も、友人も、愛する人も、ボクの中には誰もいない。と、まあ、ボクの特殊性、不死であるということについてはこんなものでいいだろう。とにかく、ボクは不死で、死んでも生き返るが、代わりに記憶を失う。要するに、そういうことだ。
そう。要するに、そういうことのはずだった。全て、全て覚えている。周りを見渡す。ここは地下だろうか。屋敷を歩き回った限り、こんな空間などなかった。うつ伏せの状態から起き上がり、膝立ちになる。周りには無数の骨が散らばっている。まだ腐りきっておらず、肉の残っている死体もある。人間のものばかりではない。何か別の生き物の骨もある。見上げる。うっすらと光が差し込んでいた。おそらく、あそこから投げ捨てられたのだ。あの見せしめも含め、領主の趣味なのだろう。槍で貫かれた痛みを、領主の不快で残忍な、あの笑みを思い出す。傍で笑っていた娘たちも。青年、そして彼女のことを思い出し、うなだれる。目を閉じ、ゆっくりと呼吸する。吸って、吐いて。吸って吐いて。頭のモヤは一切晴れない。胸の重さは全く軽くならない。なぜこんなことになったのか。目覚め。出会い。そして。さらに胸に重りが吊り下げられる。息が詰まりそうだ。死の瞬間の痛みと共に、最後に見た景色が脳裏をちらつく。青年は何を彼女に話していたのだろうか。ボクが槍で貫かれる瞬間、彼女はどんな顔をしていただろうか。ボクが殺されるときの悲鳴を、彼女は聞いていたのだろうか。ボクの焼ける臭いを、彼女は嗅いだのだろうか。息を吸う。腐臭と埃のにおい。口角が上がる。息を吐く。顔を上げる。裏切られたとは言わない。そこまでの関係ではなかったのだから。それくらいは分かる。ボクは、ただの行き倒れ。彼女はそれを保護したにすぎない。そしてなにより、ボクは人間ではないのだ。ボクは、不死なのだ。
ボクは目を瞑った。
窓から差し込む月の光が顔を照らす。寝室。自分のものではない。彼女のものだ。血の匂いが立ち籠める。その匂いの元は、ボクだ。彼女の怯える顔。体は凍り付いたように動かない。ボクは鼻で笑った。最初に出会った時とは正反対。しかし、体が動かないのはボクも同じだ。息を吸い、口を開く。やめる。喉元まで何かが来ているのに。頭の中は空っぽだった。静寂。虚無。空白。空虚。真っ白。どれだけ手を伸ばそうとそこには何もなかった。いや、本当は一杯なのかもしれない。けれど、思考が、言葉が、白い光の中に消えていく。ただ心臓の音だけが鳴り響く。ボクは、と何とか言葉を喉から絞り出す。ボクはただ、ただ君と話がしたかった、と続ける。
「ボクは、君と話していたかった。君と並んで歩きたかった。君の肩に触れたかった。君の手を握りたかった。君の髪を撫でたかった。ボクは……君を……。君を抱きしめたかった。」
心臓の音が大きくなる。音は頭の中で反響しボクを揺さぶる。叫ぶ。ダメだ。違う。ちがうちがうちがう。いきなり出た叫びに、彼女は驚いている。呟く。ちがう……そうじゃないんだ……。
「ダメだ。ダメなんだよ。お前は空虚で空っぽで何も持っていない……嘘吐きだ。現状に甘え、行動を起こす勇気もない、臆病者だ。こんな、こんなやつが……彼女と……。そうじゃない。ダメだ。ちがう。ちがう。やめろ。お前は、お前はそういう人間じゃない。彼女のような人間に……、人間と……。」
息が上がる。言葉に詰まった。喉元の何かを絞り出そうとして、ああ、と息を吐く。うなだれる。足元を見る。しばらく立っていたせいで、血だまりができていた。心臓の音は止まない。言葉も、思考も流れ出し続ける。
「あなたは……。」
彼女がか細い声で、しかし、その奥に強さを秘めた声で、話し始めようとした。あんたを殺してしまいたい。その声を遮るように、かき消すように、興奮したオレは口を開いた。
「あんたを殺したい。オレは、あんたを殺したいんだ。」
彼女は、口を閉じて目を伏せた。オレは溢れ出るそれを垂れ流し続けた。
「もっと……もっと早く気付くべきだったな。あんたの腹をナイフで切り裂いて、内臓をぶちまけてやりゃあよかったんだ。頭を斧でスパッと切り落としてやりゃあよかったんだ。あんたの首を絞めて、冷たい海へ投げ捨ててやりゃあよかったんだ。それともアレか? 槍で貫いてやったほうがお好みか? 槍でぶち抜いて、焼いて捨てる方がよぉ。オレにしたみたいにな。」
吐き捨てた。感情のままに。溢れ出すままに。流れ出るままに。ちがう。ちがう。ちがうちがうちがう。そうじゃない。そうじゃない。そうじゃない。叫ぶ。これは、ボクじゃない。彼女の瞳は、まっすぐに、ボクをとらえていた。
「そうじゃ……ないんだ……。」
