第1編 〜花びらの願い〜
その日は朝から雨だった。
しっとりと地面を濡らし、音も立てずに落ちてくるような優しい雨だった。
公園の片隅にその桜は咲いていた。
丘の上がただ切り開かれただけの、木々の間から街が見下ろせる公園。
その公園に一本だけ桜の木があった。
一本だけなので花見に来る人も居ない。
ただひっそりと咲き、散っていった。
人々の思いを花びら1枚1枚に託して・・
黄色い傘が桜に向かって歩いてきた。
黄色い長靴と共に。
黄色い傘は桜の幹に寄りかかり、長靴で地面を軽く蹴っていた。
「けんたくんのばか。」
黄色い傘の中から声がした。
「さとちゃんと仲良くしてもいいじゃないか。」
「けんたくんはいつもよっちゃんと仲良くしてるのに。」
しばらく長靴は地面を蹴っていた。
桜は聞いていた。
この黄色い傘の子はいつもここに遊びに来ているひろくんだ。
ひろくんはさとちゃんが好きなんだ・・・。
桜は1枚の花びらにその思いを託した。
しばらく桜の木の周りで遊んでいた黄色い傘と長靴のひろくんは「かえろ」と一言残して帰っていった。
それから桜は20回目の花を咲かせていた。
桜の咲いている場所から見渡す景色はすっかり変わってしまった。
町並みだけではなく公園の姿までも。
ただ、桜だけが変わらずに残っていた。
その年の花びらもすでにそのほとんどが散っていた。
遠くから見るとうっすらと新葉の色が解るくらいに。
日も落ちて、街の雑踏もまばらになった頃、1組の男女が桜に向かって歩いていた。
2人は桜の木の下まで歩いてくると、立ち止まった。
そこには散った花びらが地面に降り積もっていた。
「そういえば今年は会社で花見をしなかったね。」
「あぁ、会社があんな状況じゃぁ、花見なんてしてる場合じゃないからな。」
「もう、今年も桜は終わりかぁ・・・あ、まだ花びらが1枚残ってるよ。」
「どこ?・・・あ、ほんとだ。しぶといヤツだなぁ。」
「なんか健気でかわいいよね。あの花びら。私、好きだよ。ああいうの。」
「そうか?桜はやっぱりぱぁっと咲いてるのが良いんじゃないか?」
「それはそれ。ぱっと咲いてる桜も、1枚1枚の花びらがみんなで協力してるんだから。」
「まぁな。・・・里子は時々そういうこと言うときあるよな。」
「そういうこと、って?馬鹿な事?」
「いや、なんか・・・あ、そういう捉え方もあるんだな、って、感心するよ。」
「浩はそういうの嫌い?」
「・・・嫌いじゃないよ。」
「・・・そう。よかった。私、そういう感覚解ってくれる人って、・・・好きよ。」
風が吹いた。優しい風だった。まるで里子の最後の一言をどこかに運んでいくような・・・。
そして、その風に乗って最後の1枚の花びらも散っていった。
それからまた、桜は何度目かの花を咲かせていた。
暖かい日が差している日曜日の昼下がり。
小さい男の子が桜に向かって走ってきていた。
「まさく〜ん!そんなに走ったら転ぶわよ!」
「だいじょ〜ぶ。ママ〜、はやく〜。」
まさ君と呼ばれた子は、桜の木の下で立ち止まると母を呼んだ。
「ちょっと待って。ほら、シャツが出てるわよ・・・」
「パパ〜早く!桜がなくなっちゃうよ!」
「はははっ、大丈夫だよ。そんなにすぐには散らないから。」
「だって、桜はすぐ散っちゃうって言ったじゃん。」
「今日は大丈夫だよ。今度の日曜日には散っちゃうかもしれないけどな。」
「そっか・・・」
まさ君は桜に向き直ると桜の幹を小さな手で叩きながら言った。
「良かったね桜。今日は大丈夫だってさ。」
「あはは、まさのああいう所・・・ママにそっくりだな。」
「そっくりって、どういう意味よ。」
「いや、良い意味だよ。ああいう感覚を持ってるのって、良いよな。それに関してはママに感謝するよ。」
「ママ〜!こっち来て〜。」
いつの間にか、まさ君は池の方に行っていた。
「どうしたの〜?」
「お魚がね、ケンカしてるの。」
「どれどれ・・・」
父親が池の方に歩いていった。
2人の様子を見ている母。
「・・・そういえば結婚する前、同じようなことをあの人に言われたわね。ここで。」
母は桜に向かって話しかけた。
「おかげさまで、幸せになることが出来ました。貴方のお陰よ。」
そう言うと、母も2人の方に歩いていった。
何処にでも居るとても幸せそうな家族だった。
ただ、桜が嬉しそうにそれを見ていた。