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許し

作者: 齋藤優介

 大人たちは都合のいいことしか言わない。あいつらが勉強しろっていうのも自分たちが得をするからだ。努力には何の価値もない。そんなことを最初に言い出したのは雄太(ユウタ)だった。流行のゲームのバグ技をどこからともなく見つけてきては、クラスのみんなに教えて愉悦に浸るのが好きだった彼は、またもや出所不明のつぎはぎだらけの言説を引っ張り込んできたのである。普段であれば、適当に聞き流すところだが、十一と十二の境界上にいる少年少女らにとって、それは影の悪者「大人」を言い負かすことができる正義の剣であったからだろうか、彼の言葉は周囲に次々と伝染していった。勉強は確かに将来に役にたつ。最低限の努力は必要である。こんな単純な事実に気づかずに根拠のない合理化の言葉に逃げてしまう病だ。多分、僕はこの病を治すのに時間をかけすぎた。周囲の人間が次々と病を治していることにすら気づかずに、僕はずいぶん長い間、彼の言葉を引きずり続けていたのだろう。病は長い時間をかけて僕から人間を吸い取り、僕が病を治したと思ったときには、気力という気力がすべて消え去っていて、残酷すぎる後遺症だけが思考を蝕んでいた。きっと、あの時の友達は病のことなどとっくに忘れていて、仕事に励んだり、学業に打ち込んだりしているのだろうか。だとすれば、僕には何が足りていなかったのだろうか。あの日、あの時、平等に過ごしていたというのは見せかけで、僕以外のみんなは隠れて薬を投与していたのか。それとも、もともと体内に備わっている免疫機構の違いだろうか。だとすれば、もう僕はどうしようもなく病に(うな)される運命だったのだ。後遺症は空虚にして無駄に回転する思考で僕の頭を支配して、今日をまた奪い去っていった。


 目が覚めた時には、時計は朝十時を回っていた。ゾンビのようにすでにスヌーズ機能さえも愛想をつかした目覚まし時計に手を伸ばすと、布団を体の横に追いやる。あぁ、今日はあと十四時間しか残っていない。この残り時間から食事やバイトの時間を差し引いてしまえばもう何かをする時間は残らない。いや、残っているのだが、容量の半分以上を無駄な思考に侵食された、足りない稼働可能な思考能力と枯渇した気力では何もなしえない。僕は、一週間以上洗わずに放置しているポロシャツを着て、適当に朝食を食パン一枚で済ませると、バイト先のカラオケ屋に向かった。時給も悪くなかったし、たいして客も多くなかったので基本的に受付をして、たまに注文があれば、飲み物を持っていくだけの簡単な仕事だったから慣れてしまえばどうということもなかった。客の間でトラブルが起きたときは面倒だと聞いたことがあったが、幸い、いまだにそういった事件は起きていない。むしろ、やってくる客の観察をするのは愉快でもある。老夫婦や、女子中高生の集団、一人でやってくる地味な若者。彼らは色を持っている。彼らの色は鮮明にしろ、茫漠にしろ、有彩色にしろ、無彩色にしろ、後遺症によって色を失った僕にとって色であることには変わりなく、瞳には眩いばかりの閃光として迫ってくる。そんな中にもたまに、僕と同じ色を持たない人がやってくるのだ。そのたびに運命さえ受容することない僕は、どうしようもないくらいに安堵を覚える。

「これは、驚いた。央司(ヒサシ)じゃないか」

不意に声をかけられ、顔を上げるとカウンター越しに見覚えのある男が立っていた。

「ええと、長瀬、雄太、さんでしたっけ」

「そうだ。中学のころ以来じゃいないか。まさか、ここでバイトしているとは思わなかったなあ」

 ちょうど僕のシフトの終了時刻と彼の歌い終わる時刻がほぼ一致していたから、僕たちは、食事をともにすることにした。長瀬(ナガセ)雄太。数年ぶりに見る彼の顔は、結構変わっていたような、変わっていないような、そんな感じがする。それでも、小学生の時の饒舌ぶりは大分落ち着いていて、あの病を最初に振りまいた張本人としての面影はなくなっていた。彼もまた色を持っている。彼もまた病を治してしまった一人なのだろうか。しかし、僕はわずかながら彼もまた病に侵されているのではないかと期待を抱いた。彼は病原である。病原が病を治すことは難しいはずだ。結局、彼は水性の絵の具で外面を塗りたくっただけで、本質的には僕と何ら変わらない色を持たない人間なのではないだろうか。しかし、僕のくだらない期待は見事に裏切られた。

