夢の中へ
さがしものはなんですか?
みつけにくいものですか?
薄い霧のような雲のかかる夜。満月が放つ明かりは、隠れては照らし、隠れては照らし……
そんなはっきりともしない空模様の夜空を、半開きになっているバスルームの窓から加藤小百合は見上げていた。通常よりも広く作られているユニットバスに、乳房から足のつま先まで浮かばせた二十代の白い肌は、電灯の明かりと差し込む月明かりが入り混じった奇妙な色の光に照らされてキラキラと光っている。湯の火照りで赤々となった唇からは、井上陽水の『夢の中へ』のメロディが零れていた。窓から僅かに吹き込む風には、梅雨時期ならではの湿った香りがした。
「まだ上がらないの?」
声が聞こえた。姉の声だった。
「ごめん、この湯船に入るの久し振りだったから、ついゆっくりしちゃった。いま上がるね」
小百合がこの湯船に入るのは、およそ三ヶ月ぶりだった。
小百合は湯船の中で立ち上がると、湯に浸かっていた長い髪を掻き上げて水滴を払う。そして、バスルームを出ようと中折れ式のドアの取っ手に手を掛ける。
と、その時だった。
ふと、足元に落ちているモノに気が付いた。
白く濁った小さなカケラ。所々に茶色いモノがこびり付いている。
「鶏肉みたい……」
小百合は無表情に呟く。
全て始末したはずであった。
なんでこんな所に残っているのだ?、という疑問は浮かんだが、姉に見せる訳にはいかない、という思いが先だった。しかし、隠す場所も無い。排水溝に流すといった不用意な事もしたくはなかった。
小百合はそれを拾い上げると、口の中に放り、ゴクリと飲み込んだ。
その始まりは、一月も終わろうとしていたある寒い夜の日だった。
半開きになっているバスルームの窓からは、冷たい風が微かに吹き込んでいた。熱めに入れた湯には、それが丁度良いと小百合には感じられた。
夜空に月は見えなかった。予報では雪だと言っていた。雪は少し嫌だった。故郷で見飽きていた。そんな田舎が嫌で就職活動を名目に小百合は出てきたと言うのに。
「ねえ、まだ上がらないの?」
不意に、擦りガラスのドアの前に立つ人影が、うんざりした声で小百合にそう言った。四つ上の姉の百合子だった。小百合の唇から零れていたメロディは、中途半端な所で止まった。
「ごめん、いま上がる」
小百合は、そう答えながらユニットバスの中で立ち上がり、湯に浸かっていた長い髪を掻き上げて軽く水滴を払う。
バスルームから上がり、バスタオルで丁寧に髪を拭いている小百合に、百合子は面白そうに小さく笑いながら言った。
「鼻歌を歌いながらお風呂に入るクセ、まだ治らないのね。しかも決まって『夢の中へ』なんて、私ですら生まれてない頃に流行った曲なのに…子供の頃と一緒」
「あの曲はいろんな人が歌ってるんだよ。いい曲はいつの時代でもいいの」
「もしかしてアナタ、あの井戸のお化けの話もまだ信じてるとか?」
「そ、そんなの……馬鹿にしないでよ!」
言いつつ、小百合の声はうわずった。
「やっぱり信じてるんだ」
百合子は、どこか嬉しそうに笑う。何が嬉しいのかよく分からず、小百合はムキになった。
「別に信じてないってば。ただ、子供の頃に植え付けられた恐怖って言うのは、大人になっても変わらないの!」
すると百合子は、小百合と同じくらい長い髪を顔の前に垂らした。闇よりも暗い、そんな顔をして、百合子は低い声で言うのだった。
「このマンションのお風呂って広いでしょ。湯船なんて人間一人くらい簡単に沈められるじゃない。お湯に体を浮かしているとね、背後から井戸のお化けの白い手が、すぅー、と伸びてきて……」
「もう、やめてよ!」
小百合が怒鳴った。目には少しだけ涙が滲んでいる。しかし、百合子は面白そうに、嬉しそうに笑う。
「今日、久しぶりに会って、随分と大人っぽくなっちゃったな、と思ってたけど、やっぱり中身は昔のまんまね」
「ほっといてよ。いつまでも子供扱いして」
「そうやって腕を組んで怒るクセも子供の時のまんま」
喋りながらすでに服を脱ぎ終わっていた百合子は、笑いながらバスルームの中へと入っていった。小百合の怒った顔は、楽しそうな姉の姿に苦笑へと変わった。
実家から上京してきた妹と、東京で一人暮らしをする姉、姉妹は今日三年振りの再会を果たしていた。
姉『百合子』は幼い頃から絵が上手く、絵のコンクールで何度も入賞をした記録を持っていた。高校を卒業すると、百合子は当然のように東京の美術大学へと進んだ。その在学中からも早くから絵の才能を認められ、大学を卒業後はイラストデザインの会社に就職、現在はブックデザイナーとして名前もあった。
妹『小百合』にとって、そんな姉は自慢であり、誰よりも尊敬していた。しかし、小百合に姉のような絵の才能は無く、尊敬する姉にならって美術大学に進もうとするが力及ばず、高校を卒業すると地元のデザイン系の専門学校へと進んだ。そうして無事に二年制のその専門学校は卒業出来たものの、在学中、遊びにかまけていた小百合は大した技術を身に付ける事も出来ず、そのまま就職浪人となってしまった。それでも地元のコンビニでアルバイトをしつつ就職活動を続けていたが、なかなか決まらず一年近くの月日が経とうとしていた。そんな時、小百合の携帯電話に百合子から連絡が入った。
「お母さんから聞いたんだけど、まだ就職決まらないんだって? まあ、そっちじゃなかなかデザインの仕事なんか見付からないだろうし、もし良かったら東京に出てこない? 住む所なら、とりあえずお姉ちゃんのマンションに一緒に住めばいいし、1LDKだから、窮屈な思いをする事はないと思うよ」
田舎臭い空気に飽き飽きしていた小百合にとって、姉の誘いは願ったり叶ったりであった。姉は青山のワンルームマンションで一人暮らしをしていたし、そんな絵に描いたような都会の生活への憧れもあった。しかし何よりも、久し振りに姉に会いたい、という気持ちが一番強かった。
百合子は大学在学中は年に二、三回実家に顔を出していたが、就職すると仕事が忙しく、実家に帰る暇など無くなっていた。両親は何度か百合子の顔を見に上京していたが、小百合の方は遊びと恋愛に忙しく、姉の顔を見に東京に出た事は一度も無かった。
お互いが最後に出会ったのは、百合子の就職と小百合の高校卒業を実家で同時に祝った時だった。就職祝いに両親にプレゼントされたチャコールグレーのスーツに身を包む姉の姿は、小百合の目に今も焼きついていた。羨ましくも尊敬した、そんな気持ちは今でも変わらなかった。そして、百合子も妹の最後の制服姿は、やはり今でも克明に思い出せた。とても可愛らしく思い、そんな可愛らしさが今でも残っている事に百合子は喜びを感じていた。
明くる朝。
その日、百合子は勤め先のデザイン事務所を開ける当番だった。その為、いつもより一時間ほど早く目を覚ましたのだった。
早朝六時。
パジャマ姿のままリビングに出ると、小百合はすでに起きていて、朝食の用意をしていた。百合子は思わず目を見張った。
「早起きね。お母さんの話じゃ、コンビニのバイトの無い日は、いつも昼過ぎまで寝てるって聞いてたのに」
すると小百合は、上目遣いに愛想笑いを浮かべ、言いにくそうに答えた。
「いやぁ、実は寝てないだけだったりして……」
「だから無理せずにソファなんかじゃなく、お姉ちゃんと一緒にベッドで寝れば良かったのに」
「いや、そうじゃなくって、テレビ見たり、スマホで遊んだりしていたら、いつの間にか夜が明けちゃったって言うか……」
と、百合子は一瞬驚いた顔を見せた後、ふぅ…、と大きなため息をついた。
「まったく、このグータラ娘は……」
「いいでしょ。その代わり朝食の用意してあげてるんだから」
「そうね。アナタが料理なんて、大雪にでもならなきゃいいけど」
開き直る小百合に百合子はそう言って小さく笑った。しかし、その笑顔は、返ってきた言葉によってかき消された。
「大雪ならもう降ってるよ」
「うそっ!」と声を上げ、百合子は窓に張り付いた。高級マンションらしい広いベランダには、すでに白い絨毯が敷かれていた。当然、この七階から見える青山の街並みも白く染まっていて、百合子は言葉も無く肩を落とした。その背中に小百合が声をかけた。
