メタモルフォーゼ
姉崎時子は狭い台所の小さな椅子に座り、水の入ったグラスを窓に掲げた。
太陽の光をグラスの中へ取り込んで、ちょっとしたおまじないをする。
澱んだ自分の中身を少しでも浄化し照らしてくれるように、願いを込めて。
一口飲めば、太陽のエネルギーが時子の喉を落ち、食道を滑って胃に満ちたイメージを時子は想像する。
時子はままごとのようなおまじないを終えると、いつものように身支度を整えて部屋を出た。
時子と同じように仕事へ向かう人達が道を往来している。
その流れに時子も吸い込まれた。
あまり居場所のない職場で日々の仕事をこなす。
入社当初から時子は、口数の少なさと存在感の薄さであまり皆から受け入れられていなかった。
時子は社内では一歩間違えれば割れる薄氷の上を歩いている感覚で、一分一秒が過ぎるのを待っていた。
自分の時間をお金に換えることが仕事。
好きでも何でもない、むしろ嫌いな作業をただ黙々と行う。
生きる為にしなければならないことだと、義務にして自分にインプットしなければ毎日働けない。
時子は職場の誰のことも信用していない。
きっと向こうも自分のことを信用していないだろう。
時子は漠然と思っていた。
それでいい。
期待するのもされるのもきっとここの人達ではできない。
それでいい。
そんな思いがよけいに時子の居場所を無くすことになっていても、もうそう思わなければ居られないのだった。
時子に恋人はいない。
学生時代に随分と恋人に振り回された経験から、男性に対して不信感が先に立ってしまいとてもそんな気になれない。
家族も遠くの田舎に父親と兄夫婦が居るが、何年も帰っていない。
孤独が当たり前になって、寂しさより虚しさが思考することを止めていた。
そんな時子の日課は、仕事帰りに立ち寄る喫茶店で珈琲を一杯飲むことだった。
古ぼけた喫茶店で、小柄な中年女性が一人で切り盛りしている。
木製の重いドアを開けると「いらっしゃい」と、店主の女性がカウンターの中から迎えてくれる。
「珈琲を……お願いします」
「かしこまりました」
いつも小声になってしまう時子の注文に店主は気持ちよく返事をしてくれる。
席は決めていない。
人の少なさで窓際だったり奥だったりする。
柔らかい間接照明が照らす店内をざっと見渡し、時子は今日は一番奥の席へと向かった。
他の客は窓際に一人とカウンターに一人だけだ。
「おまたせしました」
席に着いてほどなくすると店主が珈琲を運んできた。
ほぼ毎日通っているのに、店主は時子に親し気にはしてこない。
無駄話もしない。
孤独に慣れきった時子はそんな距離感が心地よかった。
珈琲へミルクを垂らし、スプーンでかき混ぜる。
カップを顔に近づけると、珈琲の深い香りがより強くなる。
その香りを吸い込むだけで今日の強ばりが一気にほぐれた。
熱い液体を一口すすれば心底ほっとして、もう何もかもどうでもよくなる。
時子は一人ほどけた。
そして安心する。
珈琲一杯でこうしてくつろげる自分はまだ大丈夫だと思えた。
時子のたった十五分間の許しだ。
時子は暗い一人の部屋に帰ると、蛍光灯を点けた。
狭い、物の少ない部屋が暗さと冷たさを含んだまま現れた。
台所でうがい手洗いをして着ている服をその場で脱ぎ捨てる。
下着姿のまま部屋を横切り姿見に自分を映した。
まだ若い女の身体がそこにはあった。
自分はまだ何でもできるのではないか。
ふと、時子は思った。
何者にもなれない自分でもまだできることが無数にあることを、知らずに毎日を浪費していたのかもしれない。
時子は急に焦りだす。
瞬発力のある焦燥感が時子の鈍った勢いを蘇らせた。
脱ぎ捨てた服をまた着て、電気も消さずに部屋を飛び出す。
