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回り灯籠

作者: 沢尻夏芽

 少し気分が悪くなったと思うと、急に嘔吐してしまった。

 胃が誰かにぐいと握り締められたように痛い。眩暈がする。

 我慢出来ず、その場で横になってしまった。



「柳太郎様」

 妻のふじの声がする。

「柳太郎様」

 幻聴だ。だが慣れ親しんだ妻の声は、それがうつつのものであるとたがうほど柳太郎の耳に切なく馴染む。

(そうくな、ふじ)

 柳太郎は朦朧とする意識の中で思った。

じきそばに行くから)



 妻のふじが嫁いで来たのは五年前、柳太郎が十八、ふじは十四の時だった。

 一年前に父が、一ヶ月前に母が他界し、若くして独り身になった柳太郎の為に親類が見つけてきてくれた嫁だった。

 弔事慶事を立て続けに行うのもおかしな話なのだが、後に耳に入った話によると、父方の大叔父が独善的な人間で、若くして父母を亡くした柳太郎が気落ちしないように周りの反対を押し切って実現させたものらしい。

 その厚意は有難かったが、お陰で続けざまに葬式、祝言と行ったので、体力的にも精神的にも酷く疲労困憊した。柳太郎は今でもその当時のことを良く思い出せない。

 柳太郎の記憶が鮮明になるのは、祝言が終わった次の朝のことである。

 朝、起床すると横に妻の寝顔があった。

 本来ならば夫より先に起きて朝餉あさげの支度などしているべきなのだろうが、余程疲れているのか、すうすうと寝息をたてて眠っている。

 不精のせいで放っておいた障子の穴から初夏の朝の光が漏れ、乱反射して寝所を明るく照らしている。

 柳太郎はその時初めて落ち着いて妻の顔を見ることが出来た。

 睫毛が長く、少し垂れ気味の眉をしている。

 頬が優しく赤みを帯びていて産毛が光に透けている。

 一分ほど開いた口の隙間から白い歯が見え、顔にはまだ若い脂肪が多く、幼さが消えていない。

 柳太郎は、ふじを愛おしいと思った。

 ふじを起こさぬよう、なるべく音をたてずに勤めの支度をして家を出た。



「毒じゃ、毒じゃ」

 周りで声がする。

「八坂は何を食べた」

「茸じゃ」

「大事じゃ、大事じゃ」

「膳を下げい、殿の許へ、早う行けい、仔細は後じゃ」

 体が何処かに運ばれる。

(直だ、ふじ)



「お帰りなさいませ」

 勤めを終えて帰るとふじが玄関の前に立っていた。柳太郎を出迎えるためにずっと立って待っていたのだろう。

「今朝は……」

「良い。疲れていたのだろう」

 ふじは朝のことを思い悩んでいたのか、今にも泣きそうな顔をしていた。

「晩飯は何だ」

「大叔父様に頂戴致しました鯛の干物が御座います故、それを焼こうかと」

「そうか、腹が空いた、直ぐに支度をしてくれ」

 柳太郎が微笑むと、安堵したふじも笑顔になった。

 その日の夕餉ゆうげは、鯛の干物、きゅうりの糠漬け、豆腐汁が並んだ。困ったのは、鯛の干物が一尾しか無かったことである。

「大叔父様が、何分急で御座りましたので、一尾しか用意出来なかったと申しておりました」

 と、ふじは言う。しかしこれは嘘だと柳太郎は思う。大叔父の家は大きいが、近頃金に困っているという噂を良く聞く。鯛を一尾用意するだけでも大変だったに違いない。

「切りますか」

「面倒だ、このまま二人でつつこう」

「私は、あまりお腹が空いておりませんので、どうぞ」

「二人に賜ったのだ、そういうわけにはいかん。不作法かもしれぬが、誰ぞ見ているわけでもあるまい。ああ、腹が減って堪らぬ。膳を寄せて二人で食べよう。早う」

 ふじは柳太郎の言葉に黙って従い、その日は膳を寄せて向かい合って食べた。最初は遠慮していたふじも、柳太郎が「ほれ、食べぬか」と言うと、少しずつ鯛の身をつついた。

「美味しいか」

 と、柳太郎が訊くと、

「美味しゅう御座ります」

 と、微笑んだ。まだ笑みに強張りが残っていたが、柳太郎は嬉しかった。



 城内の部屋の一室に移されたようだった。

「八坂、死ぬな、八坂」

 同僚の酒井重助の声がする。

 柳太郎は吐き続けた。吐瀉物は液体になり、血が混じっているようだった。尻に力が入らず、糞を漏らしているらしい。

「八坂」

 酒井が、両手で必死に柳太郎の右手を握っている。薄く切れそうな意識の中で、柳太郎はその行為の意味を理解した。酒井は柳太郎の手を握りながら、同時に神仏に祈っているのだ。