「昨日、天気予報で言ってたじゃん。でも会社は歩いても行ける距離なんでしょ?」
「そうじゃないのよ……」と、答えながら百合子は、直ぐにテレビを点けた。朝のニュースでは白く染まった東京駅の映像をバックに、若い女性アナウンサーが、除雪作業による各線の大幅なダイヤの乱れを告げていた。
「やっぱり……みんな出社が遅れちゃう……」
「ふーん、雪で電車がどうにかなっちゃうなんて、うちらの地元じゃ考えられないね」
「締め切り間近の仕事が山積みになってるのに……」
百合子はうつむいたままテーブルにつく。
「大変そうだね。まあ、とりあえず食べれば」
小百合は慰めるような笑顔を浮かべ、用意した朝食を出した、小百合が用意したのは、ご飯に長ネギの味噌汁にベーコンエッグという、ごく簡単な物だった。しかし、百合子は味噌汁に口を付けると、先程までの落ち込んでいた顔が嘘のように晴れ晴れとした笑顔に変わった。
「お味噌汁作るの上手になったね。昔は、ダシって何?、なんて聞いてたのに」
「前にお姉ちゃんが、昆布茶を少し入れるのがポイントだって言ってたの思い出したんだ。てか、もう高校生じゃないし」
「あはは、ごめん」
腕を組むいつものくせで、怒った素振りを見せる小百合に、百合子はからかうような笑顔を浮かべる。と、何かを思い立ったように「そうだ」と声を上げた。
「ねえ小百合、今からお姉ちゃんの会社で仕事手伝ってくれない?」
「えっ?、マジで言ってんの?」
百合子に東京へと誘われた時、小百合は姉の紹介で同じ会社に勤める気であった。百合子もそのつもりだったのだが、小百合は百合子から会社の概要を聞くと、そのレベルの高さに付いていける気がしなくなり断っていたのだった。
「わたし、何にも出来ないよ?」
「CGへの色付けくらいは学校で習ったでしょ?。色は私が指定するから」
「うーん、まあ……」
あまり乗り気になってくれない小百合に百合子は両手を合わせた。
「お願いよ。この分だとみんな一時間は遅れてくると思うの。その一時間が貴重なのよ。ねっ?」
その切羽詰まった表情に小百合は苦笑し、渋々と頷いた。その途端、百合子は勢いよく立ち上がり「ありがとう!」と、小百合に抱きついた。
「お姉ちゃん、お味噌汁こぼれるよ」
小百合は笑いながら言う。百合子はそんな言葉など聞こえていないように、ただ喜んだ。助かった、という気持ちもあったが、それ以上に、妹と仕事が出来る事に百合子は喜んでいた。
しかし、いざ小百合を連れて出社し、仕事を始めてみると、その喜びは一瞬にして落胆へと変わったのだった。
「ウソでしょ?、ソフトの使い方は分かってない、こんな簡単な色も作れないなんて……」
青山の表参道の商店街から、少し外れた場所にある小さなオフィスビルの中の一室。そこが百合子の勤めるデザイン事務所であった。デザイナーは何人か抱えていたが会社自体は二十名にも満たない小さな会社であった。
当然、オフィスも他の会社に比べると小じんまりとしていたが、姉妹二人きりだと多少広く見えた。
小百合はグレーのスーツに身を包み、寝不足を隠す為に濃い目に化粧した顔でパソコンとニラメッコしていた。その横に百合子は立ち、呆れた顔で頭を抱えている。
「小百合、アナタ学校で一体何やってたの?」
「えーとね、友達と遊んだり、合コンの予定組んだり、あっ、でもちゃんと勉強もやっていたよ。試験前だけだけど……あはは」
笑ってごまかす小百合に、百合子は大きな溜め息をつく。
「じゃあ、一から教えるから、ちゃんと聞くのよ」
「すみません……」と、小百合は小さくなった。
百合子の説明はとても簡単なものだったが、要点だけを簡潔にまとめた説明に「学校で習うよりも分かりやすい」と小百合は感心しながら姉の話を熱心に聞いた。そうして一通りの説明が終わった、そんな時だった。
「うん、確かにヘタな専門学校の授業より、よっぽど解りやすいな」
突然、背後から若い男の声が聞こえ、二人は驚いて振り返る。そこにはシワ一つ見当たらないキリッとした縦縞のスーツに身を包んだ、背の高い三十歳前後の男性が白い歯を見せて笑っていた。同時に、百合子は声を上げた。
「瀬山さん、いつからそこに?」
瀬山マコト、このデザイン事務所の課長を勤める人物であり、百合子の上司であった。
「出社したのは今なんだけどさ、ビックリしたよ。ドアを開けたら加藤さんが二人居るんだから」
およそ上司らしくもない雰囲気で、まるで友達にでも話し掛けるように言う瀬山。しかし、百合子は慌てた様子を見せる。
「すみません、課長の許可も無く部外者を社に入れてしまって。一時間程、仕事を手伝ってもらおうと思っていただけなんですけど……」
畏まる百合子であったが、瀬山は不思議そうな顔を作った。
「部外者?、その子、前に話していた加藤さんの妹さんでしょ?、だったら部外者じゃないよ。加藤さんはチーフデザイナーなんだから、加藤さんが使いたいと思う人間を使えば、それでいいよ」
更に畏まる百合子であったが、それに構う事なく、小百合もまるで友達にでも話しかけるように瀬山に口を開いた。
「へぇ、お姉ちゃんって、そんなに偉かったんだ」
「そうだね。書籍関係のカバーデザインはもちろん、他にもポスターや広告用のイラストなんかも手掛けてもらっているからね。イラストレーターとして名前も売れてきているから、僕が今一番怖いのは、彼女の口から独立って言葉が出ることだよ」
そう言って瀬山は笑い、小百合も誘われるように笑った。百合子は照れたように俯き加減に顔を赤らめている。しかし、直ぐに何か思い出したように、あっ、と声を上げると、百合子は小百合に「ほら立って」と言って、小百合を立ち上がらせた。
「あらためて紹介します。妹の小百合です。こちらは私の上司で瀬山課長」
小百合は浅くお辞儀をして言った。
「始めまして、加藤小百合です。姉がいつもお世話になっています」
「課長の瀬山マコトです。よろしく」
瀬山は直ぐに名刺入れから名刺を出し、小百合に渡した。
「でも課長、いつもより大分早い出勤じゃないですか?」
二人が形式的な挨拶を終えると、ふとしたように百合子は不思議な顔で瀬山に尋ねた。
瀬山はニッコリと微笑んで答える。
「締め切り間近の仕事が溜まってたでしょ?。だから、加藤さんの事を手伝おうと思ってね。交通機関が雪でマヒする前にタクシーで来たんだ」
すると、百合子は何か感動したような驚きの顔を見せた。その横で、小百合が瀬山に屈託のない笑顔で声を上げる。
「へー、エラいんだぁ」
「僕は課長だからね」
瀬山は、相変わらずの調子でおどけるように得意気な顔を作った。姉妹は声を合わせて笑った
窓の外では、未だ降り止まない雪が何もかも白く包み込もうとしていた。
白に染まった表参道。街灯やネオンの光は雪に反射して、その賑やかさを更に増していた。
午後七時前。
昼に一度止んだ雪は再び降り出し、東京の交通機関に再び乱れを生じさせていたが、道行く人々は口々に文句を言いながらも雪景色にどこか嬉しそうだった。そんな中にビニール傘を並べて歩く姉妹の姿はあった。
「お気に入りのブーツが長靴だよぉ」
慣れた足取りで積もった雪を踏みしめながら、小百合は笑ってそう言った。
百合子も、そんな小百合の姿に顔をほころばせる。それから、少し申し訳ない顔を作って言った。
「それにしても今日は本当にごめんね。一時間の約束が結局最後までつき合わせちゃって。でも、小百合のお陰で予想以上に早く仕事が終わったから助かった」
「私の方こそ、いい勉強させてもらいました。結構楽しかったよ」
小百合は微笑んでそう答えたが、その微笑みを直ぐに苦笑に変えた。
「……しょっちゅうお姉ちゃんに間違えられたのは、さすがにウザかったけどね」
「私のスーツ着てたからね」
百合子も苦笑で答える。
「だって小百合、就活するのにスーツも持ってこないんだから」
「だって、こっちで買えばいいと思ってたんだもん」
「また、そんな行き当たりばったり……」
「お姉ちゃんみたいに、考えてばっかりで思い切りが足らないよりはいいと思うよ。そんなだと、気付いた時には瀬山さん、誰かに取られちゃうんだから」
不意を突くようなその言葉に、百合子は驚いて足を止めた。
