第2編 〜サクラの季節〜
桜の季節、また一つ年を取る季節だ。
つまり、4月はオレの誕生日がある月だ。
誰も祝ってくれる人も居ないし、プレゼントをくれるような彼女も居ない。
もう何年もそんな誕生日を過ごしてきた。
今年もいつものように満員電車に揺られ、部長に怒鳴られ、営業廻りに入った客先で他愛のない世間話をして営業所に帰るという普段と何一つ変わらない誕生日を過ごしていた。
帰りにあのワインを買って帰ろう。
何時も帰りによる酒屋。いつもは360の6パックを買うだけだがそこのオヤジが美味しいと勧めてくれているワインがあった。
気になってはいたが、チョット高めの値段と男一人暮らしのアパートにお洒落なワインという不釣り合いさから躊躇していた。
今日は自分へのプレゼントにあのワインを買って帰ろう。
そんなことを考えながら、いつものようにダラダラと書類整理をして電車の空く時間まで残業をする。
タイムカードを押して、いつもの時間の下り電車にいつもの場所で乗り、いつもの駅で降りた。
改札を抜けると外は雨だった。
「ちぇ、また天気予報がはずれやがった。」
週末まで天気の心配はなく、今週末は絶好の花見日和になるという朝のニュースキャスターの女性を少し恨んだ。
「全くついてねぇ誕生日だ。」
小走りで商店街のひさしの間を抜け、酒屋に駆け込んだ。
「おぅ、いらっしゃい。なんだ、雨か?」
「あぁ、まいったよ。傘持ってねぇし。」
「貸してやろうか?」
「いや、走っていくからいいさ。」
そんな話をしながらいつものビールのおいてある棚を通り過ぎ、奥にあるワインラックの方に行く。
「今日はこれ買ってくよ。」
「珍しいな。何か良いことでもあったか?」
オヤジは悪戯小僧のような微笑みを浮かべながらワインを受け取った。
「いや、今日はオレの誕生日なのさ。」
「そりゃ目出度いな。」
一瞬ラベルを見たオヤジはレジを打たずにワインを袋に入れた。
「プレゼントだ。持っていけ。」
思いがけない申し出をありがたく受け取り、雨の中を小走りで家に向かった。
住んでいるボロアパートは商店街を抜けた所にある神社の裏にある。
歩けば10分足らずの距離を雨をよけながら走っていく。
カバンと一緒に手に提げたワインが入った袋は少し重たかったが、オヤジの粋な計らいで気分は軽かった。
商店街の雑踏を抜け、人もまばらになり、神社の横にさしかかったときだった。
神社の境内から何かが急に飛び出してきた。
「ドンッ」という音と共に、オレの体にそれはぶつかり、ワインの袋は鈍い音を立てて道路に転がった。
何がぶつかったのかと見ると、小柄な女の子が立ちつくしていた。
道路に転がったワインをただ眺める2人。
「あ、あ、あの…」
先に口を開いたのは女の子の方だった。
「すいません、大事なものを落としてしまいました。」
「いや、いいさ。貰い物のワインだ。」
不思議と腹が立たなかった。
シンプルな淡いピンクのワンピースに身を包み、ぱっと見は10代の様なあどけなさも感じる。
不自然なまでにまっすぐな黒髪と、ワンピースと同じような色の肌。
「でも、このワインはあなたの大事な誕生日のワイン…」
「…まぁ、な。」
何で誕生日って事を知っているんだろう?さっき酒屋にいて立ち聞きでもしていたのか?
「あ、私、このワイン買ってきます。」
「いや、いいよ、別に。それより何か急いでたんじゃないか?」
「え、えぇ、でも…。あ、一樹さんは先に帰ってて下さい。後でおうちに届けます。」
「い、いや、いいよ。第一、ウチの場所を…」
「そのアパートですよね。2階の角。」
「あ、あぁ。」
一体この子は何者なんだろう?オレの名前も家も知っている。まるで全てを知っているようだ。
第一こっちは全く面識がない。無いはずだ。
「それじゃ、後で伺います!」
深々と頭を下げると、ぱっと踵を返したように商店街へ向かって走っていってしまった。
どの位そこに立ちつくしていたんだろう。
ふと気づくと雨は止んでいた。
アパートの鍵を開け、中にはいる。
ポストに入っていたダイレクトメールの束をゴミ箱に投げ入れ、雨で重たくなった上着を脱ぐ。
タオルでしっとり濡れた髪を拭きながら冷蔵庫を開け、今夜のわびしい夕食をまさぐる。
「ちぇ、何も入ってねぇや。」
缶ビールが1本と食べかけのチーズ。後は調味料の類が少々といういたって殺風景な冷蔵庫だ。
唯一のまともな冷蔵庫の住人であるビールを開けながらテレビのリモコンを押す。
くだらない番組をBGM代わりに流しながら週刊誌を眺めているとチャイムが鳴った。
こんな時間に来客?と思いながら玄関に向かう。
ふっとさっきの女の子のことを思いだした。
「まさか、な。」
どうせ新聞の勧誘か何かだろう、と思い玄関を開けると、そこにはさっきの女の子が立っていた。
両手に2つ重そうな袋を抱えている。
「お待たせしました。あ、あと、ご飯まだですよね。色々買ってきたんですけど、良かったら…」
「お、あ、え、うん。あぁ、上がりなよ。汚いけどさ。」