 甲斐など無いのに。

(――ふじ)



 ふじは体が弱かった。

 嫁いで一月経たぬうちに、熱を出して臥せった。

 初日に寝坊して以来、気を張り無理をしていたのが良くなかったのだろう。あれからふじは朝早く起きて家事を全てこなし、また柳太郎を必ず玄関まで送迎し、夜は柳太郎が寝るまで頑として床に着かなかった。

「家に来たばかりで慣れぬことも多いだろう。何か手伝うことがあれば言ってくれ」

 と、柳太郎は言うのだが、ふじは

「妻の務めで御座ります故」

 と言うばかりで聞く耳を持たない。

 このまま無理を続けていくのかと柳太郎は心配だったのだが、ある朝、食事をするふじの椀を持つ手がふらふらとし、目が虚ろなことに気付いた柳太郎がふじの額に手を当てると、熱が出ていた。その日は休むようふじに言いつけて柳太郎は家を出たが、本当に休んでいたかどうかは分からない。だが、帰ってきたときにはふじは休めと言いつける必要もないほどに動けなくなっていた。

 ふじの容態は悪くなるばかりで、三日経っても熱は下がらず、床から起き上がるのもままならなかった。朝夕の飯の支度は柳太郎にとって苦ではなかったが、ふじが不憫で堪らなかった。ふと、臥せっている間、汗をかいてもふじが着物を着替えるぐらいしか出来なかったことに気付いた柳太郎は、体を拭こうとふじに言った。

「一人で出来まする」

 強がってふじは言う。だが、三日熱を出し続けているふじの体力を考えると、してやれることはしてやりたい。

「我らは夫婦めおとぞ。何を躊躇う。冷える故、着物を脱いで布団の中で横になっておれば良い。俺が勝手に拭くから、お前は何もせずとも良い」

 意地になって湯を沸かし盥に張った。

「一人で出来まする」

 ふじは重ねて言うが、柳太郎は聞かず手拭を湯に浸す。ふじは到頭観念したらしく、手拭を絞る柳太郎の背面そともから、するすると着物を脱ぐ音がした。

「振り返らないで下さいまし」

 か細い声でふじが言った。

 


 嘔吐が治まり、呼吸が安定してきた。

「峠は過ぎたようだが。どうじゃ。それとも、吐けぬほど弱っておるのか」

 酒井が、声を上げる。

「相分かりませぬ」

 耳慣れぬ男の声が答えた。

「何分、食べた茸が分かり申さぬ故」

「水――」

 かろうじて、それだけ言えた。 



「宜しゅう御座ります」

 ふじの声で振り返ると、ふじは最前と変わらず布団に横になっており、ただ枕元に畳んだ着物と帯が置いてあることだけが変わっていた。

 右手に手拭を持ち、左手を布団の中に入れ、ふじの右手を握った。

 ふじの手は小さく柔らかく、温かかった。

 その感触に女を感じていることに柳太郎は当惑し、そのことがふじに知られないかと恐れた。

 二人は、未だ体を重ねていなかった。

 柳太郎が申し出れば、屹度ふじは受け入れるだろう。

 だが、それは「柳太郎」だからではなく「夫」だから受け入れるのではないか。心の中では拒絶しているが、それを悟られないよう、「妻」を演じるのではないか。そしてふじを抱きながら、自分はそれを察することが出来ないのではないか。

 柳太郎は怖れていた。

 柳太郎は家族が居なかった。家族が欲しかった。だから、ふじの心が自分から離れることを極度に怖れた。

 右手、左手、首、背、胸、腹、両足、柳太郎は黙ってふじの体を拭いた。そっとふじの体に触れると、ふじは黙って拭く方を向ける。

(ふじは弱っている、それに妻だ、俺が体を拭くのは当然だ)

 布団の中に有る肢体を想像する心と戦いながら、柳太郎は自分に言い聞かせ拭き続けた。病気の妻を気遣う良き夫になろうと努めた。

 最後に股間を拭こうとしたとき、一瞬ふじが躊躇った。が、柳太郎は知らぬ素振りをして、直ぐに終わらせた。



 酒井が薬缶に水を入れて持って来た。

 水を飲むと、再び吐いた。

 だが、体が出した水気を欲していて、吐く側からまた飲み続けた。

「八坂殿、物言うことは出来申すか」

 見ると、医者らしき男が居る。

 柳太郎は

「うあ」 

 と、言葉にならぬ声を発した。



 ふじを抱いたのは、その年の秋口に差し掛かった頃だった。

 初めふじは痛がったが、止めようとすると柳太郎をきつく抱きしめてきた。

 その時、柳太郎はふじの心を理解した。

 ふじもまた、柳太郎に心の中で拒まれることを怖れていたのだ。そして良き妻で有ることで柳太郎に受け入れられようと必死だったのだ。

「柳太郎様」

 ふじが言う。

 腕の中のふじは、確かに柳太郎のものだった。



 次に気付くと、部屋に誰もいなかった。

 着物が変えられ、口周りや下半身が洗われたようだった。

(ふじ、俺は――)