「なに勘違いしてるの。確かに課長の事は尊敬してるけど、そういう気持ちは無いし……」
小百合は呆れた顔を作って振り返った。
「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは子供の頃から周りにはお人形さんみたいって可愛がられてさ、料理も上手で絵の才能にも溢れて、私にとってはホントに理想的な女性像だけど、そこまで恋愛にうといのだけは、どうかした方がいいと思うよ。もう子供じゃないんだから、自分の気持ちくらいハッキリさせなよ。態度見てれば分かるんだよ」
小百合は溜め息をつき、それと共に百合子は俯いてしまった。と、小百合は一変して悪戯な笑みを浮かべ、俯いて黙ってしまった百合子に顔を近付けて言った。
「もし良かったら、わたしがお姉ちゃんと瀬山さん、取り持ってあげよっか?」
「取り持つ…?」
百合子は少し顔を上げ、呟くように聞きなおす。小百合は悪戯な笑みを更に深めた。
「そう。実はね、瀬山さんの携帯番とメアド、もうゲットしてるんだ。もちろん会社のじゃなくてプライベートの」
「アナタ、いつの間に…!」
「お姉ちゃんが遅すぎるんだよ……」
驚く百合子に、小百合はまた呆れた顔で溜め息をつく。そして、笑顔に戻り言った。
「とりあえずさ、今日見てる限りじゃ瀬山さんだって満更でもなさそうだったし、わたしに任せてよ。ねっ」
「ん、うん……」
小さく頷きはしたものの、妹に恋愛の世話になるのは姉としては少々複雑な気持ちの百合子であった。しかし、『瀬山課長と幸せになりたい……』、そんな気持ちは小百合の言葉によって溢れ出し、瀬山マコトの笑顔は脳裏に張り付いて離れなかった。
就職活動の為に上京してきたはずが、まさか姉の恋愛の世話をやく事になるとは夢にも思わなかった小百合であったが、今まで姉の口から恋愛の話など一度として聞いた事の無い小百合にとって、それはどんな事より嬉しい事でもあった。
――ゼッタイ、お姉ちゃんを幸せにしよう。
小百合は心に誓った。
明くる日から、小百合は自分の就職活動などそっち退けで、早速、地域情報誌を買い漁り百合子と瀬山マコトのデートのセッティングに取り掛かった。
とは言っても、百合子も瀬山もお互いが忙しい身、スケジュールを合わせるのは容易ではない。そこで小百合は、とりあえず二人の退社時間が合う日を見計らって、自分が情報誌を見て気に入ったお店へと二人を食事に連れ出す方法を取った。そして、自分はなるべく話さず二人に会話をしてもらおうと考えた。
しかし、そんな場を用意したにも関わらず、百合子は物怖じしてしまい俯き加減、瀬山も突然の誘いに、どこか遠慮している様子を見せた。たまに二人が口を開いたと思えば、仕事の話ばかりで会社と変わらない会話が続く。見兼ねた小百合は、いつもの合コンの調子であらゆる会話を二人に振った。芸能人の話題、旅行の話題、様々な遊びの話題、そうしてようやく二人が乗ってきてくれたのは、やはり仕事柄、ファッションの話題であった。百合子と瀬山も段々と会話が弾むようになり、小百合は胸を撫で下ろした。
そんな日々を重ねていく内、百合子と瀬山は、いつの間にか二人きりで食事をするようになっていた。初めは三人で出掛けていた休日のデートも二人きりで出掛けるようになり、百合子は本当に幸せそうな笑顔で小百合に言うのであった。
「マコトさんとこんな日々を送れるようになったのも小百合のおかげよ。ありがとう」
課長からマコトさんに変わった姉に、小百合は心から喜んだ。
冷たい風は、穏やかな暖かい風に変わり始めていた。
麗らかな日差しに上着が邪魔になり始めた、そんなある日の事であった。
満開の桜の下、ランドセルを背負った学校帰りの小学生達が、じゃれ合いながら笑い声と共に駆け抜けて行く。
小百合は、そんな子供達を横目にポテトチップスとコーラとアルバイト情報誌の入ったコンビニの袋を右手にブラブラさせ、寂しそうに小さく呟いた。
「子供の頃は良かったなぁ……」
姉の恋愛の世話も一段落終え、ようやく小百合は本格的に就職活動を始めていた。しかし、この一ヶ月で五社連続不採用。楽天家の小百合も、さすがに落ち込まずにはいられなかった。しかし、いつまでも生活費を姉に頼り続けるわけにもいかず、その場しのぎに再びコンビニのアルバイトを探す事にしたのだった。
「これじゃあ、実家に居た頃と変わらないよ……」
自分の不甲斐なさに、小百合は大きな溜め息をついた。
「ただいま」
と、小百合は姉のマンションに帰宅した。もちろん、今の時間、百合子は会社である。「ただいま」は、いつもの習慣であった。
だが、その時に限っては「お帰りなさい」の声が部屋の奥から聞こえてきた。
「お姉ちゃん? 居るの?」
小百合は驚きながら急いでサンダルを脱ぎ、居間へと駆け込んだ。姉は、カーテンを閉め切った暗いダイニングで一人椅子に座り、笑っているとも泣いているとも分からない表情を浮かべて、ジッとベージュ色の壁を見詰めていた。
「どうしたのお姉ちゃん? 会社は?」
姉は何も答えなかった。無反応に、相変わらずの表情と目付き……
「お姉ちゃん…?」
明らかに様子のおかしい姉の態度に、小百合は思わず怪訝な顔を作った。
「ねえってば。仕事、なんかあったの? それともマコトさんと何かあった? とりあえずカーテンくらい開けなよ」
言いながら、小百合はカーテンを開けた。明るい正午の日差しが部屋に差し込む。その瞬間、照らされた姉の姿に小百合は「ヒッ」と、息を飲む悲鳴を上げた。声を上げたのは、その次であった。
「お姉ちゃん!」
小百合は姉に駆け寄る。姉の服は赤黒く染まっていた。
「どうしたの! ケガ? ケガなの!」
姉はゆったりと振り返ると、血に染まった顔でニッコリと微笑んだ。
「お帰りなさい、小百合」
小百合は、思わず後退りしながら、
「何があったの……」
そう言った。問いかけたのではない。ただ、言っただけだ。姉の顔に浮かんだ、その無感情な微笑みの前に、それがやっと出せる言葉だった。
姉は、その無感情な微笑みを崩さぬまま静かに立ち上がると「来て」と静かに小百合に告げてバスルームに向かった。その背中に、小百合は恐る恐るついて行く。
「見て」
姉は、バスルームの中折れ式のドアを開け、また、小百合に静かにそう告げた。
通常よりも大きめに作られたユニットバス。張られた湯は赤黒い血に染まり、そこには、四肢を力なく伸ばした全裸の瀬山マコトが沈んでいた。青白いという言葉以上にその顔は青く、眼球は白目を剥いている。明らかなまでの死体だった。
しかし、小百合は無言だった。ただ、じっとその死体を見詰めて、
――捨てられた人形みた……
それが、小百合の素直な想いだった。悲鳴どころか声を上げる事すらなく、小百合自身も不思議なくらい驚く事が出来なかった。
「驚かないのね?」
死体に視線を落としたまま、姉が不思議そうに尋ねた。小百合も、姉と同じように死体に視線を落としたまま、不思議そうに答えるのだった。
「なんでだろうね? なんか、お姉ちゃんのその姿見て、想像できてたのかな…? それとも、これが物みたいに見えるせいなのかな…?」
まるで他人事のように言う小百合。
「珍しい事もあるのね。怖がりのくせに」
「そりゃ、これが動き出したら怖いけどさ……」
そこまで言うと、小百合は姉に振り返った。
「……で、なにがあったの?」
その途端、姉の表情は再び無感情な微笑みに変わった。
「マコトさんね、女子社員の子と笑顔で話していたの。道で他の女の人を見たの。マックの女の店員と話していたの。雑誌のモデルの女を見ていたの。母親とニコニコして話すの。自分だけの物にしたかったの。それで、セックスしている時に殺したの……」
それはまるで呪文のようで、その言葉の羅列には、憎しみも悲しみもこもってはいなかった。小百合は「ふーん…」と興味も無さそうに鼻を鳴らしただけだった。
「……で、コレ、どうするの?」
「一つになる」
「なにそれ?、まさか、お姉ちゃんお得意のローストチキンみたいにして食べちゃう気?」
「それでもいいんだけど、骨までは食べれないでしょ。全部食べれなければ意味は無いし……だから、別の儀式で一つになるつもり。どっちにしても、まずは腐敗臭を少しでも抑える為に内臓を抜かなきゃいけないんだ。手伝ってくれるよね?」