「実は、あれから結構勉強を頑張ってな、なんとか医学部に合格することができた。一度、浪人することになってしまたがな」

「へえ、お前が医学部とは意外だな、中学の時は全然勉強が得意には見えなかったが」

「こう見えても、案外、努力したんだぜ」

努力。彼が無意味といった言葉だ。彼は自分自身の病に確かに打ち勝ち、僕の到底行けないような世界へ行こうとしている。僕が抱いた淡い期待は裏切られ、代わりに苛立ちが生まれた。こいつは僕に病を擦り付けたうえで、僕をおいていこうとしている。後遺症が再び僕の思考を支配する。

「お前も、偉いんだな」

「何言ってるんだ、央司こそ、就職活動しながらバイトを頑張っているじゃないか。俺はまだ、大学生だから、央司が大人っぽく見えるんだよ」

「そんなことないだろう。お前は社会の役に立とうと医者になろうとしている。それに比べて、僕は何の役にも立ちそうにない」

「おいおい、央司、仕事に優劣なんてないだろう。確かに給料の面では差が出るかもしれないが、世の中に社会の役に立たない職業なんてあるわけないじゃないか。そもそも・・・」

「違うっ!」

僕が机をたたくと、グラスに注がれた水が揺れた。僕がこうなってしまったのも全部お前のせいだと言ってやりそうになったが、なんとか気持ちを抑えた。

「・・・すまない」

「おいおい、どうしたんだよ突然」

「・・・なんというか、僕はお前に嫉妬しているんだよ。僕はお前と違って何にも努力できない人間だ。だから、何かに立ち向かっていけるお前がうらやましくて仕方がない」

「努力ねえ。確かに俺は勉強を頑張ったかもしれない。でも、別に何かに常に立ち向かえるほどできた人間じゃない。やる気が出ない日だっていくらでもあるさ。今日だってそうだ。勉強する気がしないからのこのことカラオケに来たんだよ」

「そうはいっても、明日になればしっかり勉強を続けるんだろう。なんとなくで毎日を生きている僕とはえらい違いだ」

雄太が一瞬真顔になったと思うと、水を少し飲んだ。

「そうだな、今週の日曜時間はあるか」

「日曜か、何か用か」

「ちょっと連れていきたいところがある」


彼らが歌いだす中、僕は一人、隅の席に座っている。受付の人には、座ってみているだけで大丈夫と言われたものの、一人だけ座っているのはなんだか変な罪悪感を覚えるものだ。背格好も声のトーンもバラバラな彼らだが、皆真面目な顔をして歌っている。知らない言語で語られる音楽は歌詞の意味なんてこれっぽっちもわかりやしないのだが、多分一つ一つの歌詞に大事な意味が込められているのだろう。歌が終わると、彼らは僕の横を通り過ぎて出口へと向かった。

「終わったぞ、央司、俺たちも出ようぜ」

「あぁ」

教会から出るとすぐに、雄太の方を向いた。

「お前、キリシタンだったんだな、知らなかった。いつからそうなったんだい」

「いつからって、小学生の時にはすでになってたよ。覚えてないのかい、俺が給食の前にお祈りしてただろ」

「そういえば」

そういえば、確かに雄太はいただきますの前に、手を組んで何か難しいことを言っていた気がする。雄太は昔からちょっと人と変わったことをするのが好きだったから、カッコつけているだけだと思っていたけど、違ったようだ。

「子供のころから、ずっとやってきたよ。うっかり忘れてしまったときもあったけどね」

「ははは」

僕は、いつから、いただきますを言わなくなったのだろう。彼は、今まで、ずっと言い続けていたというのに。

「どうだった。ミサを見学した感想は」

「どうだった、って言われてもなぁ」

今まで、宗教のことなんて学校の教科書までだった。あとは、大学生になった友達が、カルトはやばいとかなんとか言ってた気がする。所詮は、ただの知識だ。その知識だけで、僕はなんとなく宗教をいかがわしいものとしか考えていなかったのだ。口先だけでは、宗教を理解するなんて言いつつも、その背後には、僕は合理的な判断をするという傲慢がくっついてきた。これだけ病に侵食された精神でも、パンドラの箱に希望が残ったように、最後まで傲慢だけは居座り続けていたようだ。だからこそ、僕の目の前に知識ではない宗教そのものを見せつけられると、動けなくなった。彼らもまた、僕と違って何かを為そうとしているのだ。気づいた時には見えなくなっていた天上の世界から目を背けたいがために、必死で探し回った僕の地面からまた一つプレートが抜け落ちて、僕の傲慢は悲鳴を上げる。悲鳴を上げるだけで傲慢は消えやしない。