 死ねなかった。そう思うと、虚無感が胸を裂いた。

 枕元に、ふじに作らせた巾着袋が置いてあった。



「巾着袋、で御座りますか」

「ああ、それに首に掛ける紐を付けて欲しい」

何故なにゆえ、その様な物を」

「まあ、楽しみにしておれ」

 毒見役という役職上、柳太郎は良い物を食べる機会が多い。とは言ってもほんの一口だけだが、それでもどの魚はどの季節が旨いとか、どの野菜はどの調理法が良いとか、そう言うことは良く分かるようになった。

 ふじと食べ物の話をする度に、ふじは柳太郎を羨んだ。

 ふじの家は、柳太郎の家より更に貧しく、食べたことのない物が多かった。

 ふとした時に仲の良い料理番にその話をすると、食材を調理する際に上等の物を使って残りは捨てており、勿体無いので料理番らが持ち帰っても良いことになっていると言う。

 捨てる物なので柳太郎が貰うのも構わないが、露骨にはし辛いことであるから、袋に入れて隠し持って帰るのが良いのではないか、というのが、料理番の話だった。

 それからその巾着袋は夫婦の楽しみの一つとなった。

 ふじのお気に入りは筍で、ふじはそれまで筍すら食べたことが無く、初めて食べた時歯ごたえをいたく好んでいた。筍を持って帰ると、

「まあまあ、今日は筍で御座りますのね。早速支度を致しますね」

 と、ふじは目を輝かせて言った。

 筍でなく、大根の葉や烏賊の足など、どうでも良い物を貰った日でも、ふじは、

「あらあ、如何にお料理しましょう」

「これは何で御座りますか」

「これは前に食べた何某で御座いますね、美味しゅう御座りました」

 などと喜んで言うのだった。

 偶に何も貰えない日があると、ふじは酷くがっかりした。

 


 どれくらい時間が経っただろうか。酒井が部屋に入って来た。

「やあ、気が付いたか」

「ああ」

「何だ、誰も居ないのか。あの藪医者め、病人を放って返りよったのか。すまんな、呼ばれて少し席を外していた。医者が峠を越えたと言うのでな、申し訳無かった。気分はどうだ」

「存外、悪くない」

「死にかけた割に、言うな」

 安堵した酒井が笑った。

「ああ、死にかけた」

「その様子では、分かっておらぬな。死にかけたのは昨日の晩だ。水をやったのは覚えているか」

「ああ、お前とは分からなかったが」

「あの後、お前は癲癇てんかんを起こし、大変だったのだ」

「癲癇――」

「程無くして癲癇は治まったが、息が弱くなり、体から血の気が無くなっていった。俺はもう最期だと思ったぞ」

(ふじと――同じだ)



 一年前の冬に、ふじはまた熱を出した。

 熱を出すのはいつものことだったのだが、その年の冬は格段に寒かった所為か、熱がなかなか下がらなかった。

 帰りしなに、熱冷ましの薬を買って、例の巾着袋に入れて持って帰った。

 薬は飲ませたが、その夜、ふじは突如激しく体を震わせ、それが治まったかと思うと今度は弱く息をする以外寸毫も動かなくなった。そうして、夜明け頃ふじは死んだ。

 柳太郎は、ふじの右手を冷たくなるまで握り続けていた。



「酒井――これは」

 柳太郎は枕元の巾着袋に目を遣った。

「ああ、これか。お前の胸がはだけてな、何やら守り袋のようなものがある故、中を見ると小さな袋が三つ、更にその中には漢方薬の様な物が入っておる。ままよと思って全部煎じて飲ませたら、朝頃に何やら良うなっていった」

(それは、ふじに買った熱冷ましの薬の残りと、ふじに作る粥に入れてやろうと思って貰って帰った塩鮭と、ふじの骨の欠片だ)

「何の薬だったのか知らぬが、何より先ずは恢復して良かった。お偉方が今えらい騒ぎでな、誰の責任じゃ、彼の責任じゃ、言うておって、お前にもいずれ何や話があるやもしれぬが――おい、八坂」

 酒井が困惑した顔をしている横で、柳太郎は笑いが止まらなかった。

(ふじ、俺はもう少し生きるぞ)

 柳太郎は思った。


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