一歩踏み出す。ちがう。そうじゃないんだ。ただ……ただボクは。ボクはボクはボクは。もう一歩、彼女に近づこうと踏み出す。瞬間。男が飛び出してくる。服装で理解する。あの青年貴族だ。不意を突かれたボクは、腹を刺される。ナイフ。焼けるような痛みを感じる。同時に、鉄の重りをぶら下げたように胸が重くなる。曇り始めた。暗く黒く重く。耳元で男が何か喚いている。その時、ボクを支配するのは、腹を刺された痛みでも、彼の叫び声でもなかった。
「なんだよ……。」
ボクの目には、ベッドの上で、寝間着姿で、上体を起こし、シーツを握りしめ、驚きに見開かれた、美しい、青い瞳で、こちらを見る彼女の姿だけが映っていた。
海の向こうに月が姿を隠していく。星は燃え、波が爆ぜる。崖の上。息を吸う。吐く。一歩踏み出す。そのとき、目の前に蝶が踊り出る。燃える蝶。炎で象られた蝶。ボクは思わず手を伸ばした。蝶はボクの手に留まる。美しい蝶だ。背後で足音がして、ボクは蝶を離す。蝶は火花となって宙に消える。ボクは振り返る。女性。炎のドレスを身にまとって。暗い茶色の長い髪が風になびいている。炎の鳥、炎の馬、炎の兎、炎の栗鼠、炎の牝鹿、とかとかとか。炎で象られた動物達を伴って、炎の道の上で、女性は歩を進める。そして、止まった。
女性はボクをまっすぐに見つめている。
「いつまでこんなことを続けるつもりなの?」
ボクは女性を見つめ返す。
「姉さん……。ボクは姉さんとは違うんだよ。姉さんみたいに、父さんの力を受け継いだわけじゃないんだ。炎の人。姉さんは炎を司る神として人々に信奉されてる。そして、炎の人が司るのはもう一つ。生と死。命の、魂の輪廻を司る。ボクは姉さんとは違う。ボクはただ……ただ死なないだけなんだ。」
「私はそういうことを話しているんじゃないの。いつまで嘘を吐き続けるつもり? もう百年続けないと気がすまない? 気づいているかも……いえ、あなたは、自分は気が付いていないと、自分は知らないと嘘を吐いているけれど、もう何十年も何百年も経っているの。私はその間ずっとあなたを見守ってきたつもり。いつまで、自分を傷つければ気がすむの? あなたが歩んでいるのは茨の道。あなたが人間と関わり続けるというのはそういうことなのよ?」
「そんなの、分かってるよ。」
「ええ、分かっているでしょうね。分かった上であなたは嘘を吐いている。他人に、そして、自分自身にも。全て覚えているんでしょう? 覚えていないはずがない。死んだら記憶が失われるなんて嘘。悲しみから、苦しみから、痛みから、寂しさから、逃げるためにあなたは自分に嘘を吐いているだけ。けれど、あなたは絶対に逃れられない。あなた自身から。あなた自身の感情から。」
やめてくれ、と思わず叫ぶ。それは肯定。そして、否定。叫んでしまったことを恥じるように、ボクは俯く。
「分かってる。分かってるんだ、そんなこと。でもボクは人として生きることをやめない。それが茨の道なのだとしても。そこに痛みが、悲しみが、孤独が存在しているのだとしても。自分に嘘を吐き続けるのだとしても。ボクは、人として生きたい。」
「でも、不死の人としては死ぬのね。」
静寂。ボクは俯いたまま振り返る。顔を上げた。群青の空と白波の立つ暗い海との境目を見つめる。足元の遥か下で、波が崖に打ち付けられる音がする。潮風が頬を撫でる。息を吸って、吐く。
「死なせてくれ。」
そうすれば、君を忘れられるはずだから。
領主の屋敷が燃えた事件は、瞬く間に領地のすみずみに、そして国中に知れ渡ることとなった。ただの火事であればここまで話が広まりはしなかっただろう。火事自体は大したものではなかった。屋敷の近くに住む領民たちがすぐに気付き、火を消したのだ。この話が広まったのは、領主、その娘たち、召使い、兵士に至るまで、屋敷にいた人間全員が殺されていたからだ。不運にも屋敷を訪れていた、名家の跡取りの青年も犠牲になったことが、事件の話を広める一因となった。なにより、領民たちの悲しみの種は領主の末娘であった。領主とその長女、次女の評判は、実際、よくはなかった。が、末娘は領民たちに、実に好かれていた。それだけに、末娘が腹を滅多突きにされ、内臓を抉り出され、犯し殺されていたという事実は、領民たちにとって衝撃であり、領地の外の人間にとっても、痛ましいものであった。夜に漁に出ていた漁師が、事件の夜、海沿いの崖の上に立つ人影を目撃しており、事件を引き起こした人物は身を投げて死んでしまった、とされた。やがて身を投げたとされる崖の周辺の海では、不漁が続くようになった。網にかかるのは死んだ魚ばかりであった。そのうち、その海には誰も近づかなくなった。また、屋敷周辺の村も、流行り病や飢饉に襲われ、次第に廃れていった。
惨劇は、人々の中でしばらくのあいだ様々な噂の種となったが、長い年月を経て一つの伝説、伝承となっていった。不死の人の、物語のうちの一つへと。
初めて一万字にもなる物語を書きました。
設定とか色々省いてます。
感想等よろしくお願いします。




