7-2
昼には食欲も出て来たようで、二人で食事をとったあと、中庭を二人で散歩した。北海道の秋は早く、木の葉はもうすでに紅く色づいていた。時折吹く風に、赤や黄の木の葉は空を舞った。
「そういえば、修学旅行はどうなっちゃったの」
「あ、俺、ニュースの速報を聞いて、先生達振り切ってホテルから脱走したまんまだった」
俺と恵美はしばらく顔を見合わせた。
「まあ、…なんとかなるんじゃないかな」
「事情を話せばきっとわかってくれるよね」
二人で笑った。笑い事ではなかったが、二人で笑った。昨晩の焦燥と苛立ちを思い起こせば、こうして二人で笑いあえるという、たったそれだけのことに俺は満足だった。
「まあ、担任に2、3発殴られるのは覚悟しなきゃなあ」
恵美は「うわあ」とまるで他人事のように笑う。
「アイツ、大学でボクシング部に居たらしくって…」
担任の鉄拳がいかにすごいものであるかを説明しようとした俺の手を恵美が握った。驚いて俺が恵美の方を向くと
「…いいでしょ」
少し恥かしそうに恵美は言った。
初めて握った恵美の手は、想像していたものと全く違っていた。意味もなく、ああ、これが大人の女性の手なんだ、と感心した。
恵美と俺はベンチに腰を下ろした。手を握ってから、お互い恥かしさのせいか一言もしゃべらなかった。無言のまま、恵美は舞い散る木の葉を眺めていた。俺はそっとその横顔を盗み見ていた。それはとても儚げに見えた。
「私ね…」
どれくらい経った頃か、恵美が口を開いた。
「私ね、お父さんとお母さんを小さな頃に亡くして、親戚にひきとられたの。おじさん達には子供がなかったから、私を実の子供みたいに育ててくれて。でも、迷惑をかけちゃいけないと思って、高校を出たら、自分でお金を稼ぎながら短大へ行って、それで、昔からの夢だったスチュワーデスになったの」
俺は黙ってその話を聞いた。恵美は続けた。
「私がスチュワーデスになったことをおじさんとおばさんに報告に行ったら、とても喜んでくれたわ。…でも、そのおじさんとおばさんも去年交通事故で死んじゃった。おじさんとおばさんのお葬式を出したとき、他に親戚もないから、私はこれで本当に独りぼっちになったんだって思った。そしたら、なんだか、全部が厭になっちゃった。あんなに憧れたこの仕事も嫌になってしまって。毎日営業スマイルに決まりきった台詞を言うだけ」
恵美はそこまで話し、寂しそうに、そして少し自嘲気味に笑った。俺には恵美にかけてやる言葉を見つけることができなかった。
「でもね、もう辞めてしまおうって考えていたときに、章君と出逢ったの。あのとき、私、いつもどおりに観光ですかって訊いただけなのに、章君ったら、『結構です』とかわけのわかんないこと言うし」
その時のことを思い出して、俺は頭を掻いた。恵美は笑った。
「それで、イルカの話が出たでしょう?私ね、昔から動物が好きで、いろいろ本で読んだの。イルカは哺乳類で、人間に近い海の生き物で、とても人懐っこいって。不思議よね。言葉も通じないのに。私、それでもいつかイルカと友達になりたいって思ってた」
「それでね、ずっとそう思っていたんだけど、でも、なかなか機会がなくて。そんなとき、章君がイルカの話をするから、すぐに飛びついちゃった。章君に連れて行ってもらって、イルカと初めて泳いだ時、あの子達が私の周りで楽しそうに泳ぐのを見て、とても嬉しかった」
そこで一度言葉を切ってから、次の言葉を添えた。
「…私、独りじゃないんだって思えた」
恵美は少し顔を俯かせて、照れたように微笑んだ。
「私ね、章君とのこと、イルカだけの関係だって思ってた」
「でも、帰りの飛行機で食事に誘ってくれたでしょう。あの時、本当に嬉しかったの。いつも食事に誘ってくる人って、私がスチュワーデスだからとか、そういうことばかりで、それは私じゃなくても良かったから。でも章君は純粋っていうか、素直に私を見てくれるって思ったの」
恵美は俺の方に振り向き、言った。
「嬉しかったんだよ」
恵美はそう言って優しく微笑むと、遠くの方に視線をやった。何かを言わなければならない。恵美もそれを待っていると思った。
「で、でも、もう独りじゃない」
恵美は視線を戻さずに、「うん」と頷いた。そして、ゆっくり振り返ってから言った。
「知ってるよ」
本当に嬉しそうに恵美は微笑んだ。