そこにきて小百合は、初めて感情を露わに声を上げた。
「マジで言ってんの? お姉ちゃん知ってるよね? わたしが中2の時にお父さんが大きな鯛を釣ってきて、お母さんが調理してるところ見てたら気持ち悪くなってトイレに吐きに行ったの。あの血まみれの内臓、何だかよくわからない緑色の物体は混じってるし……今思い出しても吐き気がするんだけど」
小百合は心底、嫌そうな顔を作る。と、そこで姉も初めて表情を変えた。感情のある微笑みを見せたのだった。
「わかったわよ。ワタ抜きはお姉ちゃんがやるからいいわ。だけど、その後は手伝ってよ」
「その後って…?」
「手足を切断するの」
「どうして…?」
「早めるためよ」
「早めるため?、よくわかんないけど……まあ、それくらいなら……」
小百合は渋々頷いた。
「……でもさ、内臓取り出してバラバラにして、後始末はどうするの? 海にでも捨てに行く気?」
「バカねぇ、それじゃあ私とマコトさんが一つになれないじゃない。まあ、捨てる部分もあるにはあるけど、とりあえず、お姉ちゃんの言う通りにすれば大丈夫」
そう言って姉は妹にウインクを送った。
「誰にも知られる事なく、必ず儀式は上手くいくわ」
姉の表情は、無感情の微笑みに戻っていた。
ユニットバスから瀬山の死体を引き上げ、そのまま仰向けにすると、早速のように作業に取り掛かった。
とは言っても、内蔵を抜くのは姉の仕事である。姉は小百合に、フードプロセッサーと生ゴミを捨てる為に取って置いた、いくつものスーパーやコンビニのレジ袋を全て持ってこさせた。それから、普段から使っている文化包丁を手に、バスルームの中へと入っていったのだった。
死体の腹を割き、そこから内臓を取り出す。
「魚をさばくのとは、やっぱりわけが違うわね……」
姉はバスルームの中で一人、そんな言葉をゴチたが、心臓、肺、肝臓、すい臓、横隔膜、胃、腸、それらを慣れない手つきながらも根気よく丁寧に取り除いていった。そうして、それらをいくつにも切り分けると、フードプロセッサーでそれらをミンチにしてからレジ袋の中に詰めてゆき、幾重にも重ねて包んだ。まるで、袋詰めのキムチのようだった。
「これを週二回のゴミの日に一袋づつ、燃えるゴミの中に混ぜて一緒に出すの」
姉はそう説明し、二十ほどの半透明のレジ袋を冷凍庫に入れた。
再びバスルームに戻った姉は、内臓を抜き取った腹の中にシャワーを突っ込むと、目一杯、水の蛇口をひねった。勢い良く吹き出す冷水は、瀬山のカラッポになった腹の中を一気に洗い流してゆく。
血は次から次へと止め処もなく流れ出たが、包丁では取りきれなかった細かい神経や内臓のカケラなどを手で擦るように取り除いては、それらもレジ袋の中に入れ、丁寧に洗っていった。
十五分ほど流し続けると、ようやく血溜まりが無くなり始めた。その時だった。
「痛っ」
姉はそんな声を上げると、シャワーも出しっ放しにし、バスルームから出てきた。
「どうしたの?」と、言うと同時に、小百合は姉の姿に思わず慌てふためいた。
「ちょっとちょっと、その手、スッゴイ血ぃ出てんだけど」
「うん……骨で切っちゃった。軍手ぐらいすればよかった……」
「ちょっと見せて」
小百合は近くにあったハンドタオルを手に取り、姉の右手を取って流れる血を拭いながら傷口を見る。傷口は、人差し指の先から一センチほどにパックリと割れ、ピンク色の肉が見えていた。
「結構、深いよコレ……病院行った方がいいかも……」
「今、外に出れるわけないでしょ」
呆れながら姉はそう言うと、テレビの上に置いてあった救急箱と、洋服ダンスの中からスカーフを持ってきて自分の指の治療を始めた。
傷口にたっぷりと消毒液を吹き掛け、十分に消毒液を染み込ませたガーゼを当てる。その上から包帯を巻き、手首にはスカーフを、強すぎず弱すぎず、という力加減で、器用に口を使いながら自分で巻いた。
「こんなんで大丈夫なの?」
「昔、家庭科の授業で習った程度だけど……これで駄目なら考えましょう」
しかし、幸いにも十五分程して血は止まり始めた。
「……でも、これじゃあ、しばらくは作業中断ね」
三度目の包帯を巻き直しながら、姉は自分の傷を憎らしげに見詰めてそう言った。すると、小百合は意を決したように言うのだった。
「いいよ、後はわたしがやる。お姉ちゃんはわたしにどうすればいいか教えて」
「大丈夫? 一人で……」
「ここからは力仕事でしょ? だったら任せてよ。コンビニのバイトだってわりと力使うんだから」
そう言って小百合はガッツポーズを作り、姉は綺麗な微笑を見せた。
「ベランダの物置の中からノコギリ持ってきてくれる。一緒に軍手もあると思うから、それも持ってきた方がいいよ」
「ノコギリって、前に盆栽育てようとしてお店の人に買わされて、結局、盆栽は枯らしちゃうわ、買った道具は使わず終いだわで、物置の肥やしになっちゃったって物の一つね」
悪戯な笑みで小百合がそう答えると、姉は「うるさい」と言って苦笑した。小百合は、クスクスと楽しそうに含み笑いをしながらベランダに向かった。
遠い記憶の彼方にあるかのように、盆栽道具の入った木箱は、ベランダに設置された小型の物置の一番奥の隅に押し込めれていた。そこにノコギリも全く真新しい状態であった。しかし、盆栽用の為、サイズはかなり小さく、十五センチ程の刃渡りしかなかった。
「こんなんで大丈夫なの?」
「一度も使ってないんだから切れ味はいいはずよ。とりあえずやってみましょう」
小百合はノコギリと一緒に物置から持ってきた軍手を嵌め、その上からキッチンにあったゴム手袋を嵌めた。少々窮屈だったが、ノコギリはしっかり持てた。
「じゃ、一丁やりますか」
小百合はそう意気込み、ノコギリを片手にバスルームに向かった。
姉の指示はこうだった。
まず、肩口から包丁を入れ、骨に達するまで深く切る。その切り口にノコギリを入れ骨を切り、切れたら残った肉をまた包丁で切断する、そして、全ての切断を終えたら切断面にシャワーを浴びせて出来る限り血を洗い流す、というものだった。思いのほか骨は細く、ノコギリの切れ味も手伝って、とりあえず右腕の切断は難なく終えることが出来た。
が、すでに血の匂いに染まっていたバスルームの臭気に加え、鉄サビのような想像以上の血生臭さ、腐ったトマトをブチまけたような色に染まったバスルームには、さすがに覚悟を決めていたと言っても胸焼けを覚えずにはいられない小百合だった。
小百合は気を紛らわせようと、切断面にはシャワーを浴びせつつも、必死に頭の中の思考をずらした。
――もっと別の事を考えよう……別の事を……
不意に、小百合は小さな笑いを零した。
「どうしたの?」
バスルームの入り口にしゃがみ、小百合の作業を見詰めていた姉は、そんな不意の笑いに不思議そうな顔を作った。小百合は、笑いながら答えた。
「お姉ちゃん、ガーデニングするのになんで盆栽だったのかなぁ、て思ったら、笑いが込み上げてきちゃってさ」
「だから言ったじゃない。花は散っちゃうからイヤだったって」
「だからって、どっちにしろ枯らしちゃったら意味ないじゃん」
話しながら左腕の骨を切断し終えた小百合は、また文化包丁に持ち替えると、すでに半分に千切れかかった腕に包丁を入れた。音もなく刃は残った腕の肉を切り裂き、切り落とされた左腕だけが、ゴト、という低い音をバスルームのプラスチックの床に響かせた。
溢れ出る血はなるべく見ないようにしながら、小百合は左足の切断を始める。
「まあ、そうだけど、枯らしたくて枯らした訳じゃないもん」
淡々と死体解体作業を進める妹に向かい、姉はまるで子供のように頬を膨らませてふてくされた。すると、小百合は微笑みながら言った。
「その頬を膨らませて怒るクセ、わたしの腕を組んで怒るのと一緒だね。子供の頃のまんま」
姉はハッとした顔を作ると、恥ずかしそうに浅く俯いた。死体の左足に包丁を入れながら、小百合は小さく笑った。
「でもさ、ガーデニングならわたしに一言相談してくれたら良かったのに」
「そうね。小百合は子供の頃から植物育てるの上手だったもんね」