夜の街を時子は駆け抜けた。
ぎょっとして振り返る人達も気にせず、ただ真っ直ぐ走った。
あの暗くて冷たい部屋にこれ以上居続けたらいけないととっさに思ったのだ。
夜の空気を肺にいっぱい吸い込み走りながら、頭の中は自分にできること探し続けて、でも、思いつくことは貯金とか資格を取るとか、田舎に帰るとか、現実的なことしか思い浮かばなかった。
時子が求めることはそんなことじゃなく、もっと大胆な変革だ。
今日までの自分を夢でも見ていたんじゃないかと思うほどのメタモルフォーゼを時子は欲していた。
瞬く間に息が切れて走る事を止めた時子は街路樹にもたれかかる。
夜空を見上げると星も見えない。
朝のおまじないがまだ腹の中で太陽の光を残していたので時子は悲しいけれど平気だった。
インチキなおまじないも少しは役に立ったということだ。
通りすがりの若者が時子に冷やかすような言葉を投げて笑う。
「おねーさん、大丈夫?もう酔ってんの?介抱してやろーか?」
時子は無視して歩き出す。
行く当てもなく、ふらりと本屋へ入った。
乱れた髪を撫でつけながら、小説の文庫本コーナーを見るともなしに眺めてまわる。
時子は自分の人生はとても小説にはできないくらい退屈だろうな、と思った。
職場の居場所のなさも孤独な生活も取るに足らないありふれた事情で、登場人物は時子ただ一人の一人称だ。
そんな小説、誰も綴らない。
時子は泣きたくなった。
涙が本棚を歪ませる。
足が止まりその場に立ちすくむ。
不幸じゃないのに、幸せじゃない。
ただ毎日に流され時間を浪費して、わずかな給料と孤独な自由が時子の全てだった。
こんな時、寄りかかれる誰かがそばに居てくれたら少しは救われるというのだろうか。
時子は涙を飲み込んで本屋を出た。
時子は重い足取りで夜の街を歩く。
仕事を選んで面接を受けたのは自分で、一人暮らしも初めは切望していたことだ。
自分で選んだ事を悔やむことは矛盾しているのか?
でも、選んで時間はずいぶんと経っている。
状況も心境も当時のままなはずはない。
こうして飛び出して来たのがいい証拠だ。
変わりたい、変わりたい、変わりたい。
そう願う事に罪はないはずだ。
時子はやみくもに路地を進んで、いつの間にかいつもの喫茶店の前に居た。
もう遅いのに喫茶店の看板は明るい。
時子は重い木製のドアを開ける。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから中年の男性が微笑んでいた。
いつもの女性店主の姿はどこにも見当たらない。
「……珈琲を、お願いします」
時子は驚きを隠しつつ夕方にもした注文を繰り返した。
「かしこまりました」
男性は頷いて時子を中へ促す。
時子は窓際の席を選んで座った。
奥の席には学生服の少年がこちらに背を向けて本を読んでいた。
それ以外の客はいない。
「おまたせしました」
男性は時子に意味あり気な笑みを残し、珈琲を置いてカウンターへ戻る。
時子は不思議に思いながらも街の灯を窓越しに眺めながら珈琲を一口すすった。
「………」
いつもと違う香りと味わいに戸惑い、カップをまじまじと見つめた。
「すみません、夜は豆を変えてます」
男性がカウンターから時子の異変を察して声をかけてきた。
「そうだったんですか……」
メニューには珈琲としか書かれていないので思いもしなかった。
「ええ、日中は妻の特選ブレンドで夜は私の厳選ブレンド」
「特選と厳選……ですか」
「ええ、特選と厳選です」
「……ふふ」
時子は思わず笑ってしまいすぐに男性に詫びた。
「す、すみません、つい、ほほえましくて」
「いいんですよ、実は自分達でもおかしいねって時々笑っているんですよ」