「なんで、僕をこんなところに連れてきたんだよ」

僕にキリスト教徒になれって言うのかいといいかけたところで、雄太は答えた。

「お前の、助けになりたいと思ったからだよ」

「助け?」

「神は、人間は互いに愛し合うことが望ましいとおっしゃった。だから、俺もお前の助けになりたい」

適当に言っているようで、真面目そうにも見える雄太の言葉はどこか可笑しい。

「はは、なにいってるんだよ。僕みたいに、無能なくせに嫉妬だけするばかりで、何の努力もできないクズを助けてどうすんだよ」

「お前だけじゃないさ、俺だって自分より賢かったり努力をしている人を見れば嫉妬もするさ」

「レベルが違うんだよ。そりゃ他の奴らも少しはやる気が出なくて怠慢になるときもあるだろうよ。それでも、僕なんかよりずっと真剣に考えて生きてきたんだろ。それに比べて僕は何だ。最初から最後まで逃げてばかりで」

この期に及んで、僕はまだ、後遺症を言い訳に逃げようとしている。そして、その原因を雄太に擦り付けようとしている。雄太は、真面目な顔をして笑っている。

「そんな、僕を神が許してくれるはずがないだろ」

「許すよ」

「何言ってんだよ。お前は神じゃないだろ」

「キリストは処刑されるときに神に祈った。私を処刑しようとしている者は、無知なだけに過ぎない、許してやってくれと。私の身体を売ったユダは、悪魔に唆されたに過ぎない、許してやってくれと」

「僕は、自分の行いが悪いことだってわかっている。悪魔に唆されたわけでもない。にもかかわらず、何もできないのはなぜだ!僕という人間そのものが悪だからだよ。ただの、傲慢に過ぎない!それとも、神は悪を助けるのかい」

僕は悪だ。もしかしたら、それすらも思い上がりなのかもしれない、後遺症に責任を押し付け、雄太に責任を押し付け、挙句の果てに僕の空虚さを「悪」などという至極単純な一語に収めて、蓋をしようとすることなど傲慢だ。結局、僕は正しくも間違うこともできないまま、何にも、掴めず、傲慢、そのものの中に溺れて、死ぬこともできずに、生きるしかないのだ。

「それを、神が、許すわけないだろう!」

「許す」

「許さない!」

「ならば」

僕の右肩を、雄太が掴む。

「俺が、お前を許す」

「・・・神が僕を許さなくてもか」

「ああ」

「でも、お前は神に反逆することになる」

「きっと、神は、お前を許す俺を許す」

「なんだよそれ」

雄太は、真面目な顔をして笑っている。宗教を信じることができない僕にとって、雄太の言葉は屁理屈でしかない。それなのに、僕は何も言い返せなかった。

「誰にも許されずに生きることのできる人間なんているわけないんだよ。それを全部抱えようなんてそっちの方が傲慢というべきだろう」

「でも、僕が許されるべき人間ではない」

「お前が何と言おうと、俺はお前を許す」

どうやら、雄太に何を言ってもダメみたいだ。僕は雄太に口げんかすら勝てそうにない。

「なんで、僕ごときを許そうとするんだい」

「神が、そうおっしゃったからだ」

「・・・参ったな」

いまだに笑い顔の雄太を見ると、なんだかつられて笑いそうだ。

「でも、僕はお前みたいにキリシタンになる気はないからな、守りたい傲慢っていうのもあるんだよ」

「ご勝手にどうぞ。でも、辛くなったらいつでも来いよ」

僕を巣食う傲慢という病は消えそうにないし、苦しみは続きそうだ。消えそうにないけど、この手で鷲掴みにやることぐらいできるだろうか。そうだな、右手で無駄にでかい傲慢を鷲掴みにしたら、残った左手は自分のために使うのも悪くないかもしれない。他のことは置き去りしてしまおうか。神はぷんすか怒るだろうけど、きっと誰かが許してくれる。教会の鐘が鳴る。


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