「花が散るのがイヤだったら野菜育てれば良かったんだよ。花は散っちゃうけど、その後には実が生って、来年にはまた花が咲いて実が生って……、楽しいんだから」
「採れたての野菜も美味しいしね」
「そうそう」
小百合は満面の笑みを浮かべる。と、姉は小さく笑った。
「目的はそこでしょ?」
「うるさいなぁ」
今度は小百合が子供の頃のまま、腕を組んで怒る素振りを見せた。それから、何か思いついたように声を上げて言葉を続けた。
「そうだ、これが終わったら、あの無意味に広いベランダを意味のあるものにしようよ。わたしが野菜の花畑を作ってあげる」
「いいわね。楽しみにしてる」
「すっごい綺麗に作ってあげるから」
姉は綺麗な微笑を見せ、小百合は本当に楽しそうに何を植えてゆくかを姉に話した。
話している内に、小百合は死体の両足の切断も終えた。
立ち上がった小百合は、すでに人の姿ではなくなったモノを見下ろし、無表情に小さく呟く。
「お人形さん、壊れちゃった……」
ふと、瀬山の顔が消えたように見え、小百合は軽い目眩を覚えてフラついた。
「ちょっと、大丈夫?」
「……うん、大丈夫。少し、血の匂いにやられたみたい……」
「いいよ、ここからは私が変わる」
小百合は服を脱ぎ、シャワーで体の血を洗い流してバスルームを出る。そして姉が入れ替わってバスルームに入った。姉はゴム手だけ嵌め、全裸になっていた。
再びバスルームに入った姉は、シャワーから水を勢いよく出し、流れ出る血が細くなるまで一つ一つ切断面に当ててゆく。そして、ある程度、血が流れ出たところでユニットバスに湯を張り始めた。設定温度は最高の九十度にしてあった。姉はその中に瀬山の両腕と両足を入れ、最後に胴体を沈めると、溢れる程までに湯を張る。すると姉は、温度を下げてバスルームの掃除を始めた。床、壁、至る所に飛び散っている血のりに対し、必要以上に洗剤を吹きかけ、必要以上にスポンジで擦る。微かにも跡を残さぬよう、仄かにも匂いが残らぬよう……
しかし、真っ赤に染まったユニットバスから漂う血の匂いだけはどうにもならなかった。
「結構、血抜きしたのに……人間の血の量ってスゴいのね……」
誰に話すでもない姉の独り言に、小百合は声を掛けた。
「なに?、まだ血の匂いヒドいの?」
か細い妹の声。姉は、まだ掃除を続けながらバスルームの外に向かって答えた。
「しばらくの辛抱ね。小百合は横になって休んでなさい」
答えはなかった。眠ってしまったのだろうと姉は思った。
続けていた掃除は、すでに血のり落としではなく、ただの風呂掃除に変わっていた。
空に青色と橙色の隙間が出来始め、窓から見えるライトアップされた東京タワーが夕暮れの光を飲み込もうとする頃、小百合は目を覚ました。ソファに横たえていた体を気怠るそうに起こす。と、ふと気付く。何故か自分は姉のパジャマを着ていた。
「あれ?、なんでわたし……」
頭を抱えるが思い出せない。
ふと、ソファの下に目をやると、同じコンビニの袋が二つ。中身はポテトチップスとコーラとアルバイト情報誌。まったく同じ物が二つ並んでいた。
わからない……
どうしようもないくらい記憶が虚ろだった。
頭を抱えたまま小百合はソファから立ち上がり「お姉ちゃん」と、呼びかけながらバスルームに向かった。
「目眩はどう? もう大丈夫?」
姉の優しい声が聞こえる。
「うん」
答えながら小百合はバスルームを覗き込む。
綺麗に磨き上げられたバスルーム。
真っ赤に染まっているユニットバス。
ドアを開けたままの入り口で、ジャージに着替えていた姉は膝を抱え、じっとユニットバスを見詰めていた。
「綺麗になったね。天井の隅の黒ズミとかも消えてるし」
「ついでだから掃除しちゃった。アレだけはどうしようもないけど」
姉はユニットバスを指差す。
小百合は恐る恐るバスルームに足を踏み入れ、ユニットバスを覗き込んだ。
立ち込める湯気まで染まってしまうのではないのかと思ってしまうくらい真っ赤な湯面に、バラバラになった瀬山と手足が浮いていた。
「コレ、どうするの?」
小百合は顔をしかめて姉に振り返る。姉は、遠い目で無表情に答えた。
「骨付き肉を煮るのと同じ要領よ。お風呂の設定温度を九十度にして、自動追い炊きを仕掛けておけば温度が下がった時に自動で追い炊きされて温度は保てる。その内、皮や肉が剥がれ落ちていくから、それは網ですくって、さっきの内臓と同じようにフードプロセッサーにかけた後、燃えるゴミに混ぜて出す。それを骨になるまで続けるの。バラしてあるから分解は早いと思うけど、ただ、気をつけなきゃいけないのは、そのままの形が残っちゃった時ね。耳とか指とか眼球とか脳みそとか。見落とさないようにしないと」
「なんだか気の長い話だね……」
「長い時間をかければ、かけた時間の分だけ強く一つになれるの。最後まで付き合ってもらうわよ」
「わかってるよ……」
小百合は、湯面を見詰めて答えた。
死体が完全に白骨化するまでの間、当然、ユニットバスは使えず、死体の浮かんでいる横でシャワーを浴びる日々を覚悟しなければならなかった。そんな事は何となく予想していた小百合であったが、いざ姉に口に出して伝えられると、やはりげっそりした顔を作らずにはいられなかった。
それから姉は、会社は辞める事、辞表は明日、速達で郵送する事、当面の生活費は今まで貯めていた預金が十分過ぎる程あるから大丈夫だという事を伝えた。
「……でもさ、大丈夫なの? 瀬山さんが消えた後、直ぐにお姉ちゃんが辞めちゃって。警察とかに怪しまれない?」
「大丈夫よ。死体どころか痕跡すら無い殺人事件なんて聞いた事ないでしょ?。それに…」
「それに…?」
なぜか姉は言葉に詰まった。
「あれ? なに言おうとしたんだったけ……」
「ちょっとお姉ちゃん、大丈夫?」
「ごめん、私ちょっと疲れてるみたい。部屋で休んでるね……」
言いながら、姉は寝室へと入っていった。
確かに、姉の顔はやつれているように見えた。
――こんな状態で、疲れていない方がどうかしてるか……
しかし、どこかに違和感が……ある……
不意に小百合は、また目眩を覚え、グラリと体を揺らした。
「わたしも疲れているな……」
呟き、壁の時計を見上げた。時計の針は、六時を指していた。
――まだ全然間に合う。気分転換のついでに行ってこよう。
小百合は服を着替え、マンションを出た。
なぜだか、さっきまで見ていた姉のやつれた顔が、どうしても思い出せなかった。
明くる朝、小百合が台所に立ち、朝食の仕度をしていると、不意に姉が背中に声を掛けてきた。
「台所に立つ姿、サマになってきたわね」
「まあね」
小百合は、味噌汁に入れる豆腐を包丁で切りながら得意気な軽い声で答えた。
「私、昨日はあのまま寝ちゃったみたいね……ごめんね。ちゃんと夕飯は食べた?」
「大丈夫、小百合ちゃん特製インスタントラーメン食べたから」
「また、そんな物で済ませて……」
呆れた声で言った後、姉は気が付いたように声を上げた。
「あっ、早速ガーデニング始めたんだ」
やたらと広いベランダの真ん中に、長方形の茶色いプランターが二つ並んでいた。プランターには二本づつ支柱が立てられ、その支柱に沿って青々とした大きな葉を付けた紫色のツタが生えていた。
「昨日、あれから渋谷のハンズまで行って、その苗を買ってきたんだ。色々迷ったんだけど、やっぱりそれが一番かなぁ、と思ってさ」
「なあに、これ?」
「茄子だよ」
「茄子か。夏には紫色の花をつけるんだよね。アレ、小さくってカワイイよね」
「でしょ? 育てるの簡単だし、しかも採れたての茄子ってすごく美味しいんだよ」
小百合は、姉が小さく笑いながらバスルームへと向かう足音を背中で聞きながら、熱していたフライパンに卵を落として目玉焼きを作り始めた。
ごはん、ネギの味噌汁、目玉焼き、キュウリの浅漬け、という簡単な朝食を済ませた後、二人はお茶を飲みながらテレビのワイドショーに見入った。芸能ニュースには「マジで!」と、小百合は声を上げ、地域の話題には「へえぇ……」と、感心する声を小百合は出し、主婦の悩みを対象とした人生相談のコーナーでは「こんなの別れちゃえばいいのに」と、小百合はテレビに話しかける。