男性は柔らかく頷き、歯を見せて笑う。
「いつも泣き出しそうな顔で店にやって来る若い女性とはあなたのことだったんですね」
「え?」
唐突な話題に時子は不安な気持ちになる。
「いえ、妻が心配してよく言っているもんで、すみません、失礼しました」
「はあ……」
よけいなことは言わなくてほっといてくれていると思っていたが、やっぱり昼間の女性店主は時子を気にかけていたのだ。
「だめだな、私はお喋りすぎて……本当にすみません、さっきの話は忘れてやってください。そしていつものように通ってやってください」
男性店主はばつが悪そうに苦笑して頭を下げてきた。
「いえ、こちらこそ、心配してもらっていたなんて……」
時子も戸惑いながらも座ったまま身体の向きをカウンターへ向けて頭を下げる。
「……ごゆっくりお過ごしください」
ほっとしたように男性店主は小さくため息をつき、カウンターの奥へと場所を移動した。
時子はそわそわとしたまま珈琲のカップへ再び口をつける。
男性店主の厳選ブレンドはミルクを入れても酸味があり頭が冴えてくるようだ。
女性店主の特選ブレンドは反対にまろやかでほぐれる感じだ。
夫婦なのに両極端な珈琲の味に時子は楽しくなる。
この珈琲は焦って惑った時子の心を冷静にしてくれる。
変わりたいけれど、焦ってもだめだ。
即効性のある変化は、退化も速い。
時子は珈琲を飲む時間のように全てを愛しんでみようと思いつく。
朝起きて顔を洗って見る鏡越しの自分から、不安を落ち着かせるおまじないを、居場所のない職場での目の前の仕事を、夜、寝る前の疲れた自分まで。
心をこめてみよう。
大事にしてみよう。
他人に無関心を決め込んでいたらいつしか自分にまで侵食していた。
カップが空になってもまだ温かいので時子は両手で包み込んでいる。
美味しかった。
こんな夜にここに来れていなければきっと悪い方へ時子の思考も行動も転がっていただろう。
時子は救われたのだ。
いつかは自分も誰かにそう思ってもらえるようになろう。
そうなることはとても幸せな変身に違いない。
時子は願い確信した。
「ごちそうさまでした、また来ます」
時子は財布を出しながら立ち上がった。
「お代は結構です。口止め料ということで」
男性店主は小声で呟いた。
「……でも」
「さっきカップを眺めながらしていた素敵な笑顔の理由を妻に教えてやってください。きっと喜びますから」
男性店主は時子の変化の兆しをカウンター越しに見ていたのだ。
時子も察して言葉に詰まる。
「あなたは一人じゃないです。ここに通ってくれているだけでも私達と細い細い糸でつながっている。素性や人柄を深く知れなくても気に入ったり気にしてしまう人もいる、妻にとってあなたがそうだったように……」
男性店主は照れたように笑いながら、誇らしげにはっきりと語った。
時子の胸は震えた。
誰かの心に触れたことに感動していた。
今まで避けていたことなのにどうしようもなく嬉しかった。
固く冷たくなった心が急に温められて、普通の何倍にも敏感に受け取ってしまう。
「私……きっと、いつか……」
か細い時子の声は続かなかった。
それ以上言えばきっと熱い涙が零れてしまう。
「ええ、きっと、いつか……」
男性店主は優しく答えて頷く。
時子は一礼して店を後にした。
姉崎時子はこれから一人の部屋に帰り明日も仕事に向かうだろう。
同じことを、変わりたいと願いながら続けるのだ。
同じじゃなく変わったことは時子の心の温度がわずかに上がったことだけだ。
たったそれだけのことだけど、そんなことしか変われないけれど、時子は素敵な笑顔を確かに浮かべた。
それはきっと優しい変化の兆しだろう。
今までとは違うものを選び手に入れてゆくのだ。
〈おわり〉