5-1
ついにやってきてしまった。
この高校生活の中で最も忌避したい行事、修学旅行。集団生活を最も苦手とする俺にとって、これほどの苦痛は他にない。前日には、生の豚肉か、腐ったみかんでも食べて腹を壊してやろうかと思った。しかし、そんな勇気もなく…
出発までにはまだあと2時間はある。それまで自由行動となっていた。そこで俺は気の知れた友人数人とともに空港のロビーをうろついていた。俺の視界の片隅に客室乗務員の一団のやってくるのが飛び込んできた。少したじろいだものの、何も客室乗務員は恵美だけではない。そこに恵美がいるわけがない。
そうたかをくくりながら、それでも逃げるように足を早めた。そしてその一団とすれ違おうとしたときだった。
「章君?!」
―――終った。そう思った。
叫んだ人物はもう一度問うた。
「章君でしょ」
もう逃げられない。俺は観念して顔をあげた。そこに居たのは、紛れもなく、初めて俺と出会ったときと同じ制服姿の恵美だった。片や学ランを身につけた、本来の俺の姿があった。
「誰?」「知り合い?」
他の客室乗務員達の無邪気な、そして俺にとっては残酷な、そんな言葉が聞こえた。恵美は曖昧にそれらをかわし、彼女らに先に行くよう促した。俺もそれにしたがって、好奇心に溢れる目で俺を見る友人たちを追い払った。恵美は黙って俺を喫茶店に促した。
俺は彼女の前に小さくなって座った。彼女はまだ一言も発していなかった。無言、それが何よりも恐ろしかった。いっそのこと、「馬鹿じゃないの、高校生のくせに!」と罵られたほうが、よほど精神的に楽だと思う。俺は母親に叱られた小児のごとく、ただただ小さく小さく身を縮めながら、彼女の言葉を待った。
恵美はため息をついた。俺の身体は鋭く脈打った。血の気の失せていくのがわかった。
「高校生だったんだ…」
ついに来た。しかし何も言えずに、俺は黙ったまま頭を垂れた。
「…そうなら、そうと言ってくれれば良かったのに」
俺は上目使いに恵美を見た。途端、彼女と目が合い、慌ててもとに戻した。
「大変だったんじゃないの。いつも食事のたびにお金出してくれていたけど」
恵美はまた一つため息をついた。
「もう…もうこれからは、背伸びしちゃ駄目だからね」
俺は顔をあげた。恵美は俺の頭を小さく小突く真似をして見せた。
「こ、これからって…」
「これからは、無理してお金を出そうとか、そんなことを考えなくていいんだから。私は、章君と話をしたり、それだけで楽しいんだから」
そう言って彼女は初めて、そしていつものように微笑んだ。俺はすっかり冷めてしまったコーヒーを一口に飲み干して言った。
「じゃ、…じゃあ、これからも俺と会ってくれるの?」
恵美はそれに微笑みで応えた。それは明らかに肯定の微笑みであったが、にわかには信じがたいことだった。
「で、でも、俺、高校生だし。恵美さんとは…きっと…不釣合いだから…」
そんな俺の煮え切らない言葉に対して、恵美は少し怒った調子で言った。
「もう!ちゃんと私の言ったこと聞いてたの?私は、章君あなたと一緒に居ることが楽しいの。だから、章君が高校生であっても、大学生であっても、何であってもそれは変わらないの」
恵美はまるで子供を叱りそして諭すように言った。すっかり全身から力が抜けてしまった。思わず安堵の深いため息をついた。その様子を見て、恵美は微笑み、そしてさらにこう付け加えた。
「まあ、高校生だったっていうのには、確かにびっくりしたけどね」
新しく来たコーヒーを一口、口に含んだところへこのカウンターパンチを喰らい、あやうく鼻からコーヒーを吹き出すところだった。