姉は終始無言であった。テレビより小百合の反応に、時たま薄く笑顔を浮かべるだけ。
そうしてワイドショーが終わり、合間に流れる繋ぎのニュース番組でサラリーマンの顔をした若いキャスターが、政治のニュースを無感情な口調で語り始める時間帯、小百合は、ふとしたように姉に口を開いた。
「お姉ちゃん、これからどうするの?」
姉は、無感情な顔でキャスターの顔を見詰めたまま答える。
「とりあえず、マコトさんと一つになれるまで私はここを動く事が出来ないから、しばらくは部屋で絵でも描いてようかと思ってる。描きたかった題材も溜まってるしね」
「そっかぁ……わたしは何してようかなぁ……」
すると、姉は初めて小百合に振り返り、呆れた顔を見せた。
「なに言ってるの? アナタは就活を続けなさい」
「えぇー、こんな時にぃ?」
「こんな時も何もないでしょ。それとこれとは話が別、就活は就活でしょ?」
「まあ、そうだけど……」
そう答えつつも、口を尖らせ納得できない顔を見せる小百合。
スクッ、と椅子から立ち上がる姉。
「それじゃあ、お姉ちゃんはしばらく部屋に籠るから、用事があったら呼んでね」
「なんの絵を描くつもりなの?」
「決めてはいないけど、とりあえず水彩。油彩と違って淡い色使いが出来るから好きなのよ。それに、マコトさんも好きだったし」
「それ、前にも言ってたね」
姉妹は笑顔を交わし、姉は寝室へと、妹はバスルームへと向かった。
それからしばらく、姉妹の生活はとても静かなものであった。
食事、トイレ、風呂、足らなくなった画材の買出し、死体処理、それ以外の事で姉が寝室から出てくる事はなく、物音一つたてる事なく、ただひたすら籠っていた。
小百合が、そんな姉の身の回りの世話をするようになったのは自然の流れであった。洗濯、掃除、料理、そして姉と交代での死体処理は一日の日課となった。ただ、就活だけはどうしてもやる気が起きなかった。姉に口うるさく言われた為、とりあえずのように就職情報誌は何冊か買ったが、ろくに開きもしなかった。ふと思い立ったように自分も姉にならって絵でも描こう思ったが、姉の画才を思い起こすとそれもやる気になれず、結局、空いた時間のほとんどはガーデニングへと費やされた。
その間、ユニットバスに浮いた死体は、着実に分解され続けていった。
皮膚は、何倍もの厚さでぶよぶよにふやけてゆき、ささくれ立つと、湯面に波が立っただけで容易く剥がれ落ちていった。
肉も水分を吸い、完全にふやけきっていた。プリンのような脆い弾力は、包丁など使わなくても手の力だけで簡単に骨から削ぎ落とす事が出来た。それはまるで、煮詰めすぎた鶏肉のようだった。
湯面に浮いた肉や皮膚の欠片は、水切りを使ってすくい上げた。
いくつものレジ袋に詰めたそれらは、フードプロセッサーで完全にミンチにしてからゴミに混ぜて捨てた。
骨にこびりついた肉は、タワシで擦って綺麗にしていった。
七月上旬。
梅雨入りを告げた天気予報通り、外はジメジメとした生暖かい雨が降りしきっていた。東京の空は、青空の色を忘れさせてしまう程の灰色の雲が覆い、雨はまるで霧のように全てを包み込み、あれほど見晴らしの良かったベランダからの東京タワーも、今はその象徴的な赤色の欠片すら見えない。
雨音は、ベランダの窓を通して微かに部屋に響いていた。
心地よいリズム。
やんわりとした残響。
梅雨だと言うことを忘れさせてくれるエアコンで保たれた室温。
午後二時。
うたた寝のまどろみに身を委ねるには、充分すぎる環境が整っていたが、バスルームで立ち尽くす姉妹には無縁であった。
「やっと、終わったわね……」
ユニットバスにぷかぷかと浮かぶ、白く濁った白骨。
「ほんと、やっと終わってくれた……」
壊れてしまった人形の骨組みのよう。
「目玉が落ちたり、その穴から脳みそが出始めた時は、さすがにキモかったけど……」
顔をしかめて言う妹のそんな言葉に、姉は薄い笑みを零した。
「確かにね。死体には慣れ始めてたけど、あれはつらかったわね」
姉の零れた笑みは、肋骨と一本の骨で繋がれて浮かぶ髑髏に向けられた。姉はひざまずくと、両手でそれを低くすくい上げて言う。
「でも見て、今はマコトさん、凄く綺麗になった。本当に、凄く綺麗……」
ぼう、と、ただ見惚れ続ける姉。
無表情に、それを見詰め続ける妹。
儀式と言う名の完全犯罪は、降りしきる生暖かい雨の日に終わりを告げた。
「これでやっと湯船に入れる!」
バスルームの全ての始末を終えた後、小百合は本当に嬉しそうに、そんな声を上げた。
「ごくろうさま」
姉は満面の笑みでそう言った。
白骨を取り除いた後の掃除を、小百合は自分から買って出たのであった。ユニットバスは洗い流すこと十回、バスルームは隅々までタワシで擦り、換気扇まで取り外して洗う念入り振り。たっぷり二時間かけての風呂掃除であった。
「さてっ、おフロおフロっと」
小百合は、それこそスキップでも始めそうな雰囲気で、四十度という五ヶ月ぶりのまともな温度のお湯をユニットバスに溜め始めた。
待ち遠しそうにユニットバスの縁に頬杖をして、いつもの『夢の中へ』を鼻歌に、溜まってゆく湯を見詰める小百合。
そんな時だった。姉が、この上も無いほどの不安な面持ちで口を開いた。
「あのね、これ、言おうかどうか迷ってたんだけど……」
「どうしたの?、突然……」
「あのね……一週間くらい前に、切れた絵の具を買いに出たら、マンションの前で知らない男の人に声掛けられたの……」
「どんな風に?」
「わからない。びっくりして、怖くて、何言ってるのかもわからない内に逃げ出しちゃったから……もしかしたら警察かも…?」
「それだったら、ここに来るでしょ?。考えすぎだよ。それにさ、絶対にバレないって言ったのは、お姉ちゃんだよ」
すると、姉は一変して必死な形相で声を荒げた。
「ちがうの! そうじゃないのよ! 声を掛けてきた男の人、マコトさんにそっくりだったの!」
意表を突かれたように、驚いた顔を見せる小百合。だが、次には笑い飛ばした。
「また、随分とつまんない怪談話だね。井戸のお化けの方が全然怖いよ」
「でも……」
不安が消えない表情で俯く姉。同時に小百合は立ち上がると、姉に向き直って厳しい表情を作り、強い口調で言った。
「いい、お姉ちゃん。きっとその男の人は、道でも尋ねようとしただけ。警察でもなければ、ましてやマコトさんのわけがない。マコトさんは、今お姉ちゃんの手に握られているその左手の骨、それがマコトさん。それ以外の事実はないの」
姉は、俯いたまま少し考え込む様子を見せたが、直ぐに顔を上げると、両手に持った左手の骨を両の乳房の中に抱き締め、微かな笑みで言うのだった。
「そうだよね、私は、マコトさんと一つになったんだもんね」
白骨となった瀬山マコトの骨から、姉が唯一つ欲しがったのは左手の骨であった。
「マコトさん、いつも言ってたの。車が来たり、人とぶつかったら危ないからって、私をいつも自分の左に歩かせてた。だから、手を繋いで歩く時はいつも左手。どんな時でも、手を繋いでいる時が一つになれてるって気がした。セックスをしている時以上に、手を繋いでいる時が一番だった……」
愛する人の遺体を自らの手で解体して、一番愛していた部位を肌身離さず身に付ける、それが姉の思い描いた『一つになる』という事であった。もっとも、儀式と名付けられた死体の解体作業、終わった後には姉がどうにかなってしまうのではないのかと、一抹の不安を抱いていた小百合に取って、待ち受けていたものが、そんな単純な事だったと言うのは拍子抜けであったが、しかし……
『マコトさんにそっくりだった』
姉がそんな事を言い出す心理状態になるのは予想外であった。
――お姉ちゃん、何気に思い詰めてるな……
小百合は姉の両肩を掴み、更に強い口調で告げるのだった。
「お姉ちゃんは、望み通りマコトさんと一つになれたの。何も心配する事なんてないんだよ」
姉は小百合を見詰め、薄く微笑んでコクリと頷いた。その胸に、左手の白骨を大事そうに抱き締めながら……
五ヶ月ぶりの湯船。
不用意にも落ちていたカケラ。
飲み込む事で始末をした。
――これで大丈夫。でも、お腹痛くなったりしないよね…?