訳の分からない返事をしてしまったが、それを聞いた少女の顔はパッと明るくなりぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます!」
オレのアパートの台所で誰かが料理しているのを見ながら夕飯を待つ、というのは今まで経験したことのない状況だった。
テレビを見ている振りをしてはいるもののとてもそんな心理状況ではない。
まず、見ず知らずの女の子に優しくされる筋合いはないし、第一どう考えたって不自然だ。
一体何処の誰で、何でオレのことを知っているのかはっきりさせなくちゃ。
「あ、あのさ、いろいろやってくれてるんだけど、何処かで逢ったことあったかな?」
「え、えぇ。あ、わたし、あの、隣の…」
「あ、そうだったんだ。」
「お隣だとは知らずにごめん。まだ自己紹介もしてないよね。オレは…」
「いえ、良く知ってます。石井 一樹さん 28歳。あ、今日29歳ですね。おめでとうございます。」
「あ、あぁ、それで、君は?」
「あ、あ、私は…えっと…ス、諏訪…諏訪です。諏訪 サクラ。よろしくお願いします。」
「あぁ、よろしく。」
恥ずかしながらこのアパートの住人とはほとんど面識がなかった。
もうここに住んで3年になるが、ほとんどここの住人に逢った記憶がない。
しかし、隣に住んでいるというならオレのことを知っているのもまだ理解できる。
胸のつかえが取れた気がする。これで少し落ち着いて待っていられそうだ。
ただ、それでも今までの生活に『待つ』と言うことがなかっただけに、やはりしっくりこない。
「すいません、一樹さん。もう少し待ってて下さいね。」
旨そうな匂いと共にサクラの声が響く。
「いや、久々に人間の食いモン喰ったわぁ。」
サクラの出してくれた料理はどれも絶品だった。
純和食のメニューで味付けも品が良く、盛りつけのセンスも悪くなかった。
「あと、ケーキ買ってきてるんです。」
「あ、あのワイン呑もうよ。折角買ってきてくれたんでしょ?」
「そうですね。折角ですから。」
サクラが台所からケーキとワインを持ってくる。
二人で誕生日を祝い、すごく幸せな気分になった。
ケーキを食べ終え、ワイングラスの代わりのコップを傾けていた。
オヤジが言うだけあって旨いワインだった。
3杯目のワインを飲み干した頃、突然の睡魔に襲われオレは夢の国へ旅立っていた。
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「ピピッ、ピピッ、ピピッ、…」
聞き慣れた目覚ましのアラームが鳴る。
「ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ、…」
「ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ、…」
「ピピピピピピピピピピピピピピピピピ!」
目覚まし時計のスイッチを押しながらふと気づいた。
そう言えば昨日…
はっ、と思いベッドの横を見ると…誰もいなかった。
廻りを見渡すといつもの風景だった。
部屋の中もいつもの通り…いや、いつもより片づいている。
ベッドから抜け出し部屋の様子を見渡す。
こざっぱりと片づけられた部屋。
寝ぼけた頭で考えてもサクラが片づけていってくれたに違いない。
ふと見るとテーブルの上に1枚花びらがあった。
桜の花びらだった。
窓から外を見ると神社の境内に生えている桜が9分咲きだった。
出勤の準備を整え、玄関を出て鍵を閉める。
隣の部屋の前に行きチャイムを鳴らした。
一言昨日のお礼を言っておこう。せっかく顔見知りになれたんだし…
「ピンポン」
・・・・・・・・・・・・・・・・
「ピンポン」
・・・・・・・・・・・・・・・・
どこかに出かけているのだろうか?
今まで逢っていないのだから当然か?
しょうがない、と諦めて会社へ向かった。
神社の前へ来たときふと足を止めた。
そう言えば昨日の夜、ここから始まったんだな。
神社の境内を改めて見渡す。
境内の一番奥の端。ちょうどオレのアパートの目の前に桜の木が生えていた。
その視界の端。
神社の鳥居。
その中心に書いてある文字。
『諏訪神社』
「!」
頭をガーンッとやられたようだった。
サクラ、そう、諏訪 サクラ。あの子は確かにそう言った。
思い返してみれば隣の部屋はもう半年ほど空き部屋だった。
「隣」と聞いて「隣の部屋」だと思いこんでいた。
考えてみれば、天気の良い日は何時もベランダでビールを飲んでいた。
ちょうど神社の境内に生えている桜の木の目の前だ。
毎年のようにこの季節は一人で花見をしていた。
たまには仕事の愚痴を桜の木に向かって話しかけていたこともあった。
そうすると、誰かに聞いてもらえたようで少しすっきりしたのだ。
オレはもう3年もサクラと逢っていたのかも知れない。
その晩はワインを注いだコップを二つ持ってベランダに出た。
綺麗な満月と満開の桜だった。
コップを一つベランダの手すりに載せ、桜の木に向かって手に持ったコップを持ち上げた。
「昨日は御馳走さん。また遊びに来てくれよな。」
それに答えるように暖かい風が吹き、桜の花びらが舞った。