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事前に予約のあった団体も八月のはじめには全て帰り、ようやく暇になった。いざ、こうして本来の予定通りの日常となると、途端に慣れた都会の生活が懐かしくなった。東京へ戻ったところで特に何をするわけでもないのだが、俺は島をあとにすることにした。
国産だという双発プロペラ機は物凄い爆音をたて、滑走路を目一杯に走って空へと舞上がった。俺は窓越しに島を眺めていたが、やがてその島影も霞んで消えていった。
水平飛行に移ると間もなく、客室乗務員が客席をまわり、飲物を提供し始めた。俺はコ-ヒ-を頼んだ。それを受け取る際に、客室乗務員が何かを言った。しかし、爆音とも形容すべきエンジン音にかき消され、聞き取ることができなかった。どうせ、ミルクと砂糖のことだろうと察して
「いえ、結構です」
と答えた。その客室乗務員はきょとんとした眼差しをこちらに向けた。
どうやら話が食い違ってしまったらしい。しかし、今更訊き返すのもおかしい。
気まずい沈黙が流れた。
「あの、こちらへはご観光でいらしたんですか」
彼女がもう一度訊いてくれた。
「…あ、ああ。まあ、…観光というのか。仕事というのか」
声が上ずっていた。冷静になろうと努めるほどに、ますます声がひっくり返りそうになった。普段から家族親類縁者以外の女性と話すこと自体、あまり得意ではない。まして、さきほど聞き違えて素頓狂なことを言ってしまったあとだったから、なおのことその狼狽はひどかった。
客室乗務員は居心地の悪そうな顔をしていた。俺は慌てて次の言葉を探した。
「あの、僕の従兄があそこに住んでまして、あの、ダイビングのインストラクター…っていうんですか…そういうのをやってまして。人手が足りないって言うもんですから、手伝いに…。どうも、イルカと泳げるっていうのが、人気らしくて…結構な予約があって…」
たったこれだけのことを言うのに、何度もつまってしまった。俺は女性が相手だと、妙にそれを意識してしまって、うまく話をすることができない。或はこれが恋人を作りたいと、特別思わない理由なのかもしれない。
先ほど、素頓狂なことを言ってしまった恥しさと、慣れない女性との会話の居心地の悪さとから、早く解放されたいと願った。訊かれたことにも答えた。特に興味を惹くようなことも言っていない。ただ、社交辞令的答えが返って来ることを待った。
「イルカですか!」
驚いてしまった。いや、驚いたのは俺だけではない。その、あまりに大きな声にまわりの乗客がこちらに振り向いていた。もう一人乗務していた、先輩と思しき客室乗務員の鋭い視線に感づいた彼女は、少し羞恥の色を顔にのぞかせたが、その興奮を隠しきれない様子だった。
彼女は声を落して俺に話しかけてきた。
「あの私、イルカと泳ぐの、ずっと興味があったんです。…でも、なかなか機会がなくて…お盆過ぎには休暇がとれるんですけど…」
彼女はそう言って、少し残念そうな、しかし、含意あるその言葉とともに少しの期待の色のこもった目で俺を見つめた。
いくら俺が鈍感であったとしても、さすがに彼女の意図を察することはたやすいことだった。
俺はただ、彼女に従兄の連絡先を教えてやれば良いのだ。そうすれば、彼女はその願いを自らかなえることができるのだから。
「もし、ご興味がおありでしたら、僕から従兄に連絡をとりましょうか」
気付いたら、俺はこんな言葉を発していた。それは脳を経た言葉ではなかった。反射的にこう答えていた、としか弁明のしようがない。ただ、ここに言えることは、彼女のその期待に溢れた、少女のごとき澄んだ瞳を美しいと思ったことだ。
「ええ、ぜひお願いします!」
彼女は逡巡なくこう答えた。その瞳はより一層喜びに輝いていた。
手帳から破りとられた一枚の紙片を俺は受け取った。
「ここに連絡をください」
という言葉とともに。