4-2
あれから数週間ほどたった水曜の午後、俺は恵美と待ち合わせた。高校はもう始まっている。しかし、当然ながら、さぼった。高校と恵美とを天秤にかけたとき、どちらが下に傾くかなど、思考実験をするまでもないことだ。
俺は彼女に自分が「学生」であるとしか伝えていない。おそらく彼女はそれを大学生と解しているだろう。しかし、それは彼女が勝手に想像したことなのだ。俺は嘘をついてはいない。
―――ただ、それが限りなく嘘に近いだけだ。
俺が待ち合わせ場所について間もなく、彼女は現れた。今日の彼女は大人っぽいスーツとでもいったらよいのか、洗練された女性らしい服だった。俺も、今日のために、堅くないスーツを買った。見かけの上ではそう不釣合いではないだろうと思った。
表参道の並木道を歩いた。途中出店のような所で買ったホットドッグを頬張った。俺はもっと背伸びをしなければいけないと思うのだが、恵美はこんな中学生並のデートでも楽しそうにいつも笑っていた。
食事は広尾の閑静な住宅街の中にひっそりと佇む小さなイタリアンの店でとった。
『なんとかウォーカー』で調べた店はどこも有名すぎてかえって陳腐に見えるから、この数週間、できるだけ目立たない、しかし美味しいお店を見つけ出すべく、あちこちを探し回ったのだ。そして、この店に巡り合った。
ここはオーナーとその奥さんだけで経営され、テーブル数も四つだけの本当に小さな店である。インテリアはイタリアの田舎風で趣があり、また料理も美味しいと、少なくとも俺は思うのだが。
前菜を口に運んだ彼女の反応を固唾を飲んで見守った。
「美味しい!」
この言葉を聞いたとき、これまで数万円を使ってこの店を捜し出したことも無駄ではなかったと思い、とても嬉しかった。少し値が張ったものの、口当りのよい赤ワインを二人で饗した。そのアルコールも手伝って、二人の会話は弾んだ。
食事のあと、タクシーの拾えるところまで歩いた。ひっそりと静まりかえった住宅街の中、ただ響くのは俺の革靴の音と、彼女のヒールがアスファルトを打つ音だけだった。
「あのお店、どこで知ったの?」
恵美はふとそんなことを訊いた。まさか今日のために探したとは言えず、
「うーん、内緒」
そう笑って誤魔化した。
「きっと、いろんな女の子と行ってるんだ」
「そんなことないって。ほんとだってば」
慌てて俺が否定すると、彼女は「本当?」と俺をのぞき込むような仕草をした。
どきっとした。
俺はアルコールで火照った頬がさらに熱くなるのを感じながら、それを知られるまいととぼけた調子で言った。
「ああ、楽しかった!」
俺は伸びをした。それを見た恵美はくすくす笑って、同じように「楽しかったあ!」と言って伸びをして見せた。そして二人で顔を見合わせて笑った。
タクシーのよく通る大きな通りが近付くにつれて、二人は口数が少なくなった。それは今までの楽しさの分を裏返した寂しさの現れだったのかもしれない。やがて通りに差しかかったところで、恵美は立ち止まった。俺が振り返ると、ほんのり紅く染まった頬が街灯に照らし出されていた。
「あの」
恵美は少しためらいがち続けた。
「また、…また会ってくれる?」
俺は驚きを隠せず、思わず「え」と声を漏らす。彼女は懇願するように言った。
「章君はいや?」
「い、いや、全然。会ってもらえるなら毎日でも会いたい」
俺は本音を包み隠さず言った。恵美はほっとしたように息をつくと、
「ああ、良かった」
そう言って微笑み俺を改めて見上げた。
やがてタクシーが俺達の前に停まった。
「それじゃ、おやすみなさい」
彼女はそう言ってタクシーに乗り込もうとした。俺の言うが早いか、彼女が早いか、二人ともが向き合って「あの!」と言った。
「何?章君」
「いや、恵美さんこそ」
恵美はばつが悪そうに笑った。
「また、連絡するから」
そう言って照れたように微笑んだ。
「章君は何を言おうとしていたの?」
俺は慌てて「いや、なんでもない。おやすみなさい。気をつけて」と言った。恵美はくすっと笑って、タクシーに乗り込むと、テールランプの赤い光の中に消えて行った。
それを見送る俺の手はポケットの中のものを握り締めていた。