姉を更に不安にさせるモノを取り除いた代わりに、自分がそんな軽い不安を抱えることになってしまった小百合。
「まだなの?」
ドア越しに、姉の急かす声が聞こえる。小百合は取っ手に手を掛けた。
ふと、背後に人の気配を感じた。
小百合は、恐る恐る振り返る。
湯船に、闇よりも暗い顔をした女が立っていた。
「井戸のお化け……」
悲鳴を上げそうになった、その時だった。
「ねえー、まだ上がらないの?」
ドア越しから聞こえた姉の声と同時に、小百合は浸かっていた湯から跳ね起きた。
「夢…?」
うたた寝だったのか、小百合は軽い頭痛を覚えて頭を押さえながらバスルームを出た。
未だ降り続く雨。
あれから二週間が経った。
今年は長梅雨になると、テレビの女性アナウンサーは、台本通りの言葉を何の感情も無く告げていた。
心配そうにベランダの窓に目をやる小百合。
「茄子、大丈夫かな…?」
雨だれに濡れた窓ガラスに、モザイクが掛けられた紫色が映る。
事が終わった後、姉はいよいよ寝室から出てこなくなっていた。食事すら摂らない時まであり、トイレなどで出てきた時に見る姉の顔は、まるで『井戸のお化け』に近付いているようであった。
「お姉ちゃん、ゴハンくらい食べなよ」
寝室のドアの前から、小百合は心配そうにそう声を掛けるが、
「ごめん、あと少し……あと少しなの……」
何度呼びかけても、答えはいつも同じであった。
一人で昼食を終えた小百合はソファに寝そべり、瞳に紫色を映していた。
誰も観る者のいないテレビは、まるで誰かの独り言のように聞こえた。
そこに、小百合の独り言が重なった。
「こんな時、どうすればいいんだろう……」
テレビは『三千九百八十円』『三千九百八十円』と連呼している。
「花も野菜も、子供の頃から感覚だけで育ててきたからなぁ……」
『この値段は今日だけですよ!』テレビは更に声を上げる。と、同時に小百合も「そうだ」と、声を上げた。
「わたし、花屋さんに就職しよう」
言いながら小百合はソファから体を起こした。
「花屋さん、フラワーコーディネイター、何でもいい、とにかく就職は花で決まり」
意気揚々として小百合は言う。
思いつきではあったが、小百合にとってそれは、今までに無い素晴らしい思いつきでもあった。自分の目標が定まった事で、あのやつれた姉を少しでも元気付けられるかもしれない、そう考えた。
「お姉ちゃん、わたしね……」
声を弾ませて小百合はソファから飛び出した。しかし、その声が最後まで辿り着く事はなかった。
薄暗い寝室の扉の前に立つ黒い人影。
長い髪を振り乱し、闇よりも暗い顔をした姉が、そこには立っていた。
首からは、白く濁った棒状の物が数珠繋ぎにされて、ネックレスのようにぶら下がっている。
「お姉ちゃん……」
声に、恐怖が滲む。
お姉ちゃんと呼ばれた人影は、唇の端を少しだけ吊り上げ、黒く染まったような声を発した。
「いいわね、お花屋さん。小百合には天職だと思うわよ……」
「そ、そうでしょ……やっと目標が見付かったの……」
恐怖を滲ませながら、小百合は必死に笑顔を作ろうとするが、表情はただ引きつるだけだった。
「小百合に目標が見付かってくれて、お姉ちゃんも嬉しい……」
人影が、一歩前に踏み出す。
ほぼ反射的に、小百合は後退る。
「お姉ちゃんもね、やっと絵が完成したの」
「本当……良かったじゃん……見たいな……」
「いいよ……でもね、一つだけ、困ったことが起こっちゃったの……」
小百合には「なに?」と聞き返すことが出来なかった。人影の右手に握られていたのは、解体に使われた文化包丁。
「この、首に掛けたマコトさんの左手が言うの。百合子と一つになれたのは嬉しいけど、一人は寂しいって……」
小百合の踵がベランダの窓に当たった。
カツ……、と小さな鈍い音がして、もう後ろは無い事が告げられた。
「綺麗に咲いたよね、茄子の花。今度は、あの人に手向けてあげて……」
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……」
その言葉が精一杯だった。小百合は、ただひたすら首を振る。
文化包丁が、小百合の喉元に突き付けられる。人影の頬を、透明な雫がつたう。
「ごめんね小百合……」
その台詞は、やけに頭の中で木霊して、繰り返され、グルグルと回った。
何かが弾けそうだった。
と、同時だった。
何の前触れも無く、その激しい音は部屋中に響き渡った。
蹴破られるように開かれたリビングのドア。
「小百合ちゃん!」
そんな怒声がリビングに入り込む。
小百合の体は、何者かに押さえつけられた。
訳が分からないまま、小百合は何者かに飛びつかれ、そして、閉じた目を見開く。
その瞳に映った人物は――
「マ、コ、ト、さん…?」
呟き、叫んだ。
「いやっ! いやーっ! 離してっ!」
「落ち着け! 落ち着いてくれ!」
「死んだのに! 貴方は殺されたのに!」
「なに言ってるんだ! 僕は生きている!」
明らかなまでの錯乱状態の小百合の体を押さえつけ、瀬山マコトは必死に叫ぶ。
「落ち着くんだ小百合ちゃん!、何があったんだ!」
――ごめんね小百合ごめんね小百合ごめんね小百合ごめんね小百合ごめんね小百合ごめんね小百合ごめ…ごめ…ん…さゆ…さ…さ…ご…ん……
「嫌ぁぁぁぁぁーっ!」
何かが弾けた。
真っ赤で、真っ黒で、真っ白なモノが、小百合に覆い被さった。
途端、小百合の体は弓のように、不自然なまでに仰け反った。そうして、電池が切れてしまったかのように停止した。
「小百合ちゃん? 小百合ちゃん!」
声が、遠くに聞こえた。
――マコトさん? マコトさん……ああ、なつかしいなぁ……
あらゆる記憶が、散らばってしまったスライド写真のように頭の中で散乱する。
交錯する。
コンビニから帰ると、居るはずのない姉が居た。
見た事の無い姉が座っていた。
同じ物が入った二つのコンビニの袋。
血に染まったバスルーム。
袋詰めのキムチのような内臓。
指の傷。
疲れていて当然なのに、そんな姉に感じる違和感。
あの時見た、井戸のお化け。
―泣いていた…?
小百合の体は、更にビクンと大きく弓なりに仰け反った。
「そ…うか…そ…うか……」
うわごとのように繰り返す小百合。そんな小百合を瀬山は必死に抱き締めた。
「すまなかった! 僕がもっと早く来ていれば! すまなかった!」
百合子から渡されていた合鍵を使ってここに入った瀬山は、一瞬にして、その異様な雰囲気に気がついていた。
玄関を開け、廊下の先に見えるリビングダイニングへの白い扉。先から聞こえる非現実的な声。
小百合の怯える声と、百合子に似た声。
咄嗟に靴を脱ぎ捨てて、リビングダイニングへと駆け込んだ瀬山が見たものは、自分の喉元に自ら包丁を突き立てている小百合の姿であった。
瀬山は無我夢中で小百合に飛びつき、手足を押さえつけたが、その異様としか言いようのない格好に、瀬山は体がふらつきそうなほどの目眩を覚えたのだった。
――本当に小百合ちゃんなのか?
