7-1
30分ほどでH病院についた。俺が今度こそ金を払おうとすると、「馬鹿言え」と怒鳴られた。それでも俺が粘ると根負けしたのか彼は言った。
「退院の時に迎えに来るから。そのときにな。とにかく今は早く行ってやんな」
そう言って俺を車外に放り出すように追い出すと、車は朝霧の中へと消えていった。
「関係者以外は現在立ち入り禁止です」
守衛に入口で通せんぼを喰らった。
「ここに、ここにあの事故で運ばれた、中村恵美の知人なんです!」
守衛は怪訝な顔をして「どうしてそのことを知っているんだ」と訊いた。俺は忌々しく思いながらも、逐一空港についてからの経緯を話した。必要ならば、空港の駐在所に問い合わせれば、俺の身元が、少なくとも報道関係、或はその他の可能性のあるものでないことが証明される、とそこまで言ったところで、ようやく俺は病院に入ることができた。
病院の中は、静かに落ち着いていた。生存者のみこちらへ搬送され、遺体は別の場所に移送、安置されたということをタクシーの運転手から聞いていた。報道関係者もすでにどこかにいるのかもしれないが、まだ騒いでおらず、運び込まれた負傷者の大方の処置を終えたところのようで、病院内は比較的平穏のようだった。
恵美の病室はそばを通りかかった看護士に教えてもらうことができた。
302号室。それが彼女の部屋だった。ちょうど病室から看護士が出て来たので、その女性に面会しても良いかを尋ねたところ、まだ意識が完全に戻ったわけではなく安静が必要だから、無理に起こすことのないようにと注意の上で面会を許された。
俺は静かにドアノブを回した。
小さな個室だった。ベッドと備え付けの小さなクローゼットのようなものがあるだけ。俺は静かに足を踏み入れた。
ベッドに恵美の姿があった。顔にまだ血の乾ききらない生々しい傷があった。腕には包帯が巻かれ、点滴を受けている様は痛々しいの他に形容する言葉が見当たらなかった。俺はそばの椅子に腰をおろした。
そっと恵美の髪を撫でた。もう駄目なんじゃないかとと何度も思った。その彼女が今ここに、息をして横たわっている。どんなに傷だらけであっても、生きている。その事実だけで俺は嬉しかった。何度も何度も髪を撫でた。そして、撫でる度に涙が溢れて止まらなかった。男は泣いちゃいかん。そう思っても、涙が止まらなかった。悲しいから泣くんじゃない。それは嬉しいからだ。
「…ん」
恵美が苦しそうに息を吐いた。たまらず俺は声をかけた。こちらに振り向いた彼女はしばらく焦点の合わない様子だったが、ややあって、そこにいるのが俺だと認識したらしい。
「あ…きら…くん?」
か細く、消え入るような声だった。
「ああ」
俺は彼女の手を握りしめて応えた。
「わたし…」
恵美は記憶の途切れた間をなんとかして埋めようとしていた。
「一杯悲鳴が聞こえた」
「苦しそうだった」
「わたし、助けなきゃと思ったけど、何かに足がはさまって動けなかった」
途切れ途切れに話した。
「しばらくしたら、声も聞こえなくなった。みんな死んじゃったと思った。私も死ぬんだと思った」
「もう、いいから。もういいから」
俺は恵美の手を強く握りしめた。様子を見に来た看護士に彼女の意識がほとんど戻っていることを伝えた。その後しばらく検査のため、俺は席を外さざるを得なくなった。
売店で煙草とライターを買った。喫煙所で吸ったことのない煙草に火をつけた。一吸いでむせかえってしまった。慌てて灰皿に投げ捨てた。ただ黙って待っていることができなかった。何かしていないと、今にも発狂してしまいそうだった。恵美がまたいなくなってしまうんじゃないか、そんなどうしようもない思いが何度も何度も頭の中を駆け巡るのだ。
やがて、医師らが部屋から出て来た。
「外傷がいくらかありますが、他には問題なさそうです。あれだけの事故でこんな軽傷で済んだのは、奇跡としかいいようがありません」
医師は付け加えて、とりあえずもう一晩様子を見て、大丈夫のようなら、退院してもいいだろうということを言った。
俺は再び部屋に戻った。
「お医者さん、なんて言ってた?」
意識はすっかり元に戻ったようだった。
「うん、もう大丈夫だろうから、明日には退院してもいいだろうって」
恵美は微笑んだ。何年ぶりかのように思われるその微笑みに俺は安堵した。そして、それまで一睡もせず走り回った疲れが出たのか、俺はすっかり腰を抜かしてしまい、椅子にへなへなと腰を落してしまった。挙げ句、「大丈夫?」と逆に恵美に心配される始末であった。