3-2
翌朝俺は五時に目が醒めた。
普段ならお袋に布団をはぎとられようが、何をされようが起きることのないこの俺が自発的に且つこれだけの早朝に目を覚ますというのだから、事態は尋常ではない。このせいで雨に降られでもしたら困ると思って窓から外を見れば、空は薄明るく、そこには雲一つない。今日は絶好の出帆日和である。
朝食もそこそこに俺は家を飛び出た。そしてロビーで恵美を待った。
「お待たせしました」
俺が新聞各紙をそれぞれ十周ほど読んだころ、この言葉とともに彼女はやって来た。昨日と同じような服装だったが、昨日よりも一層輝いて見えた。
港までは旅館から歩いて行ける距離である。その道すがら、どうでもいいようなことばかりを話した。どうでもいいことばかり、それでも俺は嬉しかった。
嘘のようだった。
時が止まればいい、なんて、ドラマか小説の中だけの台詞だと思っていたが、本当にそう思った。
*
20ノットで快調にとばす船の船首に腰を降ろす彼女。操舵室からそれを一望できた。ときどき船が水面を叩いてしぶきをあげると、彼女は手を伸ばしてそれをさわろうとする。そんなまるで少女の戯れのようなことをする彼女を俺はただ一心に見ていた。
ウォッチングポイントに近付いたころ、船尾にしぶきのあがるのが見えた。イルカの潮である。
「恵美さん!」
俺が叫んでそちらを指さすと、恵美は小走りにやってきて、「わあ!」と声を上げた。彼女が船尾にやってくると同時に、一頭のイルカが海面に顔を出して、あの独特の声で鳴いた。まるで、恵美に挨拶でもするかのように。
なんてキザな野郎だ、と俺はイルカに嫉妬する。
船を止めてしばらくすると、イルカの群が船の周りを泳ぎ出した。
「あの、泳いでもいいですか?」
恵美は今にも飛び込みかねない勢いで訊いてきた。
「どうぞ」
俺がそう言うと、彼女は急いで着ていたTシャツを脱ぎ去り、ジーンズも脱いだ。そして、彼女の、僅かな布切れに覆われた、全裸に近い肢体があらわになった。期せずして俺は赤面してしまい、それを見られぬように慌てて顔を背けた。
ばしゃんという音ともに恵美は海に飛び込んだ。音に驚いたのか、イルカ達は少し離れたが、徐々に彼女との距離を縮め、やがて、絡まるように彼女と泳ぎ始めた。水中での様子は船上からでは殆どわからなかったが、彼女がイルカ達と戯れ泳ぐ様を、美しいと思った。
これまでにも若い女性がこうしてイルカと泳ぐ様を何度も見たが、こんな風に思うのは初めてだった。
「これが恋なんだろうか」
とつぶやいた。しかし、そう認めるのが恥しかった。そして同時に認めてはいけない気がした。俺に必ずつきまとう感情があった。
―――俺と彼女は不釣合い。
そんなことはわかりきったことだ。だから、せめて今日だけでも彼女と二人きりで居たい。あわよくば、と思いもするが、やはり「不釣合い」、この言葉が胸につかえた。
彼女が水面に顔を出した。
「高村さーん、すごいですよ!こんなに近くに!」
彼女は嬉しそうにこちらへ向かって叫んだ。俺も手を振って応えた。
(不釣合い。それなら俺が釣り合うようになればいいだけじゃないか)
何かが俺をそう唆した。そして、そうだ、と思った。
やがて、彼女が海から上がってきた。
「楽しかった!」
少女のように目を輝かせて言った。
(俺は彼女のことが好きだ!)
初めて俺はそれを認めた。本当はずっと前から分かっていた感情だった。彼女の姿を見る度に、彼女の声を聞く度に、彼女の笑顔を見る度に、この感情はいつも爆発しそうになった。
そして、今、ようやく認めることができた。
(俺は彼女のことが好きなんだ)
認めるまでは苦しいだけの感情だった。しかし、今は違う。