それすら疑った。
姉、百合子のパジャマを着て髪を振り乱し、右手には包丁、体のあちこちは絵の具で汚れ、首に掛かっているのは、骨を数珠繋ぎにしたネックレス。
「すまなかった……すまなかった……」
何かに取り憑かれたように白眼を向いて不自然に反り返る小百合を必死に抱き締め、瀬山は訳も分からず、ただひたすら謝り続けた。
突然、仰け反って痙攣を続ける小百合の体は、糸が切れたように床に投げ出され、力を失った。
まるで、打ち捨てられた人形のように。
「小百合ちゃん! 小百合ちゃん!」
瀬山の声に何の反応も示さない小百合。天井に向けられた眼は虚空を見詰め、意識があるのか、無いのか、それすらわからなかった。
「救急車……」
自分に言い聞かせるように言って、瀬山は携帯電話を取り出そうとズボンのポケットに手を突っ込む。
その時だった。
ぼう、と、瀬山の横に人影が立った。
瀬山は、携帯電話を取り出すのに夢中で一瞬気付かずにいた。
ハッとなり、見上げる。
人影は、ニコッ、と綺麗な微笑みを見せた。
「もう大丈夫だよ、マコトさん」
「小百合ちゃん……」
「全部思い出したから、もう大丈夫……」
小百合の手に、包丁は既に握られてはいなかった。骨組みだけの人形のような両腕は、肩から力無くだらんとぶらざがり、脚などは、立っているだけで折れてしまいそうに思えた。
瀬山は目を見張った。
――抱いた時に、軽すぎるとは思っていたけど……
首は筋張り、頬はこけ、目の下には真っ黒な隈が張っている、その小百合が静かに言う。
「井戸のお化けとね、一緒に居たの……」
瀬山は更に目を見張った。
「井戸の……」
その話は以前、百合子から聞かされた事があった。姉妹の実家には子供の頃、古びた枯れ井戸があり、姉妹は祖母から、
『あの井戸にはお化けが住んでいて、近づくと井戸の中に引き込まれるから近づいてはいけないよ』
そう教えられてきたと言う。もちろん、それは子供を危険な場所に近づけない為の方便だったが、小百合は今でもその話を信じていると言って百合子は笑いながら瀬山に話したのだった。
そんな小百合が口にする『井戸のお化け』
瀬山の心には、恐怖の二文字しか浮かんではこなかった。
――本気で言ってるのか……
「ちょ、ちょっと待ってくれ。どういう事なのか、ちゃんと説明してくれないか」
「どういう事もなにもないよ。わたしは、井戸のお化けと一つになれたのよ」
よく見れば、小百合の浮かべる微笑みは、ただ浮かべてるだけのとても無感情な微笑みだった。
瀬山は立ち上がり、小百合の両肩を掴むと強く言った。
「一から、ちゃんと説明してくれないか。君を助けたいんだ」
一瞬、小百合の感情の無い笑みが崩れたように見えたが、そのままだった。そのままの表情で、小百合は瀬山を手招きした。
「来て」
招かれた場所はバスルーム。
「見て」
小百合はバスルームのドアを開けた。壁、床、天井、蛇口、シャワー、ユニットバス、全てが綺麗に磨かれていた。
「ここにね、マコトさん、アナタは死んでいたの」
しかし、瀬山は険しい面持ちで黙って聞いていた。
「コンビニでね、求人誌とコーラとポテチを買って帰ってきたら、お姉ちゃんが居て、浴槽に沈んだマコトさんの死体を見せられたの。それで、お姉ちゃんとマコトさんは一つになったの」
小百合は、筋張った首からぶら下げた骨を撫でながらそう言った。
「だけど、マコトさんはわたしの目の前に居る。なんでだろうねぇ」
クスクスクスクス、小百合は、楽しそうに延々と含み笑いをする。
瀬山は、更に険しい表情をしたが、不意に、
「そうだったのか……」
と、全てを悟ったように呟いた。
「小百合ちゃん、一つ聞きたいんだけど、百合子は僕を……瀬山マコトをどうやって殺したと話していた?」
「セックスしてる時に殺したって言ってた」
「それは状況だろう。僕が訊いているのは殺害方法だ。首を絞めたのか 、頭を殴ったのか? 刺したのか?」
感情の無い微笑みは動かない。
「わからないよね? わからなくて当たり前なんだ。僕は殺されてなんかいないんだから。瀬山マコトは君の目の前に居る。それに……」
瀬山は顔を背け、小さな言葉を呟くように繋げた。
「……僕は、百合子を抱いた事は一度も無い」
だが、感情の無い微笑みは動かない。
瀬山は小百合に向き直り、再び強く言った。
「ここで死んでいたのは僕じゃない。ここで、この浴槽に沈んでいたのは……」
「わかっているよ」
感情の無い微笑みが、呟くように言った。
「全部思い出したって言ったでしょ」
言いながら、リビングダイニングへと足を向ける。
「切断している時ね、手も足も凄く細かったの。骨だってそう。だけど、お姉ちゃんは目の前に居た。そのお姉ちゃんは、内臓を抜いている時に指にケガをしたの。だけど、わたしが居るのにお姉ちゃんは何故か一人でケガの手当てをしていた。その傷跡は、今わたしの指にあるの」
小百合は、右手を瀬山に掲げた。人差し指の先に、何か目の粗い物でパックリと切ってしまったような傷跡。
クスクスクスクスと、小百合はまた、延々と含み笑いを始めた。
瀬山は、哀しい顔で言う。
「小百合ちゃん、それはげん……」
瀬山の言葉を遮るように、小百合の含み笑いがピタリと止む。
「幻覚なんて言わないでね。一人で二役を演じていたわけじゃない。お姉ちゃんは、確かにそこに居たんだから」
外では、雨が強くなり始めた。雨音は、まるでノイズ音のように聞こえる。
「……あの日、わたしが朝起きると、お姉ちゃんはもう会社に出掛けていた。いつものこと。わたしは、ポテチとコーラと求人誌を買いにコンビニに出掛けたの。それで帰ってみると、お姉ちゃんは会社から帰っていた。顔を合わせた途端、わたしはお姉ちゃんに激しく責められた。わたしは何も言えず黙っていた。あんなお姉ちゃんを見るの初めてだった。それからお姉ちゃん、部屋に籠ったまま出てこなくなった。わたしは、ただ蹲っていた。一時間くらいして、フラッとお姉ちゃんは部屋から出てくると、そのままお風呂に入ったの。わたしは、声を掛ける事も出来なかった。だけど、お湯を溜める音が止んだ後、三十分以上、何の物音も聞こえてこなかったの。わたしが心配になってお風呂を覗いたら、お姉ちゃん、真っ赤な湯船の中で沈んでたの。手首がパックリ割れてた。でも、わたしが駆け寄ると、お姉ちゃん、まだ少しだけ意識があったの。それでね『ごめんね小百合』そう言って目を閉じて、わたしの頭の中のナニカが抜け落ちて、気が付いたら、ポテチとコーラと求人誌の入ったコンビニの袋をぶら下げて、マンションに帰る途中だった」
未だ感情の無い微笑みを浮かべる小百合は、そう淡々と話した。
瀬山の顔には、更に深い哀しみの表情が浮かんでいた。
――死のショックが、小百合ちゃんの記憶の時間を逆行させたんだ……
「前の晩から、お姉ちゃん、様子がおかしかったんだよね。全然口きいてくれなかったし。マコトさんがお姉ちゃんを抱いた事が無い事も知っているよ。だって言ってたじゃん、わたしを抱いた時に」
瀬山は崩れ落ちた。跪き、懺悔でもするように言うのだった。
「三ヶ月前、百合子が突然会社に来なくなった。だが、理由は分かっていたよ。僕が別れ話を持ち出して、小百合ちゃんへの気持ちと、一度だけ寝てしまった事を彼女に伝えた次の日だったからね。その後、速達で辞表が届いて、百合子からも、君からの連絡も途絶えた。当然だと思った。こちらから連絡できる立場でもない。でも、君への気持ちは拭いきれなかった。そして僕は、一度だけこのマンションの前まで来たんだ。そうしたら百合子が……いや、百合子の服を着て、同じようなメイクをした君が出てきた。その時におかしいと気付くべきだったのに、僕は君への思いで一杯でそれどころじゃなかった。でも君は、怯えた目をして逃げ出してしまった。僕は終わったと思った。だけど駄目だったんだ、気持ちの整理がつかなかったんだ。三週間、ろくに仕事も手に付かず悩み抜いた末、一度三人で話し合って、自分の気持ちに決着をつけようと思った。合鍵も返さなければと思った。そして、今日ここに来たんだ。そうしたら……」
瀬山は顔を上げ、叫ぶように言った。
「百合子と日を重ねれば重ねるほど、君への思いは増すばかりだった。駄目だと分かっていても感情は抑えられなかった。だから百合子も抱けなかった。君を抱いた時の気持ちに嘘は無い」
「わかっているよ」
小百合は静かに言う。
「マコトさんに好きだって言われた時、凄く嬉しかった。わたしもずっと好きだったから、だから抱かれたの。でも……」
感情の無い微笑みに、涙が見えた。
「……どうして言っちゃうのよ」
「小百合ちゃん……」
瀬山は立ち上がり、小百合はベランダに向かって後退りする。
「井戸のお化けとの生活は、とても幸せだった。夢の中に居るみたいだった。でも、井戸のお化けは……井戸のお化けは……」
瀬山に目にふと入ったのは、開け放たれていた百合子の寝室。
そこに立て掛けられていた一枚のキャンパス。
描かれていたのは、初めて三人で食事をした夜、三人で歩いた雪道の風景。水彩の淡い色使いは、どこか物悲しく、遠い記憶の断片のよう。
「これは……」
瀬山には直ぐにわかった。そのタッチは、明らかに百合子のものだという事を。
瀬山は向き直る。
目の前の人物は、頬を膨らませ、腕を組み、怒った素振りを見せていた。
「ダメだよ。その絵はまだ見て良いって言ってないわよ」
姉妹の姿が重なる。
「君は、どっちだ…?」
その人物はベランダの窓を開け放つ。
雨は上がり、日差しが差し込んでいた。
広いベランダには、茄子の鉢植えが隙間無くびっしりと敷き詰められていた。
咲き誇る紫色の花畑。
雨の雫でキラキラと輝いている。
土から僅かに覗いていたのは、白い骨。
その人物は、ベランダに向かって前のめりに倒れ込む。
支柱はなぎ倒され、紫色の花びらが舞い散る。
メロディが、聞こえた。
さがしものはなんですか?
みつけにくいものですか?
「やっと、みつけた……」
了