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知性という道具と知的格闘

 知性は道具だといったけれど、自らを高める方向に知性を発揮していくと、知性は自分の認識力を高める手助けとなる。


 事象を認識していくということは、事象に対して何がしかの評価や判断を与えるということだから、認識した数と同じだけ、それらに対する判断や評価が存在することになる。


 心のあり方を決めるのはその人の価値観だけど、認識したものを心の言葉として価値観にまで転化していくときには、知的格闘をくぐり抜けなくちゃいけない時だってある。もしも、その人が認識して評価した群れの中に、互いに相反する評価があったら、どちらかを選ばなくちゃならない。


 たとえば、性善説、性悪説とあるけれど、これは同じ「人」をなんと認識するかという価値観。人を善とみるか、悪とみるかの相反する認識。価値観にしようとしたら、どちらを選ぶかの二者択一を迫られる。


 仮に、人を善とみた場合、次にその善なる人が作ったこの社会も善なのかという問いが生まれる。


 善は善からしか生まれないとするなら、善なる人が作ったこの社会は善であるべきとなる。


 だけど、戦争や環境破壊がある、これは善といえるのか?


 社会が善でないとすると、善が悪を生むことがあるのか?


 でも、そういう善は、果たして本当に善なのだろうか?


 そもそも善ってなんだ?


 善ひとつとっても、思索すべきことが山のようにある。


 ひとつの事象における認識を他のいろんな事象に適用し、思考と選択を重ねることで、その人の価値観は磨かれる。


 たぶん、個人の中のもろもろの認識の群れを突き詰めていくと、どんどん二者択一されていって、最後にたったひとつだけが残るのかもしれない。それがその人が選び取った価値観。知性という道具で掘り出した黄金のまさかり。


 座右の銘を自分自身の価値観と一致させるためには、こうした知的格闘から逃れることはできない。

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